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Eメール危険な古代史=古事記と易学〜古代天皇のトリキーな仕掛け

発見!想像を絶する真実の古代日本

もくじ

☆ プロローグ  1.暗号発見までの経緯 2.古代天皇と易六十四卦の序次〜謎めく数字137 3.神世と易六十四卦の序次〜円を描く皇統譜とその不合 4.『古事記』序文に隠されたメッセージ〜歴史を腐敗させた女帝 5.暗号解読[1]神武天皇と辛酉革命 6.暗号解読[2]持統天皇暗殺と不倫が不倫でない時代 7.暗号解読[3]41ピースのジグソー・パズル 8.暗号解読[4]男帝と女帝の二王朝に分裂していた時代 9.暗号解読[5]暗号が示す皇統譜の親子兄弟姉妹関係 10.暗号解読[6]女帝たちの壮絶な実態と母権制社会とは 11.暗号解読[7]母権制社会脱却の失敗 12.暗号解読[8]応神女帝から推古女帝までの正しい年代 13.暗号解読[9]神武男帝のクーデター、イザ!・オウ! 14.暗号解読[10]雄略男帝から聖徳太子までの真実 15.暗号解読[11]大化の改新〜父権制社会としての出発! 16.暗号が示す歴史の全容! 17.卑弥呼の正体は崇神女帝だった! 18.解明!雅楽器「笙」に伝わる「亡国の音」の秘密

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☆プロローグ

このコンテンツの内容は下記9本の動画にしてあります。
よろしければ御覧くださいませ。

初回の動画はイントロダクションも兼ねて、
危険な古代史!パス・コードは137と731〜古事記日本書紀のトリッキーな数字の仕掛け1です。

2回目は、神々&古代天皇と易六十四卦の危険な関係!古事記日本書紀のトリッキーな数字の仕掛け2として、
このプロローグから1.2.3.までを約40分にまとめました。

3回目は、太安萬侶が易者に託した危険な作戦!古事記日本書紀のトリッキーな数字の仕掛け3として、
4.を約20分にまとめました。

4回目は、持統天皇と〇〇の危険な情事!古事記日本書紀のトリッキーな数字の仕掛け4〜暗号解読として、
5.6.を合わせて約40分にまとめました。

5回目は、古代天皇の多くは、実は女性だった!古事記日本書紀のトリッキーな数字の仕掛け5〜暗号解読として、
7.8.を合わせて約40分にまとめました。

6回目は、古代女帝たちの不老不死の秘術!古事記日本書紀のトリッキーな数字の仕掛け6〜暗号解読として、
10.の内容を約55分にまとめました。

7回目は、大神神社、八幡神社の悲願!秘密の救世主ヤタ!古事記日本書紀のトリッキーな数字の仕掛け7〜暗号解読として、
11.12.を合わせると共に、少し話を広げて約1時間15分にまとめました。

8回目は、神武天皇は西暦450年頃の人物だった!古事記日本書紀のトリッキーな数字の仕掛け8〜暗号解読として、
13.14.の途中までを合わせて約1時間10分にまとめました。

9回目は、危険な古代史〜古代女帝政権の終焉!古事記日本書紀のトリッキーな数字の仕掛け9として、
15.を中心に約2時間にまとめました。

 

○ 76は蒙だ!

 日本古代史は謎に満ちている。
 『古事記』『日本書紀』の天照大御神などの神話や神武天皇に始まる皇統の歴史の大部分はまず事実とは言い難いし、中国側資料の『魏志倭人伝』の女王卑弥呼や、『宋書倭国伝』のいわゆる倭の五王が誰なのかもわからない。
 そもそもなんで『古事記』『日本書紀』と二種類の本が存在するのかも疑問だ。
 『古事記』は物語り風で内容も貧弱な印象、『日本書紀』は『古事記』の八年後に編纂され編年体で内容も豊富で格式ばった印象ということから、いわゆるデモ版としてまず『古事記』が作成され、それを手直ししたのが『日本書紀』ではないかと考えられているようだ。
 私もまあそんなものなのかなと思っていた。
 その後、『日本書紀』は国の正史として多くの人びとに読まれたが、『古事記』は基本的に顧みられることはなかったようだ。それが江戸時代、本居宣長が片隅に追いやられていた『古事記』を研究して『古訓古事記』と『古事記伝』を著すと、少しずつ『古事記』も人々の目に触れるようになったとのこと。
 明治になると活字で印刷されるようになり、さらに広く読まれるようになったらしいが、昭和に入り、軍国主義とともに禁書となり、政府にとって都合のよい部分だけ教え、都合が悪い部分は目に触れないようにした。
 そのため昭和初期に学校教育を受けた人たちは『古事記』『日本書紀』は日本の紀元を書いた重要な本だとは思っていても、実は何が書かれているのかまったく知らない、ということが往々にしてあった。
 戦後になると禁書は解かれたが、学校教育では、戦前と教える場所と教えない場所の位置が変わっただけで、相変わらず国民を『古事記』『日本書紀』から遠ざける方向にあり、それは現在も続いている。
 試験で出ないから読む必要はない、と言われれば、たいていは読まないだろう。しかし私は、ひねくれ者なので、試験に出ないからこそ読んでみたくなった。高校のときだった。
 読んでみると、確かに言われているようにいろんな謎があった。そんな謎を確認できただけでも読む価値はあったと思ったものだ。

 しかしあれから数十年、「易」を勉強するようになって数年経った頃、ひょんなことからその謎がスラスラ解けてしまったのだ!
 それは、
 1、『古事記』『日本書紀』は「易」の理論を乱数表として利用した暗号文書だった。
 2、両書の記述を「易」の理論と突き合わせれば、表面上の物語はすべて虚構であることがわかるとともに、隠された真実の古代史とその隠した理由が浮上する仕組みになっていた。
 3、真実の古代史は、隠したくなる気持ちもわからなくもないおぞましいものだった。
 ということである。
 これには驚いた!!!
 が、さらに興味深いことに、解読の過程で、宮中に伝わる雅楽の楽器「笙」の「亡国の音」という伝承もその意味が明らかになるとともに、この隠された真実の歴史では卑弥呼や倭の五王が誰なのかきちんと特定されるのだ!

 と言っても、これまで誰もそんなことは言ってないし、そんなことがあるわけない、と思うのが普通だろう。
 『古事記』『日本書紀』や日本文化の中には易の理論が深く浸み込んでいるらしい、といった指摘はときどきなされるが、それ以上にはこれまで誰も突っ込まないで来た。歴史研究者にしても、胡散臭い占いとしての認識も手伝ってか、わざわざ易を勉強する必要はない、といったスタンスなのかもしれない。実際に古代史関係で易に触れた本を読むと、孫引きで書いているような雰囲気のものばかりである。
 だからこれまで、誰も気づかなかったのだろう。

 そんな中、私はたまたま占いとしての易に興味を持ち、勉強する機会を得て、このサイトを作る程度に習得し、その上で『古事記』『日本書紀』のページをめくった。
 だから必然的に謎を解くことになったまでである。
 易占いをする人たちの多くは、占いが当たるか否かが興味の対象であって、古代史にはあまり関心がないようだ。仮に関心があったとしても、自分で『古事記』『日本書紀』を読んだことがある人は極めて少ないことだろう。読んでいればすでに誰か気づいているはずである。
 私の場合は、高校の頃から何度となく『古事記』『日本書紀』を読み返していた。
 寝る前にそういうものを読むのが好きだったのだ。近年の歴史解釈本ではなく原典を読むのである。
 日本史以外では司馬遷の『史記』、『論語』や五経(『詩経』『書経』『春秋左氏伝』『礼記』『易経』)などいろいろな漢籍を読みながら寝ることもあった。

 ある年の2月11日の建国記念の日から、寝る前のひととき、十年ぶりくらいに『古事記』を読むことにした。日本の誕生日に日本の紀元を再確認するため…といったところだ。何度も読んでいるので懐かしさを伴いつつページをめくっていた。その『古事記』はやがて読み終え、続いて『日本書紀』を読み始めた。
 『古事記』と『日本書紀』は、内容的にはほぼ同じことが書かれているのだが、『古事記』はどちらかと言えば物語り風、『日本書紀』は格式ばった歴史書といったトーンで『古事記』よりも詳しく書いているので、同じことの繰り返しになっても両方読んでそのトーンの違いを楽しむという気分もあったのだ。
 その『日本書紀』最初の神代の巻は数日で読み終わり、続いて神武天皇の巻に読み進んだとき、いつものように眠くなるまでと思ってページをめくっていたのだが、とある記述にとてつもない衝撃を受けた。そのときのことは今もはっきり覚えているが、確か3月の終わり頃の夜、時計の針は11時を指していた。
 それは、神武天皇即位前二年条にある「今運属屯蒙」という文節の中の「屯蒙(ちゅんもう)」という言葉に気づいたときだった。
 ハッ!とした。
 え!…まさか?…そんなのアリ?…でも、…だとすると、これがすべての謎を解く鍵だ!
 という思いが、瞬時に脳裏を過ぎった。

 屯蒙とは、一般には耳慣れないが、(えき)の本をちょっとでも開いたことがあれば、すぐに思い当たる言葉である。
 易の()の名前であって、易六十四卦(えきろくじゅうしか)の序次3番目の水雷屯(すいらいちゅん)と序次4番目の山水蒙(さんすいもう)のことである。
 前後の文脈から判断すれば、ここでのおおよその意味は、(ちゅん)は若く幼いこと、(もう)は暗く愚かなことである。

 ちなみに水雷屯は下卦の(雷)を動く、上卦の(水)を険難として、険難の中で動く、動こうとしても険難に阻まられる様子と捉え、「身動きが取れずに困惑して悩む」ということを示し、このようになるのは未熟者だからだとして「若く幼い」という意味を合わせ持ち、一方の山水蒙は上卦(山)を山、下卦(水)を霧として、山の下が霧で覆われていれば暗くて先がよく見えず、そんな中で何かをやろうとするのは賢明ではないので「暗く愚か」という意味になる。なお各卦の詳しい説明は究極の易経解説のページをご覧ください。

 したがってこの屯蒙という言葉を含む「今運属屯蒙」という文節は、「今運(いまよ)(わか)(くら)きに()いて」と()み「今の世の中は、まだ国家としての体制はなく、言わば幼く暗く愚かである」といった意味になる。
 もちろん、このように易の卦名(かめい)が文節の中に入っている、ということだけで「日本古代史の謎は易学で解ける」と確信したわけではない。
 この点については『日本書紀』研究で著名な津田左右吉(つだそうきち)(明治6〜昭和36)も、すでに指摘しているのであって、今更取り立てて言うほどのことではないのだ。
 それでもハッ!としたのは、神武天皇の歴史の最後のほうに、神武天皇は即位から76年目に崩御(ほうぎょ)した、とあることを思い出したからだ。ページをめくってその部分を確認すると、私の記憶どおりちゃんとそう書いてあった。
 屯蒙の蒙すなわち序次4山水蒙という卦を数字の組み合わせで表現すると、その76なのだ。
 したがって、この屯蒙という言葉は神武天皇の崩御年の数字と、とても深く繋がっていることになる。
 これが、ハッ!としないでいられるだろうか?
 神武天皇の時代は、易六十四卦の序次に当て嵌めると序次3水雷屯と序次4山水蒙の時代であって、その後者の序次4山水蒙が意味する数字の組み合わせを以って、崩御年が決められた可能性がある・・・。
 とすると、古代の天皇には、百歳を超える不自然な長寿の天皇が多数存在しているが、その不自然な長寿も、易と何か繋がりがあるのではないだろうか?という思いが頭を巡った。

 易については概略的なことしか知らないのであれば、例え津田左右吉のような学者であっても、気付かなくて当然だろう。だからこれまでの歴史学では、そこまで言及した例がなかったのだ。
 しかしそこそこ易を嗜んでいて、『古事記』『日本書紀』を何度となく読み返したことがある者なら、津田左右吉が世間を騒がした「天皇機関説」どころではない、とんでもない古代日本の秘密が潜んでいるかのような衝撃を受けるところだろう。
 実は私にしても、それまでに何度となくこの文言と接してはいたが、76年崩御という記述があることをすぐに思い出せず、特に重要なことではないと思い込んでいた。だから全く気にも留めなかった。
 しかし繰り返し繰り返し読んでいるうちには、そういったどうでもよい数字も、いつしか記憶の中に刻まれるのだろう。その結果、ついにその日、気づいたのである。
 気付いたときには一瞬目を疑った。
 まさか!そんことがあるわけがない!
 しかし、何度読み返しても、そう書いてある。
 眠気が一気に吹き飛んだ。
 居ても立ってもいられず、とにかくそれから易との関係を念頭に『古事記』『日本書紀』を調べ続けた。
 すると、どんどん頷けることが出てきた。
 ただ出てきただけではなく、それらは次第にある一定の法則にしたがっていることが明らかになっていった。
 結局、好奇心はつのるばかりで、いつしか二晩寝ずに調べ続け、ついにダウンしたのだった(笑)
 それからというもの、この意味を探ることに、暫らくとりつかれたかのようであった。

○ 137の意味?

 そもそも『古事記』の篇者太安萬侶(おおのやすまろ)や『日本書紀』の篇者舎人親王(とねりしんのう)等に、深い易の知識があったであろうことは、両書に易の本である『易経(えききょう)』からの引用も多いことから容易に理解できる。
 とすると、この両書は易の理論を紐解きながら読むべきものだとも言えよう。
 しかし、多くの歴史研究の場合、そのようなことは一切なされない。
 易のような低俗な占いなど知らなくても、文献をそのまま読めばそれで事は足りる、と考えているのだろうか・・・。
 それでも私は、蒙と76の関係を見せ付けられたこともあり、敢えて、易を紐解きながら読んだ。
 その結果、とんでもないことがわかったのだ。

 『古事記』『日本書紀』の表面上から読み取れる歴史は、おぞましい真実の日本古代史を封印するために作られたものだった。
 しかし、単にそういう歴史物語を書いたわけではなく、真実の歴史を教えるための暗号がところどころに仕込まれていた。
 その暗号とは、数字の矛盾や天皇や人の名前に使われている文字などであって、これらを易の理論にしたがって変換することにより、浮上する仕組みになっていたのである。

 暗号は普通に読んだのではそれと気づかずに見逃してしまうような歴代天皇の名前、崩御時の年齢、即位年などであって、それらを易の理論と対比しながら見て行くと、例えば次のような奇妙な数字の繋がりが浮上してくるのである。
 なお、その際に大事なことは、決して西暦は用いず、すべて皇紀=『日本書紀』による神武天皇即位年を元年とする暦法で考えることである。

 初代・神武天皇、皇紀元年即位(日本書紀)、137歳で崩御(古事記)。
 12代・景行(けいこう)天皇、皇紀731年即位(日本書紀)、137歳で崩御(古事記)。
 14代・仲哀(ちゅうあい)天皇、皇紀852年即位(日本書紀)、52歳で崩御(古事記・日本書紀)。
 『古事記』序文末にある撰進の日付、和銅(わどう)5年(皇紀1372年=西暦712年)正月28日

 神武天皇と景行天皇は、共に137歳で崩御したとあり、景行天皇の即位年は、この137を逆に並べた皇紀731年となっている。
 仲哀天皇の崩御時の年齢の52歳は、即位年の下二桁と同じ数字である。
 『古事記』撰進の日付から、数字だけ取り出すと、528で、順序が違うが仲哀天皇の即位年と同じ数字の組み合わせになる。と同時に、この撰進の日付の年は皇紀1372年だから「137が2」という暗号とすれば、137歳で崩御したとする天皇が二人いて、そのうちの一人は初代の神武、もう一人は即位年が731年の景行天皇である、ということと数字の上で一致する。
 『古事記』が崩御時の年齢を137歳とするのは、この二人だけである。
 これは偶然だろうか?

 それまで私が持っていた歴史認識では、まず、デモ版として『古事記』が作られ、その後、そのデモ版を踏まえつつも、もっと大掛かりな『日本書紀』が国の正史として編纂された、といったところだった。
 しかし、この『古事記』序文と『日本書紀』の神武即位年や崩御年齢との間には、『古事記』『日本書紀』篇者が互いに示し合わせた何らかの作為を感じないではいられない。
 が、いきなりこんなことを言っても、ご都合主義で、そう読めるところを並べただけだという批判も聞こえてきそうだ。
 まして、これまでの古代史関連の研究とは全く手法が異なる。
 易と日本はどう関わってきたのか、といったことも前提として確認しておきたい。
 そこで、具体的な話に入る前に、私が古代史に興味を持ったきっかけなども含め、その辺について、少し触れておこう。

○ 高校の頃の古代史観

 日本古代史のキーワードと言えば、邪馬台国(やまたいこく)卑弥呼(ひみこ)()の五王、聖徳太子(しょうとくたいし)、十七条の憲法、蘇我(そが)氏、大化(たいか)の改新、壬申(じんしん)の乱……、といったところだろうか。
 しかし、『古事記』『日本書紀』には、邪馬台国も卑弥呼も倭の五王も出て来ない。
 『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』『宋書倭国伝(そうしょわこくでん)』などの中国の文献にあるだけだ。
 なぜ、日本側の文献にはないのだろうか。
 『古事記』『日本書紀』が描く古代史は、やはり信憑性のないものなのだろうか。
 高校の頃、そんなことを考えながら、遊び半分で、初めて『古事記』『日本書紀』を読んでみた。
 確かに神武天皇が137歳まで生きて、崇神天皇が168歳まで生きて……なんていうことは有り得そうになく、さらには、仁徳(にんとく)天皇のまさに仁徳溢れる様子や、武烈(ぶれつ)天皇の猟奇的な行動なども、おとぎ話としては面白いが、歴史的事実だとするには、いささか不満が残った。
 これに対して、継体(けいたい)天皇以降になると、記事も豊富で現実的な内容になっていて、歴史書らしい。
 とすると、継体天皇以降は事実を書いたもので、武烈天皇以前は神話伝承みたいなものなのかな?
 と思ったものだ。
 古代史研究者の多くがそう捉えるから、学校の教科書でも、継体天皇以降は『日本書紀』の内容に即して教え、それ以前は中国の文献に書かれた日本の姿を中心に教えているのだろう。
 が、そうこうしているうちに、いつしか私の興味は古代史から音楽に移っていた。

○ 古代史→洋楽→雅楽

 最初は普通の音楽を普通に楽しんでいた。
 歌を歌ったりギターを弾いたり。
 しかし、音楽を楽しむようになると、日本人が作詞作曲をして日本人が歌ったとしても、西洋音楽の手法で作られた音楽で、どこまで日本的な美や心を織り込めるのだろうか?という疑問が湧くようになった。
 そこで、日本の伝統的な音楽に興味を持ち、縁あってとある雅楽(ががく)団体に通うようになった。
 その雅楽と接するようになって一年が過ぎた頃、再び『古事記』『日本書紀』を開くチャンスが訪れた。
 私が習ったのは篳篥(ひちりき)という楽器である。
 この篳篥という楽器は、洋楽のオーボエと同系統の楽器で、竹の筒に(あし)で作ったリードを挿して吹く楽器であって、主旋律を担当する。
 音色は赤ちゃんの鳴き声というか、悲鳴のような感じで、洋楽にはない味わいだ。
 譜面はカタカナで「チーラーロ、、ターアラ、アー」といったふうに表記されていて、このカタカナを歌いながらメロディーを覚える。
 西洋音楽とは全く異なる世界である。

 今の日本人は、私も含めて日本の伝統的なことはほとんど知らない。学校でも教わらないし、むしろ、そんなもの必要ない、と敬遠されているようでもある。
 実は、私にしても、ギターで遊んでいた頃に、イギリスのバンド、ザ・ルベッツの「シュガー・ベイビー・ラヴ」という曲に接し、たまたま悲鳴のような裏声で歌うことに興味を覚え、私も裏声は得意だったので、当時はよく口ずさんでいた。
 ちなみに最近、懐かしさもあり、久しぶりに歌って動画に撮ってみたので、よろしければご覧ください。
 とにかくその悲鳴のような裏声とどこか似ている篳篥の音色に魅力を感じ、習ってみようとしたのだった。

 実際に習ってみると、雅楽は西洋音楽とはリズムの取り方、間の取り方、音の高低など、基本的な部分からして、いろいろと違っていた。
 それがまた面白く、西洋音楽だけが音楽ではないのだ、ということを、肌身を以って知ることができるとても楽しい日々だった。
 レッスンの合間には、雅楽の歴史にも話は及んだ。
 雅楽を伝えて来たのは、楽家(がっけ)と呼ばれる人たちだ。
 東儀(とうぎ)(おおの)(その)(ぶんの)(うえ)(しば)安倍(あべ)・・・。
 昨今は、東儀秀樹氏の活躍で東儀家が特に有名だが、とにかくこのように、珍しい苗字の人たちが楽家なのだ。
 中でも格式の高いのが、多家と豊家だという。
 多家のルーツは太安萬侶、豊家のルーツは大津皇子(おおつのおうじ)である。
 太安萬侶と言えば『古事記』を編纂した人物であり、大津皇子は天武(てんむ)天皇の子で、天武天皇が崩御したときにクーデターを起こそうとして失敗し、謀反者として処刑された人物ではないか。
 高校時代に読んだ古代史が頭を過ぎり、再び暇を見つけては、『古事記』『日本書紀』を読んでいた。
 念のために言っておくが、私はまったく雅楽の家系とは関係ない。
 ある日、たまたまテレビで雅楽の演奏を観て、あの悲鳴のような篳篥の音色に興味を持ち、始めただけである。

 独特の音色、メロディー、リズムは、実際に演奏してみると、洋楽にはない心地よさに溢れていた。
 どうして、こんなに心地よいのだろうか・・・。
 そんな思いから、雅楽の楽理にも興味が湧いてきた。
 調べてみると、雅楽は陰陽五行(いんようごぎょう)易学(えきがく)とも密接な関係があることがわかった。
 そこで、易学に興味を持ち、とある易者の元に通い、易を勉強した。
 元々が占い好きだったので、いつしかのめり込んでいた。
 筮竹(ぜいちく)(さば)き方、算木(さんぎ)の並べ方、卦の見方、『易経』原文の読み方など、未知の世界に分け入ることがとても面白く、楽しい日々だった。
 考えてみると、今の日本人は、江戸時代まで培って来た文化と接する機会はほとんどない。それが、易や雅楽について、いろいろな誤解を生じてもいるようだ。
 易と日本人がどう接していたかも、ほとんど知られていない。
 世俗の占いだけではなく、天下国家の運営を判断するのが易の一番の役目であるとともに、かつては易の理論に従って国の制度も作られていたのだ。

○ 易と日本文化

 中学の頃だったか、日本史の時間に、奈良時代の「班田収受(はんでんしゅうじゅ)の法」というのを習った。
 田を「男には2(たん)、女にはその3分の2を与える」というものだ。
 なぜ、女は男の3分の2なのか?
 男女差別は当然の時代だったから、そうなのか?
 しかし、2分の1ではなく、4分の3でもなく、3分の2としたのは、なぜなのか?
 先生に質問しても、答えは「わからない」ということだった。
 まぁ、試験にも出ないどうでもよい疑問なので、結局は3分の2の理由はわからず、そのときはそのままになってしまった。
 それが、易の勉強を始めると、この疑問がすっきり解決してしまったのだ。
 易の基本は物事を(いん)(よう)に弁別して観察することであって、陽の基数は3、陰の基数は2、とされている。
 陽は男、陰は女、したがって、男女の比率は3対2、女は男の3分の2、となるのだ。

 雅楽の場合も、陽の属となる唐楽(とうがく)では、使用する管楽器は、篳篥・竜笛(りゅうてき)(しょう)の計3種類、陰の属となる高麗(こま)(がく)では、使用する管楽器は、篳篥と高麗(こま)(ぶえ)の計2種類、唐楽で使用する大太鼓の文様は三つ(どもえ)、高麗楽で使用する大太鼓の文様は二つ巴、といったように、陽は3、陰は2、という陰陽の基数によって整理されているのだ。
 なぜ、陽が3、陰が2、なのかについては、易学入門で書いているので、そちらを参照いただきたい。

 易と日本文化との関係は、このほかにもいろいろと覗われるが、それをいちいち取り上げてもきりがないので、あとひとつ、元号についてだけ触れておく。
 平成や昭和は『書経(しょきょう)』という本を典拠としているが、これまでの元号で一番典拠とされた回数が多いのが何を隠そう易の本である『易経』なのだ。
 列挙すると、大宝、霊亀、天平、天応、貞観、天徳、治暦、承徳、貞応、安貞、乾元、元亨、正中、正慶、貞治、嘉吉、文明、明応、天文、元和、慶安、貞享、元文、文化、元治、明治、大正がそうである。時代や典拠箇所についてはココをクリック

 神武天皇即位年を算出した辛酉(しんゆう)革命理論も、讖緯説(しんいせつ)という言葉で片付けられたりもするが、要するに易六十四卦中の序次49沢火革(たくかかく)と序次50火風鼎(かふうてい)の二卦から導き出されたものであるとともに、この両卦は序次3水雷屯や序次4山水蒙と密接な関係を持っているのである。神武天皇即位前二年条の「今運属屯蒙」の屯と蒙である。

○ 易と歴史改竄と乱数表

 ともあれ、易についてそこそこ知識を得たところで、たまたま仲間内で古代史が話題になったこともあって、懐かしさもあり、再び『古事記』『日本書紀』を寝物語に、手に取ったのである。
 そうしたら、冒頭で話したように、ハッ!と気付くことがあり、その真偽を検証せずにはいられなくなったのである。謎解きの魅力に取りつかれた、といったところだが、とにかくその結果、次のようなことがわかったのだ。

1 『古事記』『日本書紀』は、両書を合わせて初めて解読できるように作成された暗号文書である。
2 その暗号解読のための乱数表として、易の理論が利用された。
3 解読を試みると、その歴史改竄の理由と、改竄したくなる気持ちもわからなくないおぞましい真実の古代史が浮かび上がった。

 これから書くのはその暗号解読の過程と結果である。
 なお、易の理論の中から、暗号解読のための乱数表として使われる部分だけを抽出したのが「易の理論を応用した乱数表(ココをクリックするとポップアップで表示)」である。ただしスマホで閲覧するには大きくて不向きなのが心苦しい。表示する要素が多く、どうしてもスマホサイズに収まらないので、お許し願いたい。
 ともあれこの表は、必要に応じて呼び出せるように、随所にリンクを張ってあるので、今の段階では、チラッと眺めるだけで十分である。

 また、横書きで読みやすくするために、特に問題がない場合は、漢数字は算用数字に直し、漢字も新字体を積極的に使っている。
 簡略化のため、『古事記』は『記』、『日本書紀』は『紀』、『古事記』の神武天皇に関する記述であれば「神武記」、『日本書紀』ならば「神武紀」と略して表記することがある。

 さて、そろそろ本題に入ることにするが、そこそこ易のことを知っていて、特に説明がなくても「76は蒙だ」ということの意味をすんなり理解できるのであれば、この先を読む前に、自身で『古事記』『日本書紀』の暗号解読を試みるのも面白いと思う。
 あるいは、頭の固い私よりも深いところまで解読できるかもしれない。

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最終更新日:令和05年01月24日 学易有丘会
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