中国近代戦史2
袁世凱と軍閥
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袁世凱の時代

 袁世凱はその軍事を背景に参議院や内閣を支配した。さらに、南方の革命派の軍隊を削減し、北洋軍を強化した。これに対し、革命派は1912年8月、孫文を理事長、宋教仁を代理知事長とする国民党を組織して、国会選挙において多数派となることで袁世凱に対抗しようとした。1912年末から1913年初に行われた中国初の国会選挙において国民党は大勝した。袁世凱は、国民党を実質的に指導している宋教仁の懐柔を図ったが、宋教仁はこれに乗らず、1913年3月袁世凱は宋教仁を暗殺し、国民党の弾圧を開始した。孫文らは南方の各省に檄文を発し、1913年7月袁世凱討伐のため決起した(第二革命)が、袁世凱はこれを各個に鎮圧し、袁世凱の力は確固たるものとなった。

 第二革命の失敗後、孫文らは海外への亡命を余儀なくされた。孫文は1913年9月には東京で中華革命党の組織を開始した。孫文は中華革命党入党に当たっては、自らの力を確立するため、孫文本人への絶対服従を書面で誓約させた。革命派の元老が入党を拒否する中、中堅の陳其美(ちんきび)らが総務部長について党務を取り仕切り、その直系部下の蒋介石も党内で頭角を現すようになった。

 1914年7月、第一次世界大戦が勃発した。同年8月、日本は日英同盟に基づきドイツに宣戦布告し、ドイツが権益を持つ山東半島の青島を占領し、10月までには赤道以北のドイツ領の南洋諸島をすべて占拠した。戦後これらの南洋諸島は国際連盟によって委任統治領として日本が獲得した。1915年1月、日本は袁世凱に対して、二十一か条の要求を突き付けた。その内容は主に、ドイツ権益の継承、日露戦争によって得られた関東州の租借権および鉄道利権の延長、中国の官営製鉄企業(漢冶萍公司)の経営権取得、中国近海の他国への租借割譲の禁止、中国政府における日本人顧問の任用などであった。これは中国民衆及び列強の反発を生み、特に米英と日本の関係が悪化した。

 1915年12月、袁世凱は自ら中華帝国皇帝となることを宣言した。これに対して、雲南省を皮切りに各省が独立を宣言して袁世凱打倒のために武装蜂起した(第三革命)。これに呼応して孫文は中国に戻った。列強も帝政復活に反対し、内外の強烈な反対を受けて1916年3月、袁世凱は帝政の取り消しを表明し、6月には病死した。この過程で、北洋軍閥の支配力が全土に及ばなくなり、各地の有力者が軍閥として割拠する時代に突入した。雲南省で袁世凱に対して独立を宣言した唐継尭(とうけいぎょう)、袁世凱に任じられた広西省の都督であったが江西省の独立を宣言した陸栄廷(りくえいてい)、同じく袁世凱に任じられた山西省の都督であったが中立の立場をとり力を蓄えた閻錫山(えんしゃくざん)、馬賊の頭目から満州全土を支配するに至った張作霖などが代表格である。また、陳其美が暗殺されたため、蒋介石が孫文の部下として活躍するようになった。


軍閥の時代

 袁世凱の死後は、黎元洪が総統となった。黎元洪は北洋軍閥出身ではなく、自前の軍事力を持たなかったうえ、武昌起義で反乱軍の指揮官であったため、受け入れられやすかったのである。北洋軍閥内で最も力を持っていたのがもと陸軍総長であった段祺瑞であり、馮国璋も直隷を中心に一定の力を有していた。段祺瑞が国務総理、馮国璋が副総統となり、実権は段祺瑞が握った。段祺瑞は日本と接近することを選び対独参戦を決定したが、傀儡たるを良しとしない黎元洪は参戦に反対し、「府院の争い」と呼ばれる対立が激化した。1917年5月、黎元洪は段祺瑞を罷免する命令を下したが、段祺瑞は軍を動かして黎元洪を圧迫した。追い詰められた黎元洪は徐州に割拠していた張勲(ちょうくん)に調停を要請した。清の忠臣を自認する張勲はこれを清朝復活の好機と考え、北京に入り国会を解散して、宣統帝溥儀を擁立して清朝復活を宣言したが、たちまち段祺瑞によって鎮圧され、黎元洪は総統を辞任し、段祺瑞が国務総理として実権を握った。

 段祺瑞は国会を復活させず、武力で南方の軍閥を制圧して統一を図ろうと考えた。これに対し、孫文は国会の復活と、かつて袁世凱の権力を制限するため定めた臨時約法を遵守するよう求める「護法運動」を起こし、これを拒絶した段祺瑞と対立した。1917年秋、孫文は海軍と元議員の支持を受け広州に護法軍政府を樹立し、大元帥となって北伐を主張した。北洋軍閥内では、講和を主張する馮国璋が段祺瑞と対立するようになり、南方の軍閥の唐継尭・陸栄廷は馮国璋を支持してあくまで北伐を主張する孫文の力を抑えようとした。1918年5月、孫文は大元帥の位から降ろされ、広州を去った。この間に、孫文は広東省の20個警備大隊を直轄兵力として手に入れた。陳炯明(ちんけいめい)が指揮官、蒋介石が作戦参謀であった。

 一方、1918年北洋軍閥内では馮国璋が段祺瑞によって失脚させられ、翌年死去した。馮国璋の勢力を継承した呉佩孚(ごはいふ)らは張作霖と結び、1920年7月、段祺瑞と開戦した。戦闘は張作霖が援軍を送ったことで呉佩孚らが勝利し、段祺瑞はその兵力を喪失して失脚した。(直皖戦争

 このころ、第一次世界大戦が終結し、ヴェルサイユ条約が結ばれた。ロシアでは大戦中に革命がおこり1921年のソビエト連邦成立につながった。朝鮮では1919年3月1日、日本からの独立を目指した三・一運動が起こり、以後、独立を目指した武力闘争が続けられた。中国もパリ講和会議に代表を派遣し、二十一か条の要求の撤廃を主張したが、受け入れられず、1919年5月4日の北京大学の学生を中心とした抗議集会から抗議運動が拡大した(五・四運動)。これをうけ孫文は1919年中華革命党を発展的に解消し、国民政党である中国国民党を設立した。1921年には、レーニンが指導する共産主義運動支援組織コミンテルンの支援のもと陳独秀が中国共産党を設立した。

 1920年、陳炯明は広東省を制圧し、孫文を広州に迎えた。陸栄廷は対抗して広東省に出兵したが、陳炯明はこれを破り陸栄廷は力を失った。陳炯明は徐々に軍閥化の傾向を示し、蒋介石はその参謀の職を辞した。1922年2月、孫文は張作霖と結び、北伐の宣言を発して北上した。同年4月、張作霖は山海関を越えて関東に入り、呉佩孚と開戦したが、張作霖は敗れて満州に撤退した(第一次直奉戦争)。この間に、陳炯明は呉佩孚らと結び、孫文への補給を絶った。孫文は陳炯明を罷免したが、陳炯明は軍事力を以て広州を保持した。この情勢を受けて孫文は広州に帰ったが、陳炯明の急襲を受けて軍艦(後に中山艦と呼ばれるようになる)に避難を余儀なくされた。北伐軍を南下させたが敗れ、孫文は上海に去った。



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