逐客を諫す(諫逐客書)
-李斯列伝第二十七より-
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本文(白文・書き下し文)
  会韓人鄭国来間秦、
  以作注漑渠已而覚。
  秦宗室大臣皆言秦王曰、
  「諸侯人来事秦者、
  大抵為其主游間於秦耳。
  請一切逐客。」
  李斯議亦在逐中。
  斯乃上書曰、

  「臣聞吏議逐客。
  窃以為過矣。
  昔繆公求士、西取由余於戎、
  東得百里奚於宛、
  迎蹇叔於宋、来丕豹、公孫支於晋。
  此五子者不産於秦、而繆公用之、
  并国二十、遂霸西戎。
  孝公用商鞅之法、移風易俗民以殷盛、
  国以富強、百姓楽用、
  諸侯親服、獲楚魏之師挙地千里、
  至今治強。
  惠王用張儀之計、抜三川之地、
  西并巴蜀、北収上郡、
  南取漢中、包九夷、制鄢郢、
  東拠成皋之険、割膏腴之壌遂散六国之従、
  使之西面事秦、功施到今。
  昭王得范雎、廃穰侯逐華陽強公室、
  杜私門蚕食諸侯、使秦成帝業。
  此四君者皆以客之功。
  由此観之客何負於秦哉。
  向使四君却客而不内、疎士而不用、
  是使国無富利之実
  而秦無強大之名也。

  今陛下致昆山之玉、有随和之宝、垂明月之珠、
  服太阿之剣、乗繊離之馬、
  建翠鳳之旗、樹霊鼉之鼓。
  此数宝者、秦不生一焉、而陛下説之,何也。
  必秦国之所生然後可、
  則是夜光之璧不飾朝廷、
  犀象之器不為玩好、鄭・衛之女不充后宮、
  而駿良駃騠不実外厩、
  江南金錫不為用、西蜀丹青不為采。
  所以飾后宮充下陳娯心意説耳目者、
  必出於秦然後可、
  則是宛珠之簪、傅璣之珥、
  阿縞之衣、錦繍之飾不進於前、
  而随俗雅化佳冶窈窕趙女不立於側也。
  夫撃甕叩缶弾箏搏髀、
  而歌呼嗚嗚快耳目者、真秦之声也。
  鄭・衛・桑間・昭・虞・武・象者、異国之楽也。
  今棄撃甕叩缶而就鄭衛、
  退弾箏而取昭虞、若是者何也。
  快意当前、適観而已矣。
  今取人則不然。
  不問可否,不論曲直,非秦者去,為客者逐。
  然則是所重者在乎色楽珠玉、
  而所軽者在乎人民也。
  此非所以跨海内制諸侯之術也。

  臣聞地広者粟多、国大者人衆、兵強則士勇。
  是以太山不譲土壌、故能成其大。
  河海不択細流、故能就其深。
  王者不却衆庶、故能明其徳。
  是以地無四方、民無異国、
  四時充美、鬼神降福。
  此五帝・三王之所以無敵也。
  今乃棄黔首以資敵国、却賓客以業諸侯、
  使天下之士退而不敢西向裹足不入秦。
  此所謂「藉寇兵而齎盜糧」者也。

  夫物不産於秦可宝者多、
  士不産於秦而願忠者衆。
  今逐客以資敵国、損民以益讎、
  内自虚而外樹怨於諸侯、
  求国無危,不可得也。」

  秦王乃除逐客之令、復李斯官、
  卒用其計謀。官至廷尉。
  二十余年、竟并天下、
  尊主為皇帝、以斯為丞相。
  たまたま韓人鄭国来たりて秦を間(かん)し、
  以て注漑渠(ちゅうがいきよ)を作り、已にして覚はる。
  秦の宗室大臣皆秦王に言ひて曰はく、
  「諸侯の人来たりて秦に事ふる者は、
  大抵其の主の為に秦に游び間するのみ。
  請ふ一切客を逐はん。」
  李斯議せられ亦た逐中(ちくちう)に在り。
  斯乃(すなは)ち上書して曰く、

  「臣聞く、吏客を逐ふを議す、と。
  窃(ひそ)かに以て過りと為す。
  昔繆公士を求め、西のかた由余を戎(じゆう)に取り、
  東のかた百里奚を宛に得、
  蹇叔を宋より迎へ、丕豹(ひひょう)・公孫支(こうそんし)晋より来たる。
  此の五子は秦に産せざるも、而して繆公之を用い、
  国を并(あは)すこと二十、遂に西戎に覇たり。
  孝公商鞅の法を用ひ、風を移し俗を易(か)へ民以て殷盛(いんせい)
  国以て富強、百姓用を楽しみ、
  諸侯親服し、楚魏の師を獲(え)、地を挙ぐること千里、
  今に至るまで治強なり。
  惠王張儀の計を用い、三川の地を抜き、
  西のかた巴蜀を并せ、北のかた上郡を収め、
  南のかた漢中を取り、九夷を包(か)ね、鄢(えん)(えい)を制し、
  東は成皋(せいこう)の険に拠り、膏腴(こうゆ)の壌(つち)を割き、遂に六国の従を散じ、
  之をして西面して秦に事へしめ、功施き今に到る。
  昭王范雎(はんしょ)を得、穰侯(じょうこう)を廃し華陽を逐ひ公室を強め、
  私門を杜(ふさ)ぎ諸侯を蚕食し、秦をして帝業成さしむ。
  此の四君は皆客の功を以てす。
  此に由りて之を観るに、客何ぞ秦に負かんや。
  向し四君をして客を却けて内れず、士を疎んじて用ひず、
  是れ国をして富利の実無からしめ
  而も秦をして強大の名無からしむるなり。

  今陛下は昆山(こんざん)の玉を致し、随・和(か)の宝有り、明月の珠を垂れ、
  太阿(たいあ)の剣を服し、繊離(せんり)の馬に乗り、
  翠鳳(すいほう)の旗を建て、霊鼉(れいだ)の鼓を樹(た)つ。
  此の数宝は、秦に一も生ぜず、而も陛下之を説ぶは、何ぞや。
  必ず秦国の生ずる所にして然る後可なれば、
  則ち是れ夜光の璧朝廷を飾らず、
  犀象(さいぞう)の器玩好(こうがん)を為さず、鄭・衛の女后宮を充たず、
  而して駿良・駃騠(けつてい)外厩を実さず、
  江南の金錫用いらるるを為さず、西蜀の丹青采を為さず。
  后宮を飾り下陳(かちん)を充ち心意を娯しませ耳目を説ばしむる所以の者は、
  必ず秦に出でて然る後可なれば、
  則ち是れ宛珠の簪、傅璣(ふき)の珥(じ)
  阿縞(あこう)の衣、錦繍の飾前に進まず、
  而して俗に随ひ雅化せし佳冶窈窕(かやようちょう)の趙女側に立たざるなり。
  夫れ甕を撃ち缶を叩き箏を弾き髀を搏ち、
  而して歌呼嗚嗚して耳目を快くするは、真に秦の声なり。
  鄭・衛・桑間・昭・虞・武・象は、異国の楽なり。
  今甕を撃ち缶を叩くを棄てて鄭・衛に就き、
  箏を弾くを退けて昭・虞を取る、是の若きは何ぞや。
  意を快するは前に当たり、観るに適へばなるのみ。
  今人を取るは則ち然らず。
  可否を問はず、曲直を論ぜず、秦に非ざる者を去り、客たる者を逐ふ。
  然らば則ち是れ重んずる所の者は色楽珠玉に在りて、
  軽んずる所の者は人民にあるなり。
  此れ海内(かいだい)を跨ぎ諸侯を制する所以の術に非ざるなり。

  臣聞く地広ければ粟多く、国大なれば人衆(おお)く、兵強かれば則ち士勇む、と。
  是を以て太山は土壌を譲らず、故に能く其の大を成す。
  河海は細流を択ばず、故に能く其の深きを就(な)す。
  王者は衆庶を却けず、故に能く其の徳を明らかにす。
  是を以て地に四方無く、民に異国無く、
  四時美に充ち、鬼神福を降す。
  此れ五帝・三王の敵無かりし所以なり。
  今乃し黔首を棄て以て敵国に資し、賓客を却けて以て諸侯を業(たす)け、
  天下の士をして退きて敢へて西に向ひ足を裹(つつ)みて秦に入らしめず。
  此れ所謂「寇に兵を藉(か)して盜に糧を齎(もたら)す」者なり。

  夫れ物秦に産せざれども宝とすべき者多く、
  士秦に産せざれども忠なるを願ふ者衆し。
  今客を逐ひ以て敵国に資し、民を損ね以て讎を益し、
  内は自ら虚にして外は諸侯に怨を樹ち、
  国危きこと無からんことを求むるとも、得べからざるなり。」

  秦王乃ち逐客の令を除き、李斯の官を復し、
  卒に其の計謀を用ふ。官は廷尉に至る。
  二十余年、竟(つい)に天下を并せ、
  主を尊びて皇帝と為し、以て斯丞相と為る。

参考文献:史記3 独裁の虚実 徳間文庫, 史記6列伝二 ちくま学芸文庫, 顔子学苑 史記卷八十七・李斯列傳第二十七

現代語訳/日本語訳

たまたま韓の人鄭国が秦に入って工作を行い、 (秦の国力を削ぐべく)灌漑用水を作ったが、すでにそのことが発覚していた。 秦の宗室や大臣はみな秦王に言った、
「諸侯から来て秦に仕官する者は、 大抵その君主のための秦に遊説して敵対工作を行うものばかりです。 一切の客臣を追放されますように。」
李斯も議論の対象となり追放者リストに入っていた。 そこで李斯はつぎのように上書した。

「私は、官吏が客臣を追放することを議論していると聞いています。 私の意見としてはこれは誤りだと思っております。 昔、繆公は有為の士を求め、西は西戎から由余を招き、 東は宛から百里奚を得て、 蹇叔を宋より迎え、丕豹・公孫支が晋から来ました。 この5名は秦の出身ではありませんが繆公は彼らを登用して、 二十国を併合し、遂に西戎の覇となりました。 孝公は商鞅の法を採用し、風俗を変え民衆は栄え、 国はこれにより富強となり、百官は職務に励み、 諸侯も信服し、楚と魏の兵を捕虜とし、千里を平定し、 今に至るまで国が治まり軍も強いのです。 惠王は張儀の計を用いて、三川の地を抜き、 西は巴蜀を併合し、北は上郡を収め、 南は漢中を取り、蛮族を抑え、楚都鄢・郢を制し、 東は成皋の険に拠って肥沃な土地を割譲させ、 遂に六国の合従策を破綻させ、 西面して秦に臣従させ、功績は今にもいたっています。 昭王は范雎を得て、穰侯を廃し華陽君を追放して公室を強め、 私門が肥えるのを防ぎ、諸侯を蚕食し、秦に帝業を成させました。 これら四人の王はみな客臣の功績で成果を挙げたのです。 これを考えると、なぜ客将が秦に背くと言えましょうか。 もし四人の王が客臣を退けて受け入れず、有為の士を疎んじて登用していなければ、 国は富利の実益を得られず、 しかも強大な秦の名も無かったでしょう。

今陛下は昆山の玉を手に入れ、随氏・和氏の宝(璧)を所有し、明月の珠を垂れ、 太阿の剣を佩び、繊離の馬に乗り、 翠鳳の旗を建て、霊鼉の鼓を据えています。 これら数々の宝は、ひとつも秦で産出されるものはありませんが、 陛下はこれらを珍重するのはなぜでしょうか。 必ず秦でうまれでなければならないとすれば、 夜光の璧は朝廷を飾らず、 犀角・象牙の器は味わえず、鄭・衛の美女は後宮に満ちることは無く、 駿馬・名馬は厩におらず、 江南の金と錫は用いられず、西蜀の丹青を彩色に使うこともできません。 後宮を飾り奥向きの用に当て心を楽しませ耳目をよろこばせるのも、 必ず秦でうまれなければならないとすれば、 宛の珠のかんざし、小珠の耳飾り、 絹衣、錦繍の飾は陛下の御前に出てくることも無く、 地元の俗にままに雅で美しく艶めかしい趙の美女が側に立つこともありません。 そもそも甕(かめ)を撃ち缶を叩き箏を弾きももを打ち、 ああと歌い鳴いて耳目を楽しませるのが、真に秦の音楽といえます。 鄭・衛・桑間・昭・虞・武・象といった音楽は、異国の音楽です。 今、甕を撃ち缶を叩くのをやめて鄭・衛の音楽を聞き、 箏を弾くのをやめて昭・虞の音楽を取っていますが、これはなぜでしょうか。 心地よいものが現に目の前にあり、見るのに適っているからに他なりません。 しかし今、人についてはそうでありません。 可否を問わず、正誤を論じず、秦出身でない者はしりぞけ、客臣は追放する。 それならばすなわち、重んじているのは女・音楽・宝物であって、 軽んじているのは人ということになります。 これでは海内を跨ぎ諸侯を制することはできません。

私は、「国土が広ければ収穫量が多く、国が大きければ人口が多く、武器が強ければ士卒が勇敢になる。」と聞いています。 このため太山は土壌を譲らず、故にその大きさになることができます。 河海は細流を選り好みせず、故にそれだけ深くなります。 王者は万民を退けず、故にその徳を明らかにできるのです。 これによって王者の地に四方の区別が無く、民に異国の区別が無く、 四季が調和して美に満ち、鬼神が福をもたらすのです。 これが五帝・三王の敵がいなかった所以なのです。 今もし民衆を棄てて敵国を助け、賓客を退けて諸侯を助け、 天下の士を拒んで西に向ってためらい秦に入らないようにすれば、 これはいわゆる「敵に兵を貸して盗賊に食糧を与える」ということになります。

そもそも秦の産物でなくても宝とすべきものは多く、 有為の士が秦の出身でなくても秦に忠誠を誓いたいと願う者は多いのです。 今客臣を追放して敵国を助け、民を損ねて仇敵に利を与え、 内は自ら人材を欠き、外は諸侯に怨みを抱かせ、 国の安泰を求めたとしても、得られるわけがありません。」

秦王はすぐに客臣の追放令を解除し、李斯の官職を戻し、 李斯の計謀を用いた。官職は廷尉に至った。 二十余年で、天下を併合し、秦王を尊んで皇帝とし、李斯は丞相となった。


背景解説

逐客(ちくきゃく)の令が発せられたのは鄭国(ていこく)の事件があったためである。

鄭国は韓の水利技術者である。 韓は秦の軍事的圧力を緩和するための策として、 秦で大規模灌漑工事が行われるように仕向けようとし、そのために送られたのが鄭国であった。 工事の途中にこのことが露見したため、李斯をはじめとした外国からの客臣を追放しようという議論が持ち上がったのである。

しかし、秦の国力はこの工事で覆るほど弱くなかった。 鄭国は、「始め臣は間を為す、然れども渠成るは亦秦の利なり。」と弁解し、 それを受け入れた秦王(後の始皇帝)は、鄭国に続けて工事を行わせた。 こうして作られた灌漑用水路は「鄭国渠」と呼ばれるようになり、不毛の地670平方km(出典:農林水産省ホームページhttp://www.maff.go.jp/j/nousin/sekkei/kaigai/k_facilities/a_china2.htmlが灌漑され、 「是に於いて関中(函谷関の内側の秦の本領)沃野たり、凶作無く、秦以て富強なり。(史記河渠書)」となり、秦の国力の増大に結果的に貢献したのである。

そして、追放されそうになった李斯が上書したのがこの文章である。 半分は保身のための文章であるが、秦が外部の人材を抜擢して発展してきた歴史を述べ、 逐客の非合理性を比喩を加えて理路整然と論じており、 その内容は二千数百年の時を経た現在でも色あせていない。 秦王はこれを読んで即座に逐客の令を廃止するとともに、李斯の才能を知り、任用するようになったのである。



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