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百里奚(ひゃくりけい) 中国 春秋時代
百里奚は秦の繆公に使えた名臣として知られる。子に孟明視(もうめいし)がいる。

百里奚は斉に遊説し、困窮したところ、蹇叔(けんしゅく)と知り合い支援を受けた。 百里奚は蹇叔のつてで斉に仕官しようとしたが、蹇叔に止められた。 その後、斉では襄公・公孫無知と連続して叛乱が起きた。 (さらにその後に覇者となった桓公が即位した。参考:斉桓公 -最初の覇者- 史記) 百里奚は蹇叔のおかげで乱を逃れたことを感謝した。

その後は、周に行き王子頽(たい)に牛の繁殖の技術を売り込み仕官しようとした。 内定を受けていたが、蹇叔がこれをとどめたため、周を去った。 その後、王子頽は恵王が追放されたあとに一時的に即位するが、 鄭と虢が恵王を奉じて周を攻め、頽は殺された。 またしても百里奚は蹇叔のおかげで乱を逃れた。

その後、百里奚は虞に仕官した。 蹇叔はこれに反対し、百里奚も重用されないことは分かっていたが、 百里奚は俸禄を得るためにしばらく仕えることにしていた。 紀元前655年、晋は虞を通過して虢を討ち、帰りに虞を攻撃した。 虞公と百里奚は虜にされた。 このころ秦の繆公は、晋の太子申生や公子夷吾の姉を妻に迎えることになり、 晋の献公は百里奚をその付き人として一緒に秦に送った。 百里奚は一度楚に逃亡してとらえられたが、その賢明さを聞いた繆公は人を遣り、羊の皮5枚で百里奚を贖わせた。 繆公は百里奚の枷を外して国政を相談しようとした。 百里奚は、亡国の臣であり相談にあずかる価値はない、と辞退したが、繆公は強いて語ること3日におよび、国政を任せることにした。

百里奚はかつて蹇叔の意見を聴いて乱を逃れ、蹇叔の意見を聴かなかったため虜になった話をし、 繆公に蹇叔を推挙した。繆公は蹇叔を招き上大夫に登用した。

斉の桓公が覇を唱えた紀元前651年、晋の献公が死去し後継争いから内乱が発生した。 秦にいる公子夷吾を擁立する動きがあったが、夷吾は警戒し秦の兵を借りて安全を確保しようとした。 繆公はこれを認め、その際、百里奚が兵を率いて夷吾を送り届けた。これが恵公である。

紀元前647年、晋では干ばつが発生したため、秦に食糧支援を要請した。 百里奚は民衆に罪はないとして支援すべきと進言した。 繆公は百里奚の進言を入れ、大船団を組織して晋に食糧支援を行った。

1年後、秦で飢饉が発生したため、晋に食糧支援を要請したところ、恵公はこの機に秦を攻めようとした。 紀元前645年、秦は韓原の戦いで晋に大勝し恵公を虜にした。 秦は晋の太子圉を人質とした。太子圉が逃亡すると、 秦は公子重耳を招き、 恵公の死後に兵をつけて晋に送り、即位させた。 これが晋の文公である。 後、晋の文公は紀元前632年の城濮の戦いで勝利し、諸侯に覇を唱えた。

紀元前628年、晋の文公が死去し、襄公が立った。同年、鄭で秦に内応しようとする者があらわれ、繆公は出兵するべきかどうか百里奚と蹇叔に諮った。 百里奚らは、鄭は数か国を超えた遠方にあり、メリットはなくやめるべきだと進言したが、繆公は聞かず、 翌紀元前627年、百里奚の子孟明視と蹇叔の子西乞術(せいきつじゅつ)および白乙兵(はくおつへい)を将軍として、軍を派遣した。 途中、晋と周を通過し、周の東方約40kmの滑に至って、偶然鄭の商人と遭遇し、鄭に出兵が露見しているのではと考えた3将は滑を攻撃して引き返した。 晋の文公の謀臣先軫は、即位したばかりの晋の襄公に、秦君は蹇叔や他多くの意見に背き、 孤児となった襄公を侮って喪中に乗じて同姓の滑を滅ぼしたのであり、討つべきである、と進言した。 晋の襄公はこれを聴き、喪服を墨で染めて秦軍を攻撃して殲滅し、3将を虜にした。 晋の文公夫人は繆公の娘であり、3将のために命乞いをしたため、3将は秦に返された。 繆公は喪服で郊外まで迎えに行き、3将の地位を安堵して、雪辱を誓った

翌紀元前625年、孟明視らを将として晋を攻撃し、1城を奪回して撤退した。 紀元前624年、孟明視らを将として再度晋を攻撃した。孟明視らは黄河を渡ると船を焼き、決死の覚悟で晋と会戦し、大勝した。 繆公は黄河を渡ってかつて孟明視らが晋に敗れた地に赴き、死者を弔い、喪を発して3日間の哭礼を行った。そして次のように誓った。
「士卒らよ、聞け、汝らに誓って告げよう。
いにしえの人は古老の意見を聴き、過ちを犯さなかったが、
余は蹇叔と百里奚の言葉を聴かなかった。
そのことを思い、余の過ちを後世に残すため、この誓いを立てるのである。」

ところで、蒙恬の弟蒙毅は、次のように述べたとされる。
繆公は百里奚を殺しましたが、無実の罪であったので、繆(あやまりの意を含む)と諡(おくりな)されました。」
上の誓約の前に百里奚は刑死していたのかもしれない。

李斯は始皇帝に外国からの客臣の功を説明する中で(諫逐客書)、このように述べている。
繆公士を求め、西のかた由余を戎(じゆう)に取り、
東のかた百里奚を宛に得、
蹇叔を宋より迎へ、丕豹(ひひょう)・公孫支(こうそんし)晋より来たる。
此の五子は秦に産せざるも、而して繆公之を用い、
国を并(あは)すこと二十、遂に西戎に覇たり。


参考:
秦史2 繆公の時代
諫逐客書

alias,五羖大夫


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