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公孫敖(こうそんごう) 中国 前漢
漢の武帝に仕えた将軍。
衛青の友人で、衛青が館陶長公主邸に拉致されたとき、これを救出した。
B.C.129年、武帝が劉邦の白頭山における敗北以来の匈奴に対する遠征を命じると、
公孫敖は騎将軍として1万の兵を預けられ、代から出撃するも敗走し、その責任を問われ、平民に格下げされた。
このとき、衛青だけが長城を越えて、200キロほど北上し、単于と部族長の会議や祭祀が行われる籠城を襲って数百名の損害を与えた。
B.C.124年、朔方郡(オルドス)を圧迫する匈奴を打つため、
衛青は兵力3万人を率いて朔方から出撃し、公孫敖はその校尉として従軍した。
衛青はは北のかた300Km前進し、匈奴の右賢王の本営を夜襲して包囲した。
まったく油断していた右賢王麾下の匈奴軍は崩壊し敗走、降伏した匈奴人は1万5000名、
鹵獲した家畜は数十万から百数十万にもなり、右賢王は妻とわずかな手勢のみをつれて逃走した。
この功により衛青は大将軍に昇任し、領邑6000戸を加増され その部下や子供にも褒賞が与えられた。
平民に落とされていた公孫敖も、衛青に従って立てた功により、合騎侯に封じられた。

翌B.C.125年、衛青に従い中将軍(本隊)として単于庭と呼ばれる単于の本営を目指して攻勢にでたが大きな戦果はなかった。
一ヶ月余り後、再び全軍出撃して匈奴の攻撃をはかった。殺害と捕虜合わせて1万の戦果を上げた。

B.C.121年、霍去病が驃騎将軍に任じられ、一万の兵を率い隴西より出撃した。
休屠王を襲い、焉支山を経由して渾邪王を破り、その王子を捕らえ酒泉にまで至った。
匈奴軍は約8000人の損害を出したが、漢軍の損害はわずかなものだった。
同年の夏、再び攻勢を発動した。 当初の予定では、公孫敖が河西回廊の正面を突き、
霍去病が武威・居延を経て河西回廊の裏口から攻撃をかけ、挟撃するということになっていたが、
公孫敖が道に迷ってしまったため、この作戦は破綻した。
このため、公孫敖は再び平民に格下げとなった。
このとき霍去病は単独で休屠王と渾邪王の部族を攻め、油断を突いて捕虜・戦死あわせて30000以上の戦果を上げた。

B.C.119年、武帝は匈奴との決戦を企図し、1年の準備の後20万の兵で匈奴を攻めた。
公孫敖は校尉として衛青に従ったが軍功は挙げられなかった。

B.C.105年、受城城を築城した。
B.C.98年、匈奴を攻撃したが兵の死傷が多く、斬罪を宣告されたが、死んだと偽って5年ほど隠れていた。
後に捕えられ、妻の罪に連座して処刑された。

参考:
史 総合 漢対匈奴


alias,無し

項梁(こうりょう) 中国 秦
楚の将軍項燕(こうえん)の子。項羽の叔父であるが、項羽を育てた。
秦の時代は市井に暮らしていたが、秦の獄吏(法律万能の秦代には有力な官僚であったと考えられる)曹咎とつながりがあり、
その上司である司馬欣によって助命されたことがある。
その後、殺人を犯し、復習を避けて会稽郡の呉に項羽とともに移住し、地下で実力を扶植した。

陳勝呉広の乱(参考:漢楚斉戦記1 陳勝・呉広の乱)が起きると、 会稽郡守を殺害し、挙兵した。
陳勝が秦の章邯に敗れて死亡した後、その使者召平(しょうへい)は呉に赴き、陳勝の命と偽って、 項梁を上柱国(じょうちゅうこく・令尹(宰相)に次ぐ位)に任じ、秦を討つよう命じた。
これを受けた項梁は精兵8000人を率いて長江を渡り北上した。
楚の名門である項氏へ輿望は大きく、淮水を超えて下邳(かひ)に至るころには黥布なども合流し、その兵力は6,7万人にまで拡大していた。
項梁は彭城に向かい、独自に楚王を擁立していた秦嘉(しんか)と対峙した。
項梁は陳勝の上柱国としての立場から、秦嘉が勝手に楚王を擁立したことを否定し、 秦嘉と戦ってこれを打ち破り、その軍を配下に収めた。
次第に、陳勝が死んだことは間違いないと判明してきたので、項梁は薛に諸将を集めて会議を行った。
会議に馳せ参じた范増の進言により、項梁は楚王の後裔を立てることとし、懐王を擁立した。
項梁自体は、この会議を主催することにより、楚国内での主導権を確立し、自ら武信君と号した。
また、劉邦と会見し、劉邦を配下に収め、5千の兵と10人の将校を与えた。

章邯は、陳勝を破った後、魏と斉を破って両王を死に至らしめ、さらに斉軍を追撃して、残兵を率いる斉の先王の弟田栄(でんえい)を東阿の地で包囲した。
項梁は東阿に向かい、章邯と戦いこれを破った。さらに追撃し、濮陽(ぼくよう)で再度章邯を破った。
章邯は兵をまとめて濮陽を堅く守らせ、本国からの増援を待った。
項梁は秦の増援を見て田栄にも出兵を促したが、田栄は楚に亡命した田仮を殺すよう要求し、懐王がこれを拒んだため、田栄は兵を出さなかった。
この間に、項羽に別働隊を率いさせ、項羽は1城を下し、さらに定陶(ていとう)を攻撃した。
定陶は守りが堅いため、項羽は西に向かい、三川郡守の李由と戦って大破し、李由を斬った。
その後、項梁は自ら定陶を攻めてこれを抜いた。
連戦連勝の項梁は油断の気配があった。
この間に秦は兵力を総動員して章邯に増援した。章邯は強化された軍を率い、定陶を夜襲した。楚軍は大敗し、軍の主力を喪失し、さらに大黒柱である項梁も戦死した。

参考:
史 総合 漢楚斉戦記1 陳勝・呉広の乱
史 総合 漢楚斉戦記2 章邯の猛反攻


alias,武信君

呉起(ごき) 中国 春秋戦国時代
中国の春秋戦国時代の将軍・兵法家であり、兵法書「呉子」で知られる。

呉起は、孔子の弟子の曾参(またはその子の曾申)について学んだが、母の葬式に参列しなかった為破門された。 初めは魯に仕えたが重く用いられず、その次は魏に仕えた。

当時、魏都(後の魏の文侯)が人材を集め、魏が強勢となっていた。 兵士とともに生活し、兵士の膿を自ら吸って除いたりしたため、 人望が高く、また兵法にも長けていた。 西河の太守に任じられ、秦と韓に備え、しばしば秦軍を破った。

文侯の死後、そのまま武候に使えた。 紀元前378年には、斉の喪中に乗じて、 魏・趙・韓が呉起らを将として斉を攻撃し霊丘で破った。

宰相に公叔がつくと、公叔は呉起を嫌っていたため、 策をもって武候の不興を買うように仕向けた。 危険を悟った呉起は魏を出奔した。

その後、呉起は楚の悼王に仕え、令尹(宰相)として法令の明確にし、 不急の官職を廃して疎遠な公族のリストラを実施し、それを財源に軍の強化に充てた。 しかし、悼王はほどなく死去し、呉起に反発する公族は乱を起こして呉起を攻めた。 呉起は悼王の屍に覆いかぶさった。 呉起は射殺され、その矢は悼王に及んだ。 粛王は即位すると、悼王に矢を射たものを誅殺した。

参考:
秦史3 一進一退の春秋後期



告子(こくし) 中国 戦国
名前は不害。中国戦国時代の学者と考えられる。
しばしば孟子の論争の相手として、「
孟子」の中に出てくる。


参考:
孟子 性善


alias,告不害

呉広(ごこう) 中国 秦
陳勝とともに挙兵して、陳勝・呉広の乱と言われる反乱を起こし、
都尉(将軍の下)となった。(参考:十八史略 燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや)
後、仮王となり、滎陽を包囲したが、なかなか下せず、
陳勝が秦攻撃に送った周章が秦将章邯に大敗すると、
呉広の無能によって敗れることを恐れた将軍田臧らに謀られ、殺された。

参考:
十八史略 燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや
漢楚斉戦記1 陳勝・呉広の乱



呉佩孚(ごはいふ) 中国 近代
1874年生まれ。北洋軍閥で頭角を現す。北洋軍閥内では、馮国璋に従った。
1918年北洋軍閥内では馮国璋が段祺瑞によって失脚させられ、翌年死去した。
馮国璋の勢力を継承した呉佩孚(ごはいふ)らは
張作霖と結び、1920年7月、段祺瑞と開戦した。
戦闘は張作霖が援軍を送ったことで呉佩孚らが勝利し、段祺瑞はその兵力を喪失して失脚した。(直皖戦争
呉佩孚はその後張作霖らとの対立を深めていった。
1922年2月、孫文と張作霖が結び、孫文が北伐の宣言を発して北上する一方、
同年4月、張作霖が山海関を越えて関東に入り、呉佩孚と開戦した。
呉佩孚は張作霖を破り、張作霖を満州に撤退させた。
また、当初孫文に従っていた南方の軍閥陳炯明と結び、陳炯明は孫文を攻撃させた。
孫文は北伐軍を南下させたものの、陳炯明に敗れて上海に去った(第一次直奉戦争)。
この結果、呉佩孚は中央の権力を掌握するに至った。
これに対して、1924年9月、張作霖と再び戦うこととなり、山海関を争奪した(第二次奉直戦争)。
そんな中、呉佩孚は配下の馮玉祥に叛かれ、挟撃された呉佩孚はあえなく敗走し北京から追われることとなった。(北京政変

その後、呉佩孚の配下にいた孫伝芳(そんでんほう)が張作霖に対抗した闘争を開始して東南5省を支配するようにると、
呉佩孚自身もこの機に乗じて再起し、張作霖と結んで馮玉祥を討とうとした。
状況は馮玉祥に不利となり、馮玉祥は一時下野した。
この間に、呉佩孚は北方への勢力拡大を図ったが、1926年6月、国民党が蒋介石を総司令官として北伐を開始すると、最初の標的とされ、8月には長沙を占領された。
呉佩孚は急ぎ南下したものの、国民党軍に破れ再起不能に陥った。
その後は、張学良に保護されるなどし、1939年に死去した。

参考:
中国近代戦史2 袁世凱と軍閥
中国近代戦史3 国民党の隆盛・第一次国共合作
中国近代戦史4 北伐




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