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段祺瑞(だんきずい) 中国 近代
袁世凱の北洋新軍で頭角を現した将軍である。 辛亥革命では、武漢の革命軍鎮圧に派遣されたが、 袁世凱の意を受けて、革命派との交戦を抑制した。 宣統帝(溥儀)の退位と共和政への賛成と引き換えに、袁世凱が臨時大総統に選ばれることを確保すると、 段祺瑞は袁世凱の意を受けて北洋新軍の軍事力を背景に清朝を脅迫し、宣統帝を退位に追いやった。 その後、段祺瑞は中華民国初代陸軍総長となった。

袁世凱の死後は、黎元洪が総統となった。段祺瑞は、北洋新軍から生じた北洋軍閥内で最も力を持っていた。馮国璋も直隷を中心に一定の力を有していた。段祺瑞が国務総理、馮国璋が副総統となり、実権は段祺瑞が握った。段祺瑞は日本と接近することを選び対独参戦を決定したが、傀儡たるを良しとしない黎元洪は参戦に反対し、「府院の争い」と呼ばれる対立が激化した。1917年5月、黎元洪は段祺瑞を罷免する命令を下したが、段祺瑞は軍を動かして黎元洪を圧迫した。追い詰められた黎元洪は徐州に割拠していた張勲(ちょうくん)に調停を要請した。清の忠臣を自認する張勲はこれを清朝復活の好機と考え、北京に入り国会を解散して、宣統帝溥儀を擁立して清朝復活を宣言したが、たちまち段祺瑞によって鎮圧され、黎元洪は総統を辞任し、段祺瑞が国務総理として実権を握った。

段祺瑞は国会を復活させず、武力で南方の軍閥を制圧して統一を図ろうと考えた。これに対し、孫文は国会の復活と、かつて袁世凱の権力を制限するため定めた臨時約法を遵守するよう求める「護法運動」を起こし、これを拒絶した段祺瑞と対立した。1917年秋、孫文は海軍と元議員の支持を受け広州に護法軍政府を樹立し、大元帥となって北伐を主張した。北洋軍閥内では、講和を主張する馮国璋が段祺瑞と対立するようになり、南方の軍閥の唐継尭・陸栄廷は馮国璋を支持してあくまで北伐を主張する孫文の力を抑えようとした。1918年5月、孫文は大元帥の位から降ろされ、広州を去った。

一方、1918年北洋軍閥内では段祺瑞が馮国璋を失脚させた。馮国璋は翌年死去し、その勢力を継承した呉佩孚(ごはいふ)らは張作霖と結び、1920年7月、段祺瑞と開戦した。戦闘は張作霖が援軍を送ったことで呉佩孚らが勝利し、段祺瑞はその兵力を喪失して失脚した。(直皖戦争

その後、1924年の第二次奉直戦争で、馮玉祥が呉佩孚に叛き(北京政変)、呉佩孚は北京を離れ、溥儀は紫禁城から追われた。このとき、馮玉祥は孫文に北京に来るよう要請し、段祺瑞が形式上執権となったが、すでに実質的な力はなかった。 1936年に死去した。
参考:
中国近代戦史1 清の盛衰
中国近代戦史2 袁世凱と軍閥
中国近代戦史3 国民党の隆盛・第一次国共合作

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