中国近代戦史3
国民党の隆盛・第一次国共合作
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コミンテルンと孫文の連携

 3度にわたる革命運動の失敗を受け、孫文は方針について再考し、ソ連に注目するようになった。折しも、中国国内では共産主義に注目が集まるようになっており、また、コミンテルンが積極的な軍事支援をしていたこともあり、孫文はその力を借りることにしたのである。1923年1月、孫文はソ連の中国大使ヨッフェと会談し、中国共産党と協力する条件で、支援の約束を取り付けた。同月、孫文は軍閥楊希閔(ようきびん)・劉震寰(りゅうしんかん)と結び、陳炯明を広州から追い出し再び政府を樹立して自ら大元帥となった。蒋介石はその参謀長となり、8月にはモスクワに赴きソ連の軍事システムについて視察した。今までの失敗を教訓に、軍閥とは別個の中国国民党の党軍を基幹兵力として組織するためであった。中国共産党は全国大会を開き、コミンテルンの方針に基づき、中国共産党員は個人の身分で国民党に加入することとし、ここに第一次国共合作が成立した。翌1924年1月、孫文は中国国民党第一次全国代表大会を開催し、「連ソ・容共・農工扶助」の方針を明確に打ち出した。そして、党軍の指揮官を養成するための士官学校を設立することが決議された。


黄埔軍官学校

 1924年5月、コミンテルンの支援のもと、蒋介石を校長として黄埔軍官学校が設立された。孫文の傘下に入っている軍隊内から選抜した他、全国に募集をかけたところ数千の応募があり、第一期生は470名が入学、3年間で第六期生まで約1万名が黄埔軍官学校の門をたたいた。国共合作のなかで、共産党の周恩来が黄埔軍官学校の政治部主任として政治教育を行っていた。

 また、国民党軍の編成も行われ、黄埔軍官学校の卒業生を軸とした第一教導団、第二教導団が置かれた。その他各軍も、国民党の指揮下に入り、一切の命令は国民党の代表の副署がなければ有効にならないものとされた。これは、ソビエトに倣ったものである。こうして、国民党は、軍閥に依存しない党軍と、その人材供給源たる黄埔軍官学校を設立したことにより、急速に実力を高めていく。


孫文の死

 第一次直奉戦争の結果中央の権力を握っていた呉佩孚に対して、1924年9月、張作霖は再び攻撃を仕掛け、山海関を争奪した(第二次奉直戦争)。その状況下で、馮玉祥は呉佩孚に叛き(北京政変)、呉佩孚は北京を離れ、溥儀は紫禁城から追われた。馮玉祥は孫文に北京に来るよう要請し、段祺瑞を形式上執権として新政権が成立した。孫文は北京に赴いたものの、1925年3月、志半ばのまま孫文は逝去した。


国民党の隆盛

 一方、南方では孫文の創設した国民党軍は力を発揮しつつあった。1925年1月より第一・第二教導団を主力として軍閥陳炯明と開戦した。さらに、国民党政府に叛いた軍閥楊希閔・劉震寰を破った。力を盛り返しつつあった陳炯明に対して、蒋介石は黄埔軍官学校系の軍勢を総動員し、11月これを撃破して再起不能に陥れ、国民党は広東省を確保した。さらに、広西省では、国民党を支持する李宗仁(りそうじん)白崇禧(はくすうき)らが軍閥陸栄廷・唐継尭を破り広西省を保持するに至った。こうして、国民党は確固たる地歩を得たのである。

 この間に、張作霖は勢力拡大を図り、国民党と協調している馮玉祥と対立するようになった。また、呉佩孚の配下にいた孫伝芳(そんでんほう)が張作霖に対抗した闘争を開始して東南5省を支配するようになった。呉佩孚自身もこの機に乗じて再起し、張作霖と結んで馮玉祥を討とうとした。張作霖配下の郭松齢(かくしょうれい)が馮玉祥と通じて叛旗を翻し、一時張作霖を追い詰めたが、日本が関東軍を使って張作霖を支援し、張作霖は郭松齢に反撃してこれを破った。この情勢を受け、馮玉祥は一時下野し、後にソ連に渡ってコミンテルンの支持する国民党への加入を宣言した。一方、馮玉祥一派の軍勢は張作霖・呉佩孚・孫伝芳らの軍閥から攻撃を受け、張作霖を支援する日本や列強は海軍を使ってこれを圧迫した。この外国の動きに中国国民は反発し、デモを行った。段祺瑞はこれを弾圧し(三・一八事件)、さらに馮玉祥一派を討とうとしたが、察知されて逆に奇襲され、執政の座から追われた。ここに至って、張作霖と呉佩孚は連合し、国民党と通じる馮玉祥の勢力を打倒しようとした。



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