青はこれを藍より取りて藍より青し(出藍の誉れ)
-勧学篇第一より-
I think; therefore I am!


サイト内検索

本文(白文・書き下し文)
君子曰、
「学不可以已。」
青、取之於藍、而青於藍、
氷、水為之、而寒於水。
木直中縄、輮以為輪、
其曲中規、雖有槁暴不復挺者、
輮使之然也。
故木受縄則直、金就礪則利、
君子博学而日参省乎己、
則智明而行無過矣。

故不登高山、不知天之高也、
不臨深谿、不知地之厚也、
不聞先王之遺言、不知学問之大也。
干越夷貉之子、生而同声、
長而異俗、教使之然也。

詩曰、
「嗟、爾君子、無恒安息。
靖共爾位、好是正直、
神之聴之、介爾景福。」
神莫大於化道、福莫長於無禍。
君子曰はく、
「学は以て已むべからず。」と、
青は、之を藍より取りて、藍より青く、
氷は、水之を為して、水より寒し。
木直くして縄に中るも、輮めて以て輪と為さば、
其の曲なること規に中り、槁暴有りと雖も復た挺びざるは、
輮むること之をして然らしむるなり。
故に、木、縄を受かば則ち直く、金、礪に就かば則ち利く、
君子博く学びて日に己を参省せば、
則ち智明らかにして行ひに過ち無し。

故に高山に登らざれば、天の高きを知らず、
深谿に臨まざれば、地の厚きをしらず、
先王の遺言を聞かざれば、学問の大なるを知らざるなり。
干越夷貉の子、生まれたるときは而ち声を同じくするも、
長ずれば而ち俗を異にするは、教へ之をして然らしむるなり。

詩に曰はく、
「嗟、爾君子よ、恒に安息すること無かれ。
爾の位を靖共し、是の正直を好み、
之を神とし之を聴き、爾の景福を介いにせよ。」と。
神、道に化するより大なるは莫く、福、禍無きより長なるは莫し。
参考文献:荀子上 藤道明保監修 戸川芳朗 関口順訳 学習研究社

現代語訳/日本語訳

昔の君子が言っている、
「学問は途中でやめてはならない。」と。
青は、藍草から取ってできるものだが、藍草より青く、
氷は、水が変化してできるものだが、水より冷たい。
木がまっすぐで定規にぴったり合うようでも、
湾曲させて輪にすれば、其の曲がりようはコンパスにぴったり合うようになり、
枯れて乾燥しても二度とまっすぐにならないのは、湾曲させることがそうさせたのである。
同様に木は定規に当てられれば、まっすぐになり、金属は砥石で磨かれれば鋭くなり、
君子は幅広く学んで一日に我が身を何度も振り返るならば、物事に通じ行動を誤らなくなるものである。

ところで、高い山に登ってみなければ天の高さを知ることはできず、
深い渓谷を間近に見てみなければ大地の厚さを知ることはできず、
古代に聖王の残した言葉を聞いてみなければ、学問の重大さを知ることはできないものである。
干や越、夷や貉といった異民族の子供らは、生まれたときは同じように産声を上げるが、
成長すれば異なった風俗を身に付ける、これは教育がそうさせているのである。

詩経にこうある、
「ああ、おまえたち君子よ、常に安逸をむさぼることがあってはならぬ。
自らの職責を全うし、その正しく嘘のないところを好み、
神的なものを畏敬してこれに従い、自分の大いなる幸いをさらに大きなものにせよ。」と。
ここにいう「神的なものを畏敬する」とは、聖人の学問に感化されることより重要でなく、
ここにいう「幸い」とは、災いのないことより良いものはないものなのだ。


解説

君子曰、「学不可以已。」
くんしいはく、「がくはもってやむべからず。」と。

ここでいう「君子」とは、具体的にはおそらく孔子のことであろうと見られているが、
このような内容を言っている人は他にもいるだろうから、
孔子のことだけを指しているものではないと思われる。

「君子曰く」からのかぎ括弧は、どこまでを含むのか曖昧でわかりにくく、
判断しかねたので「荀子上 藤道明保監修 戸川芳朗 関口順訳 学習研究社」の通りにした。



青、取之於藍、而青於藍、氷、水為之、而寒於水。
あおは、これをあいよりとりて、あいよりあおく、こおり、みずこれをなして、みずよりさむし。

ここの「為」は"変化する"の意。


木直中縄、輮以為輪、其曲中規、雖有槁暴不復挺者、輮使之然也。
きなおくしてじょうにあたるも、たわめてもってわとなさば、そのきょくなることきにあたり、こうばくありといへどもまたのびざるは、たわむることこれをしてしからしむるなり。

「中(あたル)」は"適合する・ぴったり合う"の意。
「縄」はすみなわであり、大工が直線を引く際に用いる道具。
訳では現代風に定規とした。
「槁暴(こうばく)」は"枯れて乾燥する"。
「輮」は"湾曲させる"。
「規」はぶんまわし、すなわち"コンパス"である。
「雖(いへども)」は"〜ではあるけれども"という確定的な譲歩と"たとえ〜でも"という仮定的な譲歩の意がある。
「挺」は"まっすぐに伸ばす"。
「然」は代名詞で"このようであること・そのようであること"の意。
漢文では名詞や代名詞などの語もそのまま述語となれる。
「不復」は部分否定で訳が"二度とは"、これが「復不」だと全部否定で"二度とも"の意になる。


故木受縄則直、金就礪則利、君子博学而日参省乎己、則智明而行無過矣。
ゆえにきじょうをうかばすなはちなほく、きんれいにつかばすなはちとく、
くんしひろくまなびてひにおのれをさんせいせば、すなはちちあきらかにしておこなひにあやまちなし。

漢文の「故に」はあまり意味が無く、英語の分詞構文のように適当な接続の仕方を考えて訳す。
「礪(れい)」は粗い砥石。
「利(とシ)」は"鋭い"。
「参省」は三省であり、論語「学而」にある曾参(そうしん)の言葉を受けていると考えられる。
詳しくは、論語 学而第一 三省を参照。
三には"数が多い"という意味もある。
「明」は"物事に通じているさま"、形容詞。


故不登高山、不知天之高也、不臨深谿、不知地之厚也、不聞先王之遺言、不知学問之大也。
ゆえにこうざんにのぼらざれば、てんのたかきをしらず、しんけいにのぞまざれば、ちのあつきをしらず、
せんおうのいごんをきかざれば、がくもんのだいなるをしらざるなり。

「遺言」は(いごん)と読む。


干越夷貉之子、生而同声、長而異俗、教使之然也。
かんえついばくのこ、うまれたるときはこえをおなじくするも、ちょうずればぞくをことにするは、おしへこれをしてしからしむるなり。

「干」は呉に併合された国。
「越」は呉との抗争で、臥薪嘗胆、呉越同舟、会稽の恥といった語を生み出した南方の異民族の国。
「夷」は東方、「貉(ばく)」は北方の異民族。


詩曰、「嗟、爾君子、無恒安息。靖共爾位、好是正直、神之聴之、介爾景福。」
しにいはく、
「ああ、なんじくんしよ、つねにあんそくすることなかれ。
なんじのくらいをせいきょうし、このせいちょくをこのみ、これをかみとしこれをきき、なんじのけいふくをおおいにせよ。」と。

儒家の本で「詩」といえば、ほぼ間違いなく「詩経」である。
詩経は五経のひとつであり、孔子が周代の詩を編集したもの。
「靖共」は仕事をまじめに勤めつつしむこと。
「正直(せいちょく)」は正しくて嘘の無いさま。
「介」は"大きい"、"小さい"という意味もある。
「景福」は"大きな幸い"。
「神(かみトス)」は"尊ぶ、重んじる、畏敬する"。
「聴く」は聴(ゆる)すということ、つまり"(意見などに)従う"という意味。


神莫大於化道、福莫長於無禍。
かみ、どうにかするよりだいなるはなく、ふく、かのなきよりちょうなるはなし。

「道」は"聖人の学問"。
「化」は"感化される、教化される"。

荀況は天には意思は無いとし、天意の存在を否定し、
諸侯の国が天下を統一することを理論的に正当化した。


総括

「青は藍より出でて藍より青し」「出藍の誉れ」の成語は荀子のこの部分に由来している。

この文で述べられていることは、次のことに集約できる。
すなわち、「人は学問によって矯正できる、だから学問をやらなければならない。
荀子はこの根拠付けに、性悪説(参考 人の性は悪なり)を採用した。



戻る
Top