中国近代戦史4
北伐
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北伐開始と反共クーデター

 国民党は、コミンテルン(ソ連)の支援を受けることで力をつけてきたが、蒋介石は主導権をコミンテルンや共産党には渡したくない考えであった。1926年3月、国民党の軍艦中山が蒋介石の許可無く黄埔軍官学校の沖合いに現れた。蒋介石はこれを自らを共産派の陰謀であるとし、艦長で共産党員である李之龍(りしりゅう)を逮捕し、広州に戒厳令を敷いて、コミンテルンの顧問団や共産党員を監視し、共産党関係組織の武器を没収した(中山艦事件)。この事件を契機に蒋介石の権勢が高まった。党内のライバル汪兆銘(おうちょうめい)はフランスに出奔し、また、共産党員の党内での勢力を抑える「整理党務案」を成立させた。コミンテルンや共産党は蒋介石との妥協を選択し、第一次国共合作は一時破綻を免れた。

 1926年6月、国民党はついに蒋介石が総司令官となり北伐を宣言した。まず、呉佩孚の勢力圏に攻め込み、8月には長沙を占領した。呉佩孚は急ぎ南下したものの、国民党軍はこれを撃破して長江の要地武昌を占領し、呉佩孚を再起不能に陥れた。また、北伐を迎撃すべく南下してきた孫伝芳を南北から挟撃して破り、11月には南昌を制圧した。

 このとき、蒋介石が留守にしている広州の国民党の政府では、蒋介石の権勢を警戒するものが多くなっていた。広州の国民党政府は、長江を挟む武昌・漢口・漢陽をあわせて武漢と呼ぶこととし、武漢への移転を決定した。1927年3月に武漢で党大会が開かれ、主席には汪兆銘を呼び戻して就任させること、蒋介石を総司令官から軍事委員会の一委員とすることなどが決議された。

 蒋介石は、軍事活動を続け、1927年2月には白崇禧が杭州を制圧し、3月下旬に上海・南京を立て続けに占領した。一方、浙江(せっこう)財閥や日本などと通じて、コミンテルン・共産党との決別を準備していた。4月12日、蒋介石は上海で共産党員の粛清したのを皮切りに各地で共産党員を粛清し(反共クーデター・上海クーデター)、4月18日、南京に国民政府を樹立した。


山東出兵

 反共クーデターの直後、日本では田中義一内閣が発足し、外務大臣幣原喜重郎による国際協調路線の外交は終わりを迎えた。田中義一内閣としては、満州と山東省の権益を守ることを第一とし軍事力を行使することも辞さないとともに、中国の共産化を防ぎたいとも考えていた。日本は満州と山東省に権益を有しており、田中義一は満州の張作霖、山東省の張宗昌(ちょうそうしょう)や孫伝芳を支援することでその保護を図るつもりであった。

 北伐開始により、国民党員となった馮玉祥と武漢国民政府の唐生智(とう せいち)に張作霖は押されており、かつ、山西省に地盤を持つ閻錫山(えんしゃくざん)が国民党に付いており張作霖を脅かしそうな情勢であった。さらに、5月21日に蒋介石は孫伝芳を南京の北西の蚌埠(ほうふ)で破り、山東省を窺う情勢となった。

 これをうけ、田中義一は山東省に出兵することを決定した(第一次山東出兵)。日本軍の後ろ盾を得た孫伝芳や張宗昌は反撃を開始し、蒋介石は武漢側からも圧迫されついに徐州で敗北を喫した。同時期、武漢国民政府の汪兆銘もコミンテルンと共産党の影響を排除することを決断し、7月15日共産党との決裂を正式決定し、共産党員を粛清した。こうして第一次国共合作は破綻を迎えた。一方、反共で一致したことにより、武漢と南京の国民政府は合流の機運が高まり、8月12日に蒋介石は下野し、その前提の下、武漢国民政府は南京に移り、両国民政府の合流が成った。


共産党の蜂起

 同年8月1日、中国共産党は南昌で蜂起し国民党との武力闘争を開始した。しかし、これは国民党によりすぐに鎮圧されることとなった。同時期、毛沢東も湖南省で蜂起した(秋収(しゅうしゅう)蜂起)。長沙を攻撃したものの大敗し、山間地帯へ撤退し、10月井崗(せいこう)山に根拠地を定めた。


蒋介石の訪日

 1927年9月、下野した蒋介石は日本を訪れた。第一の目的は、宋美齢(そうびれい)との結婚を有馬温泉に滞在していた宋美齢の母に認めてもらうためであった。宋美齢の父は浙江財閥の富豪であり、姉は孫文の妻で、宋美齢本人もアメリカで高等教育を受けてアメリカに人脈を持つという特異な存在であった。結婚の承諾を取り付けることができた蒋介石は、これによって孫文の後継者としての立場を補強するとともに、アメリカおよび浙江財閥との結びつきを強めることに成功した。

 また、この間に蒋介石は日本における国民党の支援者のほか、田中義一首相、満鉄総裁山本条太郎、渋沢栄一、外務次官、参謀本部第二部長など、日本の重要人物と会談した。11月の田中義一との会談においては、反共については立場の一致を確認したものの、北伐と張作霖への支援について立場を異にした。

 この間、中国においては、合流を果たした国民政府では対立がやまず、軍閥の攻勢にさらされていた。こうした中、蒋介石待望論が力を得、汪兆銘すらも蒋介石の帰国を促した。このような情勢を受けて、田中義一との会談を終えた3日後に蒋介石は帰国した。12月には宋美齢と結婚式を挙げ、1928年1月、国民党軍の総司令(国民革命軍総司令)に復帰した。


北伐再開

 1928年4月7日、蒋介石は北伐再開を宣言した。田中義一は張作霖を支援し、山東の権益を保全するため、出兵することを決めた(第二次山東出兵)。蒋介石は孫伝芳の軍を殲滅し、山東省済南(さいなん)へ入った。5月3日、ここで先に入っていた日本軍と衝突が拡大する事態となった(済南事件)。日本は1個師団を増派(第三次山東出兵)することを決め、さらに支那駐屯軍を増員することとした。蒋介石は日本との全面衝突を避けるため済南城から軍を引いたが、激昂している現地日本軍は最後通牒を発したあと、5月8日済南城を攻撃しさらに進軍した。自重した蒋介石が済南を迂回することにしたため、全面対決は避けられたものの、日中関係は大幅に悪化することとなった。

 蒋介石は北伐を続け、黄河をわたって北京に迫り、国民党についている閻錫山と馮玉祥も西から北京に迫ったため、張作霖の敗勢は明らかであった。

 この情勢に、田中義一は蒋介石に圧力をかけ、満州へ進出しないことを求めるとともに、張作霖には満州へ撤退させ、満州における張作霖の立場を維持する代わりに満州内における優先的な鉄道利権の付与を求めた。もとより北京を目標としていた蒋介石は張作霖の追撃をしない意向を示すとともに、張作霖は満州への撤退を決意し、田中義一の方針は実現に向かいつつあった。

 1928年6月8日、蒋介石率いる北伐軍は北京に入城し、北伐の完了を宣言した。


張作霖爆殺事件

 田中義一を中心とした日本本国が張作霖を満州の利権保持の代理人にしようと考えていたのに対して、関東軍は、必ずしも従順でない張作霖に対して不満を持っており、満州国の建設を構想していた。関東軍参謀河本大作は、満州へ帰還する張作霖を鉄道爆破により殺害し、それを国民党の仕業として軍事行動を開始する計画を立てた。

 1928年6月3日、北伐軍が北京に迫る中、張作霖は奉天へ帰還すべく特別列車に乗った。翌6月4日、終着点のおよそ1km手前の地点を張作霖の乗る特別列車が通過したところ、関東軍の仕掛けた爆薬が爆発した。張作霖は重傷を負い、私邸に運び込まれたものの死亡した。張家は張作霖が死去した事実を隠し、その子張学良が権力を継承するまで時間を稼いだ。そのため、関東軍は軍事行動を開始する事ができずに終わった。張学良は蒋介石との間に停戦を宣言し、蒋介石との交渉を始めた。

 1928年12月、張学良は蒋介石と合意に達し、国民政府に従うことを宣言し、国民政府の青天白日満地紅旗を旗を掲げるに至った(易幟・えきし)。蒋介石率いる国民党ははこれによって形式的に中国を統一した。



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