斉桓公 -最初の覇者-
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本文(白文・書き下し文)
桓公元年春、斉君無知游雍林。
雍林人嘗有怨無知。
及其往游、雍林人襲殺無知、
告斉大夫曰、
「無知弑襄公自立。
臣謹行誅。
唯大夫更立公子之当立者。
唯命是聴。」

初襄公之酔殺魯桓公、通其夫人、
殺誅数不当、淫於婦人、数欺大臣。
群弟恐禍及。
故糾奔魯。
其母魯女也。
管仲・召忽傅之。
小白奔莒。
小白母衛女也、
有寵于釐公。
鮑叔傅之。
小白自少好善大夫高傒。

及雍林人殺無知、
議立君、高・国先陰召小白於莒。
魯聞無知死、亦発兵送公子糾。
而使管仲別将兵、遮莒道。
射中小白帯鉤。
小白詳死。
管仲使人馳報魯。
魯送糾者、行益遅。
六日至斉、則小白已入、高傒立之。
是為桓公。
桓公之中鉤、詳死以誤管仲、
已而載温車中馳行。
亦有高・国内応、
故得先入立、発兵距魯。

秋、与魯戦于乾時。
魯兵敗走。
斉兵掩絶魯帰道。
斉遺魯書曰、
「子糾兄弟。
弗忍誅。
請魯自殺之。
召忽・管仲讐也。
請得而甘心醢之。
不然将囲魯。」
魯人患之、遂殺子糾于笙涜。
召忽自殺、管仲請囚。
桓公之立、発兵攻魯、
心欲殺管仲。
鮑叔牙曰、
「臣幸得従君、君竟以立。
君之尊、臣無以増君。
君将治斉、即高傒与叔牙足也。
君且欲覇王、非管夷吾不可。
夷吾、所居国、国重。
不可失也。」
於是桓公従之、
乃詳為召管仲欲甘心、
実欲用之。

桓公既得管仲。
与鮑叔・隰朋・高傒修斉国政、
連五家之兵、設軽重魚塩之利、
以贍貧窮、禄賢能。
斉人皆説。
桓公元年春、斉君無知雍林に游ぶ。
雍林の人嘗て無知に怨み有り。
其の往きて游ぶに及びて、雍林の人襲ひて無知を殺し、
斉の大夫に告げて曰はく、
「無知襄公を弑して自立す。
臣謹みて誅を行ふ。
唯だ大夫更に公子の当に立つべき者を立てよ。
唯だ命を是れ聴かん。」と。

初め襄公の魯の桓公を酔殺し、其の夫人と通ずるや、
殺誅数ゝ当らず、婦人に淫し、数ゝ大臣を欺く。
群弟禍ひの及ぶを恐る。
故に糾魯に奔る。
其の母は魯の女なり。
管仲・召忽之に傅たり。
小白莒に奔る。
小白の母は衛の女なり、
釐公に寵有り。
鮑叔之に傅たり。
小白少きより大夫高傒に好善なり。

雍林の人無知を殺すに及び、
君を立てんことを議し、高・国先づ陰かに小白を莒より召す。
魯無知の死を聞き、亦た兵を発して公子糾を送る。
而して管仲をして別に兵を将ゐ、莒の道を遮らしむ。
射て小白の帯鉤に中つ。
小白詳り死す。
管仲人をして馳せて魯に報ぜしむ。
魯の糾を送る者、行くこと益遅し。
六日にして斉に至れば、則ち小白已に入り、高傒之を立つ。
是れを桓公と為す。
桓公の鉤に中たるや、詳り死し以て管仲を誤らしめ、
已にして温車の中に載りて馳せ行く。
亦た高・国の内応する有り、
故に先づ入りて立つを得、兵を発して魯を距む。

秋、魯と乾時に戦ふ。
魯兵敗走す。
斉兵魯の帰道を掩絶す。
斉魯に書を遺りて曰はく、
「子糾は兄弟なり。
誅するに忍びず。
請ふ魯自ら之を殺せ。
召忽・管仲は讐なり。
請ふ得て甘心して之を醢にせん。
然らずんば将に魯を囲まんとす。」と。
魯人之を患へ、遂に子糾を笙涜に殺す。
召忽自殺し、管仲囚はれんことを請ふ。
桓公の立つや、兵を発して魯を攻むるは、
心に管仲を殺さんと欲すればなり。
鮑叔牙曰はく、
「臣幸ひに君に従ふを得、君竟に以て立つ。
君の尊きこと、臣以て君を増すこと無し。
君将に斉を治めんとせば、即ち高傒と叔牙とにて足るなり。
君且つ覇王たらんと欲せば、管夷吾に非ざれば不可なり。
夷吾、居る所の国は、国重し。
不可失ふべからざるなり。」と。
是に於いて桓公之に従ふ。
乃ち詳りて管仲を召して甘心せんと欲すと為し、
実は之を用ひんと欲す。

桓公既に管仲を得たり。
鮑叔・隰朋・高傒と斉の国政を修め、
五家の兵を連ね、軽重魚塩の利を設け、
以て貧窮を贍し、賢能を禄す。
斉人皆説ぶ。
参考文献:高等学校古典I漢文編改訂版 稲賀敬二 森野繁夫 編 第一学習社

現代語訳/日本語訳

桓公の元年の春、斉君無知は雍林地方に出掛けた。
雍林の人に、無知を怨んでいる者がいた。
その人は、無知が雍林に来たのに際して、これを襲撃して殺害し、
このように斉の大夫に告げた、
「無知は襄公を殺して自立しました。
このため、私は謹んでこれを誅殺しました。
あなた方はまた、ただ次に即位すべき公子を即位させてください。
私は、ひたすらその命令に従います。」

かつて、斉の襄公が魯の桓公を酔いつぶれさせて殺し、その夫人と密通していたころは、
よく的を得ない誅殺を行い、女色にふけってしばしば大臣たちを欺いた。
そのため、襄公の弟たちは禍いが自分に及んでくるのを恐れた。
そこで、公子糾は魯に出奔した。
その母は魯の公女であった。
管仲と召忽は糾の守り役についていた。
また、公子小白は莒に出奔した。
小白の母親は衛の公女であり、
釐公の寵愛を受けていた。
鮑叔がその守り役についていた。
小白は若いときから斉の大夫、高傒と仲がよかった。

雍林地方の人が、無知を殺すと、斉人は君主を立てようと話し合い、
高氏・国氏は密かに先に公子小白を莒から呼び戻そうとした。
しかし、魯もまた無知の死を聞くと、軍を動員して公子糾の魯への護送を開始した。
さらに、管仲に別働隊を率いさせて、莒から斉に通じる道を遮断させた。
戦闘中に、小白の帯の留め金に矢が命中した。
小白はそこで死んだふりをした。
管仲は使者を送り魯に小白が死んだ旨を報告させた。
魯の公子糾を護送する部隊の行軍は、遅くなった。
六日後に斉に着くと、小白は既に斉に入っており、高傒がこれを即位させていた。
これが後に言う桓公である。
桓公は、留め金に矢が命中したとき、死んだふりをして管仲を誤らせ、
死体を入れる温涼車の中に載たまま斉に急行したのだった。
さらに、高氏と国氏の内応があったため、先に斉に入って即位することができ、
軍を動員して魯の公子糾を護送する部隊が斉に入ってくるのを防ぐことができたのである。

秋、斉は魯と乾時で交戦し、魯軍は敗走した。
斉軍は魯軍の退路を遮断した。
そして、以下のような旨の書を魯に送った。
「公子糾は、兄弟である。
自らこれを誅殺するのは忍びない。
そのため、魯自身にこれを殺していただきたい。
また、召忽や管仲は仇敵である。
身柄を引き渡していただいた上、二名を気のすむようにして、塩漬けの刑にさせていただきたい。
これらのことが受け入れられないならば、我々は魯の邑を包囲、攻撃する。」
魯人は斉の攻撃を憂え、公子糾を笙涜の地で殺した。
召忽は自殺したが、管仲は拘束されることを願った。
桓公が、即位するとすぐに軍を動員して魯を攻撃したのは、
心の中で管仲を殺したいと思っていたからである。
鮑叔は言った、
「私は幸いにも陛下に従うことができ、最後に、陛下は即位なされました。
しかしながら、私は陛下の尊さを、高めることができません。
もし、陛下が斉一国のみをお治めになろうと言うのなら、高傒と私叔牙とで十分でございます。
しかし、陛下がさらに覇者になりたいとお思いならば、管夷吾がいなければ無理です。
夷吾のいる国は、威厳が高まります。
彼を失ってはなりません。」
そこで、桓公は鮑叔の言に従い、
偽って管仲を召して、気の済むようにしたいということにしたが、
実はこれを用いようと思っていた。

桓公はすでに管仲を得ていた。
管仲は鮑叔・隰朋・高傒らとともに斉の政治を整え、
五家の兵制を定め、物流・物価・漁獲や製塩に関する規則を設けて、
貧困者を救済し、賢能の士を採用して、これに禄を与えた。
斉人は、皆喜んだ。

解説

読みは参考程度になされよ

桓公元年春、斉君無知游雍林。雍林人嘗有怨無知。及其往游、雍林人襲殺無知、告斉大夫曰、
かんこうぐわんねんはる、せいくんむちゐようりん(ようりん)にあそぶ。ゐようりんのひとかつてむちにうらみあり。そのゆきてあそぶにおよびて、ゐようりんのひとおそひてむちをころし、せいのたいふにつげていはく、

「桓公元年」は桓公が即位した年ということで、B.C.651年。
「游」は"楽しむ・交わる・怠ける・行く・勉学する"の意。
ここでは"交わる"がよさそうである。
「大夫」は政治の中心的役割を担った「卿」に次ぐ階級。

「無知」は、下に説明する襄公のいとこであり、襄公の父で先代の釐(き)公にかわいがられていた。
襄公はそれを嫉んでいたため、即位すると、彼の待遇を落とした。
このため、無知は襄公を恨むようになっていたのである。
そして、無知は、襄公が狩りで負傷したのを機に、宮殿を襲撃してこれを弑(しい)し、
自ら斉侯の位についた。


「無知弑襄公自立。臣謹行誅。唯大夫更立公子之当立者。唯命是聴。」
「むちじやうこう(じょうこう)をしいしてじりつす。しんつつしみてちうをおこなふ。ただたいふさらにこうしのまさにたつべきものをたてよ。ただめいをこれきかん。」と。

「弑(しい-ス)」は"臣下が君主を殺す"ということ。
「誅」は"罪によって殺す"ということ。
「更」は"再び"。
「当(まさ-ニ〜べ-シ)」は当然"〜すべき"と推量"〜するに違いない"の意があるが、ここでは前者。

襄公は釐(き)公の子で名を諸児(しょげい)と言い、
B.C.697年に即位した。


初襄公之酔殺魯桓公、通其夫人、殺誅数不当、淫於婦人、数欺大臣。群弟恐禍及。
はじめじょうこうのろのくわんこうをすいさつし、そのふじんとつうずるや、さつちうしばしばあたらず、ふじんにいんし、しばしばだいじんをあざむく。ぐんていわざはひのおよぶをおそる。

「其夫人」は「魯の桓公の夫人」ということであるが、これは文姜と呼ばれ、襄公の妹である。
襄公と文姜はかつて密通していた。
彼女は魯の桓公のもとに嫁いだが、魯の桓公と文姜が斉を訪れたとき、
襄公はこれと再び密通し、そのことが魯の桓公に知られてしまう。
ために、襄公は魯の桓公を酒宴に呼んで酔いつぶれさせ、
怪力の公子彭生に馬車に運ばせ、そのとき体を締め付けさせて殺させた。
これがB.C.694年のことである。
当然魯の群臣たちは怒り、公子彭生をスケープゴートとして殺してこれをなだめた。
実は、無知が襄公を弑すきっかけとなった襄公の負傷は、
狩りをしているとき、従者の一人がある豚を「この豚は公子彭生の亡霊だ」と叫んで、
そんなはずはないということで射たところ人間のように立って鳴いたため、
驚いて車から落ちたためにしたものであった。


故糾奔魯。其母魯女也。管仲・召忽傅之。小白奔莒。鮑叔傅之。小白自少好善大夫高傒。
ゆゑにきうろにはしる。そのはははろのむすめなり。かんちゅう・せうこつこれにふたり。
せうはくきょにはしる。はうしゅくこれにふたり。せうはくわかきよりたいふこうけいにこうぜんなり。

奔(はし-ル)」は"出奔する・逃げる・駆け落ちする"。

魯は斉の南西に位置した国で、首都は曲阜。
孔子の出身の国である。
莒は斉の首都臨淄の南に位置した国。
戦国時代には斉の領邑となっており、難攻不落を以て知られた。
先ず隗より始めよ」で燕に赴いた楽毅の攻撃の際も、即墨とともに最後まで落ちなかった。

管仲夷吾は春秋時代の斉の大夫。
名が夷吾で、字が管仲。
鮑叔牙も同様斉の大夫。
叔もしくは叔牙が名。
召忽は斉の臣。
小白・糾は、みな釐公の子どもで、襄公の兄弟。
高傒は斉の大夫、後に正卿となり、以後長く高氏・国氏がその位を担当した。


及雍林人殺無知、議立君、高・国先陰召小白於莒。
ようりんのひとむちをころすにおよび、きみをたてんことをぎし、こう・こくまづひそかにせうはくをきょよりめす。

高傒は小白と仲がよかったため、これをひそかに呼び寄せたのである。


魯聞無知死、亦発兵送公子糾。而使管仲別将兵、遮莒道。
ろむちのしをきき、またへいをはっしてこうしきうをおくる。しかしてかんちゅうをしてべつにへいをひきゐ、きよのみちをさえぎらしむ。

「発」は"動員する"。


射中小白帯鉤。小白詳死。管仲使人馳報魯。魯送糾者、行益遅。
いてせうはくのたいこうにあつ。せうはくいつはりしす。かんちゅうひとをしてはせてろにほうぜしむ。ろのきうをおくるもの、いくことますますおそし。

「中(あ-ツ)」は、"命中する"。
「帯鉤」は"帯の留め金"。
「詳死」は"死んだふりをする"。
「馳」は"急行する・馬や車を走らせる"。


六日至斉、則小白已入、高傒立之。是為桓公。
むいかにしてせいにいたれば、すなはちせうはくすでにいり、こうけいこれをたつ。これをかんこうとなす。

「立」は"即位する・させる"。


桓公之中鉤、詳死以誤管仲、已而載温車中馳行。亦有高・国内応、故得先入立、発兵距魯。
かんこうのこうにあたるや、いつはりししてもってかんちゅうををあやまらしめ、すでにしておんしゃのうちにのりてはせゆく。

「已而(すでにして)」は"そのまま・すぐに"の意。
「温車」は、温涼車、多く死体を載せるのに使った。


秋、与魯戦于乾時。魯兵敗走。斉兵掩絶魯帰道。
あき、ろとけんじにたたかふ。ろへいはいそうす。せいへいろのきどうをえんぜつす。

「掩絶」は"遮断する"の意、「而使管仲別将兵、遮莒道。」の「遮」とほぼ同じ意。


斉遺魯書曰、「子糾兄弟。弗忍誅。請魯自殺之。
せいろにしょをおくりていはく、「しきゅうはけいていなり。ちゅうするにしのびず。こふろみずからこれをころせ。

「遺」は"送る"。
「兄弟」は(けいてい)と読むことに注意。


召忽・管仲讐也。請得而甘心醢之。不然将囲魯。」
せうこつ、かんちゅうはあだなり。こふえてかんしんしてこれをかいにせん。しからずんばまさにろをかこまんとす。」と。

「甘心」は"好きなようにする・気のすむようにする"。
「醢」は"塩漬け"。
「然」は"そうであること"、代名詞。


魯人患之、遂殺子糾于笙涜。召忽自殺、管仲請囚。桓公之立、発兵攻魯、心欲殺管仲。
ろひとこれをうれへ、つひにしきゅうをしやうとうにころす。せうこつじさつし、かんちゅうとらはれんことをこふ。
かんこうのたつや、へいをはっしてろをせむるは、こころにかんちゅうをころさんとほっすればなり。

「笙涜」は魯の首都曲阜の東にある邑。


鮑叔牙曰、「臣幸得従君、君竟以立。君之尊、臣無以増君。
はうしゅくがいはく、「しんさいはいにきみにしたがふをえ、きみつひにもってたつ。きみのたふときこと、しんもってきみをますことなし。

「幸」は"幸いにも"。
「竟(つひ-ニ)」は"とうとう・最後に"。
「増君」は「増君之尊」ということであろう。


君将治斉、即高傒与叔牙足也。君且欲覇王、非管夷吾不可。夷吾、所居国、国重。不可失也。」
きみまさにせいをおさめんとせば、すなはちこうけいとしゅくがとにてたるなり。きみかつはおうたらんとほっせば、かんいごにあらざればふかなり。いご、おるところのくには、くにおもし。うしなふべからざるなり。」と。

「且(か-ツ)」は"さらに"。
「可(べ-シ)」は可能・当然・適当・勧誘・命令・価値などの意があるが、此処では当然"〜するべき・〜しなければならない"であろう。
「国重し」は、教科書の語注には"国として重きをなす"とあるが、
私の個人的見解では、"国としての威厳が高い"ということであろうと思う。

「覇王」は覇者
その昔(B.C.1027〜1024ごろ?)に、周の武王殷の紂王をやぶり、周王朝を立てた。
そのとき周王朝の一族や功臣(太公望呂尚など)が領邑を与えられ、
世襲によりそこを統治しつづけることとなった。
これが、諸侯である。
後に、周王朝の力が弱り、諸侯の一つ申や異民族(チベット系?)の犬戎に、首都鎬京を攻略され、
洛邑(後の洛陽)に遷都せざるを得なくなった。
この事件の後の周を東周といい、そのまえの周を区別の為に西周という。
そして、この後の時代を春秋時代と呼ぶのである。
これにより、周王室の権威は大きく失墜したが、しかしまだ春秋時代には権威が残っていた。
そこで、有力な諸侯は尊王攘夷(周王を尊び異民族を打ち払う)を唱えて、諸侯に同盟を呼びかけ、
その盟主となることで勢力を振るおうとした。
これが、覇者である。
その代表的な五人を、春秋の五覇といい、諸説あるが、
斉の桓公、晋の文公、宋の襄公、秦の穆公、楚の荘王、呉王闔廬、越王勾践などが言われている。
そのうち斉の桓公晋の文公だけは確定している。
私の個人的な見解では、荀子の説、
斉の桓公、晋の文公、楚の荘王、呉王闔廬、越王勾践を取るのがよかろうと思う。


於是桓公従之、乃詳為召管仲欲甘心、実欲用之。
ここにおいてかんこうこれにしたがふ。はうしゅくがかんちゅうをむかへうけ、だうふにおよんでしっこくをとき、さいふつしてかんこうにまみえしむ。
かんこうれいをあつくしてもってたいふとなし、まつりごとににんず。

管仲と鮑叔は、旧知の仲であり、この二人の強い信頼に基づく利害を超えた関係は、
管鮑の交わり」として名高い。
詳しいことは、ここ 史記 晏管列伝第二 管鮑の交わり を参照。


桓公既得管仲。与鮑叔・隰朋・高傒修斉国政、連五家之兵、設軽重魚塩之利、以贍貧窮、禄賢能。斉人皆説。
かんこうすでにくわんちうをえたり。はうしゆく・しうほう・こうけいとせいのこくせいををさめ、ごかのへいをつらね、けいちようぎよえんのりをまうけ、もってひんきうをたし、けんのうをろくす。せいひとみなよろこぶ。

「修」は"整える"。
「五家之兵」というのは、管仲の定めた兵制らしい。
詳しいことは、調査中。
「軽重」は物流や貨幣に関する政策や理論。
「贍」は"救貧する"。
「説」は「悦」に通じる。


総括

管仲は最終的には斉の宰相となった。 管仲は桓公よりさきに死に、そのとき、桓公が自分のお気に入りの臣易牙・公子開方・豎刁を次の宰相にどうかと
聞いたところ、三人ともやめた方が言いといったのだが、
結局桓公はその三人を重く用いた。
ところで、公子の中で、後継ぎとなるものを太子というが、
生前の桓公・管仲は太子を昭と決め、後見人に宋の襄公をつけていた。
しかし、桓公の死後、易牙・豎刁の二人が公子無詭を無理矢理君主につけてしまい、
太子昭は宋に出奔した。
この処置には当然反対の声があがり、無詭・元・潘・商人・雍の五人の公子が争うことになった。
そのために桓公の死体は60日以上も放置され、
混乱を収めた無詭が納棺を行なおうとしたときには、うじがわいて隣の部屋まで達していたという。
その後、宋の襄公が太子昭を斉侯につけるため、
斉に攻め入り、これを恐れた斉人が、無詭を殺したため、結局は太子昭が君主となり、孝公となった。
しかしこの混乱の為、斉は国力が落ち、斉の栄華は一代で終ってしまった。

桓公も、管仲を失った後は、佞臣を重用してしまった為に、斉の栄華を終らせてしまったのである。
桓公が管仲の死後重用した三人の臣には、すでに佞臣となるべき徴候がみられていた。
そのために管仲はその重用に反対したのである。
易牙は本来は料理人で、自らの子を烹殺し料理に出して気に入られた人物であり、
公子開方も衛の公子であったが、父に背いて斉に仕えるようになった人物、
豎刁も君主に近づく為自ら去勢してに宦官になった人物である。



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