中国近代戦史5
蒋介石による中央集権化
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蒋介石による中央集権化

 国民党による中国の統一は形式的なものに過ぎず、蒋介石の国民党中央が掌握しているのは、最も栄えている地域であったとはいえ、南京近辺のおおむね江蘇・浙江・安徽・江西の4省に限られた。易幟したものの満州を掌握している張学良、山西省を中心に北京・天津なども支配している閻錫山、山東・河北・河南・陝西やモンゴル方面(チャハル・綏遠・甘粛・寧夏)に勢力を有している馮玉祥、広西省を中心に広東・福建・湖南・湖北という中国南部を押さえている李宗仁・白崇禧ら(新広西派などと呼ばれる)などはそれぞれ数十万の兵力を有しており、実質的に割拠していた。

 蒋介石はこの新たな軍閥割拠というべき状況を放置するつもりはなく、すぐに中央集権化に乗り出した。蒋介石は軍縮と指揮権の中央化を推進し、各勢力との対立が大きくなっていった。

 1929年2月、湖南省主席の人事問題をきっかけとして、蒋介石はまず李宗仁と鋭く対立した。3月、蒋介石は李宗仁・白崇禧らを解任すると発表し、合わせて新広西派との戦闘の準備を始めた。このとき、李宗仁・白崇禧の両名は新広西派の中心地である武漢を留守にしていたため、直接指揮が取れない状態であった。蒋介石は新広西派の将官数名を誘降したうえで開戦し、終始有利に戦いを進めた。

 5月に入ると、馮玉祥も蒋介石に叛旗を翻した。しかし、蒋介石が馮玉祥配下の有力将官の誘降に成功したため、馮玉祥は一時下野に追い込まれた。また、新広西派と深?付近で決戦し、これを破ったため、李宗仁・白崇禧らは海外に逃れた。

 馮玉祥は閻錫山と結んで蒋介石に対抗しようとした。閻錫山は一度これを了承した。しかし、蒋介石は閻錫山を全国陸海空軍副総司令に任じて離間を図り、閻錫山がこれに応じたため、馮玉祥は孤立無援となり敗北した。


共産党の根拠地拡大

 一方、共産党では、1928年4月、別の共産党蜂起軍を指揮していた朱徳(しゅとく)が井崗山に入って毛沢東と合流し、兵力約1万の「中国労農紅軍第四軍」となった。朱徳が司令官となり、毛沢東が党代表となった。井崗山の共産党根拠地は7県人口50万に及ぶようになっていった。国民党は討伐軍を差し向けたが、毛沢東と朱徳は、敵主力との戦いを避け、敵を引きずりまわし、敵が弱っているときに弱いところを衝くといったゲリラ的な戦術・戦略の原則を打ちたてて実践し(「敵進我退 敵駐我擾 敵疲我打 敵退我追」という漢詩風の標語で表現されていた)、国民党の攻勢を数度にわたって退けた。1928年末には彭徳懐(ほうとくかい)も合流した。

 やがて、北伐を終えた国民党は井崗山の共産党根拠地に対して兵力25,000以上を動員して攻撃をかけた。井崗山の根拠地は経済封鎖を受けて厳しい情勢にあり、1929年1月、毛沢東と朱徳は井崗山を離れた。南下した後、東の福建省方面へ向かった。2月末、江西省(井崗山は江西省の西部にある)と福建省との境界付近で追撃してくる国民党部隊と一線交えることを決意した。黄埔軍官学校出身の部隊長林彪(りんぴょう)が後背を衝く活躍を見せたおかげで、国民党部隊を大破するに至った。勢いに乗った毛沢東は3月には福建省の地方都市汀州を制圧した。この後、福建省を押さえる新広西派と蒋介石の内戦が始まったことにより、共産党にとって有利な状況となり、共産党根拠地は拡大した。


中原大戦

 1930年春、ついに閻錫山が蒋介石に叛旗を翻し、馮玉祥や再起を図ろうとしていた李宗仁と結んで反攻に出た。蒋介石の兵力60万に対して、反蒋派の兵力は80万に達し、長大な戦線が形成されたが戦況は膠着した。9月、中立の立場を取っていた張学良が蒋介石に味方し、山海関を超えて北京(北平)・天津を占領すると反蒋派は一気に瓦解した(中原大戦)。この結果、閻錫山は大連へ逃れ日本の庇護を受けることとなり、馮玉祥は一時引退した。蒋介石の力が圧倒的優位となるとともに、張学良の勢力が満州から北京・天津を含む河北省に及び、張学良は北京に駐在するようになった。


囲剿

 国民党が中原大戦にいたる内戦を続けるうちに、共産党の根拠地は拡大し、共産党の党軍(「紅軍」と呼ばれるようになっていた)は全国でおよそ10万の兵力を有するに至った。毛沢東・朱徳らのいる江西省を中心とした根拠地においては、紅軍の兵力は4万程度であった。

 1930年冬、中原大戦の勝利により軍事的に余裕の生まれた蒋介石は、10万の兵力を以て本格的な紅軍殲滅のための作戦(「囲剿(いそう)」と呼ばれた)を開始した。これに対し、毛沢東は井崗山におけるゲリラ戦術を拡大し、敵を深くおびき寄せ、敵に疲労に乗じて攻撃するという方針を採用した。紅軍は6週間にわたってじりじり後退しつつ、反撃の機を待った。12月30日、紅軍は国民党の前哨部隊1個師団に総攻撃を行い、9,000人を捕虜にした。この敗戦を受けて近くにいた国民党1個師団は撤退を開始したが、紅軍はこれに追いつきさらに3,000人を捕虜にした。こうして最初の囲剿作戦は、国民党が2個師団を失って敗北する結果となったのである。

 蒋介石は、国民党内においても、元老である立法院長の胡漢民(こかんみん)との対立を深めていた。1931年2月、蒋介石は胡漢民を軟禁し立法院長の職から追った。蒋介石の独走に対して国民党内で反発が強まり、国民党は分裂状態に入っていく。

 1931年3月、蒋介石はその片腕ともいわれる何応欽(かおうきん)を司令官として20万の兵力で再度囲剿作戦を発動した。毛沢東は後退しつつ国民党軍の手薄な山岳地帯に兵力を集中させて攻撃をかけた。5月までに国民党は兵力3万人、師団長の戦死1名捕虜1名の損害を出し、一時退却に追い込まれた。紅軍は福建省へ勢力を伸ばし、福建省で動員と資金集めを開始した。

 さらに、1931年5月、汪兆銘・李宗仁・孫科(孫文の息子)らが広州で蒋介石に対抗して新たな国民政府を樹立した。これにより国民党は完全に分裂した。

 2度の囲剿の失敗を重く見た蒋介石は間髪いれず追加の動員を行い、6月中旬に30万の兵力で3度目の囲剿作戦を発動した。紅軍は不意をつかれ、8月には国民党軍に包囲されるに至った。紅軍は陽動部隊が西に逃走したと見せかけているうちに、主力が包囲を突破した。追撃してきた国民党部隊を撃破したものの、再び厳重な包囲を受けることとなった。唯一急峻な山だけが包囲網が敷かれておらず、紅軍は夜のうちに断崖絶壁を越えて逃走した。紅軍を救ったのは、国民党の分裂であった。広州の国民政府は9月にはいると湖南省に出兵した。これに対応するため、蒋介石は囲剿を中断せざるを得なくなった。結局、蒋介石は3度囲剿を行ったものの不首尾に終わったのである。




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