張儀
I think; therefore I am!


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張儀は、魏の出身であり、諸国を遊説していた。
楚に遊説していたとき、楚の宰相に壁を盗んだと疑われ鞭で打たれたことがあった。
家に帰って妻に遊説を責められたのでこのように言った「吾が舌を視よ、尚ほ在りや否や。」妻が笑ってあると答えると張儀は「足れり。」と答えた。

張儀は秦に遊説し、ついに恵文君(後に恵王)に重んじられるようになった。
説客の陳軫(ちんしん)と君寵を争っていた。
なお、史記では蘇秦の手引きで秦で用いられたとされているが、おそらく事実ではないだろう。
紀元前328年、恵文君は張儀らに命じ魏の蒲陽(ほよう)を包囲させてこれを下した。
張儀は恵文君に進言して蒲陽を魏に返還し公子を人質に送ったうえで、魏の恵王に説いて上郡(咸陽の北方のオルドス方面の手前の地域)の15県を秦に割譲させた。
張儀はこの功績により宰相に任命された。
今や宰相になった張儀は楚の宰相にこう書き送った。
「始め吾なんじに従ひて飲み、吾なんじの壁を盗まず。なんじ吾を笞(むちう)てり。なんじ善く汝の国を守れ。我顧ってなんじの城を盗まんとす。」
張儀と争っていた陳軫は楚に出奔し、将軍の公孫衍も張儀と不仲で魏に入った。

張儀は魏を秦の保護国とする構想を抱いていた。
翌紀元前327年、張儀は魏に焦・曲沃を返還した。
紀元前325年、張儀の進言により秦は王号を称すこととなった。 以後、恵文君を恵王(恵文王)と称す。
張儀が陝(せん)を攻略し、この地を魏に与えた。
秦が張儀の進言により王号を称するに至ると(楚は早くから王号を使用し、魏は恵王がすでに王号を使用し、斉も王号を使用していた。)、
魏は韓が王号を称することを認め、さらに公孫衍は趙・燕・中山を誘って5カ国を束ね、互いに王号を使用することを認め合った(五国相王)。
ここに、公孫衍が緩やかに束ねる三晋(魏・趙・韓)・燕・中山が秦・楚連合と斉に対抗する構図が出来上がった。
公孫衍は魏軍を率いて斉と承匡(しょうきょう)の地で戦ったが敗れた。
公孫衍は一時に失脚し、魏は敗戦を受けて張儀を通じて秦と和睦する方針に傾いた。
張儀はこのなかで紀元前323年、楚・斉・魏と齧桑(けっそう)の地での会盟を主催し、公孫衍が一時構築した5国の連合を打破した。
張儀は秦に戻ると宰相の任を外れ、翌年魏に入ってその宰相となった。
張儀は、魏を秦に臣従させ、諸国がこれにならうように仕向けようとしたのである。

だが、張儀の思惑通りにはなかなかいかなかった。
魏の国内では、公孫衍が張儀を失脚させる工作を盛んに行っていた。
公孫衍は説客を送り、韓の有力者公叔(こうしゅく)に説かせた。
張儀は秦と魏を同盟させたが、魏王が張儀を重んじるのは、ともに韓を攻め、韓の南陽の地を得たいがためであり、なぜ公孫衍に韓の国事を委ねてこれを止めないのか、と。
韓の公叔は公孫衍に国事を委ねるに至った。
また、この頃、洛陽出身の蘇秦(そしん)は燕に遊説し、趙と同盟を結ぶことで、趙からの攻撃を防ぎ燕を安泰にすることを説き、登用されていた。
蘇秦は燕から資金を得て、趙に赴き、燕と同盟させるため、秦に対抗する合従同盟を説いた。
蘇秦は趙でも用いられ、各国を回り合従同盟を説いていた。
韓王には「鶏口牛後」の成語を以て説得に当たった。
この情勢下で、魏王は張儀の言葉を聞かず、秦の恵王はこれに怒り、魏の曲沃と平周の地を奪った。
しかし、合従の機運はますます高まり、魏では張儀に代わって公孫衍が宰相に任じられ、
蘇秦は魏・韓・趙・楚・燕・斉の六国に合従同盟を成立させるに至り、蘇秦は趙より武安君に封じられた。
紀元前319年に魏の恵王が死去すると、張儀は秦に帰った。

紀元前318年、六国合従同盟は軍を発して秦を攻め、函谷関に迫った。
秦は樗里疾を起用して迎撃した。
樗里疾は合従軍を押し戻し、韓の修魚でこれを大破した。
韓将申差(しんさ)を虜にし、韓の太子奐(かん)と趙の公子渇(かつ)を破り、首級8万2千を挙げて大勝した。
秦に大敗した結果、合従同盟は動揺した。
秦は趙と韓を攻め、斉の湣王も魏と趙を討ち、その後さらに燕も攻めるようになった。
こうして蘇秦の合従は破綻した。

張儀は合従の崩壊を受けて魏の襄王を脅迫し、秦に仕える連衡を説いた。
魏の襄王はこれをやむを得ず受け入れ、張儀の取次ぎで秦に和睦を請い、秦についた。
紀元前317年、張儀は再び秦の宰相となった。
韓の公仲(こうちゅう)は韓王に、同盟国など当てにならず、秦に名都を1邑献上して和睦を請い、秦とともに楚を討つべき、と説いた。
韓王はこれを許し、公仲を出発させようとした。
楚の懐王はこの情報に接して陳軫に相談した。
陳軫は、「韓を助けると宣言し、軍を動かしているように見せ、使者を韓に送り、楚が韓を助けると信じ込ませるように」と進言した。
楚王がこの策を実施すると、韓王は公仲を引き止めて秦と戦う覚悟を決めた。

このとき、秦は蜀を攻めようとしていたが道が狭くて進展せず、そのうちに韓が攻めてきた。
張儀は、魏に加えて楚と結び、先に韓を攻め周王室を圧迫し、周王を擁して天下に号令するよう説いた。
一方、司馬錯(しばさく)は、蜀を討つことが容易であり、韓を攻めて周王室を圧迫することは不義であり、
しかも周王室が他国に救いを求めても止められないと説いた。
秦の恵王は司馬錯に同意し、紀元前316年に司馬錯に蜀を討たせて平定し、その王を蜀候として秦に従属させた。
紀元前314年、おそらく公孫衍の主導の元、魏は秦と戦っている韓と連合して連衡を放棄した。
秦は樗里疾を登用し、魏の曲沃を降し、岸門で魏・韓連合軍を首級1万を斬って大破し、公孫衍を敗走させた。魏と韓は連衡に応じた。

紀元前313年、秦の恵王と魏の襄王が臨晋(りんしん)で会同し、斉・燕を攻める約定が行われたものと考えられる。
この情勢に斉は楚と同盟して対抗しようとした。
当時はまだ秦の力が抜きん出ておらず、秦の恵王は対応を迫られた。
張儀がこの対応に当たることとなり、張儀を宰相から免じたと公式発表したうえで、張儀を楚に入らせた。
楚の懐王は張儀を厚遇し、自ら案内した。
張儀は、楚が斉と断交するならば、商・於の地(かつて商鞅が封じられた秦・楚の国境地帯)600里を楚に割譲し、
秦の公女を懐王に嫁がせるよう計らいます、と提案した。
楚の懐王は、一兵も使わずに600里の地を得られる、として歓喜し、張儀の提案を受け入れた。
楚の群臣はみなこれを慶賀した。陳軫のみは懐王に悔みを述べ、 表向き斉と断交し、ひそかに斉との交わりを保ち、土地を得てから断交しても遅くはない、と進言した。
懐王はこれを聴かず、張儀を楚の令尹(宰相)にし、斉と断交して、秦に戻る張儀に将軍一人を随行させた。

張儀は、秦に戻ると、わざと車から落下して三ヶ月にわたって参朝しなかった。
楚の懐王は、張儀は断交が不十分だと思っているのだろうか、と考え、勇士を送り斉王を罵らせた。
張儀は、斉・楚の断交が確実になったのを見て、参朝して楚の将軍に述べた。
「臣に奉邑六里有り。願わくは以て大王の左右に献ぜん。」
楚の将軍は、商・於の地600里の約束のはずが6里だというので、楚に帰って王に報告した。

楚の懐王は激怒し、秦に報復のため攻撃しようとした。
陳軫は、秦を攻めるより、むしろ秦に名都を贈り秦とともに斉を攻めれば斉から代償をとることができる、と進言し、
秦・斉の両方を敵にすれば天下の兵を招き入れることになる、と諫めたが、懐王は聴かなかった。
紀元前312年春、懐王は屈匄(くつかい)を大将軍とし、秦を攻撃させた。
秦は魏章(ぎしょう)を総大将とし、樗里疾・甘茂(かんも)らを登用し、
以前陳軫の策で楚に裏切られた韓と連合して、丹陽の地で楚軍を迎撃してこれを大破した。
斬首8万に及び、大将軍屈匄を筆頭に将校70人余りを捕虜とした。
甘茂(かんも)は漢中を攻略し、漢中郡が設置された。
楚の懐王は諦めきれず、国内の兵を総動員して再び秦を攻撃した。
藍田まで攻め込んだが、秦はここで楚軍を大破した。
魏と韓が、楚の隙を突いて南下して本国を攻撃したため、ついに楚の懐王も窮まり、2城を割譲して和睦するに至った。
こうして張儀は楚を打ち破り、かつての恨みを晴らしたのである。

秦は、商於の地を楚に与え、代わりに巴蜀の地の東側にある楚の黔中(けんちゅう)の地を獲得しようと望み、交換を申し入れた。
楚の懐王は、領土交換を望まないが、張儀を得ることができるならば、黔中を献上すると返答した。
もちろん、張儀に復讐することが目的である。
だが、張儀は懐王の寵姫に人脈があり、楚に行っても生還できる見込みがあると考えていた。
秦の恵王は張儀を送るのは忍びないと考えていたが、張儀は自ら楚へ行くと申し出て、
恵王に自らの見込みを説明し、ついに楚へ発った。
楚に着くと、張儀は捕えられたが、張儀と仲のよい靳尚(きんしょう)が張儀のために懐王の寵姫に、
秦王は張儀を救い出すため、土地と美女を贈るつもりであり、そうなったら秦からの美女を大事にすることになり、あなたは遠ざけられでしょう、と説いた。
そこで、懐王の寵姫は懐王に張儀を殺さないよう必死に説き、懐王はついに動かされて張儀を許し厚遇を与えた。

張儀は、釈放されたあと、楚の懐王に連衡策を説いた。
懐王は約束どおりに黔中を失うのが惜しくなり、張儀の連衡策を容れることにし張儀を返し、黔中を保持することにした。
張儀は韓に立ち寄り脅迫を交えて連衡を説いて韓王を説得した。
楚・韓を連行させた結果を秦に持ち帰り、張儀は徹候となり5邑に封じられ武信君の号を賜った。
張儀はさらに、斉・趙・燕を脅迫を交えて説き、合従をなした蘇秦をそしり、ついに六国の連衡を実現した。
張儀は、連衡の大成果を報告するため燕から秦に向かっていたが、紀元前311年その途中で恵王が死去した。
太子が即位して秦王として武王が立ったが、張儀は武王と仲がよくなかった。
張儀と武王の間に隙があることが広まったため、六国の連衡は霧散してしまった。
武王の意を知る群臣は日々張儀を謗った。紀元前310年、恐れた張儀は武王を説いて魏に入った。
紀元前309年、張儀は魏の地で死去した。

後に、李斯は始皇帝に外国からの客臣の功を説明する中で(諫逐客書)、このように述べている。
惠王張儀の計を用い、三川の地を抜き、
西のかた巴蜀を并せ、北のかた上郡を収め、
南のかた漢中を取り、九夷を包(か)ね、鄢(えん)(えい)を制し、
東は成皋(せいこう)の険に拠り、膏腴(こうゆ)の壌(つち)を割き、遂に六国の従を散じ、
之をして西面して秦に事へしめ、功施き今に到る。
ここに記載されていることは、すべてが張儀の功績ではないが、重要な貢献を行った客臣として名を残した。
参考:
秦史5 張儀の活躍
吾が舌を視よ、尚ほ在りや否や 十八史略



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