織田戦記1
織田氏の尾張統一
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織田家の伸張

 室町時代より尾張の守護は斯波(しば)氏が務めており、その守護代が織田氏であった。織田家も南北それぞれ岩倉城・清洲城を拠点とする2系統に分かれており、一方の清洲城を拠点とする織田氏には清洲三奉行と称される重臣がいた。織田信長の家系はその清洲三奉行の1つである。津島という有力な貿易港を有していたことが経済力の基礎となり、信長の父たる織田信秀の時代より、勢力を拡大していった。


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 織田信秀は、東の三河方面へ勢力を伸張させていく。1532年に那古野城(現在の名古屋城址内に当たるとされる)を今川氏豊より奇計を以て奪取した。翌1533年に、津島近くの勝幡城から那古野城の南にある古渡城へ拠点を移動した。さらに翌年の1534年に正室の長男として信長が生まれ、家臣を後見人として信長を那古野城に住まわせた。

 1540年には、松平氏が有していた三河の安祥城を攻略した。このころには、信秀は清洲城の織田達勝に臣従する形をとりながら、尾張最大の勢力となっていた。また、尾張北方の美濃では、斎藤道三が力をつけてきており、1542年には守護の土岐頼芸を追放して、事実上美濃を治めるようになった。信秀は土岐頼芸を保護して、1544年に朝倉氏と美濃に侵攻して、斎藤道三との戦いを始めた。1545年、松平広忠が安祥城の奪還を試みて攻撃してきたが、信秀は大勝した。

 1547年に信秀は松平広忠を攻め、耐えかねた松平広忠は駿河の今川義元に救援を求めた。その際、人質として送られることになった松平広忠の子が後の徳川家康である。家康は今川家へ行く途中で裏切りに会い、織田家の人質となった。これにより信長と家康は知り合うこととなる。松平氏は今川家の傘下に入ることとなり、信秀は今川義元との戦いにも突入していった。この年には美濃に攻め込んで、加納口の戦いにおいて斎藤道三に大敗を喫し、信秀は2正面で戦わなければならない危険な状況に追い込まれた。ちなみに、同年13歳の信長は三河方面で初陣を果たした。

 翌1548年、斎藤道三の方でも美濃三人衆の裏切りなどがあり、利害が一致したため、信長の後見役でもある平手政秀の働きにより、織田信秀と斉藤道三は和議を結び、道三の娘である濃姫が信長に嫁いで婚姻同盟が結ばれることとなった。信秀は三河により近い末森城に拠点を移し、今川義元の勢力伸張に対抗するため、三河に侵攻したが、小豆坂において敗北した。清洲城では織田信友が家督を継ぎ、信秀を攻めたが翌1549年には和解した。その1549には今川氏が2万の大軍を以て安祥城に2回にわたって攻め込み、2度目においてついに陥落した。こうして信秀は三河における拠点を失い、今川氏が三河を掌握した。このとき、信長の兄信広が捕らえられたため、家康と人質交換が行われた。以後、織田家は有数の大名となった今川義元の圧力に悩まされることとなる。

信長の尾張統一

 1552年、織田信秀が病死し、信長が家督を継いだ。信秀の勢力は信秀の存在によって保たれていた面もあり、また今川義元の勢力の伸張もあって、内憂外患のスタートであった。

 信長の父信秀が死去してから5ヵ月後、清洲城の守護代織田信友の家臣で、清洲城の実権を握っていた坂井大膳が信長に反旗を翻し、攻撃を仕掛けてきた。信長はすぐに出陣し、叔父の織田信光と合流してこれを破り、帥将坂井甚介を討ち取り清洲城に追い返した。

 翌1553年、信長の後見役でもあった平手政秀が自殺した。また、三河との国境に近い鳴海城の山口教継が離反して今川氏についた。信長は800ほどの兵を率いて出陣し、今川の援兵を含めた1500ほどの兵を率いる山口教継の子山口九朗二郎と赤塚の地で激戦を繰り広げた。彼我の戦力比は2倍近かったが、信長の軍勢はよく戦い、勝敗は決まらぬまま双方退いた。

 赤塚の戦いの後、信長の義父に当たる斎藤道三と会見することになった。当時19歳の信長の評判は「うつけ者」である。うつけらしい格好の信長を見た道三はそのままの状態で会見に臨んだが、信長は正装で登場し、道三は信長の器量を認めたという。またこの際700から800程度の供を同道させており、長槍500本・鉄砲500挺を備えていたという。おそらく、これこそ、赤塚の戦いで倍の敵に対し渡り合ったのと同じ部隊であり、以後の戦いでも活躍する信長直属の精鋭部隊である。前田利家はこれに属していた。兵農未分離の戦国時代には、兵士はまた農民でもあることが普通であったが、信長は職業軍人による常備軍を編成した。農業を行えない常備軍の兵士を維持するためには、当然彼らに給料を支払う必要があるが、それを可能にしたのは領内の商業都市からもたらされる収入である。信長の一族は津島という尾張有数の貿易都市を有しており、それにより800程度の戦力の職業軍人からなる直属部隊を当時から編成することができたのであろう。常備軍は高コストであり、また数をそろえることも難しいというデメリットもあるが、動員に時間がかからず、練度が高く、出兵によって農業生産に影響を与えず、また農業活動に軍事行動が左右されないというメリットがある。信長は、それによって得られる極めて高い機動力と練度の高さで、特に初期に、数的不利を乗り越えて戦果を挙げていった。信秀が死ぬ前から、信長は直属部隊の養成に努めていたと考えられ、当時よりただのうつけ者ではなかったと言えるだろう。

 翌1554年1月、今川義元は三河との国境に近い緒川城に対して、攻撃をかけるべく、村木に拠点を構築した。緒川城の水野信元は、国境地帯の重要な味方であり救援を決めた。しかしながら、清洲勢との対立があるため那古野城を空にできない信長は、斎藤道三に援軍を求めた。道三は1000程の兵を援軍に送り、那古野城の留守に守備してもらい、自らは叔父の信光とともに緒川城の救援に向かった。途中の鳴海城などが今川側であるので、海上を迂回した。暴風で荒れた日であったが、断固として船で移動した。信長・信光・水野信元の3者で3方向から村木の拠点を攻め、激戦の後、これを降伏させ、今川氏の進出を挫いた。

 同1554年7月、坂井大膳と守護代織田信友の傀儡となっていた守護の斯波義統が、信長を清洲城に引き込み坂井大膳らを排除しようと画策していたところ、察知され、息子の義銀が家臣をつれて出かけた隙に逆に坂井大膳に弑された。清洲城に戻れなくなった斯波義銀を那古野城に保護した信長は、守護代織田信友と坂井大膳らを討つ大義名分を手に入れた。斯波義統弑逆事件の6日後にはさっそく柴田勝家を出陣させ、攻撃をかけた。勝家は打って出てきた清洲城の軍勢を打ち破り、清洲城の有力者を討ち取った。

 翌1555年、坂井大膳は信長の叔父の信光を引き込むことを考え、守護代の職を与えて働きかけた。信光は清洲城へ入城したが、実は信長と内応の約束をしており、危険を察知した坂井大膳を出奔させ、守護代信光を守護殺害の咎で切腹させた。信光は信長に清洲城を引き渡し、代わりに那古野城に入った。尾張南部の半分を信光に分けるという約束がなされていたが、実行されぬまま、信光は半年後に家臣に殺された。実際のところは不明だが、この死は信長の謀略であるという意見も強い。那古野城には家老の林秀貞が入った。

 信長には同じ正室の母から生まれた弟として信行がいた。こちらは「うつけ」ではなく、家臣の信望もあった。信長が家督を引き継いだとき、すでに重臣であった柴田勝家・佐久間信盛らを付けられ、父信秀の居城であった末森城を与えられていた。1556年、林秀貞・柴田勝家の支持を得て、信行は信長に叛いた。庄内川の東側の支配を確立すべく、砦を構築しようとした。それを察知した信長は先に名塚の地に砦を構築し、佐久間盛重を守りに付けた。佐久間信盛も信行のもとを離れ、信長に与していた。

 名塚の砦を攻略すべく、信行は柴田勝家に1000、林美作守(秀貞の弟)に700ほどの兵を与え、出陣させた。信長も直属の精鋭700を率いて出陣し、両軍は稲生原の地で衝突した。信長の精兵は数的劣勢をものともせず勝家の軍勢に突撃し、これを壊走させた。続いて林美作守を攻撃し、信長自ら林美作守の首級を挙げ、戦いは信長の勝利に終わった。信行の下にいた母親が信長に許しを請ってきた。信長は林秀貞・柴田勝家ともどもこれを許した。

 この年1556年には、美濃で斎藤道三が長男の義龍を廃嫡しようとして叛かれ、長良川の戦いで戦死するという異変が起きた。信長は救援に向かったが間に合わず、小競り合いをしただけで撤退した。これにより信長は美濃と三河の両面が敵となる事態に追い込まれた。子供のできなかった濃姫は織田家中での立場が弱体化したと見られ、豪族生駒家宗(いこまいえむね)の娘が正室の立場を得ていく。翌1557年には、その生駒家宗の娘との間に長男信忠が誕生した。

 同1557年、信行が再び叛いた。信行は重臣を遠ざけるようになっていたため、柴田勝家は信行を見限り、信長に密かに通じてきた。信長は病気のふりをして清洲城に篭った。勝家や母の勧めで兄弟だからと信長の見舞いに来たところ、信行は殺害された。こうして一族の反乱分子を排除し、信長は尾張統一に近づいていった。同じころ、京都では後奈良天皇の崩御により正親町天皇が即位した。当時の朝廷は衰退しており、大名からの献金で即位の礼を執り行うことができたのは3年後になってのことだった。

 1558年、尾張北方の守護代であり岩倉城に拠る織田信安が長男信賢に追い出される事件が起き、信長はこれを機と捉え、攻撃を決意した。岩倉城の織田氏はすでに力を失いつつあったが、斎藤義龍の後援を受けて、信長に反抗していた。犬山城の従兄弟織田信清と合流した信長は浮野において完勝し、4割近くを討ち取った。これにより信長は尾張の大部分を事実上支配下に置いた。翌1559年、将軍足利義輝に謁見し、尾張守護の職を拝謁した。春には岩倉城を包囲して3ヶ月の攻城戦の後降伏させ、岩倉城を破却した。 これによって信長は尾張を事実上統一した。



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