アレクサンドロス大王とマケドニアのファランクス
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ファランクス(重装歩兵密集隊)の誕生

ファランクス phalanxは、日本語には重装歩兵密集隊と訳されている。
紀元前7世紀ごろに、ギリシャのポリス polisにおいて確立された。

ドーリア人 Doriansの南下の後、ミケーネ文明 Mycenaeは滅び、
その後400年間、混乱によりその歴史がよくわからないという、いわゆる暗黒時代がはじまった。
しかし、暗黒とはいっても、B.C.800年頃成立したといわれるホメロス Homerosの叙事詩
「イリアス」「オデュッセイア」などから、ある程度の状況はわかる。
それによると、王がおり、祭祀と軍の指揮権を持っていたが、貴族の力が強く、
B.C.8世紀ごろにポリスが成立しても、しばらくはその状況が続いたようである。
貴族たちは血統を誇り、馬を飼い、土地や家畜・奴隷などを所有してあらゆる面で平民を圧倒していた。
当時のポリス社会の戦争では、武具は自腹で購入するものであり、しかもそれらは高価であった。
そのため、軍の主力は、貴族たちの重装騎兵にならざるを得なかった。
しかし、リディア Lydiaにおいて初の鋳造貨幣が作られ、それがギリシャに伝わると、商業が活発になり、
それに乗り遅れた下層市民が土地を失って借財に苦しむようになった一方、
富裕化する平民も増え、彼らが国防の一端を占めるようになった
その後、商業の発展が工業の発展を促し、武具は軽く、安くなり、歩兵となりえる平民の数も増え、
また以前よりも多くの兵力が必要となったため、B.C.7世紀(B.C.700-601)ごろから、それまでの戦術に替わり、
ファランクス phalanx(重装歩兵密集隊)が、軍の主力となった。

ギリシャのファランクスは、重装歩兵(ホプリタイ)によって構成されていた。
ホプロンという重い盾を連ねて密集し、兜・脛当てなどを装備し、槍で攻撃した。
盾は右半分を自分を守るために用い、左半分は隣の戦友を守るために用いた。
これにより、ポリス市民は仲間の市民とまさしく一心同体となり、連帯感を大いに高めた。
戦闘の際は、歩調を合わせて正面から衝突し、盾の隙間から、敵の弱点を突こうとした。
さらに、槍で盾の隙間を大きくしようともして、
それが成功した場合には、その間から剣で敵兵を刺した。
ファランクスのつくるこの一体化した集団は、
もはや結晶性の塊のようなものであり、その衝撃力は相当なものであった。
しかし、装備する兜が耳をすっぽり覆ってしまうので、
司令官の命令もよく聞こえず、また、一度前進を始めると、途中で止めるのは、ほぼ不可能であった。
このことがギリシャにおける戦術の発展を阻害し、
後にギリシャがエパミノンダスの新戦術に席巻されることになる土台となった。
また、ひとたび隊列が崩壊すれば、どうしようもなく、兵士の精神も崩壊し、敗北は必至、
逃走する際も、装備が重いだけに、軽装歩兵にすぐに追いつかれて背中に攻撃を受けることが多かった。
そして、投擲兵器に対しては無力であった。



テーベの名将エパミノンダス

スパルタ Spartaはペロポネソス戦争 Peloponnesian Warで、ギリシャの覇権をアテネ Athenaiから奪った。
しかし、次第にテーベ Thebesが勢力を強め、B.C.371年レウクトラ Leuktraの戦い
名将エパミノンダス Epaminondasの下、スパルタを破り、ギリシャに覇を唱えるに至った。
このとき、エパミノンダスは、"梯形陣"や"斜線陣戦術"などと呼ばれる
新戦術により、圧倒的劣勢を覆してスパルタに勝利したのであった。

そして、このテーベに、3年間人質として滞在していたのが、
アレクサンドロス大王の父親たる、フィリッポス2世 PhilipposUであり、
彼は、この三年間の滞在のうちに、エパミノンダスの戦術の真髄を盗んで帰国し、
マケドニア Mecedonia国王に即位して、
後世に「マケドニアのファランクス」と呼ばれるようになる戦闘ドクトリンを作り上げた。


マケドニアのファランクス

マケドニアのファランクス Macedonian Phalanxは、1個約9000人の兵力を抱えており、
下の図のような構造をしていた。

主力は、中央の約4000名の装甲歩兵で、
左半分は刀で切れない厚いな装甲を装備した重装歩兵(ペゼタイロイ)
右半分が、矢を防げる程度の薄い装甲を装備した軽装歩兵(ペルタスタイ)である。

マケドニアの重装歩兵ペゼタイロイと呼ばれ、
装甲が厚いだけに、防御は強いが、機動力は弱く、戦闘においては、通常、動かず防御戦闘を行った。
この重装歩兵の踏ん張りが、戦闘の基盤になったのである。
また、サリッサとよばれる、約5〜6mもある槍を装備しており、
前から5列目までの兵士は、これを前方に構えた。
長いため、その穂先は、最前列よりもさらに前に突き出されたという。
6列目以降の兵士は、サリッサを上に構えて壁となし、矢や投石を防いだ。
この点、ギリシアの重装歩兵が投擲に対し無防備であったのと比べ、やはり優れていた。

重装歩兵の左には、防御に適したテッサリア重騎兵が配置された。
重装歩兵の側面の防御が重要な役割であっただろう。
ちなみにテッサリア Thessalyとは、マケドニアの南にある地方のことである。
この地方のポリスは、フォリスというポリスとその同盟市に長年苦しめられてきたが、
第二次神聖戦争のクロコスの会戦でフィリッポス2世の治めるマケドニアがフォキス軍に勝利したことから、
以後、マケドニアの最も忠実な同盟者となった。



軽装歩兵の右にいるのがカンパニオン騎兵[マケドニア重騎兵](ヘタイロイ)で、
マケドニアの青年貴族から選抜して選ばれ、
歩兵用の槍と同名の「サリッサ」と言う、これは3m弱の槍と、剣と、兜と胴着を装備していた。
攻撃に強く、また機動力もあるため、決定的な瞬間に投入され、
突撃して勝利を決定付ける役割を担った。

軽装歩兵は、装甲が薄いだけに、防御は弱いが、機動力が有り、比較的攻撃的な歩兵である。
重装歩兵より軽い防具・重装歩兵より長い槍(約4m)に、
重装歩兵より小型の盾、ペルテを装備したため、ペルタスタイと言われる。
右にいるカンパニオン騎兵と共同しながら攻撃しつつ、
迅速に機動するカンパニオン騎兵と機動力の弱い重装歩兵を接続する役割を担った。

また開戦当初は、投げ槍やバリスタ・投石器などを使う投擲部隊としても用いられ、
敵主力を混乱させる役割も担った。

前衛には、中央に弓を主な装備とした、約1000名の軽歩兵がおり、
両翼には、これまた弓を主な装備とした各々500騎の軽騎兵が配置された。
いずれも装甲をつけていないため、機動力が高かった。
特に軽騎兵のほうは、急斜面や川をも移動する軽快かつ機敏な部隊であり、
竜騎兵(ドラグーン Dragoon)とも呼ばれ、偵察や不正規戦闘を行なった。
また、後衛には、予備戦力として、または側面の防御として、約2000名の歩兵が配置された。

独立した大きな作戦では、これを四倍にした、兵力約36000人の大ファランクスを以て行なわれた。


フィリッポス2世

マケドニアは、長くギリシャに比べ後進国であったが、
フィリッポス2世のもとで、マケドニアのファランクスの導入・騎兵の増強などが行なわれ、
大いに軍事力が拡張された
そのころ、ギリシャでは、土地所有市民層が激減し、かつ力を失ったことや、
それによって土地所有市民による軍の維持が困難になり、傭兵が用いられるようになったことなど、
ポリス衰退の傾向が現われ始めていた。
マケドニアは、その軍事力やフィリッポス2世自身の卓越した外交手腕、さらにポリスの没落により、
ギリシャに勢力を伸ばすようになっていった。

B.C.339年マケドニアがアテネ Athenaiの同盟国ビザンチンを攻撃すると、
すぐさまアテネは援軍を出し、マケドニアと敵対関係に入った。
このころ、アテネでは弁論家デモステネス Demosthenesが反マケドニアの運動を起こしていた。
また、テーベ Thebesはマケドニア・テッサリア連合に対する脅威を感じていた。
フィリッポス2世も、テーベにマケドニア側につくよう説得しようとしたが、
結局デモステネスの雄弁がテーベをアテネ側につけた。
そしてB.C.338年、マケドニアとテーベ・アテネ連合は本格的に衝突した。
これがカイロネイア Chaironeiaの戦いであり、
結果はマケドニアの勝利に終わった。
かくして、フィリッポス2世は、コリント Korinthos同盟(ヘラス Hellas同盟)を結び、
自らはその盟主に収まって、ギリシャのポリスの支配者となった
彼はポリスを尊重するため、同盟という形をとったが、
いずれにせよ、実質的に、これはマケドニアによるポリス征服であった。

こんなフィリッポス2世だが、王妃オリュンピアスとの仲は悪く、
初めは、その間に生まれたアレクサンドロスの為にアリストテレスを招いたりしたが、
次第に二人の仲は険悪になっていった。
フィリッポス2世とオリュンピアスは離婚し、その後事件があったため、
アレクサンドロスとフィリッポス2世との仲は決裂したが、表面上の和解はなされた。
その後、フィリッポス2世がマケドニア貴族パウサニウスに暗殺され、
アレクサンドロスは20歳にしてマケドニア国王に即位した。


アレクサンドロス大王

アレクサンドロス大王 Alexander the Great(アレクサンドロス3世AlexandrosV)は、
上記のように先王フィリッポス2世とはわけありであったが、マケドニアのファランクスなど優れたものは受け継いだ。

アレクサンドロス大王が即位すると、ギリシャで反乱の気配が漂いだしたため、
彼は素早く行動を起こし、これを鎮めた。
大半は戦わずして降伏したが、テーベだけは抵抗したため、これを徹底的に破壊した。
そして、B.C.334年、コリント同盟の盟主として、ペルシア戦争におけるギリシャ浸入の報復を名目に、
東方のアケメネス Achaemenes朝ペルシアへの遠征を開始
した。

その年のうちに、グラニコス川において両軍が始めて相対し、
マケドニア軍の騎兵が装備していた長い槍が威力を発揮し、マケドニアが勝利した。
これをグラニコスの戦いという。
翌年B.C.333年、イッソス Issosの戦いでペルシア王ダレイオス3世 DareiosVが直接率いるペルシア軍を破った。
このとき、ダレイオス3世は、危機が迫り、敗北の気配を感じると、
王の権力の象徴や部下の部隊、家族をも捨てて逃走したといわれている。


制海権奪取

アレクサンドロス大王は、ここからアケメネス朝の中枢を攻めるのではなく、シリア方面に進軍した。
シリアには、ギリシャ人と海上貿易を競い、ペルシア艦隊の主力を担う存在である、
フェニキア人 Phoeniciansの拠点ティルス Tyrusがあった。
アレキサンドロス大王の軍は東地中海を通る海上に補給線をおいており、
征服を続けるにはこれを安全にせねばならず、
制海権を握るフェニキア人を屈服させる必要があったのである。
ティルスは、はじめはアレクサンドロス大王に敵対するつもりは無かった。
しかし、ティルスはカルタゴの母市であり、その援助が期待できたため、
また、ティルス城砦が難攻不落を誇っていたため、
アレクサンドロス大王に屈服するつもりもなかったのである。
ティルス城砦は、約50mの城壁と約80隻の海軍を擁し、
陸から約800m離れたところにつくられた、まさに難攻不落の城砦だった。
ティルスは、その自信から、アレクサンドロス大王の城砦入りを拒否した。
是に於いて、アレクサンドロスとティルスは、戦うことになったのである。

しかし、戦うにしても、アレクサンドロス大王は、有力な海軍と城壁の前に、
簡単に城砦に兵を送ることができなかった。
そこで、アレクサンドロス大王は、攻城に向かない騎兵と縦走歩兵を副将パルメニオンに託し、
ダレイオス3世の反撃を警戒させ、残りの兵で突堤を城砦まで築きあげることにした。
当然ながらフェニキア人の抵抗は極めて激しく、工事は何度も中断された。
アレクサンドロス大王は攻城塔を使って城砦からの投擲に対抗したが、
ティルスは爆弾船を作って突撃させ、攻城塔を破壊するなどして抵抗した。

だが、転機は訪れた。
アレクサンドロス大王の下に、シドン・キプロス・ロードスなどから来た、
旧ペルシア艦隊約200の援軍が到着したのである。
三度の戦いの後、マケドニア艦隊は、ついにティルス艦隊を封じ込めることに成功した。
行動の自由を得たマケドニア軍は突堤と海上からの二方面から攻撃を加えた。
攻撃開始より7ヶ月後、マケドニアの破城鎚がティルスの城壁を破り、
凄惨な市街戦の後、これを占領した。
住民はすべて奴隷にされ、売却されたという。

その後、アレクサンドロス大王は、エジプトに進軍した。
エジプトもペルシャ艦隊の一翼を担う存在である。
ここで彼は、ペルシアからの解放者として受け入れられた。
かくして、アレクサンドロス大王は東地中海の制海権を完全に掌握した
そしてここで最初のアレクサンドリア Alexandria市を建設し、奥地のアモン Amon神殿に参拝して
アモンの子、ファラオ Pharaoh(エジプトの王)の後継者であるとの神託を得たといわれている。
半年の滞在の後、ふたたびダレイオス3世を討つべく進軍を開始した。
最後まで抵抗したガザを2ヶ月の戦いの後、制圧し、
いよいよ、両軍はガウガメラにおいて会戦を行なうことになる。


ガウガメラの戦い

ガウガメラ Gaugamelaの戦いは、B.C.332年に起こった戦いで、アルベラの戦いともいわれ、
事実上、アケメネス朝ペルシアの滅亡を決定付けた戦いである。

ペルシア軍騎兵約3万、歩兵約25万
(100万という説もあるがいくらなんでも荒唐無稽な数値だと言える)に対し、
マケドニア軍は、はっきりとはわからないが、
騎兵約1万、歩兵約4万5千名
ほどであったという。
しかし、ペルシア軍は広大な領土から寄せ集められ、
指揮系統も統一されていない烏合の衆であったのに対し、
マケドニア軍は上記のとおり、非常に優秀な軍であった。

ダレイオス3世の作戦は、大鎌つきの戦車で、ファランクスをつぶし、
両翼の騎兵でこれを包囲殲滅
するというものであった。
彼は、イッソスの戦いより、アレクサンドロス大王に恐怖心を抱いていた。
また、マケドニア軍が少数であることから、夜襲をかけてくると予想し、
アレクサンドロス大王に対する恐怖心もあいまって、
全軍を会戦前夜に完全装備で一晩中待機させる行動に出た。
このため、会戦当日、ペルシア軍はすでに相当疲労していたものと予想される。
事実、マケドニア軍の副将パルメニオンは、夜襲するようアレクサンドロス大王に勧めていたが、
アレクサンドロス大王は「私は勝利を盗まない。」と言ってその策を退けたのである。
彼は、イッソスにおいてダレイオス3世が全てを捨てて逃げたことを覚えていた。
それゆえ、騎兵隊で、彼を直撃すれば勝てると思ったのであろう。
しかし、この例は奇襲に対する対応の難しさを示していると思われる。
奇襲に対する備えは、これを取らねば、必ず油断したときに奇襲され、敗北を招いてしてしまうが、
かといって部下部隊を常に警戒状態に置いておくと、疲労し、次第に油断が出てくる。
やはり中庸の道を取るしかないのだが、それを行なうのは、難しい。
ここでこれを補うために、情報が重要になってくるのである。

開戦当初、マケドニア軍右翼がペルシア軍左翼に攻勢に出た
そこでダレイオス3世は、逆に左翼前衛部隊にマケドニア軍右翼を包囲するよう指令した。
しかし、マケドニア軍右翼がそれを追い返した
つぎにダレイオス3世は、用意していた大鎌つき戦車65両の戦車隊にマケドニア軍中央への突撃を指令した。
マケドニア軍はこれと距離を取りつつ投げ槍で攻撃し、このほとんどを討ち取った
わずかに残った戦車の攻撃も、歩兵が素早く散開したため、空振りに終わり、
その戦車も戦列の後ろにいた兵士たちに討ち取られた。
この作戦の失敗は、ダレイオス3世を動揺させた。
古来、全滅まで戦う軍は珍しい。
それ故、テルモピレーにおける、レオニダス王以下のスパルタ兵数千人の壮絶な戦死が、
後世の語り草となっているのである。
すなわち、勝利は多く、退却によってもたらされるということである。
そして、退却は司令官の敗北の確信によって起こる。
故に、「愚将は物質を破壊し、名将は精神を破壊する。」ということになるのである。
この例は、期せずして動揺させたものだが、これが勝敗に与えた影響は小さくあるまい。

さて、ペルシア軍左翼は、マケドニア軍右翼を包囲する為に突出してしまい、中央との間に間隙ができてしまった
その間隙に、アレクサンドロス大王を先頭に、その率いる騎兵隊、続いて歩兵隊が、そこへ突入
ダレイオス3世を直撃すべく、その近衛騎兵隊に猛攻をかけた。
すると、戦闘によって巻き起こる戦塵により、視界は5mほどまでになった。
もとよりアレクサンドロス大王に恐怖心を抱いていたこともあり、また、作戦失敗による動揺もあり、
ダレイオス3世は恐慌に襲われ、部下の部隊を残したまま逃走しはじめた
事実上、ここが勝敗の決定点となった。
アレクサンドロス大王はダレイオス3世の追撃を開始した。

しかし、このためにマケドニア軍右翼は突出しすぎ、その間隙にペルシア軍騎兵が侵入した。
浸入したペルシア騎兵は、マケドニア軍の野営陣地を攻撃するが、これは守備隊が持ちこたえた。
ところが、このうちに副将パルメニオン率いるマケドニア軍左翼が、
ペルシア軍右翼に半包囲されて危機に陥り、アレクサンドロス大王に援軍を要請した。
そのこと、バクトリア州サトラップ satrap(アケメネス朝における地方長官)で、ペルシア軍右翼を率いるベッソスは、
ダレイオス3世が必死に逃走しようとするのを見て、退却を決意し、
そのうち、他の部隊にもダレイオス3世逃走の報が伝わり、ペルシア軍全軍が退却を開始した。
ダレイオス3世を追撃していたアレクサンドロス大王であったが、
パルメニオン危機の報を聞いたか、それとも夕暮れによるものか、急ぎ本隊への合流を目指した。
その途中、退却を図るペルシア軍部隊と、今回の会戦で最も熾烈な戦闘が起こった。
パルメニオン率いるマケドニア軍左翼は、防御戦闘に適したテッサリア騎兵の働きにより、
ペルシア軍退却まで、何とか持ちこたえ、退却後のペルシア軍陣地を占領した。
アレクサンドロス大王は、勝利を確認すると、ダレイオス3世追撃に向かったと言う。


続く東方遠征

ガウガメラの戦いで大勝したアレクサンドロス大王は、バビロン Babylon、スサ Susaと進軍し、
ダレイオス1世 DareiosIが造営を始めた
アケメネス朝ペルシアの儀式用の首都ペルセポリス Persepolisを焼き払った。
これは、ペルシア戦争の第3次ギリシア遠征のときに、
クセルクセス1世 XerxesTがアテネのアクロポリス acropolisを焼き払ったことに対する報復であった。
ダレイオス3世は、逃走しているうちに、エクバタナの地で、
バクトリア州サトラップたるベッソスに殺され、アケメネス朝ペルシアは完全に滅亡する。
こんなダレイオス3世であったが、アレクサンドロス大王は、
彼の死体をペルセポリスの歴代の王のもとに葬ってやったと伝えられている。

アレクサンドロス大王は、ペルシア軍を自らの麾下に吸収していったが、
それに不満を持つ若手将校らが彼の暗殺を企て、失敗した。
そのとき、騎馬軍団最高司令官フィタロスがそれに連座し、
その父で、多くの戦いで副将を務めてきたパルメニオンも、アレクサンドロス大王に暗殺されることになってしまった。
この事件を期に、アレクサンドロス大王はギリシア同盟軍を解散し、
以降はマケドニア兵とペルシア兵を率いて戦っていくことにした。

エジプトで受けた、アモンの子で、ファラオの後継者であると言う神託もあってか、
彼は、次第に自分が世界の征服者だというように考えるようになっていた。
そのため、最初の戦争の大義名分である、
アケメネス朝のペルシア戦争におけるギリシャ浸入の報復という目的を果たしても、
アレクサンドロス大王は、東方への遠征を続けた。
まずは、北のかたエクバタナを占領し、パルティア地方、バクトリア地方、サマルカンドと転戦し、
B.C.346年にはインダス川を渡河、パンジャブ地方の王ポロスを破るに至るが、
遂に兵士がこれ以上の進軍を拒否、やむなくアレクサンドロス大王はスサに帰還した。

アレクサンドロス大王は、次第に征服地をペルシア人の役人や、もとからいる民族に統治を委ねるようになり、
さらに、貴族の第一人者と言う性格のギリシャ的な王から、
東方的専制君主であるペルシア王の後継として振舞うようになった。
マケドニア人の中には、王に跪(ひざまず)いて礼をするという跪拝礼(きはいれい)を、
拒否して処刑されるものも出た。


ヘレニズム文化

アレクサンドロス大王は、ギリシアとペルシアの文化を融合させようと考えていた。
そこで、東方遠征の間、交易・軍事の拠点に70近くのアレクサンドリア市を建設し、
ギリシアからつれてきたギリシア兵などを植民させたり、
スサでは、自分を含めた1万人のマケドニア兵と、ペルシア婦人との婚礼を行なった。
こうして、ギリシア文化が伝播し、オリエントの伝統文化と融合して新しい文化が誕生した。
これをヘレニズム Hellenism文化といい、
ヘブライズム(ユダヤ教からの伝統を含めたキリスト教文化)とともに、
ヨーロッパ文化の2本の主柱となっていくのである。
日本でも、正倉院に納められた品物に、ヘレニズム文化の影響を見ることができる。


帝国の落日と残照

B.C.323年、反マケドニアの中心人物、弁論家デモステネスがギリシアに召還され、
ギリシア同盟軍は、ラミア戦争を起こし、ラミアにおいてマケドニア軍を包囲した。
同年6月、アレクサンドロス大王は熱病により急逝した。
このとき、後継者について尋ねられてこう答えたといわれている。
「最も王たるにふさわしいものに」。
かくして、アレクサンドロス大王の後継者(ディアドコイ diadokoi)の争いが始まった。

初め、アレクサンドロス大王の帝国は、
エジプトのプトレマイオス Ptolemaios
フリギアのアンティゴノス Antigonos
アジア地域のセレウコス Seleuchos
マケドニアのカッサンドロス、
トラキアのリュシマコス等によって分割された。
しかし帝国の分裂を決定付けたのは、B.C.301年のイプソスの戦いである。
この戦いは、アンティゴノスとセレウコス・リュシマコス同盟の戦いで、
後者が勝利し、アンティゴノスは多くの槍を受け壮絶な戦死を遂げた。
B.C.2世紀(B.C.300-201)の前半には、
プトレマイオス朝エジプト
アンティゴノス朝マケドニア
セレウコス朝シリアの三国鼎立の様相を示すようになった。
このなかでも、とくにプトレマイオス朝エジプトは、
古いエジプトの中央集権的支配と官僚制を受け継ぎ、
キプロス島を占領して東地中海の制海権を握り、
パピルス・穀物・塩の取引を国が独占して繁栄した。
首都アレクサンドリアは政治・文化の中心地として重要性を増した。
ちなみに、この王朝の最後の女王が、かの有名なクレオパトラである。

このディアドコイ戦争の時代、アケメネス朝ペルシアの治めていた領地、
特にエジプトなどでは、ほとんど反乱が起こらなかった。
これについては、マキャベリが、君主論の中で、一章を設けて詳しく述べている。

そして、アレクサンドロス大王の東方遠征(B.C.334)によって、
ギリシア人とその文化が東方の広大な地域に伝播した後から
プトレマイオス朝エジプトが亡ぶ(B.C.30)までの約300年間を、ヘレニズム時代という。



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