公冶長(抄)
-第五-
I think; therefore I am!


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一を聞きて以て十を知る

本文(白文・書き下し文)
子謂子貢曰、
「女与回也、孰愈。」
対曰、
「賜也、何敢望回。
回也、聞一以知十。
賜也、聞一以知二。」
子曰、
「弗如也。
吾与女、弗如也。」
子子貢に謂ひて曰はく、
「女と回とは、孰れか愈れる。」と。
対へて曰はく、
「賜や、何ぞ敢へて回を望まん。
回や、一を聞きて以て十を知る。
賜や、一を聞きて以て二を知る。」と。
子曰はく、
「如かざるなり。
吾と女と、如かざるなり。」と。
参考文献:「古典I改訂版漢文編」稲賀敬二 森野繁夫 第一学習社 「論語」藤堂明保 学習研究社

現代語訳/日本語訳

先生が子貢におっしゃった、
「おまえと顔回とでは、どちらが優れているだろうか。」
子貢はこうお答えした、
「私がどうして顔回より優れていると思いましょうか、いや思いません。
顔回は、一を聞けばそこから十のことまで知ります。
私は、一を聞いてせいぜい二を知るくらいです。」
先生はおっしゃった、
「顔回には到底及ばないさ。
私もおまえも顔回には到底及ばない。」


解説

子謂子貢曰、「女与回也、孰愈。」
ししこうにいひていはく、「なんぢとくわいとは、いづれかまされる。」と。

子貢は、端木賜[字は子貢]のこと。
弁舌に優れており、政治外交の才に富んだ人物であった。
孔子の名前が天下に広まったのは、子貢が孔子に従っていたからであった。
史記によると、斉が魯を攻めようとしたとき、孔子は子貢に諸国を遊説させ、
斉と呉が戦争するように仕向け、魯が攻め滅ぼされたのを防いだと言う記事がある。
(この話については異論も少なくない)
また、子貢は商売をして大金を稼いだと言う記事もある。
このことに関しては、孔子も述べている。
は、顔回[字は子淵]のこと。
孔子が最も高く評価した人物だったが、33歳で夭折した。

「女(なんぢ)」は「汝」や「爾」なんかと同じ意味。
「愈」は"優れている"。
「A与B、孰[形容詞]」で"AとBでは、どちらがより[形容詞]だろうか"の意。


対曰、「賜也、何敢望回。回也、聞一以知十。賜也、聞一以知二。」
こたへていはく、「しや、なんぞあへてくわいをのぞまん。くわいや、いちをききてもつてじふをしる。しや、いちをききてもつてにをしる。」と。

「対」は目上の人にお答えするということ。
「敢」は"進んで・大胆に・積極的に"等の意味と、反語のニュアンスを持っている。


子曰、「弗如也。吾与女、弗如也。」
しいはく、「しかざるなり。われとなんぢと、しかざるなり。」と。

「弗」は強い否定の語。
「弗如」は"及ばない"。



晏子評

本文(白文・書き下し文)
子曰、
「晏平仲善与人交、久而人敬之。」
子曰はく、
「晏平仲は善く人と交はり、久しくして人之を敬ふ。」と。
参考文献:「論語」藤堂明保 学習研究社

現代語訳/日本語訳

先生はおっしゃった、
「晏平仲は上手に人と付き合い、付き合いが長くなると人は彼を尊敬するようになった。」


解説

子曰、「晏平仲善与人交、久而人敬之。」
しいはく、「あんへいちゆうはよくひととまじはり、ひさしくしてひとこれをうやまふ。」と。

「善」は"上手に"。

晏平仲とは、斉の名宰相、晏子(晏嬰)のこと。
孔子が斉の景公に仕えるのに反対したが、考え方は孔子と似た所があった。



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