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デービッド・グラスゴー・ファラガット(David Glasgow Farragut) アメリカ 19世紀
アメリカ海軍軍人。9歳で海軍に入り、米英戦争、カリブ海賊掃討戦などで戦歴を積んだ。

南北戦争開戦後、ファラガットは西部メキシコ湾封鎖艦隊司令となり、 1862年1月19日、海軍はニューオーリンズ攻略を決定し、ファラガットに外洋艦隊を率いてミシシッピー川を遡ってニューオーリンズを制圧するよう命じた。 ニューオーリンズは、主要な封鎖対象のひとつであり、しかもミシシッピー川の河口付近にあるため、 ここを攻略することはミシシッピー川で南部連合を分断するために必要不可欠であった。 それまでも、ポーター大佐指揮のもと臼砲船団による攻撃が仕掛けられていたが、火力が不足しており、うまくいかなかった。 それに対応する策として巨砲を擁する外洋艦を以て攻撃しようという企図であった。

湿地帯に囲まれ、蛇行を繰り返すミシシッピー川を遡上することは、非常に困難なことであった。 もともと外洋艦は川で使用することを想定していない。 艤装を外して艦を軽くする必要があった。それでも、泥との格闘は続いた。 河口を抜けるのに、約一ヶ月を要していた。 南軍の防御の要は、プラケミン・ベンドとよばれる、川幅が狭く、曲がっており、浅瀬も多い場所にあった。 ここに、石造りで、合計142門の大砲を備える要塞が、川の両側に作られており、しかもここに老朽船をつないで作られたバリケードが設けられていた。 さらに、南軍は装甲艦三隻を揃えていた。対するファラガットの艦隊は、すべて木造の、外洋の大型艦5隻と、砲艦・輸送艦等計48席からなっていた。 主力の大型艦は、ファラガットの乗艦する旗艦ハートフォード、ペンサコーラ・ブルックリン・リッチモンドに、ペリーに率いられ浦賀に来航した"黒船"のひとつである戦艦ミシシッピーという構成であった。 状況は南軍有利に見えたが、その防御には弱点があった。ニューオーリンズ周辺は湿地台ばかりであり、これは陸上からの攻撃を阻む面もあったが、逆に、その補給を海運に頼っているという面もあった。ファラガットの艦隊が プラケミンベンドより上流に達するだけで、 事実上二つの要塞は補給を絶たれて無力化し、ニューオーリンズは事実上陥落することになる。

1862年4月20日、爆破の専門家クローエルが、自ら進言したバリケードの爆破を実行に移し、三回目でついに成功、バリケードに楔を打ち込んだ。 クローエルを現場まで送り届けた砲艦ピノーラは、要塞正面に出て、おとりとなり砲弾の雨に身をおいて、成功を助けた。 砲弾不足による訓練不足のため、南軍の砲撃の命中率はかなり低かった。 ファラガットは、ひたすら上流へ遡上する作戦を採った。4月24日夜、ファラガット艦隊は単縦陣で突破を開始した。要塞から猛烈な砲撃が行われていた。ファラガット艦隊も、片舷斉射により反撃した。 旗艦ハートフォードは第二陣の先頭にあった。バリケードを通過後、砲撃効率を上げようと舵を切ると、川の中の強い渦に巻き込まれてしまい、セントフィリップ要塞正面の土手に突っ込んだ。辛うじて座礁は逃れたものの、ハートフォードは猛攻にさらされることとなった。 南軍の装甲艦マナサスは、焼き討ち船を押し、ハートフォードにぶつけ、撃沈しようと図った。 これに気づいたのが、"黒船"ミシシッピーであった。 ハートフォード撃沈に躍起になっていたマナサスは、ミシシッピーが接近していることの気づくのが遅れ、 衝角の一撃により、浸水が始まり、沈没した。

翌25日の午後一時には、ファラガット艦隊はニューオーリンズに到着していた。市街地が艦砲の射程に入ってしまったニューオーリンズは、北軍の陸軍戦力の到着を待たず、降伏した。 ニューオーリンズ陥落により北軍は戦略上の要衝を手にいれ、さらにミシシッピー川を遡上することが可能になった。 この成功に対する北軍の損害は、軽微であった。この勝利により、デービッド・グラスゴー・ファラガットはアメリカ海軍初の少将に昇格した。



その後、1864年8月5日のモービル湾の海戦でファラガットは南軍艦隊を撃破し、ブキャナン提督を虜にした。 同年12月、リンカーン大統領により中将に補せられ、南北戦争終結後に大勝に昇進した。


参考:
南北戦争2 ニューオーリンズ攻略・七日戦争
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武帝(漢 ぶてい) 中国 前漢
漢対匈奴 漢武帝


参考:
漢対匈奴

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武霊王(趙 ぶれいおう) 中国 戦国時代
中華で初めて騎馬戦術を導入し、趙を軍事大国化した。
北方遊牧民族のズボン型の服(胡服)を来て、馬上から弓を射る(騎射)ものであったので、 武霊王の改革は胡服騎射と呼ばれる。
蛮夷の風習であるとして大反対を受けたが、粘り強く実行し、中山を征服した。
武霊王以後、中華圏で騎馬戦術が広まった。


参考:
漢対匈奴

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文公(晋 ぶんこう) 中国 春秋時代
名は重耳(ちょうじ)。晋の公子であり、若くして人材を好んだ。
晋の献公は愛妾驪姫の陰謀で太子申生が自殺に追い込まれた際、 母親の母国である狄に亡命した。
献公の死後驪姫は自分の息子を即位させたが、 大夫里克がこれを殺し、重耳の擁立を図った。
危険を感じた重耳はこれに応じず、公子夷吾が恵公として即位した。
恵公は秦の飢饉に付け込んで戦争を仕掛けたが、大敗を喫し、捕虜となった。
秦の繆公に嫁いでいた姉と周王の口添えで、 太子の圉を秦に人質に出して恵公は帰国できることとなったが、その立場は揺らいだ。
名声がある重耳が自らの位を脅かすとみて刺客を放った。
これを察知した重耳は斉に亡命した。 斉の桓公は娘を与え重耳を厚遇した。
桓公の死後、部下や妻である桓公の娘らは重耳が安穏として大業をなすことができないことを恐れ、
すっかり斉に安住するつもりの重耳を図って斉から連れ出し、放浪生活に入った。
その後、晋の太子圉が秦から逃げ出す事件があり、 怒った秦の繆公は重耳を招いて擁立しようと自分の娘をめあわせた。
恵公の死後、晋国内では重耳に内応するものが多く、秦兵に護送された重耳が即位した。

即位した文公は、周の内乱を収めて力を示した。
紀元前635年には南方から中原に勢力を伸張させていた楚と城濮で会戦し勝利した。
この勝利により、中原において晋に対抗できるものはいなくなり、
晋の文公は周王に侯伯に任じられ、諸侯との会盟を主宰し、中原の覇者となった。
斉の桓公とともに、春秋時代の代表的な君主に挙げられる。


参考:
秦史2 繆公の時代

alias,重耳


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