秦史1
秦の起源
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秦の起源

 周王朝5代目の王である穆王の時代(紀元前10世紀ごろ)、御者として仕えた造父(ぞうほ)は趙城を領地として与えられた。以後、造父の一族は趙氏を名乗った。造父より14代後に趙衰(ちょうし)が現れ、晋の文公(重耳)に仕えて隆盛した。これが後の戦国七雄の一つである趙の起源である。

 紀元前9世紀、穆王より3代後の孝王の時代、趙氏の一人に大駱(たいらく)がおり、犬丘(後の咸陽や周都鎬京のおよそ50km西方)を領していた。西戎(中華から見て西方の異民族)と関係のある申侯から妻をめとり嫡子としていた。おそらく、犬丘は西戎との最前線に近かったのであろう。大駱には別に、非子(ひし)という子がおり、馬の繁殖に長けていた。噂を聞いた孝王が非子に馬の飼育をさせたところ、大いに繁殖したため、孝王は大駱の嫡子を非子に変えさせようと考えたが、申侯及び西戎との関係維持のため、嫡子は交代させず、非子には秦の地を与えて嬴姓を名乗らせた。これが秦の起源である。

 孝王より2代後、周の脂、は暴政を行った。西戎が背き大駱の一族は攻め滅ぼされた。紀元前842年、脂、自身も反乱に遭って出奔した。脂、が死去するまでの14年間、召公と周公が共同で政治を行い、これを「共和」と号した。その後、脂、の太子である宣王が即位した。非子より3代後の秦仲は宣王の命で西戎を攻撃したが、返り討ちに遭い敗死した。宣王は秦仲の長男である荘公やその兄弟に7千の兵を与え西戎を攻撃させた。荘公は西戎を破り犬丘を奪回した。こうして、荘公は元の非子に与えらえた領地に加えて犬丘を領有した。

周の東遷を援け諸侯に

 紀元前778年、荘公が死去すると、襄公が即位した。翌年、西戎に犬丘を包囲された。襄公の兄の世父がこれを攻撃し、捕虜となったが1年余りして解放された。周では宣王に代わって幽王が即位した。幽王は暴政を行った。また、褒姒(ほうじ)を寵愛し、正規の皇后である申侯の娘と、その間に生まれた太子を廃して、褒姒とその子を皇后と太子に立てた。怒った申侯は西戎やその他諸侯と結んで幽王を攻撃した。諸侯は幽王に対して来援せず、紀元前770年、申侯は幽王を殺害し、褒姒を虜にした。申侯は諸侯ともとの太子を即位させた。これが平王である。

 秦の襄公は平王を援けて戦い、平王が鎬京から洛陽へ遷都するにあたっても護衛に功があった。そこで、平王は襄公を岐山(犬丘の西北約20kmにある周の古都)以西の領有権を認め諸侯とした。もっとも、状況から見て岐山以西は西戎の領域だったと思われるので、自ら切り取れということであろう。紀元前766年、襄公は西戎と戦い岐山のふもとで戦死した。

西方への伸長

 襄公の跡を継いだ文公は、紀元前750年、西戎を破り、領地を西方に広げ、かつての周の民衆を収めた。岐山以東の地を周に献上した。文公の孫の跡を継いだ憲公(寧公?)は紀元前714年に岐山の西方の雍に遷都した。また、西戎の一国である蕩を滅ぼした。次の代の武公の時代には西戎に対する優位が確立し、岐山から150km程度西方の天水や、さらに100kmほど西北西の隴西までを領地とした。武公の次は弟の徳公が継ぎ、その後徳公の長子である宣公が即位した。



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