24 吹屋(岡山県) 旧下関英国領事館 赤間神宮(山口県) 長崎孔子廟


・平成27年12月26日(土) 吹屋(岡山県)

 東京駅6時発の「のぞみ1号」に乗る。岡山駅に9時9分に着く。伯備線に乗り換えるが、それまでに約1時間あるので、駅の構内の食堂で早めの昼食を摂る。
 岡山名物「ままかり」の押し寿司と、きつねうどんを注文する。薄い琥珀色の汁に浸っているうどんの上に、甘く煮含められた油揚げがのっている。食べながら、関西風のうどんと寿司は良く合うな、と思う。

 岡山駅10時5分発の特急「やくも7号」に乗る。
 10分程走り倉敷駅を過ぎてから左手に、
川幅が広く、雄大な眺めの高梁川が現れる。電車は高梁川に近づいたり離れたりしながら走る。

 10時39分に備中高梁(びっちゅうたかはし)駅に着く。
 駅前に停まっている「吹屋行き」のバスに乗る。10時50分にバスは発車する。バスは平坦な道を走り、30分程経ってから山間の緩やかな坂を上っていく。
 標高500mの地に、忽然と赤褐色の石州(せきしゅう)瓦を葺いた屋根と、赤いベンガラ塗りの格子や板壁の集落が現れる。


吹屋


長尾醤油・酒店




 高梁市成羽町(なりわちょう)吹屋(ふきや)は、銅山と赤色顔料のベンガラで栄えた町である。
 江戸時代から大正時代まで銅、硫化鉄を産出した。宝永4年(1707年)に始まったベンガラ生産は、宝暦11年(1761年)頃から、硫化鉄から得たローハ(緑礬)(りょくばん)を原料としてベンガラ産出を工業化し、国内唯一の特産地として製造者に莫大な富をもたらした。ベンガラの製造は昭和40年(1965年)頃まで続いた。
 石州瓦とベンガラ色で統一された町並みは、吹屋の繁栄の名残である。町並みは、昭和52年(1977年)、国重要伝統的建造物群保存地区に選定された。
 

 バスに約1時間乗って、終点の停留所「吹屋」で降りる。
 後戻りして、他では見ることのできない珍しい景観を見る。虫籠窓(むしこまど)や、なまこ壁の民家もある。
 戻る途中、右へ曲がり坂を上る。更に右へ曲がり緩やかな坂を50m程上り左へ曲がる。真っ直ぐ歩いていくと、右手に、明治42年(1909年)建築の
旧吹屋小学校が建っている。 

 木造2階建て。平成24年に閉校するまで現役最古の木造校舎であった。威風堂々たる建物は、当時の吹屋の繁栄を象徴している。県指定重要文化財である。
 しかし、平成32年3月末まで修復工事中ということで建物の回りにボードが張られ、内部の見学はできなかった。

 元の通りに戻る。ベンガラ工場や、銅、硫化鉄を産出していた坑道が復元されているが、観光マップを見ると、場所が思ったよりも離れている。バスの時間までは余裕があるが、行って帰ってくると時間がぎりぎりになるように思われたので、行くのは止めて建物をゆっくりと見る。

 ベンガラの窯元であった旧片山家住宅に入る。平成18年、国重要文化財に指定されている。
 旧片山家住宅は、一部3階の2階建。長い通り庭(土間)の右手に座敷がある。店舗や接客の場であった。
 土間のガラスの陳列棚に、ローハ(緑礬)や片山家で製造されたベンガラが展示されている。

 土間を通って外へ出る。右へ曲がり、主屋(おもや)と米蔵の間を通る。ベンガラ製造に関わった附属屋が建ち並んでいる。右手に仕事場だった建物があり、左手は弁柄(ベンガラ)蔵が建っている。弁柄蔵では、ベンガラの製造について説明が掲示されていて、製造の道具が展示されている。


旧片山家住宅 弁柄蔵


 裏門を通る。敷地内に美しい蔵が並んでいた。


弁柄蔵


道具蔵


玄米蔵


 ベンガラ塗りの美しい建物は、今までに、金沢の、ひがし茶屋街主計町(かずえまち)茶屋街、滋賀県の近江今津で見たことがある。
 ひがし茶屋街については、「奥の細道旅日記」目次22、平成16年8月16日、主計町茶屋街については、同目次25、平成17年7月16日、近江今津については、同目次31、平成18年8月15日参照。

 雨がぽつぽつ降ってきた。地元の人たちが、雪になるんじゃないかと話している。

 15時45分発のバスに乗る。16時47分に備中高梁駅に着く。
 備中高梁駅17時5分発特急「やくも22号」に乗る。岡山駅に17時38分に着く。岡山駅17時56分発「のぞみ41号」に乗り換える。小倉駅に19時22分に着く。
 山陽本線上りの電車に乗る。約15分後に下関駅に着く。駅前の
下関東急REIホテル
(旧下関東急イン)にチェックインする。3泊予約していた。

 部屋に荷物を置いてホテルを出る。ホテルの並びにある下関大丸の7階レストラン街へ行く。中国料理の店に入る。冬のおすすめ料理、数量限定となっている「牡蛎の焼きごはん」を注文する。
 土鍋が運ばれてきた。中に、既に煮ている牡蛎が10個ほど入って、土鍋の底に煮汁が溜まっている。熱くなっている土鍋に、別の器に入っているご飯を入れて、かき混ぜる。牡蛎ご飯ができる。
熱いので口の中を火傷しないようにして食べる。濃い味付けの牡蛎と、煮汁が滲みたご飯がおいしい


・同年12月27日(日) 旧下関英国領事館(山口県) 旧大連航路上屋(福岡県)

 朝食後、ホテルを出て、駅前からバスに乗る。10分程乗って停留所「唐戸(からと)」で降りる。唐戸町は7年前に来たことがある。唐戸市場があり賑やかな所である。また、旧い建物が残っている。 



 下関南部町(しものせきなべちょう)郵便局は、明治33年(1900年)に建てられた日本最古の現役郵便局庁舎である。
 設計は、逓信省技師だった三橋四郎(みつはししろう)(1867~1915)。外壁は、煉瓦造のモルタル仕上げ。平成13年、国登録有形文化財に指定された。


下関南部町郵便局


 旧秋田商会ビル(現・下関観光情報センター)は、海運会社・秋田商会の事務所兼住居として大正4年(1915年)に建てられた。塔屋付きの地上3階、地下1階の鉄筋コンクリート造の建物である。
 内部は、1階が高い天井の洋風、2階と3階は和風に造られている。2階と3階は畳が敷かれていて襖で間仕切りをしている。窓側はそれぞれ板張りの廊下を巡らしている。屋上庭園がある。


旧秋田商会ビル



 旧秋田商会ビルは、ドーム型の塔屋を持つが、ヨーロッパというよりも、写真で見た戦前の満州の奉天、新京に建っていた建物に似ている。

 明治39年(1906年)建築、煉瓦造2階建ての旧下関英国領事館が建っている。7年前に唐戸町に来たとき、旧下関英国領事館は、耐震のための改修工事が行われていて建物全体がシートに覆われていた。そのため見学できなかった。
 5年半に亘る長い工事が終わり、現在は公開している。


旧下関英国領事館


 設計は、当時、上海に在住していた英国人・ウイリアム・コーワン(生没年不詳)である。ウイリアム・コーワンは、明治40年(1907年)建築、煉瓦造2階建の旧長崎英国領事館も設計している(旧長崎英国領事館については、目次19、平成26年12月30日参照)。

 領事館として業務が行われていたのは昭和15年(1940年)までで、昭和16年(1941年)、第二次世界大戦を機に閉鎖された。
 その後、下関警察署唐戸出張所として使われ、昭和45年(1970年)、下関考古館として一般に公開されていた。
 平成11年、国重要文化財に指定されている。

 現在、1階は旧領事室を再現し、展示室として使われている。2階は喫茶室である。

 赤い煉瓦と白い石材を組み合わせ、煙突を持つ階段状の切妻壁(ステップゲーブル)や外壁のバンドコース(帯状飾り)を持つ美しい建物である。
 海に面して、1階、2階に列柱を立てたベランダが造られ、2階は3連のアーチで飾られている。
 建築当時、2階のベランダから関門海峡を行き交う船が間近に眺められたことだろう。

 領事館前の国道9号線を渡り、関門連絡船乗り場がある唐戸桟橋へ行く。ここから、対岸の福岡県門司港までフェリーで5分で渡ることができる。
 門司港は、これまで何度も訪ねた。
門司港駅旧日本郵船門司支店旧大阪商船門司支店旧門司三井倶楽部旧門司税関他明治、大正、昭和初期に建てられた建物が数多く保存され、活用されている(門司港駅他について、目次3、平成23年12月30日参照)。

 一昨年、一般公開された旧い建物が更に加わった。昭和4年(1929年)建築の旧大連航路上屋(きゅうだいれんこうろうわや)である。
 
昭和初期、門司港と満州の玄関である大連は定期航路で結ばれていた。旧大連航路上屋は、国際旅客ターミナルとして建設された。 

 門司港の桟橋に降りて右へ曲がる。右手に海を見ながら400m程歩く。通りの反対側に旧大連航路上屋が建っている。


 

旧大連航路上屋



 竣工当時の写真を見ると、建物のすぐ横が岸壁になっている。2階に回廊がある。船客を送迎する人たちは、ここからも見送り、出迎えていたのだろう。戦後埋め立てられて、通りができて、旧大連航路上屋は通りの幅だけ海から離れてしまった。

 正面玄関へ回り中へ入る。右手に回廊に通じる階段がある。


回廊


 回廊から門司港に停泊している船が見え、遠くに関門海峡に架かる関門橋が見える。

 1階、2階ともに大幅にリニューアルされている。1階エントランスホールは、門司港観光の展示室となっていて、奥は多目的スペースになっている。2階にホールがあり、コミュニティスペースとして活用されている。

 当時、ここから大連へ行くのにどれくらい時間がかかったのだろうか。
 今、手許に、旧大連航路上屋が竣工された昭和4年の翌年の昭和5年(1930年)に発行された、發行元・日本旅行協會 『十月號 鐡道省編纂 汽車時間表』の復刻版がある。
 『時刻表』と改題されたのは、昭和17年11月号からである。また、時間の表示が24時制ではなく、午前と午後の時間を活字の太さで区分している。午後の時間は、ゴシック体活字で印刷されている。時間の表示が現在の24時制になったのも昭和17年11月号の『時刻表』からである。

 神戸、門司、大連を結ぶ大阪商船の船が4隻ある。「はるびん丸」、「うらる丸」、「香港丸」、「ばいかる丸」の4隻の船が、交替で3日毎に神戸港を出港する。
 9月25日の正午に神戸港を出港した「はるびん丸」は翌日の26日の早朝、門司港に着く。「著 早朝」と書かれているので、5時頃だろうか。
 その日の
午後1時に門司港を出港する。2日後の28日の早朝、大連港に着く。これも「著 早朝」となっているので5時頃と考える。
 そうすると、門司港から大連まで40時間かかり、船中で2泊することになる。

 旧大連航路上屋を出て右へ曲がる。連絡船乗り場を通り過ぎて20分程歩く。
 
門司港ホテルへ入る。ホテルの2階にあるイタリアンレストラン「ポルトーネ」でランチの食事をする。
 「本日の特選熟成和牛のビステッカ(ビーフステーキ)」のコースを注文する。

 オードブルは、マンゴーソースがかかった帆立のムース。
 サラダは、生ハムと、クリームチーズを練り込んだモルタデッラソーセージのペースト。
 パスタは、3種類の中から選ぶ。アサリ貝とカラスミのボンゴレビアンコ 手長海老添えを選ぶ。ニンニクが味を香り高いものにしている。

 メインディッシュの特選熟成和牛は、佐賀牛を30日熟成させたもので、シンタマ(内もも肉)とラムイチ(外もも肉)の二つの部位が盛り合わせで出された。二つ合わせても50グラムだけの僅かな量だった。
 ルッコラが添えてあり、バルサミコソースと、生クリーム、バター、チーズをミックスして作られたソースが器に載っている。

 食べてびっくりした。とてもおいしい。特に、ラムイチ(外もも肉)は、微かに甘味があり、柔らかく、口の中で溶けてしまう。
 焼き方は、ミディアムにしてもらったが、また食べる機会があれば、レアで食べてみたいと思った。少ない量だから手頃な値段で食べることができたのだろう。例えば、ラムイチだけを300グラムということになれば、相当高い値段になるだろうと思った。

 デザートはティラミスだった。チーズがしつこくならないように総料理長が工夫しました、という説明があった。


・同年12月28日(月) 赤間神宮(山口県)


赤間神宮 水天門


 朝食後、ホテルを出て、駅前からバスに乗る。昨日降りた停留所「唐戸」の次の停留所「赤間神宮前」で降りる。

 壇ノ浦を望む高台に赤間神宮が建っている。文治元年(1185年)、壇ノ浦の合戦で平家は敗北する。赤間神宮は、僅か8歳で壇ノ浦に入水した安徳天皇を祀っている。

 水天門が壇ノ浦へ向かって立っている。
 竜宮城を模した神門は、二位尼(にいのあま)に抱かれて、「浪の下にも都のさぶらふぞ」と聞かせられて入水した安徳天皇の霊を慰めるために造られたものだろう。
 安徳天皇は、高倉天皇の第一皇子。母は、平清盛(1118~1181)
の娘である中宮・平徳子(たいらのとくこ)(1155~1214)である。平徳子は、安徳天皇が入水したのを見て自身も海に身を投げる。しかし、助けられて生き残り、その後出家する。院号を建礼門院と称し、京の大原・寂光院にて安徳天皇と平家一門の菩提を弔う。

 因みに、二位尼は、平清盛の正室・平時子であり、安徳天皇の祖母である。

 境内の左手に安徳天皇阿弥陀寺陵(あみだじのみささぎ)がある。赤間神宮は、元は阿弥陀寺であった。
 正面の石段を上る。
外拝殿(げはいでん)(大安殿)が建っている。外拝殿の奥に内拝殿(ないはいでん)が建ち、後方に本殿が配されている。


外拝殿


内拝殿


 外拝殿と内拝殿の緋色は、平家の雅やかさと平家の女人の小袿(こうちぎ)を彷彿させる。 

 外拝殿の左手に芳一堂が建っている。お堂の中に琵琶を抱えた「耳なし芳一」の木造が安置されている。
 更にその左手に平家の武将を祀る
平家一門の墓がある。


平家一門の墓


 『平家物語』(小学館発行、新編日本古典文学全集、校注・訳者・市古貞次氏)から、「先帝(せんてい)身投(みなげ)」の一部を引用する。


 「二位殿(にゐどの)はこの有様を御覧じて、日ごろおぼしめしまうけたる事なれば、にぶ色の二衣(ふたつぎぬ)うちかづき、練袴(ねりばかま)のそばたかくはさみ、神璽(しんし)をわきにはさみ、宝剣(ほうけん)を腰にさし、主上(しゆしやう)をいだき奉(たてま)ッて、『わが身は女なりとも、かたきの手にはかかるまじ。君の御供(おんとも)に参るなり。御心(おんこころ)ざし思ひ参らせ給はん人々は、いそぎつづき給へ』とて、ふなばたへあゆみ出でられけり。

 主上今年(ことし)は八歳(はつさい)にならせ給へども、御(おん)としの程よりはるかにねびさせ給ひて、御かたちうつくしく、あたりもてりかかやくばかりなり。御(おん)ぐし黒うゆらゆらとして、御(おん)せなか過ぎさせ給へり。
 あきれたる有様(ありさま)にて、『尼(あま)ぜ、われをばいづちへ具してゆかむとするぞ』と仰せければ、いとけなき君にむかひ奉り、涙をおさへて申されけるは、『君はいまだしろしめされさぶらはずや。先世(ぜんぜ)の十善戒行(じふぜんかいぎやう)の御力(おんちから)によッて、いま万乗(ばんじよう)の主(あるじ)と生(むま)れさせ給へども、悪縁にひかれて、御運すでにつきさせ給ひぬ。

 まづ東(ひんがし)にむかはせ給ひて、伊勢大神宮に御暇(おんいとま)申させ給ひ、其後(そののち)西方浄土(さいはうじやうど)の来迎(らいかう)にあづからむとおぼしめし、西にむかはせ給ひて後念仏(おんねんぶつ)さぶらふべし。
 この国は粟散辺地(そくさんへんぢ)とて心憂(こころう)きさかひにてさぶらへば、極楽浄土(ごくらくじやうど)とてめでたき処(ところ)へ具し参らせさぶらふぞ』と泣く泣く申させ給ひければ、山鳩色(やまばといろ)の御衣(ぎよい)にびんづら結(ゆ)はせ給ひて、御涙(おんなみだ)におぼれ、ちいさくうつくしき御手(おんて)をあはせ、まづ東をふしをがみ、伊勢大神宮に御暇申させ給ひ、其後西にむかはせ給ひて、御念仏(おんねんぶつ)ありしかば、二位殿やがていだき奉り、『浪(なみ)の下(した)にも都のさぶらふぞ』となぐさめ奉(たてま)ッて、千尋(ちひろ)の底へぞ入り給ふ。」


 水天門を潜り、石段を下りて国道9号線を渡る。壇ノ浦の前へ出る。対岸は門司港である。
 壇ノ浦は潮の流れが速い。恰も、川の水が上流から下流へ流れているような速さである。


「錨」の前に広がる壇ノ浦


 海岸から海へ向かって石段が造られている。石段の先は海中に没している。
 石段の右手に錨が置かれて、横に説明板が立っている。概ね、次のようなことが書かれていた。

 平知盛(たいらのとももり)(1152~1185)は、安徳天皇が入水したのを見て、平氏一門の人々の最期を見届け、「見るべき程の事は見つ。いまは自害せん」として、錨を体に巻き付け、安徳天皇の後を追って入水する。
 知盛の忠義を伝えるために、現代のものだけれども錨を展示する、と
説明されていた。

 知盛は、平清盛の四男である。その死は、錨を重しにして入水するという壮絶なものであった。

 また、海路を参道に見立てる、ということも書かれてあった。
 確かに、壇ノ浦、石段、水天門、外拝殿、内拝殿、本殿が一直線に並んでいる。
 海を参道に見立てるというのは、宮島の
厳島神社と同じである(厳島神社については、目次9、平成24年12月31日参照)。

 左手に、関門海峡に架かる関門橋(かんもんきょう)が見える。関門橋は、昭和48年(1973年)開通、長さ1、068mである。関門海峡は船の往来が多い。


関門橋


 停留所「唐戸」の手前に、唐戸市場がある。
 下関は、フグの水揚げ量日本一を誇る。唐戸市場は一般の客にも小売りしているので、おおぜいの人が買い物に訪れていた。
 2階に海鮮料理の店が3軒あるが、どこも行列ができている。その内の一軒に回転寿司の店があるので、そこで昼食を摂ろうと思って来たが、特に長い列ができていた。
 諦めて、宿泊している下関東急REIホテルに戻り、ランチのバイキングで食事をする。


・同年12月29日(火) 長崎孔子廟 中国歴代博物館

 朝食後、ホテルを出て駅へ行く。下関駅7時56分発山陽本線下りの電車に乗る。8時9分に小倉駅に着く。新幹線に乗り換える。約18分で博多駅に着く。
 博多駅9時15分発長崎本線特急「かもめ11号」に乗る。11時22分に長崎駅に着く。

 電話で予約して、昨年も食事したホテルモントレ長崎へ行く。
 「冬のスペシャルランチ」を注文する。

     小前菜   牛タンのベッカフィーコ風
            レーズン入り牛タンの煮込み
     前  菜   カツオのスコッタート サルモリッリオ
            スモークされたカツオに彩り豊かな野菜が添えられている
     パスタ   もちもち長崎スパゲッティーをツブ貝のぺぺロナータに絡めて
     魚料理   アマダイのビカタ アンチョビとバジルのソース
     肉料理   豚フィレ肉のアッロスティチーニ フォアグラソース
            豚肉の串焼き
     デザート  カンノーロ イン フランボアーズ メープルシロップのジェラートを添えて
            トルティアで巻いたお菓子

 今回もおいしい食事ができた。

 ホテルを出て右へ曲がり、最初の十字路を反対側へ渡る。真っ直ぐ歩くと、次の十字路の角に、赤煉瓦の塀に囲まれた長崎孔子廟が建っている。
 
長崎孔子廟(こうしびょう)は、明治26年(1893年)、当時の清朝政府と在日華僑が協力して建てたもので、日本で唯一の本格的な中国洋式の孔子廟である。

 孔子廟は、孔子の霊を祀る建物である。孔子(紀元前552~紀元前479頃)は、春秋時代の中国の思想家、哲学者、儒家の始祖である

 學門(がくもん)を潜って塀の中に入る。小さな門である。

 本廟の正式な内正門(二の門)である儀門(ぎもん)が建っている。瑠璃瓦の煌びやかな門である。
 中国の宮殿や廟宇の瓦は、清朝の時代に法制化され、その色で住む人の地位を表していた。皇帝の宮殿や陵廟などの瓦は黄色であった。孔子は皇帝と同等に扱われたので、黄色の瑠璃瓦が許されていた。


長崎孔子廟 儀門



儀門


 儀門を通って後ろを振り返る。儀門の中央の扉が閉じられている。それについて、次のように説明されている。

 「元来中国の廟の門戸は三ヶ所以上の奇数をもって作られ、中央は神さまと皇帝以外の通行を禁じて平常は閉ざされている神聖な門です。」

儀門


 正面に、孔子廟正殿である大成殿(たいせいでん)が建っている。瑠璃瓦の華麗な建物である。
 大成殿の奥に孔子座像が安置されている。  


大成殿


 左右の廻廊を両廡(りょうぶ)といい、東廡西廡に分かれている。両廡の前と横に、中国で彫刻された等身大の賢人像72体が並んでいる。



東廡


 大成殿前の石段中央に石が渡されている。これについて、次のように説明されている。

 「石段中央にある一対の龍を彫ったものを御道石(みどうせき)といい、北京紫禁城のものを模しています。儀門同様に神さまと皇帝だけが通る道です。石の幅150cm、長さ273cm、厚さ60cm、重量6トン」 


大成殿


 大成殿の裏に回る。広場がある。石段を上がり石橋を渡って、2階の中国歴代博物館に入る。
 中国歴代博物館は、昭和58年(1983年)、日中両国の文化交流を目的に新設されたもので、中国国内の博物館が提供する中国国宝級文物が常設展示されている。焼き物や翡翠で造られた美術品が展示されていた。
 3階は、長崎孔子廟資料館になっている。

 大成殿の西廡の角に、「宥座の器(ゆうざのき)」があった。「宥座の器」についての説明を全文記す。


 「宥座の器とは、座右において戒めとする器という意味で、『虚なればすなわち傾き、中なればすなわち正しく、満つればすなわち覆(くつがえ)る』器です。つまり、空のときは傾き、ほどよく水を入れると正しく水平を保ち、水をいっぱい入れるとひっくり返ります。

 孔子は、魯(ろ)の桓公(かんこう)の廟に参詣したとき、宥座の器を見て、弟子たちに『満ちて覆らない者はいない』と教訓しました。
 この宥座の器は、人生におけるすべてのことにおいて、無理をすることや満ち足りることを戒め、中庸の徳、謙譲の徳の大切なことを教えています。」


 コップのような器が吊るされている。器はやや傾いている。



 そこへ水を入れていくと器は真っ直ぐに立ち上がる。



 なおも水を入れ続けると器は傾き始め、くるっと引っくり返って中の水は全部流れ落ちてしまう。



 「宥座の器」の実物を見たのは初めてだった。「宥座の器」について、私は以前勤めていた会社の上司に伺ったことがあった。その話を聞いていなかったら、私は、「宥座の器」を見落とし、前を通り過ぎていただろう。





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