53  彦根 塩津 白髭神社 大溝(滋賀県) 


・令和3年9月12日(日) 旧彦根高等商業学校講堂 同窓会館 外国人教員住宅(彦根市)

 東京駅6時27分発「ひかり631号」に乗る。8時48分に米原駅に着く。琵琶湖線に乗り換える。約5分で一つ目の彦根駅に着く。
 今日から4泊予約している駅の近くのホテルサンルート彦根へ行き、荷物を預かってもらう。
 滋賀県を旅行するときいつも立ち寄る駅前の観光案内所へ行き、今回訪ねることを予定している場所について尋ね、観光パンフレットをいただく。

 駅前からタクシーに乗る。車は彦根城佐和口を通って彦根城西側の内堀に沿って走る。10分程乗って降りる。
 中堀の向こうに
旧彦根高等商業学校講堂(現・滋賀大学講堂)が建っている。

 旧彦根高商は大正12年(1923年)開校され、講堂は翌大正13年(1924年)、文部省建築課により建てられた。平成13年、国登録有形文化財、平成23年、景観重要建造物にそれぞれ指定された。

 船町口に架かる橋を渡る。門の脇に建つ警備員室の受付で見学したい旨を話すと、60代くらいの男性の警備員さんが、どうぞゆっくりご覧になってください、一昨年から始まった耐震改修工事も去年3月に終わりました、と丁寧な案内があった。


旧彦根高等商業学校講堂


 木造2階建、下見板貼り。正面は三角形の妻面となって御影石の円柱を左右に配した玄関を設けている。
 上品で落ち着いた銀灰色(ぎんかいしょく)の八幡瓦で葺かれた屋根にドームの小塔を載せている。小塔は天井裏排気用としての機能を持つ。三つの半円形の換気用の屋根窓(ドーマー窓)が並ぶ。側面に縦長の窓が並び、学びの場にふさわしい飾り気のない端正な建物である。

 左手の奥へ進むと、正面に旧彦根高等商業学校同窓会館(現・滋賀大学陵水会館)が建っている。この建物と旧彦根高商講堂は以前見学したことがあるが、今日また訪ねた。いずれも内部は非公開になっている。


旧彦根高等商業学校同窓会館



 木造2階、一部平屋建、中央にベランダを設けている。スペイン瓦を葺いた屋根、淡いクリーム色の外壁。ドア周りにタイルを市松模様に貼っている。
 昭和13年(1938年)建築。国登録有形文化財である。設計はアメリカ人建築家・
ウイリアム・メレル・ヴォーリズ(1880~1964)。
 タイルを市松模様に貼っているドア周りのデザインはヴォーリズの他の作品にも見ることができる。ヴォーリズの作品に共通して見られる優雅で気品のある建物である。
 あいにく修理の工事中で一部シートが掛けられ、建物全体を見ることはできなかった。

 以前、旧彦根高商講堂を見学したとき、講堂は樹木に囲まれて「杜の中の学び舎」という風情があった。しかし、樹木が伐採されている。
 そのことを警備員さんに尋ねると、耐震改修工事で既存のレンガ基礎をコンクリート基礎に造り替えました。工事はジャッキアップ工法により行われました。その際、樹木を撤去しました、と説明があった。
 また、警備員さんは、「私も、ここで仕事をするようになってからヴォーリズの建物に興味が出てきました」と仰った。
 丁寧に説明していただいた。ありがとうございました。

 門を出て後戻りする。300m程歩く。左側の内堀の手前に旧彦根高等商業学校外国人教員住宅1棟が建っている。元は3棟建てられたが、1棟が現存している。現在、この建物は市民活動センターとして地域の会合に活用されている。
 大正13年(1924年)建築。木造モルタル2階建。2階はハーフティンバー様式である。設計はヴォーリズ。この建物も内部は非公開になっている。


旧彦根高等商業学校外国人教員住宅


 更に200m程歩く。右手に建つ旧西郷屋敷長屋門の前を通り京橋を渡る。夢京橋キャッスルロードへ入る。通りに立つバスの停留所から「ご城下巡回バス」に乗り、彦根駅に戻る。
 (旧西郷屋敷長屋門について、目次39、平成30年5月7日、夢京橋キャッスルロードについて、目次21、平成27年5月4日参照)


 ヴォーリズとヴォーリズの作品について、下記参照。


 ・旧百三十三銀行今津支店(現・今津ヴォーリズ資料館)
 ・日本基督教団今津教会 
   「奥の細道旅日記」目次31、平成18年8月15日

 ・旧近江療養院(現・ヴォーリズ記念病院)礼拝堂
 ・旧近江療養院本館(ツッカーハウス)
 ・旧八幡郵便局
 ・旧近江兄弟社ダブルハウス

 ・旧滋賀県立商業学校(現・滋賀県立八幡商業高校)
   「奥の細道旅日記」目次36、平成19年11月23日

 ・近江兄弟社学園教育会館 ハイド記念館
 ・旧ヴォーリズ住宅(現・ヴォーリズ記念館)
   「奥の細道旅日記」目次36、平成19年11月24日

 ・旧ウォーターハウス邸(現・ウォーターハウス記念館)
 ・吉田邸
   目次16、平成26年5月1日

 ・旧近江八幡YMCA会館(現・近江兄弟社アンドリュース記念館)
   目次21、平成27年5月4日

 ・早稲田奉仕園スコットホール
   目次36、平成29年11月2日

 ・旧ナショナル・シティバンク・オブ・ニューヨーク神戸支店(旧居留地38番館)
   目次37、平成29年12月27日

 ・大丸百貨店心斎橋店
   目次38、平成26年1月2日

 ・山の上ホテル
   目次38、平成30年3月3日


・同年9月13日(月) 塩津(長浜市)

 早朝、ホテルを出て駅へ行く。彦根駅6時33分発米原行きの電車に乗る。5分後に米原駅に着く。隣のホームに停車している敦賀行きの電車に乗り換える。電車は6時51分に発車する7時15分、木ノ本(きのもと)駅に着く。

 4年前の平成29年5月10日、近江今津から中庄浜(なかしょうはま)まで「近江湖の辺の道」を歩いた(目次33参照)。
 翌平成30年5月9日、
中庄浜から西浜(にしはま)まで「近江湖の辺の道」を歩いた(目次39参照)。
 一昨年の令和元年9月12日、
西浜から海津(かいづ)まで歩いて(目次46参照)、昨年9月15日、海津の町を散策した(目次49参照)。

 この順序だと、今日は海津から先を歩くことになるが、長い距離を歩くことが体力的に困難になってきたので、間を飛ばして、訪ねたい場所へ行くのにバスを利用することにする。
 海津から先は奥琵琶湖と呼ばれ、入江が続く。地形が変化に富んだ湖畔を歩くのは楽しいと思うが、やむを得ない。

 今日は、かつて今津(いまづ)海津(かいづ)と並んで、琵琶湖の湖上輸送の港として繁栄した塩津(しおつ)を訪ねる。

 木ノ本は、奥の細道を歩いていたとき、平成19年4月29日、余呉から木ノ本を通って近江長岡まで歩いた(「奥の細道旅日記」目次34参照)。
 また、平成25年5月2日、木ノ本を出発して
北国脇往還を歩き始めた(目次11参照)。そのため、木ノ本は懐かしい所である。

 木ノ本駅前発8時30分発のバスに乗る。8時55分、終点の停留所「道の駅あぢかまの里」に着く。
 国道8号線へ入り、500m程敦賀方面に向かって歩く。天保5年(1834年)に建立された
常夜灯が立っている。


常夜灯


 「海道繁栄」、「五穀成就」の文字が刻まれている。海上と海道の繁栄を願って、近在9ヶ村の馬貸しによって奉納されたものである。常夜灯は旅人たちの目印とされてきた。塩津の往年の繁栄が偲ばれる。

 100m程後戻りして、郵便局と駐在所に挟まれた旧道へ入る。旧道は、かつて塩津海道(しおつかいどう)と呼ばれていた。塩津海道は塩津港から越前敦賀まで繋がっていた。塩津海道は「塩の道」とも呼ばれ、敦賀に陸揚げされた海産物、北陸諸藩、越後から運ばれてくる塩、米などを畿内へ運ぶ重要な海道であった。逆に京都、大坂からは陶器、漆器、反物などが琵琶湖を通って海道を運ばれた。塩津港は平安時代の頃より湖上の物資輸送の重要な中継点だった。

 旧問屋、旧旅館の建物があり、宿場町の面影が残っている。その中でもひときわ目を引く格式の高そうな商家が建っている。この建物は沢屋という屋号を持つ旧商家である。
 説明板によると、沢屋は江戸期は造り酒屋で、裏に酒蔵が残る。表通りに面した文庫蔵には当家の記録類が保存されている。湖上水運が最盛期の頃には物資問屋と荷主の宿屋を営んでいた。


沢屋


 2キロ程歩き国道へ入る。雨が降ってきたので、塩津港へ行くのは止めて道の駅に戻る。
 木ノ本駅行きのバスは1時間以上待たなければ来ないので、その前に着いたコミュニティバス「おでかけワゴン」に乗る。バスは、旧道へ入り、民家の間を細かく回る。約25分で近江塩津駅に着く。料金は一律200円だった。


・同年9月14日(火) 白髭神社(高島市)

 早朝、ホテルを出て駅へ行く。昨日と同じ電車に乗る。7時23分に近江塩津駅に着く。
 電車を降りて隣のホームへ行く。敦賀駅を発車した近江今津行きの湖西線の電車が来る。電車は7時34分に発車する。7時53分に近江今津駅に着く。
 隣のホームへ移動して電車が来るのを待つ。入線した京都行きの電車に乗る。電車は8時12分に発車する。8時24分、近江高島駅に着く。

 乗り合いタクシーがあるが、駅前に来るのが約1時間後になる。そのため、タクシー会社へ電話してタクシーを呼ぶ。
 電話したタクシー会社が乗り合いタクシーを走らせている。乗り合いタクシーは乗車予定の30分前までに予約が必要だから、帰りに乗る約2時間後の便を一緒に予約する。

 駅前に来たタクシーに乗る。車は琵琶湖の湖畔を走る。10分程乗っていると左手に、琵琶湖の湖中に立つ朱塗りの鳥居が見えてきた。白髭(しらひげ)神社の鳥居である。湖を参道に見立てている。
 
厳島神社赤間神宮は海を参道に見立てている(厳島神社について、目次9、平成24年12月31日、赤間神宮について、目次24、平成27年12月28日参照)。
 国道161号線を挟んで社殿が建っている。国道が参道を分断している。


白髭神社 鳥居


 国道は、上り線、下り線とも引っ切りなしに大型トラックがスピードを上げて走っている。国道に信号はおろか横断歩道も見えない。運転手さんが、ここを横断するのは危ないですよ、と言って、車をUターンして、社殿が建つ境内の側に車を止めてくれた。

 境内へ入ると、間隔をおいて繰り返しテープが流されている。「高島警察署からのお願いです。国道を横断することは大変危険です。くれぐれもおやめください」
 静寂の中に佇んでいる筈の神社に、注意を呼び掛ける音声が流されている。琵琶湖側にバーが掛けられ、「横断禁止」の注意書が吊るされている。

 湖岸から鳥居を見ようとして国道を横断中に、また自撮りをしていて車に接触したりして、よほど事故が多発しているのだろう。あるいは、ドライバーからの苦情が多いのだろうと思った。
 湖畔に立ち、鳥居を正面から、また、斜めから見ようと思って来たが、すっかり予定が外れてしまった。それでも、高い場所からだったら湖中に立つ鳥居が見られるかも知れないと思って、石段を上り境内の一番高い所へ上がってみたが、かえって境内の松の木に遮られて鳥居そのものが見えなくなった。

 白髭神社は2000年以上前の創建になる近江最古の社である。日本全国に約300の分霊社(ぶんれいしゃ)が祀られている。
 御祭神は猿田彦命(さるたひこのみこと)。全てにわたる導きと、道案内の神とされている。
 平成27年、「琵琶湖とその水辺景観、祈りと暮らしの水遺産」の構成文化財として日本遺産に認定された。

 拝殿は明治12年(1879年)建立。
 本殿は、
豊臣秀吉(1537~1598)の遺命を受け、息子・秀頼(1593~1615)の寄進により慶長8年(1603年)に建立された。檜皮葺で入母屋造り。昭和13年(1938年)、国重要文化財に指定された。


右、拝殿  左、本殿


 境内の近くの、乗り合いタクシーの停留所で待っていると、予約していた11時6分発の便の乗り合いタクシーが来る。
 車も運転手さんも、来るときに乗ったタクシーと同じだった。運転手さんが、いかがでしたか、と聞いたので、湖に立つ鳥居を斜め前から写真に撮ろうと思って来ましたが、国道は横断禁止になっているので予定通りにはなりませんでした、と話した。また、確かに横断するのは恐いですね、と話すと、運転手さんが、あそこは事故が多いんですよ、と言った。
 その後、次回来るとき予定している奥琵琶湖の集落の様子を伺うと、丁寧に教えてくれた。

 10分程で近江高島駅に着く。また来てください、と親切に言われて車を降りた。ありがとうございました。料金は一律300円だった。
 行くときは料金は1、310円だった。同じ距離で、運転手さんも車も同じなのに、乗り合いタクシーは通常のタクシーよりも約1、000円も安かった。


・同年9月15日(水) 大溝(高島市)

 早朝、ホテルを出て駅へ行く。昨日と同じ電車を乗り継いで近江高島駅に8時24分に着く。
 昨年9月14日、大溝を訪ねたが、昨年回らなかったところを見るために今日また訪ねた(目次49参照)。

 駅でいただいた観光マップを見ながら歩く。200m程歩く。三叉路に出て右へ曲がり更に200m程歩く。
 
琵琶湖と、琵琶湖の内湖(ないこ)である乙女ヶ池が唯一繋がっている水路が見える。奥の茂みの向こうに乙女ヶ池が広がっている。因みに、乙女ケ池は大溝城の外堀の機能を担っていた。


琵琶湖と乙女ヶ池を繋ぐ唯一の水路


 ここは旧勝野津(かちのつ)港(現・大溝港)であった。旧勝野津港は、かつて交通の要衝として栄えた港である。若狭からの物資は勝野津港から大津へ湖上輸送されていた。一方、大津を船出した旅人は、勝野津港で下船して陸路、北陸路へ向かった。


旧勝野津港


 水路は橋の下を潜って右側に曲がり、琵琶湖へ繋がっている。左側は大溝港の船溜まりになっている。かつて旧勝野津港が栄えた港であったことを偲ばせるものは何もない。

 大溝城の城下町だった時代、この辺りは町人町として区画されていた。長刀町、舟入町、江戸屋町、蝋燭町、十四軒町、職人町などの町名を刻んだ石柱を見ながら歩く。
 酢醸造場が建っている。そこを通り過ぎると、広い敷地にいくつもの棟が並ぶ造り酒屋・
福井弥平商店が建っている。創業寛延年間(1748~51)、260年以上清酒・萩乃露を造り続けている。


福井弥平商店




 正面玄関右上に、「9月24日、25日 量り売りします! 10時~15時」の案内が貼っている。2日間限定の、搾りたての生酒(なまざけ)の売り出しだろうか。この2日間はよほど賑わうことだろう。また、量り売りとは昔みたいだなと思った。

 先へ進む。十字路を左へ曲がる。紺屋町、伊勢町の町名の石柱が立っている。一つ目の角を左へ曲がる。紅殻(べんがら)塗りの商家、鮒ずしの店、みそ糀店などが並ぶ。

 左側に建つ真宗大谷派妙琳寺の見事な石積みの塀が続く。手前に、城下町の町割りの整備によって造られた当時の町割り水路が延びている。


妙琳寺と町割り水路


 大溝城は、織田信長(1534~1582)の甥・織田信澄(のぶずみ)1555?~1582)が天正6年(1578年)、明智光秀(?~1582)の設計により築いた城である。因みに、織田信澄は明智光秀の婿である。
 明智光秀が天正10年(1582年)6月2日、信長に謀反を起こすと、光秀の娘を妻としている信澄にも嫌疑がかかった。信澄は自害する。 

 元和5年(1619年)、伊勢上野から移封(いほう)して大溝領主となった分部光信(わけべみつのぶ)(1591~1643)は、大溝を陣屋として統治した。分部家の統治は明治4年(1871年)の廃藩置県まで続いた。
 分部光信は
城下町の整備を行った。現在も旧城下町の町並みを水路が巡り、当時、区画された町割りが残っている。

 水路には、かつて、カワトと呼ばれる洗い場が各所に設けられ、生活用水、防火用水などに利用されてきた。さらに、武家屋敷地の背後には生活排水を流す水路も敷かれた。大溝の城下町は近世初期から上水と下水の分離が計画的に行われていた。
 水路の内側も堅固な石組みである。

 歩いていると、突き当りに、浄土真宗本願寺派勝安寺が建っている。この寺の石積みの塀にも目が引かれた。


勝安寺


 塀の右側は、格式の高さを表す切込接(きりこみはぎ)と呼ばれる技術を用いている。石を加工して、隙間をなくした高度な積み方である。また、石の積み方は、石材を横一列に揃えて積み上げてゆく布積(ぬのづみ)である。

 安土桃山時代、近江国琵琶湖西岸の穴太(あのう)(現・滋賀県大津市穴太)に、主に寺院や城郭などの石垣施工を行った石工(いしく)の集団が存在した。穴太衆(あのうしゅう)と呼ばれた。穴太衆は自然石を加工せずに積み上げる豪快な野面積(のづらづみ)を得意とする技術によって活躍した。
 大津市坂本所在、江戸時代初期創業の粟田建設は唯一今も穴太衆を名乗り、継承した技術をもって城の石垣の修復を行っている。

 野面積について、

 安土城跡 目次21、平成27年5月2日
 
小谷城跡 目次27、平成28年4月30日
 
大溝城跡 目次49、令和2年9月14日参照

 司馬遼太郎(1923~1996)は、『街道をゆく 1 湖西のみち』の中で、穴太衆について、次のように述べている。


 「石組みについてはさきに過ぎた坂本のあたりに穴太(あのう)という土地がある。(中略)
 この穴太は、
 『穴太の黒鍬(くろくわ)』
 といわれ、戦国期には諸国の大名にやとわれて大いに土木工事に活躍した。

 『広辞苑』(第一版)によると、
 『戦国時代、築城・道普請などの作事(さくじ
)に従う人夫
黒鍬者』とある。ついでながら作事は建築の意味だから、正確な日本語としては、『普請(土木)に従う人夫』とすべきであろう。

 とくに戦国末期、諸国の城が土塁ではなく石垣を土台にするようになってから、この穴太の技術者の需要が大いにあがった。湖東の安土に信長が築いた安土城の石垣づくりには、この『穴太の黒鍬』が村中一人のこらずかり出されて行ったにちがいない。」


・同年9月16日 (帰京)

 ホテルで朝食後、すぐ帰る。





TOPへ戻る

目次へ戻る

54へ進む

ご意見・ご感想をお待ちしております。