中国近代戦史1
清の盛衰
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清の盛衰

 中国東北地方にいた女真族は、ヌルハチのもと中国東北地方(満州)を平定し1616年、後金国を建国した。ヌルハチを継いだホンタイジは1635年内モンゴルのチャハルを攻略し、翌1636年国号を清と改めた。1644年に農民反乱のリーダー李自成が北京を攻略し、明を滅亡させた。このとき、長城で清に対峙していた明の将軍呉三桂は清に投降し、長城の東端の要衝山海関を明け渡した。清は李自成を破り、その後1661年に康熙帝が即位するころには概ね中国全土を平定していた。康熙帝から雍正帝・乾隆帝までの約130年間清は隆盛を誇った。

 19世紀に入ると、清も徐々に衰退し、それに乗じて欧米列強は中国への進出を企てた。1840年に始まったアヘン戦争でイギリスに清が敗れると、1842年の南京条約を皮切りに続々と不平等条約が結ばれた。そんな中、1851年には太平天国の乱が起こり、中国南部を席巻した。太平天国は1853年には南京を攻略し、北伐の軍を向けた。しかし、1855年天津近郊に迫った北伐軍は清の登用したモンゴル人将軍の前に破れ、太平天国の膨張は停止した。しかしながら1856年には英仏との間にアロー戦争が始まり、清はこれにも破れ、中国の半植民地化が進展していった。

 中国国内では、無力な清の正規軍に代わり、漢人の義勇軍が各地で結成され、太平天国との戦闘の表に立った。アロー戦争後は欧米列強も太平天国鎮圧に加わり、1864年太平天国は滅んだ。この一連の経過の中で清の朝廷は力を失い分権化が進むとともに、太平天国鎮圧に活躍した漢人の曽国藩・李鴻章・左宗棠(さそうとう)などが政治の中枢に進出し、海軍の建設(李鴻章の北洋艦隊など)や近代的産業の育成を目指した洋務運動を推進した。


近代化の波

 一方、日本でもアヘン戦争・アロー戦争における清の敗北と、その後の経過は衝撃をもって受け止められていた。危機感を抱いた者たちは、西欧列強に対抗すべく、政治・軍事・社会・産業など広範な領域における近代化を推進し、1868年江戸幕府を倒して天皇を中心とした新たな国家を樹立した(明治維新)。明治維新後、国力を増強した日本は、西欧列強と同様、大陸に対する進出を目指すようになった。

 1894年、朝鮮で甲午農民戦争が起こると、朝鮮への進出を競っていた日本と清の間で日清戦争が勃発した。日本は野津道貫(のづみちつら)率いる第五師団が7月28日の成歓の戦い・9月15日の平壌の戦いに勝利し、海上でも伊東祐亨(いとうゆうこう)率いる連合艦隊が清の北洋艦隊を9月17日の黄海会戦で撃破した。山縣有朋率いる第1軍は10月25日鴨緑江を渡河して清へ攻め入った。一方11月21日には大山巌率いる第2軍が旅順を攻略した。(乃木希典は旅団長として攻略に参加した。)翌1895年2月には北洋艦隊の残存艦が逃げ込んでいた威海衛に対して水雷艇隊が突入し、北洋艦隊を壊滅させた。こうして日清戦争は近代化と訓練で勝る日本の圧勝に終わった。その結果結ばれた下関条約によって、清は朝鮮に対する宗主国の立場を放棄し、台湾・遼東半島(その後三国干渉で返還された)・澎湖諸島を割譲し、国家財政収入の3年分に相当する賠償金を支払い、新たな通商港を開放し工場経営を認めることとなった。これにより、洋務運動は挫折し、清の半植民地化が大きく加速した。

 日清戦争の敗北は清朝内部でも軍隊の近代化が必要だと痛感させた。1895年10月、李鴻章の配下にいた袁世凱が登用されて、近代的軍隊の訓練が始められた。また、日清戦争の敗北を受けて、中国の知識人の間では2000年来の皇帝専制政治を否定し、立憲政治と西洋的学問の導入を図る変法運動が高揚した。康有為(こうゆうい)・梁啓超(りょうけいちょう)らが中心人物であり、若い光緒帝に上書して改革を訴えた。光緒帝はこれを聴き、1898年6月、明定国是の勅令を発布して、康有為・梁啓超らに戊戌(ぼじゅつ)の変法と言われるようになる改革を始めさせた。しかし、改革の内容が急進的であったため既得権益層の反発は大きく、同年9月前帝の母西太后を旗印としてクーデターを起こし、光緒帝を幽閉して変法派を一掃した(戊戌の政変)。袁世凱は当初変法に好意的だったが、政変においては西太后の側につき、その歓心を買った。

 戊戌の政変と同時期、「扶清滅洋」を掲げる義和団が蜂起した。1899年袁世凱は山東省の長官に任じられ、これをいち早く鎮圧しその実力を示した。これを受けて義和団の活動は直隷(現在の河北省 北京・天津を含む)方面に移った。1900年、義和団が北京に入ると、西太后らは義和団と結ぶことを選択し、列強各国に宣戦布告した。これに対し、日露英仏独伊墺米8カ国は日露を主力とする36,000の軍を派遣し、義和団と清の軍を撃破し、北京そして紫禁城を占領した(義和団事件)。

 翌1901年、辛丑条約が結ばれ、清は日清戦争の倍以上の賠償金(分割払いで総額では3倍以上)を支払い、北京周辺の軍備を撤廃し、逆に各国が北京周辺に駐屯することとなった。西太后らは軍事力を失ったが、列強各国からその地位を安堵された。中国民衆の排外活動の激しさを見て、列強各国は清を温存しつつ、利益を得る方針に変えたのである。一方、袁世凱は清の朝廷による列強への攻撃命令を義和団の脅しによるものとして無視し(西太后も最終的には義和団鎮圧を命じた)、列強各国と合議して戦わないこととし、その軍事力を保全した。李鴻章の死後、袁世凱は直隷総督兼北洋大臣となり、外国からの借款によって軍隊の近代化、銀行の開設等を行い、その力を高めていった。


日本の伸長

 義和団事件の際、ロシアは満州(中国東北地方)にも兵を進め、事件後もそのまま駐留していた。このことは、日米英にロシアに対する警戒心を抱かせ、また、特に日本では三国干渉の苦い経験もあって、対露世論が激昂した。イギリスは光栄ある孤立を捨てて1902年日英同盟を結んだ。同盟を生かしイギリスの最新鋭戦艦4隻を調達するなど、日本はロシアに対抗する為軍備の増強を急いだ。

 1904年2月、日本は旅順と仁川のロシア艦隊に奇襲を敢行し、日露戦争が始まった。日本軍は局所的兵力優勢を生かした黒木為驕iくろきためもと)や奥保鞏(おくやすかた)の迅速な進撃で朝鮮付近及び旅順を除く遼東半島からロシア軍を駆逐した。しかし、海軍が緒戦でのロシア極東艦隊撃破に失敗したため、強力な永久要塞で海軍基地でもある旅順要塞に対する攻囲戦を行わなければならなくなり、戦局は膠着した。バルチック艦隊が極東に向かっているという状況下で、乃木希典は旅順要塞に対する強攻を命じられ、3度にわたる総攻撃で5万5千にも上る死傷者を出しつつも、翌1905年1月、遂に旅順要塞を陥落させた。直後にロシアでは血の日曜日事件から第一次革命が勃発し、3月の奉天会戦、5月の日本海海戦で相次いで日本が勝利したところで、両国とも戦闘継続は難しい情勢となり、アメリカの仲介で講和会議が開かれることとなった。こうして結ばれたポーツマス条約で日本は朝鮮に対する優越権を認められ、また、関東州(遼東半島南部の旅順・大連等)の租借権と東清鉄道南満州支線及び南樺太を譲渡された。

 日露戦争における日本の勝利は、欧米列強に対抗しようとしている人々へ影響を与えた。その中でも、興中会という清朝打倒を目指す革命結社を率いていた孫文は、同様の革命結社の合同を主張し、1905年8月東京において中国同盟会を設立した。孫文は民族独立・民権伸長・民生安定を柱とする三民主義を唱え、駆除韃虜(女真族の国である清朝の打倒)・恢復中華(漢民族による中国の回復)・創立民国(共和国の樹立)・平均地権(土地所有の不平等是正)を綱領として掲げた。孫文の主張は大きな支持を得るところとなり、1年を待たずに会員は1万人を超えた。

 一方で、日本は軍事的圧力を背景に1905年11月韓国の外交権を接収し保護国化した。日本政府の代表機関として統監府を置き、伊藤博文が初代統監となった。

 翌1906年、ロシアより得た東清鉄道南満州支線を運営する国策会社である南満州鉄道株式会社(いわゆる満鉄)が設立された。鉄道を支配することは商業の大動脈を支配することにつながり、さらに軍の駐留と組み合わせることで、鉄道の及ぶところ軍事的影響下におくことができた。そのため列強各国は中国国内の鉄道敷設に邁進し、中国の愛国的な人々は鉄道利権を回収することに努めた。満鉄の事業は、本業の鉄道関連事業とそれ以外の各種事業、及び鉄道附属地の運営があった。鉄道附属地とは鉄道運営のため線路沿線に設けられた現地政府の支配が及ばない地域であり、満鉄はこの鉄道附属地を開発し実質的な行政を行った。鉄道などの運輸事業が満鉄の表の主目的であり、鉄道附属地の経営が裏の主目的であった。このころ、ロシアは極東への関心を失うようになり、1907年日露協商が結ばれ、相互の勢力圏を尊重することとなった。

 欧米列強の圧力と革命機運が高まる中、清の朝廷でも憲法を制定する必要を感じ、1908年8月欽定憲法大綱を交付し9年後の国会開設を公約した。同年11月、光緒帝と西太后が相次いで死去し、宣統帝(溥儀)が2歳で皇帝となった。西太后の死去で袁世凱は中央政界から失脚したものの、袁世凱が訓練し袁世凱系の司令官が指揮する近代化された軍(新軍)は、直隷・山東・満州に6個師団の兵力で駐屯しており、これに対して弱体化している清の朝廷は断固たる処置をとることができなかった。そのため、袁世凱は隠然たる力を保持しつつけることとなったのである。

 1909年、伊藤博文がハルビンにて韓国人青年安重根によって暗殺された。これを機に、1910年日本は韓国を併合し、朝鮮総督府を置いた。統監であった寺内正毅が初代総督となり、民衆の抵抗に対して苛烈な鎮圧と植民地政策を強行した。


辛亥革命

 1911年5月、立憲派の再三の要求を受け、清の朝廷は内閣を設置し、慶親王奕劻(えききょう)を内閣総理大臣とした。この内閣は、13人の閣僚のうち7人が皇族で占められており、大きな失望を持って受け入れられた。さらに、慶親王は英米独仏からの借款を受ける担保とするため、民営鉄道の国有化を宣言した。これは鉄道利権の回収運動を進めていた人々を激発させ、四川省では9月に暴動が発生した。

 1911年10月10日、武昌では革命団体が爆弾を密造中に爆発を起こし、これがもとで革命派の逮捕が相次いだ。後がないと考えた革命派は蜂起を決断した(武昌起義)。湖北の新軍は3分の1以上の5000人超が革命団体に属しており、反乱を起こした彼らは激戦の後、武昌を占領し、新軍の指揮官黎元洪を都督に任命した。この武昌起義の成功により、辛亥革命が始まったのである。11月までに14の省が清からの独立を宣言した。

 清の朝廷は北洋新軍に革命の鎮圧を命じたが、袁世凱の影響下にある北洋新軍の動きは緩慢であった。11月初め、やむを得ず慶親王奕劻の内閣は解散し、袁世凱が内閣総理大臣に選出されて清の政戦両権を掌握した。袁世凱は馮国璋(ふうこくしょう)・段祺瑞(だんきずい)らを派遣して鎮圧に乗り出し、武漢の革命軍をたちまち撃破したが、進撃をそこでとどめ、自らは動かず革命派とも連絡を取っていた。

 1911年12月、孫文が帰国し、清から独立した各省の代表は南京で会合を開き、中華民国の樹立と孫文の臨時大総統就任を決めた。こうして、1912年1月1日、南京を首都とする中華民国の建国が宣言された。中華民国は臨時議会(参議院)の設置、教育の近代化などを図り、新たな気風をもたらしたが、一方で中華民国の政治的・軍事的基盤は脆く、列強の支持と軍事力を持つ袁世凱と妥協せざるを得ない情勢となった。こうして、孫文は、宣統帝の退位と共和政の賛成と引き換えに、袁世凱を臨時大総統に推挙すると表明するに至った。これを受けて、袁世凱は北洋軍閥の軍事力を背景に清の朝廷に宣統帝の退位と共和政採用を強力に迫った。こうして、1912年2月12日宣統帝は正式に退位した。翌日、袁世凱は共和制支持の声明を表明し、孫文は臨時大総統に辞表を提出した。臨時参議院は袁世凱を次の臨時大総統に選んだ。

 孫文らは、袁世凱の権力を制限するため、臨時約法という一種の憲法を参議院において制定し、袁世凱がこれを遵守すること、中華民国の首都は南京に置くこと、袁世凱が南京に来た上で孫文が初めて臨時大総統を正式に辞職して袁世凱が就任することを要求した。しかし、袁世凱は南京には赴かず、北方の情勢が不安定であることを理由に、自らの根拠地である北京にとどまり、北京での臨時大総統就任を要請した。孫文らはこれを拒むことができず、1912年3月、北京において袁世凱が臨時大総統に就任した。



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