★嘗遊楚、為楚相所辱。妻慍有語。
かつてそにあそび、そしょうのはずかしむるところとなる。
つまいかりてごあり。
「遊ぶ」とは遊説すること。
「為三A所二B 一(AのBする所と為る)」
は"AにBされる"という意味の、受身の句法。
「為楚相所辱」は楚の宰相の璧が紛失し、張儀に疑いがかかり、500回も鞭打たれたこと。
ちなみに楚では、宰相のことを「令尹(れいいん)」と言った。
「語有り」とは「遊説なんかしてるからこんなことになったのよ。」のようなことを言ったのだろう。
★儀曰、「視吾舌、尚在否。」
ぎいはく、「わがしたをみよ、なほありやいなや。」
妻はそれに対し「ちゃんとありますよ。」と答えた。
それに対し張儀は「舌さえあれば十分。」と答えたという。
それだけ弁舌に強い自信を持っていたのである。
★蘇秦約従時、激儀使入秦。儀曰、「蘇君之時、儀何敢言。」
そしんしょうをやくせしとき、ぎをげきしてしんにいらしむ。ぎいはく、「そくんのとき、ぎなんぞあへていはん。」と。
史記はこの事柄の背景について次のように説明している。ただし、これは事実ではないかもしれない。
蘇秦は、秦が南北六国の同盟を破壊するのを恐れた。
そこで彼は張儀に目をつけた。
張儀は蘇秦に面会したが、上の本文にもあるように、
蘇秦は張儀をわざと冷遇し、発奮させ、秦に行くように仕向けた。
だがこの後に、部下を派遣し張儀が秦に向かうのを、それとなく援助させた。
蘇秦と趙に復讐しようと秦に行った張儀であったが、
蘇秦が陰から張儀を援助していたことを知ると、蘇秦に恩義を感じた。
そこで「蘇君の時、儀何ぞ敢へて言はん。」という言葉が出てきたのである。
★蘇秦去趙而従解。儀専為横、連六国以事秦。
そしんちょうをさりてしょうとけぬ。ぎもっぱらおうをなし、りっこくをつらねてもってしんにつかへしむ。
張儀は専ら連衡を推進し、ついに 紀元前311年、六国を全て秦に従わせることに成功した。
しかし、直後に秦の恵王が死去し、不仲の太子が即位して武王となったため、すぐに連衡は霧散してしまった。