南北戦争2
ニューオーリンズ攻略・七日戦争
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マクレランによるポトマック軍の編成

 第一次ブルランの戦いにおける完敗を受け、リンカーンはまず3年の任期で40万人の志願兵を募集した。軍隊がひとつの都市に該当する規模になり、組織を編成し、食料・武器弾薬・制服・軍靴等を補給するだけでも難事業となった。

 マクダウェルに代わって北軍を現場で指揮する任を負ったジョージ・ブリントン・マクレラン少将は、組織力に優れており、急激に大規模化した軍を訓練・編成するのに最適な人選だった。 参謀制度や兵站システムを確立し、また、新兵の訓練についても高い成果を挙げた。マクレランは猛訓練を実施したが、兵士の心をつかむことにも長けており、兵士たちはマクレランのことを、"Little Mac"や"Young Napoleon"と呼んで敬愛した。 マクレランの周りでは兵士たちがいつも自発的に歓声を上げていたため、遠くにいても彼がどこにいるかすぐにわかったという。マクレランが編成した軍団は、ワシントン近くを流れている川の名前にちなみポトマック軍と呼ばれた。


George Brinton McClellan

 マクレランは、一方で攻撃に関して極めて慎重な性格であった。 機動力が徒歩や騎馬に留まる一方、火力が強力になるなかで、 南北戦争は陣地防御が著しく有利になる時代の始まりであり、 マクレランの消極性には合理的な一面もあった。 1861年の間、新聞や世論の攻撃に対する圧力を受けつつも、 マクレランは攻勢には動かず、編成や訓練に明け暮れた。

ポートロイヤル攻略

 この時期に主要な戦果を挙げていたのは海軍であった。南部連合の海軍力は劣っていたため、アナコンダ・プランによる主要な港湾の封鎖によって、南部連合は、主要産業である綿花の輸出と武器弾薬等を輸入が難しくなった。 10月にはポートロイヤル港奪取作戦が決行された。ポートロイヤルは艦隊の停泊地として十分な規模があった上、主要港であるサヴァンナとチャールストンの中間に位置し、封鎖作戦の拠点として重要だった。 ポートロイヤル奪取作戦は、もとは陸海軍共同の作戦だったが、上陸用舟艇の座礁で海軍単独での作戦となった。 ポートロイヤルには急ごしらえの南軍の砦が2つあった。北軍海軍の指揮を執ったのは、サミュエル・デュポンであった。 デュポンはより強固な方の砦に対して、旗艦ウォバシュを先頭とする11隻の艦隊の合計123門の艦砲射撃を行い、これを降伏させた。 沿岸の南軍はこの時点でポートロイヤル市街へ撤退した。南軍のリーは、戦況から沿岸での防御は不利であると判断し、内陸へ撤退したうえで、そこから機動的に防御を行うことにした。 これによって、北軍は南軍の去ったポートロイヤルを占拠し、以後終戦まで重要な海軍の拠点として使い続けた。 しかし、内陸への進軍は数年にわたりことごとく退けられたため、この戦果は間接的には重大な意義があったものの、陸上での戦闘に直接は影響しなかった。


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Samuel Francis Du Pont

 年が明けた1862年1月19日、海軍はニューオーリンズ攻略を決定し、西部メキシコ湾封鎖艦隊司令デービッド・グラスゴー・ファラガットに外洋艦隊を率いてミシシッピー川を遡ってニューオーリンズを制圧するよう命じた。ニューオーリンズは、主要な封鎖対象のひとつであり、しかもミシシッピー川の河口付近にあるため、 ここを攻略することはミシシッピー川で南部連合を分断するために必要不可欠であった。 それまでも、ポーター大佐指揮のもと臼砲船団による攻撃が仕掛けられていたが、火力が不足しており、うまくいかなかった。それならば巨砲を擁する外洋艦を以て攻撃しようという、単純な発想のもとに、ファラガットに指令が下ったのであった。

西部戦線 グラント ドネルソン砦を奪取

 開戦当初の西部の戦線は、ケンタッキー州が中立を宣言したこともあって、数か月の間不安定な休戦状態になっていた。テネシー州はケンタッキー州のちょうど南である。 南軍がケンタッキー州のコロンバスを占拠すると、北軍もユリシーズ・グラントがパデューカを占拠した。


Ulysses S. Grant


Albert Sidney Johnston

 西部方面の南軍の司令官アルバート・シドニー・ジョンストン(A.S.ジョンストン)はそのコロンバスからヘンリー砦・ドネルソン砦・ボウリンググリーンを経由してさらに東に延びる長大な防衛線を作った。政治家や世論にはわかりやすい防衛線方式の防御だが、戦略的には兵力が分散することを意味しており、弱い部分から各個撃破される脆さを有している。 A.S.ジョンストンのもとには約40,000の兵力があった。

 西部方面の北軍は、ヘンリー.W.ハレック少将率いる兵力90,000のミズーリ軍と、ドン・カルロス・ビュエル准将率いる兵力35,000のオハイオ軍が独立に存在し、それぞれ独自の作戦を行っていた。 ビュエルはボーリンググリーンにあるA.S.ジョンストンの主力部隊へ行軍し、ハレックはヘンリー砦・ドネルソン砦に対してグラントを派遣した。

 1862年2月、グラントは、砲艦艦隊を率いる海将フットと連携してヘンリー砦の南軍を撤退させた。 その後、フットの砲艦艦隊は南軍の補給線だったメンフィス・オハイオ鉄道の橋を破壊した。 一方のグラントはより強力なドネルソン砦の大兵力での包囲を始めた。 A.S.ジョンストンは自らの主力から12,000を援軍に回したが、これはさらに兵力を分散させただけであった。 ほどなく、ドネルソン砦は降伏した。グラントはこの戦果で英雄となった。

 ヘンリー砦・ドネルソン砦の陥落と鉄道による補給線が断たれたことにより、 A.S.ジョンストンはテネシー州より南のミシシッピー州コリンスまでの撤退を強いられることになった。 ビュエルは慎重に南下し、テネシー州の州都ナッシュヴィルを投降させた。

マクレラン侵攻を開始

 そのころ、マクレランが動かないことにしびれを切らしたリンカーンは、1862年2月22日、戦争命令第1号と呼ばれる大統領教書を発しマクレランに攻撃をするよう命じた。戦争命令第1号を受けて、さすがにマクレランも動かざるを得なかった。 マクレランの侵攻作戦は、陸路軍を進めるのではなく、海上での優勢を生かし、ポトマック軍ほぼ全軍で、マナッサス駅にあるJEジョンストンの軍と、南部連合首都リッチモンドの間に入り、どちらも攻撃できる態勢を作るというものであった。 リンカーンは、この計画を基本的に了承したが、ワシントン防衛のためにもっと部隊を残留させることを求めた。マクレランは、J.E.ジョンストンの軍がリッチモンド防衛のために後退することは明白だと考えたが、約束はしておいた。

 この時、マクレランのポトマック軍は15万近くにまでなっていた。 マナッサスにいた、JEジョンストンの部隊は35,000人程度であった。 この状況を憂慮したJEジョンストンは、より守りやすい、ラパハノック川まで後退した。 マクレランは、放棄されたマナッサスを占領した。 しかし、JEジョンストンが後退したことにより、当初計画の上陸点は不適切になった。マクレランは、新たな上陸地点として、ヨークタウン半島の先端にある、南部領内ながらいまだ連邦軍の支配下にあった、モンロー砦を選択した。


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この海域では南軍の装甲艦ヴァージニア号が猛烈な戦果を挙げていたが、 ジョンストンが後退したのと同じ日、北軍も装甲艦モニトル号を派遣し、 これと対等に渡り合ったため、マクレランはこの海域で身動きが取れるようになった。

 ついにマクレランも、ポトマック軍を率いモンロー砦へ向け進発した。兵力10万以上、馬も一万頭以上、大砲も多数という大船団が海上を南下して行った。これは、当時世界でも最大規模の海上輸送であった。

 出発前、リンカーンはマクレランにワシントン防衛に着く部隊のリストの提出を要求した。この時、シェナンドア渓谷には、16,000の兵力を率いる"石壁"ジャクソンがいて、ワシントンを覗っており、また、JEジョンストンがワシントンに攻勢に出るかもしれないことをリンカーンは憂慮していた。 しかし、出来るだけ大兵力で攻勢に出たいマクレランは、残留部隊の数を水増ししていた。 これに気付いたリンカーンと陸軍長官スタントンは、 モンロー砦へ進発する準備をしていた、兵力40,000の、前総司令官マクダウェル少将率いる部隊に対し、マクレランの頭越しにワシントン残留を命じた。このマクダウェルの部隊は、マクレランが後背上陸作戦用に特別な装備と訓練を施した部隊であり、このことをモンロー砦に着いて知ったマクレランは、政府によって計画が台無しになったと憤った。 しかし、それでもマクレランのもとには10万以上の部隊が指揮下にあった。

 マクレラン率いるポトマック軍がモンロー砦に上陸したという報を聞き、南部連合大統領ジェファーソン・デーヴィスは緊急会議を招集した。 これには南軍の主だった将官たちが集まった。ジェームズ・ロングストリート准将は、すなわち、ワシントンへの攻撃によりリッチモンドを救うことを主張した。 マナッサスから撤退してきていたJ.E.ジョンストンは、ヨークタウン半島の防衛線では 北軍の総攻撃に耐えらないため、リッチモンド周辺に集結すべきと主張した。 これに対し、ロバート・エドワード・リー将軍はヨークタウン半島こそ会戦の場にふさわしいと主張した。 デーヴィス大統領はリーの意見を支持し、JEジョンストンに、ヨークタウン半島で出来るだけ長く踏みとどまるように命じた。 すでにヨークタウン半島にいる軍勢と合流しても、その兵力は56,000ほどで、 100,000以上にのぼると見られるマクレランの軍を相手に持ちこたえられないと、J.E.ジョンストンは考えていた。 一方のマクレランは、古代から続く通常の包囲戦を行った。J.E.ジョンストンは、マクレランの攻城準備が整うのを待つつもりはなく、撤退の準備を開始した。

シャイローの戦い

 3月、リンカーンは西部戦線の二個軍団の指揮を統一しない愚を悟り、ビュエルをハレックの指揮下に置いた。 これによりハレックは120,000を超える兵力を指揮することになった。 間髪置かず、ハレックはビュエルにシャイロー教会近くで野営しているグラントの軍勢40,000と合流するよう命じた。 グラントとビュエルが合流すれば、総兵力は75,000に上る。 ハレックは二人の軍団が合流し次第自ら攻勢を指揮する計画だった。


Henry Wager Halleck

 一方、鉄道の分岐点であるシャイローから20km程度の距離にあるコリンスには、 撤退してきたA.S.ジョンストンの軍の他、前副大統領で、 大統領選で民主党の候補者としてリンカーンと争ったジョン.C.ブレッキンリッジが3個旅団約7,500を率いて向かっており、 P.G.T.ボーレガードも少数の兵を連れて副司令官となるべくコリンスへ向かっていた。 これによりA.S.ジョンストンは約40,000の兵力を手にした。 ボーレガードとジョンストンはシャイローの北軍部隊が同程度かそれ以上と判断していたが、 ビュエルが合流すべく向かっていることも知っていたため、その前に攻勢をかけることを決めた。 一方のグラントは、南軍は戦意を喪失していると思い込んでおり、完全に油断していた。

 4月3日に南軍は陣を発った。しかし、その進軍は遅々として進まず、 攻撃準備が完了したのは5日の午後になってからであった。 ボーレガードは北軍が塹壕陣地を完成して待ちうけていると懸念し、攻撃中止を進言したが、ジョンストンは聞かなかった。 実際にはグラントは陣におらず、シャイローの北軍は何の準備もしていなかった。 翌4月6日の早朝午前6時ごろ、南軍は一斉攻撃を始めた。北軍の油断により南軍の攻撃は奇襲となり、 北軍は大混乱をきたして、どんどん押し込まれた。 約3時間半後、スズメバチの巣と呼ばれるようになった地点で、 北軍の2個師団が大損害を受けつつも何とか南軍の攻勢を一度押しとどめた。 この激戦のさなかの14時30分ごろ、 A.S.ジョンストンが膝の動脈を打ち抜かれる傷を負い、戦死した。 昼にはグラントが到着し、増援もあって、 テネシー川の淵まで追い込まれたものの潰走は免れた。 夜にはビュエルの先遣隊が到着し、グラントの指揮下には55,000まで兵力が増えた。 翌日、グラントは反攻に出た。すでに30,000程度になり数的にも劣勢になっていた南軍は、 司令官のA.S.ジョンストンを欠いており、もはや戦闘を継続できる状況ではなかった。 副司令官のボーレガードはコリンスへの撤退を命じた。 このシャイローの戦いは、北軍13,000南軍10,700の死傷者を出す 南北戦争でも最大規模の激戦となった。

ニューオーリンズ攻略

 このころ、ミシシッピー河口では、ファラガットの攻勢が最終段階に入りつつあった。 湿地帯に囲まれ、蛇行を繰り返すミシシッピー川を遡上することは、非常に困難なことであった。 もともと外洋艦は川で使用することを想定していない。 艤装を外して艦を軽くする必要があった。それでも、泥との格闘は続いた。 河口を抜けるのに、約一ヶ月を要していた。

 南軍の防御の要は、プラケミン・ベンドとよばれる、川幅が狭く、曲がっており、浅瀬も多い場所にあった。 ここに、石造りで、合計142門の大砲を備える要塞が、川の両側に作られており、しかもここに老朽船をつないで作られたバリケードが設けられていた。 さらに、南軍は装甲艦三隻を揃えていた。対するファラガットの艦隊は、すべて木造の、外洋の大型艦5隻と、砲艦・輸送艦等計48席からなっていた。 主力の大型艦は、ファラガットの乗艦する旗艦ハートフォード、ペンサコーラ・ブルックリン・リッチモンドに、ペリーに率いられ浦賀に来航した"黒船"のひとつである戦艦ミシシッピーという構成であった。

 状況は南軍有利に見えたが、その防御には弱点があった。ニューオーリンズ周辺は湿地台ばかりであり、これは陸上からの攻撃を阻む面もあったが、逆に、その補給を海運に頼っているという面もあった。ファラガットの艦隊が プラケミンベンドより上流に達するだけで、 事実上二つの要塞は補給を絶たれて無力化し、ニューオーリンズは事実上陥落することになる。

 1862年4月20日、爆破の専門家クローエルが、自ら進言したバリケードの爆破を実行に移し、三回目でついに成功、バリケードに楔を打ち込んだ。 クローエルを現場まで送り届けた砲艦ピノーラは、要塞正面に出て、おとりとなり砲弾の雨に身をおいて、成功を助けた。 砲弾不足による訓練不足のため、南軍の砲撃の命中率はかなり低かった。

 ファラガットは、ひたすら上流へ遡上する作戦を採った。4月24日夜、ファラガット艦隊は単縦陣で突破を開始した。要塞から猛烈な砲撃が行われていた。ファラガット艦隊も、片舷斉射により反撃した。 旗艦ハートフォードは第二陣の先頭にあった。バリケードを通過後、砲撃効率を上げようと舵を切ると、川の中の強い渦に巻き込まれてしまい、セントフィリップ要塞正面の土手に突っ込んだ。辛うじて座礁は逃れたものの、ハートフォードは猛攻にさらされることとなった。 南軍の装甲艦マナサスは、焼き討ち船を押し、ハートフォードにぶつけ、撃沈しようと図った。 これに気づいたのが、"黒船"ミシシッピーであった。 ハートフォード撃沈に躍起になっていたマナサスは、ミシシッピーが接近していることの気づくのが遅れ、 衝角の一撃により、浸水が始まり、沈没した。

 翌25日の午後一時には、ファラガット艦隊はニューオーリンズに到着していた。市街地が艦砲の射程に入ってしまったニューオーリンズは、北軍の陸軍戦力の到着を待たず、降伏した。 ニューオーリンズ陥落により北軍は戦略上の要衝を手にいれ、さらにミシシッピー川を遡上することが可能になった。 この成功に対する北軍の損害は、軽微であった。この勝利により、デービッド・グラスゴー・ファラガットはアメリカ海軍初の少将に昇格した。


David Glasgow Farragut

7日戦争

 ニューオーリンズ陥落の報がもたらされて約一週間後の5月3日、ヨークタウン半島で北軍のマクレランと対峙していたJ.E.ジョンストンは撤退を実行に移させた。 戦場を変え、集結するための秩序だった撤退で、その殿はロングストリート准将だった。ロングストリートは、撤退後、少将に任じられた。

 マクレランは、ジョンストンが撤退した後の陣地と56門の大砲を鹵獲し、追撃を命じた。 ワシントンには、大勝利を挙げたと報告した。しかし、マクレランが一ヶ月間ヨークタウン半島に足止めされていたうちに、南軍がリッチモンド周辺に60,000程度の兵力を集める時間を稼ぐことを許していた。

 J.E.ジョンストンは、リッチモンドまで後退し、マクレランの進撃を止めるべく、攻撃計画を立てた。 ヨークタウン半島からリッチモンド郊外にかけては、チカホミニー川が流れており、橋も所々寸断されていて、マクレランは川の両岸に部隊を分けざるを得なかった。 川の北側に多くの部隊がおり、南側はそれに比して少数であった。ジョンストンは北側の北軍主力を、 アンブローズ・パウエル・ヒル(A.P.ヒル)とマグルーダーの軍勢で足止めし、 残りの戦力で比較的少数の南側の部隊を攻撃するというものであった。 その主力は、ロングストリートが率いることとなった。

 こうして、5月31日フェアオークスの戦いと呼ばれる戦いが始まった。 ジョンストンの不徹底もあって、主力を率いるロングストリートが予定の進路を通らず、進撃が大幅に遅れたため、 川の南側の部隊への集中攻撃は、 ダニエル・ハーヴェイ・ヒル(D.H.ヒル)の単独攻撃となってしまった。 北側から援軍が到着し、日が沈むと、南軍は首都リッチモンドへ退却した。 この戦いで、北軍は5000、南軍は6000の死者を出した。 南軍の攻撃は苛烈で、それだけに大きな犠牲も出した。 特に、司令官J.E.ジョンストンがこの戦いで重傷を負い、以後、現場の指揮はロバート・エドワード・リーが直接執ることとなった。

 慎重な性格のマクレランは、南軍の苛烈な攻撃を受けて、実際には南軍6万に対しマクレラン麾下には10万の兵力がいたにもかかわらず、敵が数において優勢であると確信しつつあった。 当時北軍ではピンカートン探偵社(大統領候補時のリンカーン暗殺計画を阻止して名を上げていた。民間軍事会社のはしりといってもよいかもしれない。)という私立探偵を敵兵力分析に使っていたが、 その報告が常に実際よりも敵兵力を過大に評価していたという事情もあった。

 この戦いで、南軍は絶対数にしても北軍より多くの損害を出したが、もともと数的に劣勢であり、損害比率にすると、北軍5%に対し、南軍は10%に上っていた。 この首都陥落の危機に対応するため、他の所に在る部隊をも、リッチモンド周辺に集結させる必要がでてきた。 シェナンドア渓谷には、16000の兵を率いる"石壁"ジャクソンがいた。

 二ヶ月ほど前、シェナンドア渓谷には、南軍はジャクソンの16,000に対し、北軍にはバンクス率いる9,000がいた。 また、フリーモント率いる北軍15,000がウェストバージニアから、スタントンを目指しシェナンドア渓谷へ接近中であった。 ラパパノック川には、首都防衛のためマクレランの頭越しに、残留を命じられていたマクダウェルの40,000の部隊がいた。

 まず、ジャクソンは首都方面へ移動する予定であったバンクスの9,000の部隊に対し3,000の兵力を分遣した。 流石に簡単に敗北したが、これによりリンカーンが、ジャクソンをシェナンドア渓谷に封じ込め、殲滅することを考えるようになった。 バンクスの首都への移動は延期になり、さらにリンカーンはマクダウェルにジャクソンの退路を断つように命じた。 しかし、ジャクソンは鉄道も利用した機動で、北からまずスタントンに至り、そこへ接近中のフリーモントの分遣隊を5月8日に破った。 15日後の5月23日には、フロントロイヤルの守備隊を破り、 さらにその2日後には、ウィンチェスターにいたバンクスの主力を撃破した。しばらく追撃したあと、今度は南に転じた。 フェアオークスの戦いの後、ジャクソンを封じ込めるべく接近中のフリーモントに6月8日に損害を与え、 翌日には方向を転じて、マクダウェル麾下のシールズ准将率いる先遣の師団を破った。

 6月23日、ジャクソンはリッチモンドへ行き、リーと面会した。 この場でジャクソンは、翌日にはリッチモンド北部に到着できると述べた。 これを受けて、リーは、マクレランを追い払うための攻勢を数日後に開始することにした。

 この、ジャクソンのシェナンドア渓谷における戦いは、最初の1回を除く5回の戦闘に勝利したというだけではなく、 約6万もの北軍の兵力をシェナンドア渓谷に釘付けにしたまま、自らは16000の兵を率いてリッチモンドでの決戦に合流するという、 神業といっていいものであった。 これにより、北軍は、60,000もの遊兵を作ってしまったうえ、 リッチモンドの南軍に16,000の援軍が合流することを許したのである。

 南軍の部隊は続々とリッチモンドへ集まっていた。 マクレラン率いる北軍約10万は南部連合首都リッチモンド郊外に陣取っていた。 シェナンドア渓谷で戦果を挙げていた"石壁"ジャクソンも、6万の北軍の戦力をシェナンドア渓谷に釘付けにしたまま、リッチモンドへ救援に駆けつけつつあった。 南軍の司令官ロバート・エドワード・リーは、ジャクソンの到着にあわせ、マクレランを追い払うための攻撃を開始することを決めた。 ジャクソンが到着すれば、北軍10万に対し、南軍も8万程度の兵力になる。

 当時の北軍の配置に関しては、チカホミニー川の北側にポーター率いる35,000がおり、南側には残り65,000程度の本隊があった。 川によって隔てられていたので、距離は近いが、ポーターの部隊と本隊は、事実上切り離されていた。 この、北軍の配置に関する情報は、ジェームズ・イーウェル・ブラウン・スチュアート(通称JEBスチュアート)という、 29歳の若き騎兵隊長の北軍陣地の周りを一周するという偵察行により、リーにもたらされていた。 そこで、リーは、南側の兵力65,000の本隊には、 マグルーダー率いる25,000の陽動部隊を送り、北側のポーターの35,000に、 残り45,000の兵力をたたきつけ、そこから突き崩すことを狙った。 しかも、シェナンドア渓谷から南下してくるジャクソンは、ポーターの側面を突くことが出来る。


James Ewell Brown Stuart

 6月26日、作戦が開始された。陽動部隊はよく戦い、役割を果たしたが、ジャクソンの到着が遅れたため、ポーターへの攻撃は、強力な陣地に阻まれ、不発に終った。 しかし、南軍の猛攻を受け、敵が数的に優勢であるというマクレランの思い込みは強まり、 マクレランは全軍を、補給や砲撃で海軍の支援が得られるジェームズ川の川辺まで撤退させることを決めた。 一方、リーは、再び攻撃を行う覚悟であった。 翌27日、道を誤り、ジャクソンが戦場に到着するのが2時間遅れたりしたものの、 局所的に35,000対45,000と優勢を確保した南軍に、ポーターの戦列は崩されつつあった。 北軍の犠牲4,000に対し、南軍8,000と大きな犠牲を出しながらも、 南軍はポーターを川の南側まで押し込んだ。

 勝ちに乗じて追撃してくる敵に対し、秩序を保ったまま時に逆撃しつつ撤退することは非常に困難である。
その上、食料や武器弾薬を運ぶ補給線も守らなければならない。< しかし、攻勢では冴えないマクレランも、撤退戦に関しては優れていた。 橋を落とすなどして時間を稼いで、強力な陣地を作り、そこで追いすがる南軍に損害を加え退けた。 こうして、マクレランはジェームズ川までの撤退に成功した。 しかし、撤退には成功したといっても、リッチモンド攻略のため軍を動かして、 失敗し撤退したわけであり、戦略上は敗北と言うべきである。

 マクレランはもっと大規模な軍勢がないと、リッチモンドは陥せないと考えるようになった。 リンカーンは5万の軍勢を追加で派遣すると言ったが、マクレランはそれでは足りないと応じた。 また、マクレランはマクダウェルの件を思い出し、リンカーンを非難する手紙を本人に送っており、既に不仲であった二人の関係はさらに悪化した。 一方、南部連合にしてみれば、リーがマクレランを破ったことにより、首都陥落の危機はとりあえず去ったことになる。 しかし、南軍は、この戦いで、25%にあたる約20,000人の死傷者を出しており、勝利の代償は極めて大きかった。



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