☆プロローグ
このコンテンツの内容は下記9本の動画にしてあります。
よろしければ御覧くださいませ。
初回の動画はイントロダクションも兼ねて、 危険な古代史!パス・コードは137と731〜古事記日本書紀のトリッキーな数字の仕掛け1です。
2回目は、神々&古代天皇と易六十四卦の危険な関係!古事記日本書紀のトリッキーな数字の仕掛け2として、
このプロローグから1.2..3.までを約40分にまとめました。
3回目は、太安萬侶が易者に託した危険な作戦!古事記日本書紀のトリッキーな数字の仕掛け3として、
4.を約20分にまとめました。
4回目は、持統天皇と〇〇の危険な情事!古事記日本書紀のトリッキーな数字の仕掛け4〜暗号解読として、
5.と6.を合わせて約40分にまとめました。
5回目は、古代天皇の多くは、実は女性だった!古事記日本書紀のトリッキーな数字の仕掛け5〜暗号解読として、
7.と8.を合わせて約40分にまとめました。
6回目は、古代女帝たちの不老不死の秘術!古事記日本書紀のトリッキーな数字の仕掛け6〜暗号解読として、
10.の内容を約55分にまとめました。
7回目は、大神神社、八幡神社の悲願!秘密の救世主ヤタ!古事記日本書紀のトリッキーな数字の仕掛け7〜暗号解読として、
11.と12.を合わせると共に、少し話を広げて約1時間15分にまとめました。
8回目は、神武天皇は西暦450年頃の人物だった!古事記日本書紀のトリッキーな数字の仕掛け8〜暗号解読として、
13.と14.の途中までを合わせて約1時間10分にまとめました。
9回目は、危険な古代史〜古代女帝政権の終焉!古事記日本書紀のトリッキーな数字の仕掛け9として、
15.を中心に約2時間にまとめました。
○ 76は蒙だ!
日本古代史は謎に満ちている。
『古事記』『日本書紀』の天照大御神などの神話や神武天皇に始まる皇統の歴史の大部分はまず事実とは言い難いし、中国側資料の『魏志倭人伝』の女王卑弥呼や、『宋書倭国伝』のいわゆる倭の五王が誰なのかもわからない。
そもそもなんで『古事記』『日本書紀』と二種類の本が存在するのかも疑問だ。
『古事記』は物語り風で内容も貧弱な印象、『日本書紀』は『古事記』の八年後に編纂され編年体で内容も豊富で格式ばった印象ということから、いわゆるデモ版としてまず『古事記』が作成され、それを手直ししたのが『日本書紀』ではないかと考えられているようだ。
私もまあそんなものなのかなと思っていた。
その後、『日本書紀』は国の正史として多くの人びとに読まれたが、『古事記』は基本的に顧みられることはなかったようだ。それが江戸時代、本居宣長が片隅に追いやられていた『古事記』を研究して『古訓古事記』と『古事記伝』を著すと、少しずつ『古事記』も人々の目に触れるようになったとのこと。
明治になると活字で印刷されるようになり、さらに広く読まれるようになったらしいが、昭和に入り、軍国主義とともに禁書となり、政府にとって都合のよい部分だけ教え、都合が悪い部分は目に触れないようにした。
そのため昭和初期に学校教育を受けた人たちは『古事記』『日本書紀』は日本の紀元を書いた重要な本だとは思っていても、実は何が書かれているのかまったく知らない、ということが往々にしてあった。
戦後になると禁書は解かれたが、学校教育では、戦前と教える場所と教えない場所の位置が変わっただけで、相変わらず国民を『古事記』『日本書紀』から遠ざける方向にあり、それは現在も続いている。
試験で出ないから読む必要はない、と言われれば、たいていは読まないだろう。しかし私は、ひねくれ者なので、試験に出ないからこそ読んでみたくなった。高校のときだった。
読んでみると、確かに言われているようにいろんな謎があった。そんな謎を確認できただけでも読む価値はあったと思ったものだ。
しかしあれから数十年、「易」を勉強するようになって数年経った頃、ひょんなことからその謎がスラスラ解けてしまったのだ!
それは、
1、『古事記』『日本書紀』は「易」の理論を乱数表として利用した暗号文書だった。
2、両書の記述を「易」の理論と突き合わせれば、表面上の物語はすべて虚構であることがわかるとともに、隠された真実の古代史とその隠した理由が浮上する仕組みになっていた。
3、真実の古代史は、隠したくなる気持ちもわからなくもないおぞましいものだった。
ということである。
これには驚いた!!!
が、さらに興味深いことに、解読の過程で、宮中に伝わる雅楽の楽器「笙」の「亡国の音」という伝承もその意味が明らかになるとともに、この隠された真実の歴史では卑弥呼や倭の五王が誰なのかきちんと特定されるのだ!
と言っても、これまで誰もそんなことは言ってないし、そんなことがあるわけない、と思うのが普通だろう。
『古事記』『日本書紀』や日本文化の中には易の理論が深く浸み込んでいるらしい、といった指摘はときどきなされるが、それ以上にはこれまで誰も突っ込まないで来た。歴史研究者にしても、胡散臭い占いとしての認識も手伝ってか、わざわざ易を勉強する必要はない、といったスタンスなのかもしれない。実際に古代史関係で易に触れた本を読むと、孫引きで書いているような雰囲気のものばかりである。
だからこれまで、誰も気づかなかったのだろう。
そんな中、私はたまたま占いとしての易に興味を持ち、勉強する機会を得て、このサイトを作る程度に習得し、その上で『古事記』『日本書紀』のページをめくった。
だから必然的に謎を解くことになったまでである。
易占いをする人たちの多くは、占いが当たるか否かが興味の対象であって、古代史にはあまり関心がないようだ。仮に関心があったとしても、自分で『古事記』『日本書紀』を読んだことがある人は極めて少ないことだろう。読んでいればすでに誰か気づいているはずである。
私の場合は、高校の頃から何度となく『古事記』『日本書紀』を読み返していた。
寝る前にそういうものを読むのが好きだったのだ。近年の歴史解釈本ではなく原典を読むのである。
日本史以外では司馬遷の『史記』、『論語』や五経(『詩経』『書経』『春秋左氏伝』『礼記』『易経』)などいろいろな漢籍を読みながら寝ることもあった。
ある年の2月11日の建国記念の日から、寝る前のひととき、十年ぶりくらいに『古事記』を読むことにした。日本の誕生日に日本の紀元を再確認するため…といったところだ。何度も読んでいるので懐かしさを伴いつつページをめくっていた。その『古事記』はやがて読み終え、続いて『日本書紀』を読み始めた。
『古事記』と『日本書紀』は、内容的にはほぼ同じことが書かれているのだが、『古事記』はどちらかと言えば物語り風、『日本書紀』は格式ばった歴史書といったトーンで『古事記』よりも詳しく書いているので、同じことの繰り返しになっても両方読んでそのトーンの違いを楽しむという気分もあったのだ。
その『日本書紀』最初の神代の巻は数日で読み終わり、続いて神武天皇の巻に読み進んだとき、いつものように眠くなるまでと思ってページをめくっていたのだが、とある記述にとてつもない衝撃を受けた。そのときのことは今もはっきり覚えているが、確か3月の終わり頃の夜、時計の針は11時を指していた。
それは、神武天皇即位前二年条にある「今運属屯蒙」という文節の中の「屯蒙」という言葉に気づいたときだった。
ハッ!とした。
え!…まさか?…そんなのアリ?…でも、…だとすると、これがすべての謎を解く鍵だ!
という思いが、瞬時に脳裏を過ぎった。
屯蒙とは、一般には耳慣れないが、易の本をちょっとでも開いたことがあれば、すぐに思い当たる言葉である。
易の卦の名前であって、易六十四卦の序次3番目の水雷屯と序次4番目の山水蒙のことである。
前後の文脈から判断すれば、ここでのおおよその意味は、屯は若く幼いこと、蒙は暗く愚かなことである。
ちなみに水雷屯は下卦の震(雷)を動く、上卦の坎(水)を険難として、険難の中で動く、動こうとしても険難に阻まられる様子と捉え、「身動きが取れずに困惑して悩む」ということを示し、このようになるのは未熟者だからだとして「若く幼い」という意味を合わせ持ち、一方の山水蒙は上卦艮(山)を山、下卦坎(水)を霧として、山の下が霧で覆われていれば暗くて先がよく見えず、そんな中で何かをやろうとするのは賢明ではないので「暗く愚か」という意味になる。なお各卦の詳しい説明は究極の易経解説のページをご覧ください。
したがってこの屯蒙という言葉を含む「今運属屯蒙」という文節は、「今運屯く蒙きに属いて」と訓み「今の世の中は、まだ国家としての体制はなく、言わば幼く暗く愚かである」といった意味になる。
もちろん、このように易の卦名が文節の中に入っている、ということだけで「日本古代史の謎は易学で解ける」と確信したわけではない。
この点については『日本書紀』研究で著名な津田左右吉(明治6〜昭和36)も、すでに指摘しているのであって、今更取り立てて言うほどのことではないのだ。
それでもハッ!としたのは、神武天皇の歴史の最後のほうに、神武天皇は即位から76年目に崩御した、とあることを思い出したからだ。ページをめくってその部分を確認すると、私の記憶どおりちゃんとそう書いてあった。
屯蒙の蒙すなわち序次4山水蒙という卦を数字の組み合わせで表現すると、その76なのだ。
したがって、この屯蒙という言葉は神武天皇の崩御年の数字と、とても深く繋がっていることになる。
これが、ハッ!としないでいられるだろうか?
神武天皇の時代は、易六十四卦の序次に当て嵌めると序次3水雷屯と序次4山水蒙の時代であって、その後者の序次4山水蒙が意味する数字の組み合わせを以って、崩御年が決められた可能性がある・・・。
とすると、古代の天皇には、百歳を超える不自然な長寿の天皇が多数存在しているが、その不自然な長寿も、易と何か繋がりがあるのではないだろうか?という思いが頭を巡った。
易については概略的なことしか知らないのであれば、例え津田左右吉のような学者であっても、気付かなくて当然だろう。だからこれまでの歴史学では、そこまで言及した例がなかったのだ。
しかしそこそこ易を嗜んでいて、『古事記』『日本書紀』を何度となく読み返したことがある者なら、津田左右吉が世間を騒がした「天皇機関説」どころではない、とんでもない古代日本の秘密が潜んでいるかのような衝撃を受けるところだろう。
実は私にしても、それまでに何度となくこの文言と接してはいたが、76年崩御という記述があることをすぐに思い出せず、特に重要なことではないと思い込んでいた。だから全く気にも留めなかった。
しかし繰り返し繰り返し読んでいるうちには、そういったどうでもよい数字も、いつしか記憶の中に刻まれるのだろう。その結果、ついにその日、気づいたのである。
気付いたときには一瞬目を疑った。
まさか!そんことがあるわけがない!
しかし、何度読み返しても、そう書いてある。
眠気が一気に吹き飛んだ。
居ても立ってもいられず、とにかくそれから易との関係を念頭に『古事記』『日本書紀』を調べ続けた。
すると、どんどん頷けることが出てきた。
ただ出てきただけではなく、それらは次第にある一定の法則にしたがっていることが明らかになっていった。
結局、好奇心はつのるばかりで、いつしか二晩寝ずに調べ続け、ついにダウンしたのだった(笑)
それからというもの、この意味を探ることに、暫らくとりつかれたかのようであった。
○ 137の意味?
そもそも『古事記』の篇者太安萬侶や『日本書紀』の篇者舎人親王等に、深い易の知識があったであろうことは、両書に易の本である『易経』からの引用も多いことから容易に理解できる。
とすると、この両書は易の理論を紐解きながら読むべきものだとも言えよう。
しかし、多くの歴史研究の場合、そのようなことは一切なされない。
易のような低俗な占いなど知らなくても、文献をそのまま読めばそれで事は足りる、と考えているのだろうか・・・。
それでも私は、蒙と76の関係を見せ付けられたこともあり、敢えて、易を紐解きながら読んだ。
その結果、とんでもないことがわかったのだ。
『古事記』『日本書紀』の表面上から読み取れる歴史は、おぞましい真実の日本古代史を封印するために作られたものだった。
しかし、単にそういう歴史物語を書いたわけではなく、真実の歴史を教えるための暗号がところどころに仕込まれていた。
その暗号とは、数字の矛盾や天皇や人の名前に使われている文字などであって、これらを易の理論にしたがって変換することにより、浮上する仕組みになっていたのである。
暗号は普通に読んだのではそれと気づかずに見逃してしまうような歴代天皇の名前、崩御時の年齢、即位年などであって、それらを易の理論と対比しながら見て行くと、例えば次のような奇妙な数字の繋がりが浮上してくるのである。
なお、その際に大事なことは、決して西暦は用いず、すべて皇紀=『日本書紀』による神武天皇即位年を元年とする暦法で考えることである。
初代・神武天皇、皇紀元年即位(日本書紀)、137歳で崩御(古事記)。
12代・景行天皇、皇紀731年即位(日本書紀)、137歳で崩御(古事記)。
14代・仲哀天皇、皇紀852年即位(日本書紀)、52歳で崩御(古事記・日本書紀)。
『古事記』序文末にある撰進の日付、和銅5年(皇紀1372年=西暦712年)正月28日
神武天皇と景行天皇は、共に137歳で崩御したとあり、景行天皇の即位年は、この137を逆に並べた皇紀731年となっている。
仲哀天皇の崩御時の年齢の52歳は、即位年の下二桁と同じ数字である。
『古事記』撰進の日付から、数字だけ取り出すと、528で、順序が違うが仲哀天皇の即位年と同じ数字の組み合わせになる。と同時に、この撰進の日付の年は皇紀1372年だから「137が2」という暗号とすれば、137歳で崩御したとする天皇が二人いて、そのうちの一人は初代の神武、もう一人は即位年が731年の景行天皇である、ということと数字の上で一致する。
『古事記』が崩御時の年齢を137歳とするのは、この二人だけである。
これは偶然だろうか?
それまで私が持っていた歴史認識では、まず、デモ版として『古事記』が作られ、その後、そのデモ版を踏まえつつも、もっと大掛かりな『日本書紀』が国の正史として編纂された、といったところだった。
しかし、この『古事記』序文と『日本書紀』の神武即位年や崩御年齢との間には、『古事記』『日本書紀』篇者が互いに示し合わせた何らかの作為を感じないではいられない。
が、いきなりこんなことを言っても、ご都合主義で、そう読めるところを並べただけだという批判も聞こえてきそうだ。
まして、これまでの古代史関連の研究とは全く手法が異なる。
易と日本はどう関わってきたのか、といったことも前提として確認しておきたい。
そこで、具体的な話に入る前に、私が古代史に興味を持ったきっかけなども含め、その辺について、少し触れておこう。
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