李広の最期
-李将軍列伝第四十九より-
I think; therefore I am!


サイト内検索

本文(白文・書き下し文)
大将軍・驃騎将軍大出撃匈奴。
広数自請行。
天子以為老、弗許。
良久乃許之、以為前将軍。
是歳元狩四年也。

広既従大将軍青撃匈奴。
既出塞。
青捕虜知単于所居。
乃自以精兵走之、
而令広并於右将軍軍、出東道。
東道少回遠、而大軍行水草少、
其勢不屯行。
広自請曰、
「臣部為前将軍。
今大将軍乃徙令臣出東道。
且臣結髪而与匈奴戦。
今乃一得当単于。
臣願居前、先死単于。」
大将軍青亦陰受上戒。
以為、
「李広老、数奇。
毋令当単于。
恐不得所欲。」
而是時公孫敖新失侯、
為中将軍従大将軍。
大将軍亦欲使敖与倶当単于。
故徙前将軍広。
広時知之、固自辞於大将軍。
大将軍不聴。
令長史封書与広之莫府曰、
「急詣部、如書。」
広不謝大将軍而起行、
意甚慍怒而就部。

引兵与右将軍食其合軍、出東道。
軍亡導、惑失道後大将軍。
大将軍与単于接戦、単于遁走。
弗能得而還、南絶幕、
遭前将軍・右将軍。
広已見大将軍、還入軍。
大将軍使長史持糒醪遺広、
因問広・食其失道状。
青欲上書報天子軍曲折。
広未対。
大将軍使長史急責広、
「之莫府対簿。」
広曰、
「諸校尉無罪。
乃我自失道。
吾今自上簿、至莫府。」
広謂其麾下曰、
「広結髪与匈奴大小七十余戦。
今幸従大将軍出接単于兵、
而大将軍又徙広部。
行回遠、而又迷失道。
豈非天哉。
且広年六十余矣。
終不能復対刀筆之吏。」
遂引刀自剄。
広軍士大夫、一軍皆哭。
百姓聞之、知与不知、無老壮、
皆為垂涙。
大将軍・驃騎将軍大いに出でて匈奴を撃つ。
広数ゝゝ自ら行かんことを請ふ。
天子以て老と為し、許さず。
良久しくして乃ち之を許し、以て前将軍と為す。
是の歳元狩四年なり。

広既に大将軍青に従ひ匈奴を撃つ。
既に塞を出づ。
青虜を捕へ単于の居る所を知る。
乃ち自ら精兵を以て之に走き、
而して広をして右将軍の軍を并せ、東道に出でしむ。
東道は少し回遠にして、大軍行くに水草少なく、
其の勢屯行せられず。
広自ら請ひて曰はく、
「臣の部は前将軍たり。
今大将軍乃ち徙して臣をして東道に出でしむ。
且つ臣結髪してより匈奴と戦ふ。
今乃ち一たび単于に当たるを得たり。
臣願はくは前に居り、先づ単于に死せん。」と。
大将軍青も亦陰に上の戒めを受く。
以為へらく、
「李広老ひて、数奇なり。
単于に当たらしむこと毋かれ。
恐らくは欲する所を得ざらん。」と。
而して是の時公孫敖新たに侯を失ひ、
中将軍と為りて大将軍に従ふ。
大将軍も亦敖をして与に倶に単于に当たらしめんと欲す。
故に前将軍の広を徙せり。
広時に之を知るも、固く自ら大将軍に辞す。
大将軍聴かず。
長史をして書を封じて広に与へ莫府に之かしめて曰はく、
「急に部に詣りて、書のごとくせよ。」と。
広大将軍に謝せずして起ち行き、
意甚だ慍怒して部に就く。

兵を引き右将軍食其と軍を合はせ、東道に出づ。
軍に導亡く、惑ひて道を失ひ大将軍に後る。
大将軍単于と接戦し、単于遁走す。
得ること能はずして還り、南して幕を絶り、
前将軍・右将軍に遭ふ。
広已に大将軍を見、還りて軍に入る。
大将軍長史をして糒醪を持ちて広に遺り、
因つて広・食其が道を失ひし状を問はしむ。
青上書して天子に軍の曲折を報ぜんと欲す。
広未だ対へず。
大将軍長史をして急に広を責めしむらく、
「莫府に之きて対簿せよ。」と。
広曰はく、
「諸校尉に罪無し。
乃ち我自ら道を失へり。
吾今自ら上簿して、莫府に至らん。」と。
広其の麾下に謂ひて曰はく、
「広結髪してより匈奴と大小七十余戦す。
今幸ひに大将軍に従ひ出でて単于の兵接せんとするも、
大将軍又広の部を徙せり。
行回遠にして、又迷ひて道を失ふ。
豈に天に非ずや。
且つ広は年六十余なり。
終に復た刀筆の吏に対する能はず。」
遂に刀を引きて自剄す。
広の軍の士大夫、一軍皆哭す。
百姓之を聞き、知ると知らざると、老壮と無く、
皆為に涙垂る。
参考文献:司馬遷史記V 権力の構造 徳間書店 国訳漢文大成 経子史部第十六巻 史記列伝下巻 東洋文化協会

現代語訳/日本語訳

大将軍衛青と驃騎将軍霍去病は、大軍を率いて匈奴を攻撃することとなった。
これに関して、李広はしばしば参戦を武帝に直訴した。
しかし、武帝は李広が年老いているとして、決して許さなかった。
だいぶ渋ってから、やっと武帝は李広の参戦を許し、これを前将軍(前衛)に任じた。
時に、元狩四年(B.C.119年)のことであった。

李広は大将軍衛青に従って匈奴攻撃に参加した。
長城を越えてからのことである。
衛青は捕虜を得て、単于の位置を知った。
そこで、自ら精兵を率いてそこに赴くことにし、
李広には右将軍趙食其の軍と合流して東の道に出るよう命じた。
東の道は、やや遠回りで、大軍がゆくには水や草が少なく、
その状況は、固まって行軍するのに向いていなかった。
李広は衛青にこのように直訴した、
「(皇帝からの命による)臣の部署は前将軍であります。
それなのに今、大将軍は臣の部署を変えて東の道に出るよう命じています。
しかも、臣は元服してからずっと匈奴と戦いつづけてきました。
今、やっと一たび単于と直接対決する機会を得たのです。
どうか、臣に前将軍として単于との直接対決に命をかけさせてください。」
しかし、衛青も武帝からこのような戒めを受けていた、
「李広は老いていて、占いの結果もよくない。
単于と直接対決させないように。
希望どおりの結果にならないかも知れぬ。」
そしてこのとき、諸侯の位を失ったばかりの公孫敖が中将軍となって衛青に従っていた。
(武帝が李広を単于と直接対決させたくなかったのと同様に)
衛青もまた、公孫敖を自分と一緒に単于と戦わせ(李広には助攻を命じ)たいと考えていた。
こういうわけで、前将軍であった李広の部署を変えたのであった。
この時、李広はその事情を知っていたが、
頑として衛青に直訴しつづけた。
しかし、衛青はこれを聴きいれなかった。
そして長史の者に、李広の陣営へ命令書を持って行かせた。
それにはこのように書かれていた、
「ただちに部署につき、命令書の通りに動くように。」
李広は衛青への返答をすることも無く立ち上がって行き、
怒りを溜め込んだまま部署についた。

李広は兵を引き、右将軍趙食其の軍と合流し、東の道に出た。
道案内がおらず、道に迷い、衛青の部隊に遅れをとった。
衛青の部隊は単于の部隊と接近戦を行い、
単于は敗れて逃走した。
しかし単于を捕らえることはできずに退却を始め、
南へ向かって砂漠を横切り、李広と趙食其の部隊に遭遇した。
李広は衛青の部隊を発見して、合流した。
衛青は長史の者にほしいいと濁酒をもたせて李広に送ると同時に、
両者が道に迷った状況の説明を求めた。
この時、衛青は上書して武帝に軍の戦闘の経過を報告しようと考えていたのだった。
しかし、李広は答えなかった。
衛青は長史の者にこう李広を厳しく責めさせた、
「私の陣営に来て質問に答えるように。」
李広はこう言った、
「校尉らに罪はありません。
ただ、私だけに道に迷った責任があります。
私は今から自分で報告書を作成して、大将軍の陣営に行くつもりです。」
その後、李広は麾下の者たちにはこう述べた、
「私は元服してから匈奴と大小七十余戦を戦ってきた。
今、幸いにも大将軍に従って出兵し、単于の兵と直接対決する機会を得ようとしたが、
大将軍は私の部署を変えられてしまった。
そのため、行程が遠回りとなり、その上、道にも迷った。
これが、天意でないことがあろうか、いや、天意であろう。
しかも私はもう60歳を越えている。
もはや、小役人の質問に答えることなどできぬ。」
こうしてとうとう李広は刀を抜いて自ら首をはねた。
李広の軍では、士大夫をはじめ、一軍の者皆が声をあげて泣き悲しんだ。
民衆も李広の死を聞いて、知っている者も知らない物も、
老人も若者も、皆その死を悲しんで涙を流した。


解説

大将軍・驃騎将軍大出撃匈奴。広数自請行。天子以為老、弗許。
だいしやうぐん・へうきしやうぐんおほいにいでてきようどをうつ。くわう(こう)しばしばみずからゆかんことをこふ。てんしもつてらうとなし、ゆるさず。

「数」は"しばしば"
「以為」は"〜と思う"。「―を以て〜と為す」の略。
「弗」は"不"の意味が強調されたもの。

大将軍とは、衛青(えいせい)のこと。
奴隷だったが、姉が漢の武帝の寵愛を受けるようになったことから出世の道が開けた。
驃騎将軍とは、霍去病(かくきょへい)のこと。
衛青の甥で、君寵と戦功により出世を果たした。
「広」は、李広のこと。
匈奴との戦いで活躍し、匈奴に「漢の飛将軍」として恐れられた。
この列伝は、この李広のことを述べたものである。


良久乃許之、以為前将軍。是歳元狩四年也。
ややひさしくしてすなはちこれをゆるし、もつてぜんしやうぐんとなす。このとしげんしふ(げんしゅう)よねんなり。

「良(やや)」は"非常に"。
ここでの「乃」は、ほぼ意味が無い。
また、ここでの「為」は"任じる"。
「前将軍」は"前衛部隊を率いる将軍"。


広既従大将軍青撃匈奴。既出塞。青捕虜知単于所居。
くわうすでにだいしやうぐんせいにしたがひきようどをうつ。すでにさいをいづ。せいりよをとらへぜんうのをるところをしる。

「既に〜」という表現は状況を説明する表現である。
「塞」は"長城"、匈奴の侵入を防ぐために作られた防壁である。
「単于」は匈奴の君主のことをさす。


乃自以精兵走之、而令広并於右将軍軍、出東道。東道少回遠、而大軍行水草少、其勢不屯行。
すなはちみずからせいへいをもつてこれにおもむき、しかしてくわうをしてうしやうぐんのぐんをあはせ、とうだう(とうどう)にいでしむ。
とうだうはすこしくわいゑん(かいえん)にして、たいぐんゆくにすいさう(すいそう)すくなく、そのせいとんかう(とんこう)せられず。

ここでの「乃」は"そこで"。
「令」は使役の形。
「回遠」は"遠回り"。
「勢」は"状況・時機"。
「屯行」は"集団で行くこと"。

このとき従軍していたのは、
前将軍李広、左将軍公孫賀、右将軍趙食其(ちょういき)、後将軍曹襄、中将軍公孫敖であった。


広自請曰、「臣部為前将軍。今大将軍乃徙令臣出東道。
くわうみずからこひていはく、「しんのぶはぜんしやうぐんたり。いまだいしやうぐんすなはちちうつしてしんをしてとうだうにいでしむ。

「為(た-リ)」は"〜である"。
訓読するときには、「たり」が助動詞であるため、ひらがなで書く。
「今」は逆説的な意味を含んでいる。
「徙」は"移す"。


且臣結髪而与匈奴戦。今乃一得当単于。臣願居前、先死単于。」
かつしんけつぱつ(けっぱつ)してよりきやうどとたたかふ。いますなはちひとたびぜんうにあたるをえたり。臣願はくは前に居り、先づ単于に死せん。」と。

「且」は"また"といった並列の意味とか"そのうえ"といった添加の意とかがある。
「結髪(けっぱつ)」は"元服して冠を被る"。
ここでの「乃」は"やっと"という意味。
「与〜」は"〜と"。
「得」には、背後に"機会を得る"という意味が含まれている。
「死」は"命を捨てる"。


大将軍青亦陰受上戒。以為、「李広老、数奇。毋令当単于。恐不得所欲。」
だいしやうぐんせいもまたひそかにしやう(しょう)のいましめをうく。おもへらく、「りくわうおひて、すうきなり。ぜんうにあたらしむことなかれ。おそらくはほつするところをえざらん。」と。

「上(しょう)」は武帝のことを指している。
「陰」は"ひそかに"。
「以為」の「為」は、ここでは"思う・みなす"の意であろう。
訓読では文を分けているが、実際は、
「大将軍青亦陰受上戒」と「上(戒)以為〜」というように、
"上戒"は和歌における掛詞のように、前後の文の両方にかかっているとみなすのがよかろう。
こういうのを兼語式の文であるといったりする。
「数奇」は占いの結果がよくないということを言う。
「毋」は禁止の意。
「恐」は"〜かもしれない"。
「不得所欲」は、"敗れる"ということの遠回りな表現である。


而是時公孫敖新失侯、為中将軍従大将軍。大将軍亦欲使敖与倶当単于。故徙前将軍広。
しかしてこのときこうそんがう(こうそんごう)あらたにこうをうしなひ、ちうしやうぐんとなりてだいしやうぐんにしたがふ。
だいしやうぐんもまたがうをしてともにともにぜんうにあたらしめんとほつす。ゆゑにぜんしやうぐんのくわうをうつせり。

「新」は"最近・〜したばかり"とかいった意味。

公孫敖は、この二年前、驃騎将軍霍去病と、
河西回廊の匈奴を攻撃する作戦に参加していたのだが、道に迷ってしまった。
おそらくこのために諸侯の位を失ったのであろう。
ちなみに、この時は霍去病が独力で捕虜・戦死あわせて30000以上の戦果を上げた。
また、衛青は公孫敖に恩があった。
だから、衛青は、公孫敖といっしょに単于と戦って、
これに功績を挙げさせようと考えたのである。


広時知之、固自辞於大将軍。大将軍不聴。令長史封書与広之莫府曰、「急詣部、如書。」
くわうときにこれをしるも、かたくみづからだいしやうぐんにじす。だいしやうぐんきかず。ちやうし(ちょうし)をしてしよをふうじてくわうにあたへばくふにゆかしめていはく、「きふにぶにいたりて、しよのごとくせよ。」と。

「時(とき-ニ)」は"当時・その時"。
「辞」は"断る"。
「聴」には、"許す"というニュアンスも含まれる。
「長史」は将軍などに付く属官。
「封書」に関して、
古代中国では文章を木簡や竹簡に書いてひもで閉じ、
そのひもを封泥といわれる泥で固めて印を押し、他人に空けられないようにしていた。
「莫府」は"将軍の陣営・幕営"。
「詣」は"行く"、「神社を詣でる」などのときに使う文字である。


広不謝大将軍而起行、意甚慍怒而就部。
くわうだいしやうぐんにしやせずしてたちゆき、いはなはだうんどしてぶにつく。

「謝」は"挨拶する"。
「慍」は"不満をもつ"。


引兵与右将軍食其合軍、出東道。軍亡導、惑失道後大将軍。
へいをひきうしやうぐんいきとぐんをあはせ、とうだうにいづ。ぐんにだう(どう)なく、まどひてみちをうしなひだいしやうぐんにおくる。

「導」は"道案内"。


大将軍与単于接戦、単于遁走。弗能得而還、南絶幕、遭前将軍・右将軍。
だいしやうぐんぜんうとせつせんし、ぜんうとんそうす。うることあたはずしてかへり、みなみしてばくをわたり、ぜんしやうぐん・うしやうぐんにあふ。

「遁走」は"逃走"。
「還」は"帰る"。
「幕」は"砂漠"。


広已見大将軍、還入軍。大将軍使長史持糒醪遺広、因問広・食其失道状。青欲上書報天子軍曲折。
くわうすでにだいしやうぐんをみ、かへりてぐんにいる。だいしやうぐんちやうしをしてひらうをもちてくわうにおくり、よつてくわう・いきがみちをうしなひしじやうをとはしむ。
せいじやうしよしててんしにぐんのきよくせつをはうぜんとほつす。

「糒」は"かれいい"。
「醪」は"濁酒"。
「遺」は"送る"。
「因」は"乗じて・すぐに・同時に"など。
「状」は"状況"。
「天子」は武帝のこと。
「曲折」は"複雑な事情"、紆余曲折(うよきょくせつ)という言葉がある。


広未対。大将軍使長史急責広、「之莫府対簿。」
くわういまだこたへず。だいしやうぐんちやうしをしてきふ(きゅう)にくわうをせめしむらく、「ばくふにゆきてたいぼせよ。」と。

「未(いま-ダ〜ず)」は否定の意味の再読文字。
「対」は目上の人に答えるときに使われる。
「対簿」は"質問・尋問に答える"、「簿」が"役人の扱う文章"である。


広曰、「諸校尉無罪。乃我自失道。吾今自上簿、至莫府。」
くわういはく、「しよかうゐ(こうい)につみなし。すなはちわれみづからみちをうしなへり。われいまみづからじやうぼして、ばくふにいたらん。」と。

「校尉」は「将軍」の下の武官。
ここの「乃」は"ただ・〜だけ"のような限定の意味。


広謂其麾下曰、「広結髪与匈奴大小七十余戦。今幸従大将軍出接単于兵、而大将軍又徙広部。
くわうそのきかにいひていはく、「くわうけつぱつしてよりきようどとだいせう(だいしょう)しちじふよせんす。
いまさいはひにだいしやうぐんにしたがひいでてぜんうのへいにせつせんとするも、だいしやうぐんまたくわうのぶをうつせり。

「麾下」は"部下"。
「幸(さいは-ヒ)」は"幸いに・幸運にも"。


行回遠、而又迷失道。豈非天哉。且広年六十余矣。終不能復対刀筆之吏。」
こうくわいゑんにして、またまよひてみちをうしなふ。あにてんにあらずや。かつくわうはとしろくじふよなり。つひにまたたうひつのりにたいするあたはず。」

「又」は"さらに"。
「豈〜哉(あ-ニ〜や)」は"どうして〜であろうか、いや〜でない。」という反語の形。
「不能復」は[否定語]+[副詞]の形であるから、部分否定であり、
"(まえにはできたが)再びは〜できない"ということになる。
「能」は可能の意味を表す。
「刀筆之吏」は"書記官"のような意でもあるが、
"小役人"といった軽蔑的響きもある。


遂引刀自剄。広軍士大夫、一軍皆哭。百姓聞之、知与不知、無老壮、皆為垂涙。
つひにかたなをひきてじけいす。くわうのぐんのしたいふ、いちぐんみなこくす。ひやくせいこれをきき、しるとしらざると、らうさう(ろうそう)となく、みなためになみだたる。

「遂」は"とうとう・遂に"。
「剄」は"首をはねる"。
「士大夫」に関して、古代中国では貴族には上から順に「卿」「大夫」「士」と言う順番があり
そう呼称されていたが、ここでは単に"将校"くらいの意味であろう。
「哭」は"声をあげて泣く"だが"哭礼をする"という意味もある。
「百姓」は日本では"農民"という意味で(ひょくしょう)と読まれるが、
漢文の世界におけるや"民衆"という意味で(ひゃくせい)と読まれる。
「無AB(ABと無く)」というパターンは「無A無B(Aと無くBと無く)」と同じで、"AやBに関係なく"という意味。


総括

李広は、司馬遷より少し早い時代の人であるが、年代は重なっているところもある。
「漢の飛将軍」と呼ばれて、匈奴に恐れられた勇将であり、
かつ人格も多くの人に慕われていた。
司馬遷の李広に対する評価に関しては
史記 李将軍列伝第四十九 太史公曰く-李広評-がある。



戻る
Top