エジプト新王国の奴隷となっていたヘブライ人 Hebrewsを率いてエジプトを脱出し 約束の地を目指した。 これを出エジプト the Exodus という。 新エジプト王国軍の追手から逃げる際に、海を割ったという話が有名である。 事実だとすれば、潮の満ち引きが時宜を得でもしたのだろう。 シナイ山でヤハウェより十戒を授けられたといわれる。 ともあれ、モーセはこの十戒により未だ遊牧民族的性格を残していたヘブライ人の12部族を結集した。 彼自身は約束の地に行くことができなかったが、この結集が、時を経てヘブライ王国の誕生をもたらした。 alias,無し
始皇帝時代の秦の将軍。 はじめは司法関連の文章をつかさどる役人をしていた。 B.C.224年、李信とともに楚を20万の兵で討ち、寝丘を攻めて大いに破ったが、反撃にあって敗北した。 その後、王翦(おうせん)が、副将蒙武とともに80万の兵で楚を討ち、 これを滅ぼしたが、蒙武は蒙恬の父親である。 B.C.215年、蒙恬は匈奴遠征を命じられ、30万の兵で、 オルドス(河南)にいた匈奴を攻撃して破り、 後方ゴビ砂漠の北方あたりまで退けた。 そして、燕や趙などが築いていた長城を修復、連結する工事を行い、 いわゆる万里の長城 the Great Wallを作り上げた。 かくして蒙恬は十数年にわたり陣中にあって、その武威は匈奴を震撼させた。 しかし、始皇帝が没すると、宦官趙高らの陰謀により死刑を宣告され、ついに服毒自殺した。 参考: 漢対匈奴 王翦 alias,なし
秦の繆公時代の将軍。百里奚の子。 紀元前628年、晋の文公が死去し、襄公が立った。同年、鄭で秦に内応しようとする者があらわれ、繆公は出兵するべきかどうか百里奚と蹇叔に諮った。 百里奚らは、鄭は数か国を超えた遠方にあり、メリットはなくやめるべきだと進言したが、繆公は聞かず、 翌紀元前627年、孟明視らを将軍として、軍を派遣した。 途中、晋と周を通過し、周の東方約40kmの滑に至って、偶然鄭の商人と遭遇し、鄭に出兵が露見しているのではと考えた孟明視らは滑を攻撃して引き返した。 晋の襄公は、喪服を墨で染めて秦軍を攻撃して殲滅し、孟明視らを虜にした。 晋の文公夫人は繆公の娘であり、孟明視らのために命乞いをしたため、孟明視は秦に帰ることができた。 繆公は喪服で郊外まで迎えに行き、3将の地位を安堵して、雪辱を誓った 翌紀元前625年、孟明視らを将として晋を攻撃し、1城を奪回して撤退した。 紀元前624年、孟明視らを将として再度晋を攻撃した。孟明視らは黄河を渡ると船を焼き、決死の覚悟で晋と会戦し、大勝した。 繆公は黄河を渡ってかつて孟明視らが晋に敗れた地に赴き、死者を弔い、喪を発して3日間の哭礼を行った。そして次のように誓った。 「士卒らよ、聞け、汝らに誓って告げよう。 いにしえの人は古老の意見を聴き、過ちを犯さなかったが、 余は蹇叔と百里奚の言葉を聴かなかった。 そのことを思い、余の過ちを後世に残すため、この誓いを立てるのである。」 参考: 秦史2 繆公の時代 alias,なし
「士卒らよ、聞け、汝らに誓って告げよう。 いにしえの人は古老の意見を聴き、過ちを犯さなかったが、 余は蹇叔と百里奚の言葉を聴かなかった。 そのことを思い、余の過ちを後世に残すため、この誓いを立てるのである。」