吾が舌を視よ、尚ほ在りや否や
-わがしたをみよ、なほありやいなや-
I think; therefore I am!


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本文(白文・書き下し文)
魏人有張儀者。
与蘇秦同師。
嘗遊楚、為楚相所辱。
妻慍有語。
儀曰、
「視吾舌、尚在否。」
蘇秦約従時、激儀使入秦。
儀曰、
「蘇君之時、儀何敢言。」
蘇秦去趙而従解。
儀専為横、連六国以事秦。
魏人に張儀といふ者有り。
蘇秦と師を同じくす。
嘗て楚に遊び、楚相の辱しむる所と為る。
妻慍りて語有り。
儀曰はく、
「吾が舌を視よ、尚ほ在りや否や。」と。
蘇秦従を約せし時、儀を激して秦に入らしむ。
儀曰はく、
「蘇君の時、儀何ぞ敢へて言はん。」と。
蘇秦趙を去りて従解けぬ。
儀専ら横を為し、六国を連ねて以て秦に事へしむ。
参考文献:十八史略 明徳出版社

現代語訳/日本語訳

魏の国に、張儀という者がいた。
蘇秦と同じ鬼谷先生に師事した。
かつて、楚に遊説した際、楚の宰相に恥をかかされた。
妻は怒って愚痴った。
張儀はこう言った、
「私の舌を見ろ、まだちゃんと在るか。」
蘇秦が南北六国の同盟を結んだとき、彼は張儀を怒らせて秦に行くよう仕向けた。 張儀はこう言った、
「蘇君が健在なうちは、彼の策に反するような発言は決してしない。」
蘇秦が趙を去って、南北六国の同盟は崩れた。
張儀は専ら連衡を推進し、南北六国をあわせて秦に仕えさせた。

解説

魏人有張儀者。与蘇秦同師。
ぎひとにちょうぎといふものあり。そしんとしをおなじくす。

蘇秦と同じ師とは、縦横家の祖、鬼谷子のことである。



嘗遊楚、為楚相所辱。妻慍有語。
かつてそにあそび、そしょうのはずかしむるところとなる。
つまいかりてごあり。

「遊ぶ」とは遊説すること。
「為A所(AのBする所と為る)」 は"AにBされる"という意味の、受身の句法。

「為楚相所辱」は楚の宰相の璧が紛失し、
張儀に疑いがかかり、500回も鞭打たれたこと。
ちなみに楚では、宰相のことを「令尹(れいいん)」と言った。
「語有り」とは「遊説なんかしてるからこんなことになったのよ。」のようなことを言ったのだろう。


儀曰、「視吾舌、尚在否。」
ぎいはく、「わがしたをみよ、なほありやいなや。」

妻はそれに対し「ちゃんとありますよ。」と答えた。
それに対し張儀は「舌さえあれば十分。」と答えたという。 それだけ弁舌に強い自信を持っていたのである。


蘇秦約従時、激儀使入秦。儀曰、「蘇君之時、儀何敢言。」
そしんしょうをやくせしとき、ぎをげきしてしんにいらしむ。ぎいはく、「そくんのとき、ぎなんぞあへていはん。」と。

史記はこの事柄の背景について次のように説明している。ただし、これは事実ではないかもしれない。

蘇秦は、秦が南北六国の同盟を破壊するのを恐れた。
そこで彼は張儀に目をつけた。
張儀は蘇秦に面会したが、上の本文にもあるように、
蘇秦は張儀をわざと冷遇し、発奮させ、秦に行くように仕向けた。
だがこの後に、部下を派遣し張儀が秦に向かうのを、それとなく援助させた。
蘇秦と趙に復讐しようと秦に行った張儀であったが、
蘇秦が陰から張儀を援助していたことを知ると、蘇秦に恩義を感じた。
そこで「蘇君の時、儀何ぞ敢へて言はん。」という言葉が出てきたのである。


蘇秦去趙而従解。儀専為横、連六国以事秦。
そしんちょうをさりてしょうとけぬ。ぎもっぱらおうをなし、りっこくをつらねてもってしんにつかへしむ。

張儀は専ら連衡を推進し、ついに 紀元前311年、六国を全て秦に従わせることに成功した。
しかし、直後に秦の恵王が死去し、不仲の太子が即位して武王となったため、すぐに連衡は霧散してしまった。




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