マケドニアの王で、父はフィリッポス二世。 エパミノンダスの元に人質に出されていたことがあった。 B.C.334年、コリント同盟の盟主として、 東方のアケメネス朝ペルシアへの遠征を開始。 勝利を重ね、ペルシア王ダレイオス3世を倒し、 インド近くまでを征服する。 ギリシアとペルシアの文化の融合を目指した政策を行い、 その結果生じた文化をヘレニズム文化という。 B.C.323年6月、熱病により急逝する。 東方遠征の詳しい事情については、 史 総合 アレクサンドロス大王とマケドニアのファランクスを参照あれ。 参考: 史 総合 アレクサンドロス大王とマケドニアのファランクス alias,アレクサンダー大王 アレクサンドロス3世(AlexandrosV)
「晏」が姓「平」が諡(おくりな)、仲」が字(あざな)「嬰」が名。 斉の霊公・荘公・景公に仕え、宰相までになった。 管仲とともに斉の名宰相として知られる。 詳しい事情は、 史記 晏管列伝第二 晏子 参考: 史記 晏管列伝第二 晏子 論語 公冶長第五 晏子評 秦史3 alias,晏嬰
アレクサンドロス大王麾下の将軍で、フリギア太守をしていた。 その死後、分裂した帝国の統一を目指して戦い、 いち早く王を自称した。 イプソスの戦いでセレウコス・リュシマコスに敗れ、戦死する。 孫のアンティゴノス2世がマケドニアの支配を確立し、 アンティゴノス朝マケドニアを作り上げる。 参考: 史 総合 アレクサンドロス大王とマケドニアのファランクス alias,無し