先づ隗より始めよ
-まづかいよりはじめよ-
I think; therefore I am!


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本文(白文・書き下し文)
燕人立太子平為君。是為昭王。
弔死問生、卑辞厚幣、以招賢者。

問郭隗曰、
「斉因孤之国乱、而襲破燕。
孤極知燕小不足以報。
誠得賢士与共国、以雪先王之恥、
孤之願也。
先生視可者。得身事之。」

隗曰、
「古之君、有以千金使涓人求千里馬者。
買死馬骨五百金而返。
君怒。
涓人曰、
『死馬且買之、況生者乎。
馬今至矣。』
不期年、千里馬至者三。
今王必欲致士、先従隗始。
況賢於隗者、豈遠千里哉。」

於是、昭王為隗改築宮、師事之。

於是、士争趨燕。

楽毅自魏往。
以為亜卿、任国政。
已而使毅伐斉、入臨淄。
斉王出走。
毅乗勝、六月之間、下斉七十余城。
燕人太子平を立てて君と為す。是れ昭王たり。
死を弔ひ生を問ひ、辞を卑くし幣を厚くして、以て賢者を招く。

郭隗に問ひて曰はく、
「斉孤の国乱るるに因りて、襲ひて燕を破る。
孤極めて燕の小にして以て報ずるに足らざるを知る。
誠に賢士を得て与に国を共にし、以て先王の恥を雪がんこと、
孤の願ひなり。
先生可なる者を視せ。身之に事ふることを得ん。」と。

隗曰はく、
「古の君に、千金を以て涓人をして千里の馬を求めしむる者有り。
死馬の骨を五百金に買ひて返る。
君怒る。
涓人曰はく、
『死馬すら且つ之を買ふ、況んや生ける者をや。
馬今に至らん。』と。
期年ならずして、千里の馬至る者三あり。
今王必ず士を致さんと欲せば、先づ隗より始めよ。
況んや隗より賢なる者、豈に千里を遠しとせんや。」

是に於いて、昭王隗の為に改めて宮を築き、之に師事せり。

是に於いて、士争ひて燕に趨く。

楽毅は魏より往く。
以て亜卿と為し、国政に任ず。
已にして毅をして斉を伐たしめ、臨淄に入る。
斉王出でて走る。
毅勝ちに乗じ、六月の間に、斉の七十余城を下す。

参考文献:「十八史略」明徳出版社 「精選新国語I古典編」明治書院 「漢文読本」大修館書店

現代語訳/日本語訳

燕の人は、太子平を即位させ君主とした。これが昭王である。
昭王は戦死者を弔い、生還者を見舞い、へりくだった言葉を使うようにし、給料を上げ、
それによって賢者を招こうとした。

昭王は郭隗にこのように聞いた、
「斉はわたくしの国、燕の混乱に乗じてこの国を襲い、破りました。
わたくしは燕が小さく、この恨みに報いるのに国力が足らないことをよくわかっています。
ぜひとも賢者を得て、その者たちと国を共同で治め、それによって先王の恥をすすぎたい、
これがわたくしの願いです。
先生はいい人を紹介してください。
ぜひともその人に師事したいと思います。」

郭隗はこのように言った、
「昔の君主に、千金もの大金を持たせ、宮中の雑用や清掃を行う涓人という役人に命じて、
一日に千里も走るというほどの名馬を買い求めようとした者がいました。
涓人は死んだ名馬の骨を五百金で買って帰りました。
その君主は怒りました。
涓人はこのように言いました。
『死んだ馬でさえ五百金もの大金で買うのです、まして生きた馬はなおさら高く買うでしょう。
名馬はすぐに来るに違いありません。』
まる一年もしないうちに、一日に千里も走るという名馬が三頭も来ました。
もし王が優れた人材を燕に招致したいと思うならば、まず私、隗から優遇し始められよ。
まして、私より賢いものが、どうして千里を遠いとして、燕に来ないでしょうか、いや来るにちがいありません。」

こうして、昭王は郭隗の為に立派な御殿を改築し、彼に師事した。

こうして、天下の賢士は争って燕に向かった。
楽毅は魏から赴いた。
昭王は彼を亜卿として、国政を任せた。
まもなく、昭王は楽毅に命じて斉を攻撃させ、斉都臨淄を占領した。
斉王は臨淄から出て逃げた。
楽毅は勝ちに乗じて、半年の間に、斉の七十余りの城を攻め落とした。

解説

燕人立太子平為君。是為昭王。弔死問生、卑辞厚幣、以招賢者。
えんひとたいしへいをたててくんとなす。これしょうおうたり。 しをとむらひ、せいをとひ、じをひくくしへいをあつくして、もってけんじゃをまねく。

太子とは王の後継ぎのこと。日本でも皇太子というが、それと同じ事。
為り」は"たり"とよみ、断定の意で"〜である"のように訳す。
「死」は戦死者、「生」は生還者、「辞」は言葉・文章、「幣」は貨幣の意である。




問郭隗曰、「斉因孤之国乱、而襲破燕。
かくかいにとひていはく、「せいこのくにのみだるるによりて、おそひてえんをやぶる。

「因(〜に因りて)」はこの場合は、"〜に乗じて"の意である。
」とは王侯が自らを卑下して言う。
『礼記』玉藻には、"小國之君曰孤"とある。

郭隗は燕王の教育顧問だった。

太子平(昭王)の父親噲王は乗せられ、宰相の子之に禅譲してしまった。
太子平はその家臣にされてしまったが、当然子之に不満を持つものも多くおり、内乱状態となった。
これが「孤之国乱」である。


孤極知燕小不足以報。誠得賢士与共国、以雪先王之恥、孤之願也。
こきはめてえんのしょうにしてもってほうずるにたらざるをしる。
まことにけんしをえてともにくにをともにし、もってせんおうのはじをすすがんこと、このねがいなり。

「士」は一般に優れた人物のことを指す。
(まこと-に)」は、事態が確実なことを表し、"本当に"などのように訳す。
(とも-に)」は、「与賢士(賢士と)」を略したものである。


先生視可者。得身事之。」
せんせいかなるものをしめせ。みこれにつかふることをえん。」と。

」は<可能>のほかに<願望>(ぜひとも/どうしても〜したい)の意もある。


隗曰、「古之君、有以千金使涓人求千里馬者。買死馬骨五百金而返。君怒。
かいいはく、「いにしえのきみに、せんきんをもってけんじんをしてせんりのうまをもとめしむるものあり。
しばのほねをごひゃっきんにかひてかえる。きみおこる。

この「」は"帰"であり、帰るという意味である。


涓人曰、『死馬且買之、況生者乎。馬今至矣。』
けんじんいはく、『しばすらかつこれをかふ、いはんやいけるものをや。うまいまにいたらん。』と。

」は抑揚の句法で用いられ、"〜でさえも"のように訳す。
だいたい、
"A且B、況C乎。[Aスラ且ツBス、況ンヤCヲや]"
→AでさえもBする、ましてCはなおさらだ
の形か、
"A且B、C安D(乎)。[Aスラ且ツBス、C安クンゾDセン(や)]"
→AでさえもBする、ましてCなどどうしてDしようか(いや、Dしない)
の形で用いられる。

死馬の骨は当然、ただの馬のものではなく、名馬のものである。
涓人が死馬の骨を五百金もの大金で買ったのは、
ただ天下にこの君主が名馬を求めていることを知らせるだけでなく、
その話題性から来る口コミの力によって、
それを宣伝する効果を増加させようという意図も見える。


不期年、千里馬至者三。
きねんならずして、せんりのうまいたるものさんあり。

「期年」とはまる一年の意。
「者」は上の語句・節を名詞化する働きがある。
」は、ただ"3"と言う意味を表すだけでなく、"たくさん"のような意味も持っている。
しかし、千里の馬がそのようにたくさんいる訳が無いので、ここは普通に"3"の意味でとるべきだろう。
むしろ、3頭でも多いと考えるべきである。


今王必欲致士、先従隗始。況賢於隗者、豈遠千里哉。」
いまおうかならずしをいたさんとほっせば、まずかいよりはじめよ。いわんやかいよりけんなるもの、あにせんりをとおしとせんや。」と。

この「」は仮定の意味で、"もし"のように訳す。
」は、起点・経由点を表す返読文字で「より」とよみ、"〜から、〜を通って"と訳す。
また、述語が形容詞である場合に前置詞{於,于,乎}を用いると、
比較の対象を表す意味になり、「より」と前置詞の目的語の下につける。

「始めよ」は、"自分(郭隗)を優遇し始めよ"の意である。


於是、昭王為隗改築宮、師事之。
ここにおいて、しょうおうかいのためにあらためてきゅうをずき、これにしじせり。

」には、当然"宮殿"の意味があるが、特に秦代以前は一般の住居を指す言葉であった。
これは、秦が天下を統一する前の話であるから、一般の住居を指す言葉として用いられているのだろう。


於是、士争趨燕。
ここにおいて、しあらそひてえんにおもむく。

」は、"ある所へ向かう"と言う意味と"帰従する"と言う意味がある。

ちなみに、昭王が即位し郭隗の進言により賢者を招いたのが B.C.311年で
張儀が、六ヶ国をまとめて秦に臣従させた年と同じである。


楽毅自魏往。以為亜卿、任国政。
がっきはぎよりゆく。もってあけいとなし、こくせいににんず。

亜卿」に関して
「亜」は"第2の・次ぐ"のような意味である。
孟子が、孔子が聖人であるのに対して「亜聖」と呼ばれたりするのと同じようなことである。
「卿」とは貴族の中でも相当位の高い貴族たちのことを言う。
今で言えば、大臣といったところだろう。
その下に「大夫」「士」といった階級が存在する。
で結局、亜卿とは卿に次ぐ官ということで、けっこう高官である。
外国から来た者が得るにしては、最高級であったと言ってよい。


已而使毅伐斉、入臨淄。斉王出走。
すでにしてきをしてせいをうたしめ、りんしにいる。

」は、完了(もはや・もう)の意味だけでなく、
事態や行為が時間的に近いことも示し、この場合は"間もなく・やがて"などのように訳す。
臨淄は斉の首都。



毅乗勝、六月之間、下斉七十余城。
きかちにじょうじ、りくげつのあいだに、せいのななじゅうよじょうをくだす。

「下」(下す)は攻めおとすの意。

楽毅が斉の七十余りの城を下したのは、 「城」ひとつは、県ひとつとみなしてよいだろう。
半年で、七十余りの県を占領したと言うのは相当にすごい話である。
どうやら燕に降るよう工作しながらやっていたらしい。
ちなみに、半年で攻め落とせなかったのは、「莒(きょ)」と「即墨(そくぼく)」のみであった。

この出来事があったのは B.C.284年で、宋滅亡の二年後、「完璧」の故事の一年前である。


総括
郭隗のたとえ話で、千里の馬とは楽毅などの賢士、死馬とはすなわち郭隗のことを指す。
郭隗なる人物は、そうとうな賢人であったと言ってよかろう。
なぜなら、自分の利益も引き出し、かつ君主や国の為にもなったからである。



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