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リヴィウス(Titus Livius) ローマ アウグストゥス時代
ティトゥス・リヴィウス。
B.C.59年 パドゥア Paduaに生まれた。
アウグストゥス Augustusの保護下、「ローマ建国史 Ab Urbe Condita」142巻の著述に生涯を費やす。
しかし、これは現在すでに散逸しており、35巻が残るのみである。

alias,ティトゥス・リヴィウス リウィウス

李斯(りし) 中国 戦国時代・秦
李斯は楚の出身であり、荀子に師事し次第に法家思想に傾倒した。同門に韓非がいた。
楚は仕官するに足らずと考え、秦に行き、丞相の呂不韋の家臣になった。
呂不韋は李斯を推挙して仕官させた。
李斯は秦王政に説く機会を得て天下統一の方策を論じて用いられ、長史に任じられた。
李斯の策が採用されて、各国に工作員が送られ、財物の力で味方を作り、
応じないものには刺客を放ち、その後で軍を派遣して討伐に当たらせるようになった。
李斯は客卿(外国出身の大臣)となった。

このとき韓は秦の軍事的圧力を緩和するための策として、 秦で大規模灌漑工事が行われるように仕向けようとしており、
そのために鄭国という水利技術者が秦に送られ、灌漑工事が行われていた。
鄭国が韓の工作員として送られたことが工事の途中に露見したため、
李斯をはじめとした外国からの客臣を追放しようという動きが起こり、逐客(ちくきゃく)の令が発せられた。
李斯はこれに反対して上書(諫逐客書)した。
この結果、逐客の令は解除され、李斯はますます任用されるようになった。
呂不韋が失脚した後も用いられた。

秦王政は韓非子を読み、著者の韓非に会いたいと願った。
そのために軍を使って韓を圧迫し、ついに韓非が秦に使者として来た。
秦王は韓非を気に入ったがまだ登用には至らなかった。
李斯は自らの立場を守り、また韓で韓非が活躍しないようにするため、
韓非を秦に留め置き法に当てて処刑するよう進言した。
秦王は李斯の進言を聴き入れ、韓非は李斯が送った毒を仰いで自殺した。

秦は、韓を手始めに六国をすべて滅ぼして天下を統一した。
李斯らは、王に代わる新たな称号として「泰皇」を推奨し、 自称に「朕」、命令を「制」「詔」とするよう進言した。
秦王政は「泰皇」を「皇帝」に改め、そのほかを採用し、始皇帝となった。

丞相の王綰が、各地に公子を王として立てることを進言すると、
李斯は周王室が各地に封建して衰えた例をあげて反対し郡県制を支持した。
始皇帝は李斯の意見を採用して、天下を36郡に分け郡県制を布いた。
のち、李斯は丞相の位に上った。
李斯は、始皇帝に焚書を進言し、用いられた。
また、法律・規範の明確化、公文書の規格化、皇帝の巡行、武器の供出と熔解を推進した。

李斯の長男李由は三川郡守となり、子は秦の公室とすべて結婚した。

始皇帝が死ぬと、宦官の趙高に説得され、公子胡亥を二世皇帝につける謀略に加担した。
長子の扶蘇と蒙恬を死に追いやり、李斯は丞相の位を保った。
しかし、二世皇帝は李斯の諫言を聞かず、次第に皇帝に近侍する趙高に後れをとるようになっていった。

陳勝呉広の乱が起きると、
陳勝は呉広を李由の守備する滎陽に派遣した。李由は滎陽を堅く守った。
陳勝は周章を起用して新たに一軍を編成した。
周章のもとには数十万の兵が集まり、
滎陽を越え、函谷関を突破し咸陽の50km手前まで迫った。
李由は呉広の攻撃を受けて動けなかった。
その間に、章邯が急造の開放刑徒の軍を率いて周章と戦い、粘る周章を3度破ってついにこれを自殺させた。
章邯は滎陽に進み、呉広を殺してその軍を率いていた将軍の田臧と激突してこれを破って戦死させ、
滎陽ならびに三川郡の叛乱を制圧した。

李由が叛乱制圧に関して働きが十分でなかったため、責任追及を受けることとなり、
李斯も高位にありながら叛乱を招いたことについて非難を受けた。
趙高は李斯の排除を企図し、李由が叛乱勢力と通じていると二世皇帝に吹き込んだ。
二世皇帝は趙高に信を置いており、李斯を捕えて趙高に調べさせた。
拷問を受けること数千回、ついに無実の罪を告白し、一族ことごとく処刑された。
李由については、取り調べるための皇帝の使者が三川郡に至ったときには、項羽に破れ斬首されたあとであった。


参考:
上書(諫逐客書)
漢楚斉戦記2 章邯の猛反攻
alias,

李信(りしん) 中国 戦国時代・秦
秦の始皇帝時代の将軍。勇猛で若くして将軍となった。
原泰久による漫画「キングダム」の主人公のモデルとなった人物と考えられている。
子孫に、漢の飛将軍と匈奴におそれられた
李広がいる。

紀元前229年、秦は王翦に趙を攻撃させた。
李信は一軍を率いて趙の西北部方面(太原・雲中)に出撃した。
また、羌瘣(きょうかい)は趙の北部の代を攻めた。
趙が滅べば、北方の燕はついに秦と国境を接することになる。
燕の公子丹は、この状況を憂え、燕にいた処士荊軻に、
燕の使者として秦王に謁見して武器を以て脅迫し、領土を回復するか、できなければその場で殺害するよう依頼した。
荊軻は強い懇請を受けて遂に受諾した。
一方、王翦は紀元前228年、遂に趙を滅ぼしその国土を平定した。
翌紀元前227年、荊軻は秦に赴き、秦王政(始皇帝)暗殺を図った。
暗殺は失敗に終わり、秦王政は王翦らを燕に派遣し、王翦は燕と代の連合軍を易水の西で撃破した。
10か月で王翦は燕の都薊城を攻略した。
燕王喜と太子丹は精鋭を率いて遼東に逃れた。
李信は数千の兵でこれを激しく追撃し、窮地に陥った燕王は、太子丹の首を献じてきた。
秦王はこの功績を高く評価した。

秦王は次は楚を討つこととし、李信に必要な兵力を下問した。
李信は答えた、「20万あれば十分でしょう。」
王は、王翦にも諮問した。
王翦は答えた、「60万の兵力がなければ無理でしょう。」
秦王はこう言った。
「王将軍も老いてしまった。なんと臆病なことよ。李将軍は勇壮で、その言はやはり正しい。」
そして、李信と蒙恬に命じて、20万の兵を与え、楚を攻撃させた。
王翦は、意見が用いられなかったので、引退して故郷へ帰った。

李信と蒙恬は、緒戦、それぞれ平輿・寝(地名)を攻めて大勝した。
その後、西進して城父で合流したが、 楚軍は強行軍でこれを追跡していた。
三日三晩に及ぶ戦いで、楚は秦軍を大破し、7人の都尉(中級指揮官)を殺して、李信を敗走させた。

秦王はこれを聞いて激怒し、引退した王翦のところへ赴いた。
王はこう陳謝した、
「寡人が将軍の計を用いなかったばかりに、果たして李信が秦軍の名を辱めてしまった。
今、楚の軍勢は日ごとに西進しているという。
将軍は病気と言えども、寡人を見捨てはしないだろう。」
王翦は辞退して言った、 「老臣は病み疲れ、頭も混乱しています。大王は、より賢い将軍をお選びください。」
政は「やめてくれ。そんなことは言わないでくれ。」と謝した。
王翦は答えた、
「大王がやむを得ず臣を用いられますなら、 60万の兵力がなければ出来ません。」
王は「将軍の計の通りにしよう。」と言った。

紀元前224年、王翦は秦の動員可能な総兵力である60万の空前の大軍を率いて楚を攻めた。
王翦は、楚軍を大破し、敗走する楚軍を全軍を以て追撃した。
王翦は楚王を捕らえ、平輿に至るまでの地を占領した。
楚将項燕(項羽の祖父)が秦の昌平君を立てて王とし、 秦に叛旗を翻した。
翌年、王翦と蒙武が昌平君を討って戦死させ、 項燕も自殺に追い込み、楚軍は壊滅した。
こうして楚は滅び、その領域は秦の群県となった。

大敗を喫した李信であったが、秦王はこれを再び用い、
紀元前222年、王翦の子王賁を大将とする遼東への遠征軍に帯同させた。
王賁と李信は燕王を捕虜とし、さらに代を討って北方を平定した。
翌年には南下して斉に攻め込み、斉王を捕え、斉を滅ぼした。
こうしてついに秦は天下を統一した。

参考:
史 人物 王翦
alias,

李広(りこう) 中国 前漢
先祖に、秦の始皇帝時代の将軍李信がいる。
衛青霍去病以前の、漢の対匈奴戦で主要な役割を果たした。
史記に独立した列伝を立てられた勇将であり、弓の名手で、部下をよく愛した。
30年近く辺境を転戦して何度も匈奴軍を破り、匈奴に"漢の飛将軍"として恐れられた。
しかし、武帝が即位して、匈奴に対して漢が攻勢に出るようになると、李広はあまり勝利できなくなった。
ここのあたりの事情は 史 総合 漢対匈奴 に詳しく記している。
B.C.119年の衛青・霍去病が指揮した最後の攻勢のとき、度重なる屈辱と侮辱に耐えかね、李広は自ら首を刎ねて果てた。
詳細は 漢文 史記 李将軍列伝第四十九 李広の最期に記した。
その人柄の良さは皆に尊敬されていたので、老若男女を問わずその死を悲しんだという。
司馬遷は李広を評すに「桃李言わざれど下自ら蹊を成す」という言葉を用いた。
(参考:漢文 史記 李将軍列伝第四十九 太史公曰く-桃李言わざれど 下自ら蹊を成す-)

李広の孫に李陵がいる。

参考:
史 総合 漢対匈奴
漢文 史記 李将軍列伝第四十九 李広の最期
漢文 史記 李将軍列伝第四十九 太史公曰く-桃李言わざれど 下自ら蹊を成す-
alias,李将軍

李由(りゆう) 中国 秦
秦の始皇帝時代の重臣李斯の長男であり、中原の要衝三川郡の郡守に任じられていた。
陳勝呉広の乱が起きると、
陳勝は呉広を李由の守備する滎陽に派遣した。李由は滎陽を堅く守った。
陳勝は周章を起用して新たに一軍を編成した。
周章のもとには数十万の兵が集まり、
滎陽を越え、函谷関を突破し咸陽の50km手前まで迫った。
李由は呉広の攻撃を受けて動けなかった。
その間に、章邯が急造の開放刑徒の軍を率いて周章と戦い、粘る周章を3度破ってついにこれを自殺させた。
章邯は滎陽に進み、呉広を殺してその軍を率いていた将軍の田臧と激突してこれを破って戦死させ、
滎陽ならびに三川郡の叛乱を制圧した。

李由が叛乱制圧に関して働きが十分でなかったため、責任追及を受けることとなった。
父の李斯も高位にありながら叛乱を招いたことについて非難を受けた。
李斯は趙高との権力争いに破れ、ついに捕えられて処刑されることとなった。
李由は項羽・劉邦らと会戦し、敗れて斬首された。

参考:
漢楚斉戦記2 章邯の猛反攻
alias,


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