秦史2
繆公の時代
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繆公の時代 中原の情勢

 周の権威が低下する中、秦は中原に目を向けるようになり、紀元前672年には晋と戦い勝利した。宣公の次には弟の成公が立ち、さらにその後紀元前659年に弟の繆公(ぼくこう)が継いだ。このころ、斉では桓公管仲を用いて強勢となっていた。南方でも楚の成王が勢力を広げつつあった。繆公即位と同年、桓公は兵を率いて楚を攻め、周王朝への朝貢を認めさせる形式で主導権を認めさせ、他の諸侯を圧倒する存在となった。晋も中原の大国であり秦と国境を接していたが、晋の献公は愛妾驪姫(りき)に子供が生まれたことから、乱の種がまかれている状況であった。紀元前656年、驪姫の陰謀により太子申生は自殺に追い込まれた。翌紀元前655年、驪姫の讒言のため公子重耳(ちょうじ)・公子夷吾(いご)も食邑に逃げ込み、後に出奔した。

 この年、晋は虞を通過して虢を討ち、帰りに虞も討って虞公と大夫の百里奚(ひゃくりけい)を虜にした。このころ繆公は、晋の太子申生や公子夷吾の姉を妻に迎えることになり、晋の献公は百里奚をその付き人として一緒に秦に送った。百里奚は一度楚に逃亡してとらえられたが、その賢明さを聞いた繆公は人を遣り、羊の皮5枚で百里奚を贖わせた。繆公は百里奚の枷を外して国政を相談しようとした。百里奚は、亡国の臣であり相談にあずかる価値はない、と辞退したが、繆公は強いて語ること3日におよび、国政を任せることにした。百里奚が推挙した蹇叔(けんしゅく)も招き登用した。あるとき、岐山のふもとで繆公の名馬が野人300人に食べられるという事件があった。役人が捕えて処罰しようとしたが、君子は家畜のために人間を害さない、として繆公はこれを赦し酒を与えた。

 紀元前651年、斉の桓公が諸侯と会盟し、桓公は諸侯のリーダーとして中原に覇を唱えた。同年、晋の献公が死去した。驪姫の子が即位したが、晋の大夫里克はこれを殺した。続いて、驪姫の妹の子が即位したが、里克はこれも殺し、重耳を即位させようとした。しかし、警戒した重耳が辞退したため、夷吾を即位させることとした。夷吾もまた警戒した。そのため秦の兵を借りて即位しようとし、即位した際には8城を割譲すると約束した。繆公はこれを認め、百里奚に命じて兵を付けて夷吾を送り届けた。斉の桓公は晋の内乱を聞き、諸侯の兵とともに軍を晋に派遣した。秦と斉が会合し、夷吾を擁立することを決めた。これが恵公である。

 即位した恵公は、丕鄭(ひてい)を送り、大臣の反対で8城の割譲はできなくなった、と謝罪させ、約束を反故にした。また、重耳を将来擁立するのではないかとの懸念から里克に強いて自殺させた。これを聞いた丕鄭は恵公に殺害されることを恐れ、晋の重臣たちに賄賂を贈り、重耳を擁立するよう繆公に進言した。繆公はこれを認めて、丕鄭を返したが、重い賄賂に謀略を警戒した重臣たちはこれを恵公に告げ、恵公は丕鄭と重耳擁立派と目された大夫7人を殺害した。丕鄭の子丕豹(ひひょう)は秦に出奔し、晋を攻めるよう進言したが、繆公は今はその時ではないとしてこれを退けた。しかし、繆公は丕豹を任用することにした。

韓原の戦い

 紀元前647年、晋では干ばつが発生したため、秦に食糧支援を要請した。丕豹は反対しこの機に攻めるべきと進言した。百里奚は民衆に罪はないとして支援すべきと進言した。繆公は百里奚の進言を入れ、大船団を組織して晋に食糧支援を行った。

 1年後、秦で飢饉が発生したため、晋に食糧支援を要請したところ、恵公はこの機に秦を攻めようとした。秦国は皆激怒し、丕豹を将とし、繆公は自ら出陣した。紀元前645年、韓原の地で秦と晋の会戦した。晋軍が潰走し、恵公が本隊から離れたため、繆公はこれを追ったが、却って晋軍の中で孤立した。繆公は負傷し危機に陥ったが、この時、かつて繆公の良馬を食べて赦された300名が敢然と突撃し、繆公を窮地から救った。秦軍は追撃して恵公を虜にした。

 繆公は恵公を上帝に捧げる生贄にしようとしたが、周王が助命を要請した。また、繆公の夫人は恵公の姉であり、夫人が謝罪したため、繆公は恵公を国に返すことにした。晋は河西の地を割譲し、恵公は帰国した。恵公は重耳に位を脅かされることを恐れ、刺客を放った。重耳はこの情報を掴み、母親の母国である狄を去り、斉に亡命した。斉の桓公は重耳を厚遇した。紀元前643年、晋は太子圉を人質に出した。これに対し、繆公は娘と圉を婚姻させた。

春秋の覇者 晋の文公

 紀元前642年、斉の桓公が死去し、内乱が起きて斉は国威を失った。殷王朝の末裔である宋の襄公は、斉の桓公より太子昭(しょう)を預かっており、内乱に介入して太子(孝公)を即位させた。自信をつけた宋の襄公は、斉の桓公の地位を引き継ごうとし諸侯の会盟を主宰した。これに対して、南方で勢力を強めていた楚の成王は反発し、将軍子玉(しぎょく)を派遣して襄公を捕えて辱めた。紀元前641年、秦は晋との間にある梁と芮を滅ぼした。晋の太子圉は母親の実家が梁であった。紀元前638年、恵公が病気にかかると、圉は妻を連れて晋に逃げ帰ろうとした。繆公の娘である妻は同行は断ったものの、逃亡を告げることはせず、圉は晋に帰国した。同年、宋の襄公は軍を率いて、かつて辱められた楚に挑戦した。両軍は泓水(おうすい)で会戦し、優勢な楚に正面から挑んだ襄公は完敗し、翌年に戦傷がもとで死んだ。楚はこれにより威力を増し、中原の諸侯である衛や曹も楚の影響を受けるようになっていった。

 晋の太子圉が逃げ帰ったことを受け、繆公は諸国を放浪したあと楚に滞在していた重耳を招いて、もとの圉の妻など娘5人をめあわせた。紀元前636年、恵公が死去すると太子の圉が即位したが、晋国内では重耳に内応するものが多く、繆公が兵を付けて重耳を送ると、重耳は即位した。これが晋の文公である。重耳につき従っていた趙衰は大夫となり、国政に関与する身となった。文公は圉に刺客を送り殺害した。同年、周の襄王が弟の反乱に遭って出奔したが、翌紀元前635年、秦と晋が協力して周の襄王を周に戻した。また、秦と晋が楚の一邑を共同して攻め、秦がこれを占拠した。

 紀元前633年、楚の成王が諸侯を率いて宋を包囲した。宋は晋に救援を要請した。しかし文公は楚に恩義があったため、翌紀元前632年、直接救援する代わりに衛と曹を攻撃した。楚は援軍を派遣したが、晋は衛と曹を破った。再び楚は宋への圧力を強化した。文公は曹の君主を捕え、衛ともどもその領地を宋に与える構えを見せた。楚の成王は文公の能力と天運を高く評価していたので、晋との衝突を避けて撤退した。子玉が強く一戦することを望んだため、成王は少数の兵を与えた。子玉は使者を晋に送り、衛と曹の君主を復位させることと、宋の包囲を解くことを交換条件として交渉させた。文公は、謀臣の先軫(せんしん)の言葉に従って、使者を捕えて交渉に応じず、しかし先んじて衛と曹の君主を復位させ、これらを味方に付けた。怒った子玉は軍を動かし、晋と楚が城濮で会戦した。晋が勝利し、子玉は帰国後死を賜った。この勝利により、中原において晋に対抗できるものはいなくなり、晋の文公は周王に侯伯に任じられ、諸侯との会盟を主宰し、中原の覇者となった。

晋へ雪辱

 紀元前630年、晋の文公は秦とともに鄭の首都を攻撃した。鄭は繆公に、この戦いは秦にメリットがなく、晋を強めるだけである、と説き、繆公は兵を返した。晋も退却した。紀元前628年、晋の文公が死去し、襄公が立った。同年、鄭で秦に内応しようとする者があらわれ、繆公は出兵するべきかどうか百里奚蹇叔に諮った。二人は、鄭は数か国を超えた遠方にあり、メリットはなくやめるべきだと進言したが、繆公は聞かず、翌紀元前627年、百里奚の子孟明視(もうめいし)と蹇叔の子西乞術(せいきつじゅつ)および白乙兵(はくおつへい)を将軍として、軍を派遣した。

 途中、晋と周を通過し、周の東方約40kmの滑に至って、偶然鄭の商人と遭遇し、鄭に出兵が露見しているのではと考えた3将は滑を攻撃して引き返した。先軫は即位したばかりの晋の襄公に、秦君は蹇叔や他多くの意見に背き、孤児となった襄公を侮って喪中に乗じて同姓の滑を滅ぼしたのであり、討つべきである、と進言した。晋の襄公はこれを聴き、喪服を墨で染めて秦軍を攻撃して殲滅し、3将を虜にした。晋の文公夫人は繆公の娘であり、3将のために命乞いをしたため、3将は秦に返された。繆公は喪服で郊外まで迎えに行き、3将の地位を安堵して、雪辱を誓った。

 翌紀元前625年、孟明視らを将として晋を攻撃し、1城を奪回して撤退した。西戎の王が、由余を秦に視察に送った。繆公が由余に政のための祭器などの宝物を見せると、由余は「これを神に作らせれば神が疲れ、民衆に作らせれば民衆を苦しめる。」と述べた。繆公が祭器や詩書礼楽法度なしにどのように西戎では政を行うのか問うと、由余は「それらこそが政治が乱れる所以である」といい、また「西戎では上は純朴、下は忠信をもって接しており、知らず知らずのうちに治まっている。これが本当の聖人の政治である。」と答えた。由余の賢能を知った繆公は、西戎に由余がいることを憂え、由余を引き留めて、その間に西戎の王に女性の歌劇団を送った。西戎の王は女性の歌劇団にはまり、由余が帰国して諌めても聴かなかった。繆公は度々西戎の王に由余を与えるように説いたため、遂に由余は秦に来た。繆公はこれを厚遇した。

 紀元前624年、孟明視らを将として再度晋を攻撃した。孟明視らは黄河を渡ると船を焼き、決死の覚悟で晋と会戦し、大勝した。繆公は黄河を渡ってかつて孟明視らが晋に敗れた地に赴き、死者を弔い、喪を発して3日間の哭礼を行った。そして次のように誓った。

「士卒らよ、聞け、汝らに誓って告げよう。
いにしえの人は古老の意見を聴き、過ちを犯さなかったが、
余は蹇叔百里奚の言葉を聴かなかった。
そのことを思い、余の過ちを後世に残すため、この誓いを立てるのである。」


西戎の覇

 紀元前623年、繆公は由余の策を用いて西戎を討ち、12国を併合し西戎の覇となった。周王は召公を派遣し、慶賀の意を伝達した。晋が出兵し、新たに築いていた城を奪った。2年後、繆公は死去した。この時、177人の殉死者が現れたことが衝撃をもって迎えられた。殉死した3人の名臣を悼んで詩経に採録されている「黄鳥の詩」が作られた。

 繆公は新興国家である秦を、晋や斉などの中原の大国に比肩するまでに強くする成功を収めた。その背景には、人材を極めて重要視したことがある。特に、秦の後進性を認め、他国出身の有能な人材を積極的に登用・厚遇したことが特筆される。繆公が範となったことで、秦では自国他国にかかわらず有能な人材を登用する気風が形成され、後のさらなる強大化に貢献したのである。



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