31 三国 越前大野 杉津 竹生島(寄り道)


・平成18年7月15日(土) 三国(寄り道)

 福井駅で降りえちぜん鉄道に乗り換える。三国・芦原線の電車に乗る。45分程で三国駅に着く。
 駅を出て陸橋を渡り線路を越える。坂道を上る。高台に建つ
みくに龍翔館(りゅうしょうかん)の八角形の望楼が見えた。




みくに龍翔館


 明治12年(1879年)、木造、五層八角形の龍翔(りゅうしょう)小学校が建てられた。設計者はオランダ人土木技師・ジョージ・アーノルド・エッセル(1843~1939)である。
 莫大な工費の殆どは三国の商人の寄付に依るものだった。北前船の寄港地であった三国の繁栄を象徴している。

 大正3年(1914年)、台風による被害を受け解体された。
 昭和56年(1981年)、旧龍翔小学校の建物が復元され、郷土博物館としてみくに龍翔館が開館する。旧龍翔小学校の古い写真を見ると、外観は忠実に復元されていることが分かる。

 威風堂々とした建物の前に立つ。往時の三国の隆盛と栄華が偲ばれる。

 坂を下り駅前に戻る。「駅前通り」を500m程歩き左へ曲がる。また500m程歩き右へ曲がる。「三国湊きたまえ通り」に入る。
 千本格子の宮太旅館、越前大野藩産物会所(現在の商社)であった元三国大野屋の旧い建物が並ぶ。斜向かいに
旧森田銀行本店の建物が建っている。

 旧森田銀行本店は、大正9年(1920年)建築、鉄筋コンクリート造2階建、設計は山田七五郎(生没年不詳)。平成9年、国登録有形文化財に指定され保存されている。
 建物は左右対称、外壁は煉瓦と見紛うタイル張りである。銀行の銘板は大理石を用いている。三角形の破風(はふ)、窓の上部の要石(かなめいし)、窓台受け等古典主義の要素を取り入れ、華麗でありながら落ち着いている。
 この建物も過去の三国の繁栄を彷彿させる。


旧森田銀行本店


 内部の旧営業室は2階吹き抜けになっている。天井は豪華な漆喰模様が施され、華やかな劇場のような雰囲気を湛えている。
 2階旧会議室は当時のままの木製の床が残り、腰板は美しい象嵌が施されている。


旧営業室


旧営業室


旧会議室 シャンデリア


 歌曲を歌うアルトの歌声が低く流れている。落ち着きと華やかさを併せ持つアルトの歌声は、この建物によく合っている。

 旧森田銀行本店を出て右へ曲がる。十字路を左へ曲がり100m程歩く。九頭竜川(くずりゅうがわ)沿いの通りに出る。曇ってきて雨が降り出しそうな空模様になってきた。人が歩いていない。
 「浜焼き」と書かれた看板が目立つが、開いている店はない。「かもめ通り」と名付けられたこの通りは、海水浴のシーズンになると賑やかになるのだろう。

 30分程歩く。三国温泉の共同湯「ゆあぽーと」に入る。
 2階建てになっていて、浴室は1階にある。お湯に浸りながら日本海が見られる。雨が降り出した。
 2階は展望室になっている。雨に煙る中、九頭竜川の流れが日本海に注ぎ込むのが見える。
 龍翔小学校同様にジョージ・アーノルド・エッセルが明治9年(1876年)設計、明治18年(1885年)に完成した
三国港突堤が緩やかなカーブを描いて沖に伸びている。
 突堤は、防波堤の役目を今も果たしている。国重要有形文化財に指定されている。

 「ゆあぽーと」を出て雨の中を15分程歩き、えちぜん鉄道三国芦原線の三国港(みくにみなと)駅に着く。旧い木造の駅舎である。
 電車は、煉瓦を積み上げたアーチ型の跨線橋である眼鏡橋を潜る。大正2年(1913年)竣工。国有形登録文化財に指定されている。
 福井駅に着く。
ユアーズホテルフクイにチェックインする。2泊予約していた。

 夜、ホテル3階のレストラン「ボヌール」にて食事をする。料理は次のとおりだった。


      オードブル・肉と野菜のテリーヌ ルッコラソース
      かぼちゃのスープ
      地産鮮魚(たい)のグリルノルマンディー風 あわらのレッドアンデスを添えて。
      デザート・木苺のムース


 芦原産のレッドアンデスは、じゃがいもである。契約農家から取り寄せているという。輪切りにしてあり、色は黄色で味は甘い。


・同年7月16日(日) 越前大野(寄り道)

 曇っていて、いまにも雨が降り出しそうな空模様である。梅雨はまだ終わっていない。
 今日は南今庄から歩いて、木ノ芽峠を越え、敦賀に出る予定を立てていた。しかし、雨に降られながら山の中を歩くことになりそうなので、木ノ芽峠を越えるのは8月に延期して、越前大野を訪ねることにする。

 福井駅から越前大野を通って九頭竜湖駅を結ぶ越美北線(えつみほくせん)は、2年前の平成16年7月福井県を襲った集中豪雨により足羽川(あすわがわ)が氾濫し、橋梁を押し流し、一部不通となった。
 2年後も未だ復旧が終わらず、越前大野へ行くには、電車に乗っても、途中、バスに乗り換えることになる。それでは面倒なので、福井駅前から越前大野まで直通のバスで行くことにする(注・平成19年6月全線開通した)。

 途中、バスの窓から倒壊した鉄橋を見る。川岸が抉り取られている。2年後もこういう光景を見ることになろうとは思わなかった。

 約1時間で越前大野駅前に着く。バスを降りて15分程歩く。「寺町通り」に入る。右へ曲がる。碁盤の目のように縦横に整然とした地割がなされている。
 「寺町通り」は多くの寺院が並ぶ。寺院は旧城下町を囲むようにして建っている。外からの侵入に備える砦として寺院を配置したといわれている。町割りは当時のままで変わっていない。


寺町通り


 三つ目の角を左へ曲がり「石灯籠通り」を歩く。旧い建物が並ぶ。




 五つ目の角を左へ曲がり「本町通り」に入る。右へ曲がり、黒塀を巡らせた武家屋敷・旧内山家に入る。
 大野藩の家老職を務め、明治14年(1881年)、75歳で亡くなった内山七郎右衛門良休の徳を偲ぶため、内山家の屋敷を解体復元し、保存している。
 母屋から美しい庭園が眺められる。離れは渡り廊下で繋がれている。衣装蔵、味噌蔵、米蔵がそれぞれ別棟として建てられている。

 旧内山家を出て左へ曲がる。復元された百間堀(ひゃっけんぼり)に沿って歩く。百間掘は越前大野城の外堀であった。海抜250mの亀山の頂上に昭和43年(1968年)に再建された越前大野城が見える。

 御清水(おしょうず)と名付けられた湧水場に着く。ここまで来る途中、2ヶ所の湧水場で水を飲んだ。いずれもおいしい水だった。大野市はあちらこちらで水が湧き出ている。
 石段を降りる。水は底から湧き出て溢れている。柄杓ですくって飲む。まろやかなおいしい水である。


御清水


 御清水から案内板を見て朝倉義景墓所に行く。杉木立の中にある(朝倉義景については、目次30、平成18年5月3日参照)。
 越前一乗谷5代城主・朝倉義景(よしかげ)(1533~1573年)は、天正元年(1573年)越前に侵攻した
織田信長(1534~1582年)に大敗する。
 義景は大野まで敗走するが、織田信長と通じた朝倉家の重臣である朝倉景鏡(かげあきら)(?~1574)の裏切りにあい、自刃する。


朝倉義景墓所


 道を戻る。四つ目の角を右へ曲がり「七間通り」に入る。
 七間朝市(しちけんあさいち)が開かれていた。3月から12月まで、毎朝7時から11時頃まで開かれている。七間通りの両側は、造り酒屋、和菓子屋等の旧い建物が並び、その前にシートを敷いて出店している。野菜、花、饅頭等を売っている。11時近く、曇り空にも拘わらず大勢の人が集まっていた。賑やかな朝市の会場を観光客を乗せた人力車が人の間を縫って通る。

 福井駅に戻る。
 福井駅の構内に
観光案内所がある。女性が二人で観光案内の相談を受けている。福井の観光は、えちぜん鉄道やバスを利用することが多いので、私もよく観光について尋ねた。いつも親切に応対してくれてパンフレット等もいただいた。福井を旅行している間ずいぶんお世話になった。

 宿泊しているユアーズホテルフクイの地下1階はレストラン街になっている。夜、地下1階に下りて、割烹「勝花(かつはな)」に行く。
 刺身、とんかつ、串揚げ等がある。串揚げ定食を注文する。肉、野菜、貝類等を串に刺して揚げている。ご飯と味噌汁は大ぶりの器で出される。50代くらいのご主人に料理について尋ねると、丁寧に説明してくれる。
 福井の地酒が揃っているようである。常連の人たちとご主人が話している。会話は穏やかで、和やかな雰囲気がある。
 メニューに次の言葉が書かれていた。「ご飯、味噌汁はお替り自由。たっぷりと召し上がってください。」ご主人の大らかな人柄を表わしている。


・同年7月17日(月) (帰京)

 朝、ホテルのバイキングで食事をする。
 米は福井県産のコシヒカリ。地卵がある。黄色い殻で固い。黄身は濃い黄色で甘い。卵ご飯にして2杯食べる。福井らしく鯖の味噌煮がある。これがとてもおいしい。福井県勝山産のブロッコリー、ほうれん草、トマトもおいしい。沢山のご馳走がある。腹一杯食べた後、すぐ帰る。

 昨日の夕方から降りだした雨はずっと降り続いている。大雨注意報が出ている。


・同年8月12日(土) 杉津(寄り道)

 8月になってまもなく、部屋の中を荷物を持って歩いていたところ、左足が床に置いてあった物にひっかかり、前に倒れ、左足の膝を固い床に強打した。
 病院に行き、レントゲンを撮って調べてもらった。骨や関節に異状はなかったが、膝は大きく腫れあがり、一時は激痛があった。その後も痛みは続いた。10日程経って、腫れが引き、痛みも治まった。

 回復したが、天候が悪いために7月から8月に延期していた木の芽峠を越えて敦賀に出る予定は、大事をとって9月に延期する。今回は長い距離は歩かないようにする。

 先に敦賀へ行く。
 敦賀駅を出て駅前からバスに乗る。バスは市街地を過ぎて20分程走り海岸沿いに出る。敦賀湾は大小の島が点在し美しい眺めである。
 数多くの海水浴場を通り過ぎる。20分程経って杉津(すいづ)に着く。

 バスを降りて、民家の間の狭い坂道を下り、砂浜に出る。杉津海水浴場から少し離れているため、人は数えるほどしかいない。
 熱い砂の上を歩く。豊穣な砂は踝まで埋める。明るい黄色の砂を掴む。サラサラとしている。

 20分程歩いて海岸に建つホテルに入り昼食を摂る。日替わりの定食を食べる。甘エビ4尾、かれいの塩焼き、天ぷら、魚のあら汁の内容で、料金の割りにはご馳走だった。

 また20分程歩き、バスが来るまで停留所の近くの高台から海を見る。
 バスに乗り敦賀駅に戻る。北陸本線の電車に乗り滋賀県の長浜駅で降りる。駅から15分程歩く。琵琶湖の湖畔に建つ北ビワコホテルグラツィエにチェックインする。4泊予約していた。


・同年8月13日(日) 敦賀

 敦賀駅を出て500m程歩く。国道8号線に入り右へ曲がる。1キロ程歩く。大宝2年(702年)創建の氣比神宮(けひじんぐう)に着く。
 正保2年(1645年)建立の大鳥居を潜る。高さ11mの大鳥居は、奈良県の春日大社、広島県の厳島神社と並ぶ日本三大木造大鳥居の一つである。国重要文化財に指定されている。


氣比神宮 大鳥居


 昭和37年(1962年)再建の拝殿が建っている。辺りは清浄の気に満ちている。

拝殿


 「その夜、月殊(こと)に晴れたり。『明日(あす)の夜もかくあるべきにや』といへば、『越路(こしぢ)の習ひ、なほ明夜(めいや)陰晴はかりがたし』とあるじに酒勧められて、気比(けい)の明神(みやうじん)に夜参す。仲哀天皇の御廟(ごべう)なり。社頭神(かん)さびて、松の木(こ)の間(ま)に月の漏り入りたる、御前(おまへ)の白砂(はくさ)、霜を敷けるがごとし。往昔(そのかみ)、遊行(ゆぎやう)二世の上人(しやうにん)、大願発起のことありて、自ら草を刈り、土石を荷(にな)ひ、泥渟(でいてい)をかわかせて、参詣往来の煩(わずら)ひなし。古例今に絶えず、神前に真砂(まさご)を荷ひたまふ。これを遊行の砂持ちと申しはべる、と亭主の語りける。」『おくのほそ道』


      月清(きよ)し遊行(ゆぎよう)のもてる砂の上

      名月や北国日和(ほっこくびより)定めなき


 氣比神宮を出て国道8号線を渡る。敦賀郵便局の傍に「遊行上人のお砂持ち像」が立っている。遊行上人が信者と共に浜から砂を運んでいる銅像である。
 案内板に、次のとおりの説明があった。

 「『遊行上人のお砂持ち神事』として、今日まで時宗の大本山遊行寺(藤沢市の清浄光寺)の管長が交代した時にこの行事が行われている。」

 神楽1丁目商店街、相生商店街を通り20分程歩く。旧大和田銀行本店(現・敦賀市博物館)に着く。
 大正14年(1925年)着工、昭和2年(1927年)竣工、地上3階、地下1階の建物である。平成5年、敦賀市指定文化財になる。


敦賀市博物館


 旧大和田銀行本店の壮麗な建物は、かつて欧州や大陸への玄関であり、国際港であった敦賀の繁栄と賑わいを象徴するものであっただろう。
 1階から3階までが公開されている。内部は大理石を多用し、高い天井の豪華な造りである。北陸で初めて設置されたというエレベーターが保存されている。
 敦賀港の発展と繁栄を示す写真や地図が展示されている。

 敦賀市博物館を出て相生商店街に戻る。左へ曲がり300m程歩く。敦賀港の岸壁に沿った道路に入り右へ曲がる。旧い倉庫が並んでいる。500m程歩く。右側に2棟の赤煉瓦の倉庫が建っている。




 赤煉瓦の倉庫は、明治38年(1905年)、ニューヨークの石油会社によって建てられ、石油貯蔵庫として使われていた、という説明がある。港の海岸通りにふさわしい建物である。

 道路の反対側に渡る。復元された2階建ての旧敦賀港(きゅうつるがみなと)駅舎が建っている。


旧敦賀港駅舎


 駅舎の玄関の左手に立つ案内板に杉原千畝(すぎはらちうね)(1900~1986)の偉業が紹介されている。ほぼ全文を引用する。


 「第二次大戦中、ナチスの迫害から逃れようとしたポーランド系ユダヤ人に、当時のリトアニア領事代理・杉原千畝は、人道的立場から日本通過ビザを発給しました。彼の行為により約6000人ものユダヤ人が救われたといわれています。難民たちの多くは、杉原の発給した『命のビザ』を手に、シベリア鉄道経由でウラジオストクに向かい、日本海を渡って、敦賀に上陸しました。『はるびん丸』や『天草丸』などの客貨船で、昭和15年(1940)8月から翌年6月までの間に数多くのユダヤ人難民が敦賀港に降り立ちました。彼らにとって敦賀は、初めて踏みしめた日本の地であり、自由と平和を実感した場所です。」


 ユダヤ人難民が辿った経路が示されている。
 リトアニアのカウナスを出発してモスクワに着く。シベリア鉄道に乗る。スベルドロフスク、ノボシビルスク、イルクーツク、ハバロフスクを経由してウラジオストクに到着する。モスクワからウラジオストクまでは7日間を要する。船に乗り日本海を渡る

 旧敦賀港駅舎に入る。杉原千畝の功績、敦賀港の歴史、シベリア鉄道等の資料、写真が展示されていた。

 旧敦賀港駅舎から200m程離れた金ヶ崎(かねがさき)緑地に、復元された2階建ての大和田別荘が建っていた。その建物を利用して、平成20年3月29日、「人道の港 敦賀ムゼウム」が開館した。ムゼウムはポーランド語で資料館を意味する。


 平成22年5月1日(土)敦賀ムゼウムを訪ねた。

 旧敦賀港駅舎に展示されていた資料、写真が常設展示されている。
 ポーランド孤児の記事と写真は初めて見た。動乱時代のシベリアで家族を失ったポーランド孤児が日本政府の援助によって救済された。日本赤十字社の迅速な救済活動によって孤児たちが大正9年(1920年)敦賀港に上陸する。その後の各地での暮らし、本国へ帰るまでの様子を伝えている。

 ユダヤ人難民が敦賀港へ上陸したときの様子を、資料、写真、ビデオで紹介している。
 4年前の3月、宿泊していた福井市の
ユアーズホテルフクイの部屋に朝、朝日新聞が届けられた。新聞には、ユダヤ人難民が敦賀港へ上陸した当時を知る人への聞き取り調査を行っている記事が載っていた。
 その後の4年間で多くの貴重な証言を得たことに感嘆した(朝日新聞の記事については、目次29、平成18年3月27日参照)。

 証言者は皆、高齢者になっている。日本人だけではなく、アメリカ、オーストラリアに在住する、難民として敦賀に降り立ったユダヤ人を訪ね、丹念に証言を集めている。
 ビデオの映像が流されていた。ユダヤ人の高齢の男性が語る。


 「ナチスの迫害とスターリンの圧制から逃れたユダヤ人難民は、ウラジオストクから日本の船に乗り込んだ。船が出港すると、デッキに集まり、『その時』を待った。
 船がソ連の領海を出て、日本の領海に入った。待ちに待った『その時』が遂に来た! 歓声が挙がり、期せずして歌声が湧き起こった。歌声は広がり、合唱となった。『希望』という名の歌だった。
 その歌が現在のイスラエル国歌です。」


 語り終わると、敬虔な祈りを捧げているような心に沁みる旋律のイスラエル国歌が流れてきた。


・同年8月14日(月) 三方石観世音(寄り道)

 敦賀駅で電車を降りて小浜線の電車に乗り換える。
 電車は、茂る樹木の間を走り抜けると田畑が広がる田園地帯に出る。美浜(みはま)駅に近づくにつれて、車窓右手に、夏の陽に煌く
若狭湾が見えてきた。

 気山(きやま)駅を過ぎる頃から、国指定名勝・三方五湖(みかたごこ)の五つの湖の内の一つが遠くに見えた。
 30分程乗り三方(みかた)駅で降りる。

 駅を出て坂を登り旧道に入る。左へ曲がり600m程歩く。石観世音大悲山碑を見て右へ曲がる。国道27号線を渡り坂を登る。両側に数多くの石碑が立っている。次第に急坂になり、辺りは鬱蒼とした樹木に覆われてくる。観音川が現れる。川の水音を聞きながら歩く。川に架かる橋を渡る。

 石段を登り、杉木立に囲まれた三方石観世音(みかたいしかんぜおん)の本堂に着く。


三方石観世音 参道


本堂


 本堂の左手に、鉄製の龍の口から水が出ている所がある。山から引いた水である。暑い中を標高70mのこの場所まで登って来て、汗をかき、喉も渇いていたので水を柄杓に受けて何杯も飲む。冷たくておいしい。

 隣に建つ納経所で案内書をいただく。御本尊の説明がある。

 「約1200年前、弘法大師が旅の途中この地に立ち寄り、大きな岩に一夜にて観音菩薩を彫られた。しかし朝を告げる鶏の声を聞き右肘から下を彫り残して下山されたので『片手観音』と云われている。」

 また、秘仏は33年毎に御開帳。次回は平成38年御開帳予定。と書かれていた。

 三方石観世音は片手観音と呼ばれ、参詣すると手足の病に効くと信じられている。
 本堂の右手に、御手足堂(みてあしどう)が建っている。全快のお礼として奉納されたものであろう。木製の足型、松葉杖、ギブス等が沢山納められていた。

 急な坂を下る。現在は参道に沿って車が通れる道があるが、昔の人はこの急な坂を上り下りしていたのだろう。足が不自由な人には無理な坂道である。代わりの人にお札を頂いてきてもらったり、参籠を勤めてもらったりしたのだろうか。そんなことを考えながら、滑らないように気をつけて坂を下った。

 長浜駅に戻る。駅の近くのレストランで近江牛のビーフシチューを食べる。肉が柔らかくておいしい。

 宿泊している北ビワコホテルグラツィエの前は、琵琶湖遊覧船の乗り場になっている。明日、遊覧船に乗る予定にしているので案内書を貰いに窓口へ行く。前のホテルに泊まっていると話したら、案内書には始発は9時と記載しているが、8時20分に臨時のフェリーを出します、という話だった。


・同年8月15日(火) 竹生島~近江今津(寄り道)

 ホテルで朝食後、琵琶湖遊覧船の乗り場へ行く。昨日教えてもらった臨時の8時20分発のフェリーに乗る。臨時のことを知っている人が少ないのだろう。乗客は20人程だった。


琵琶湖遊覧船乗り場


 フェリーは定刻に出発する。フェリーが岸壁から遠ざかるに連れて、7階建ての北ビワコホテルグラツィエの全景が見えてきた。



 琵琶湖竹生島(ちくぶしま)の観光案内の放送が流される。船腹に当たる波の音を聞きながら周囲の風景を眺める。



 観光案内の放送が終わると、小口太郎作詞、吉田千秋作曲の「琵琶湖周航の歌」の曲が流された。
 この歌は、大正6年(1917年)に作られ、6番まである。全部の詞を載せる。


      1 われは湖(うみ)の子 さすらいの
        旅にしあれば しみじみと
        昇る狭霧(さぎり)や さざなみの
        志賀の都よ いざさらば

      2 松は緑に 砂白き
        雄松(おまつ)が里の 乙女子は
        赤い椿の 森陰に
        はかない恋に 泣くとかや

      3 波のまにまに 漂えば
        赤い泊火(とまりび) 懐かしみ
        行方定めぬ 波枕(なみまくら)
        今日は今津か 長浜か

      4 瑠璃の花園 珊瑚の宮
        古い傳えの 竹生島(ちくぶじま)
        仏の御手(みて)に 抱かれて
        眠れ乙女子 やすらけく

      5 矢の根は深く 埋もれて
        夏草しげき 堀のあと
        古城にひとり 佇(たたず)めば
        比良(ひら)も伊吹も 夢のごと

      6 西国十番 長命寺
        汚(けが)れの現世(うつしよ) 遠く去りて
        黄金の波に いざ漕がん
        語れ我が友 熱き心


 琵琶湖の西岸から時計回りに、名所、地名を詠みこんでいる。
 僅か5年であったけれども
近江大津宮が存在した「志賀の都」の大津から始まり、白砂青松(はくしゃせいしょう)の近江舞子(おうみまいこ)の「雄松が里」が登場する。

 琵琶湖の周辺は、戦乱が絶えることがなかった。
 初代・浅井(あざい)亮成から三代・
浅井長政(1545~1573)まで浅井氏三代の居城であった小谷(おだに)城石田三成(1560~1600)が城主となった佐和山城、天正7年(1579年)に完成した壮麗な五層の天守閣を頂いた織田信長(1534~1582)の絢爛豪華な安土城等1、300を越える城、砦が築かれたといわれているが、現存するものは唯一彦根城だけである。

 近江八幡に建つ「長命寺(ちょうめいじ)」は、西国三十三所札所の内の第三十一番札所である。

 ところで最近、1番の「志賀の都」の「志賀」を「滋賀」と表記するようになった。たとえ意味が同じ、読みが同じであったとしても、作詞者が作ったものを後世の人たちが変えるべきではないと思う。

 30分程経つ。湖岸から約6キロ離れた琵琶湖に浮かぶ島、周囲2キロの竹生島が見えてきた。


竹生島


 フェリーが近づくにつれ、石段が見え、緑濃い樹木の間から伽藍の甍が見える。

 フェリーが着き桟橋に降りる。
 唇に紅をさし、稚児の衣装を着けた小学校低学年と思われる少年3人が、桟橋に並んで出迎えてくれた。
 今日は盂蘭盆。島内の宝厳寺(ほうごんじ)で蓮華会(れんげえ)が営まれる。その法会(ほうえ)に少年が稚児に扮して参列する慣わしなのだろう。

 出港するときは曇っていたが、天気はよくなり、晴れてきた。
 お土産屋さんが並んでいる。琵琶湖で獲れる、もろこや鮎の稚魚等の佃煮を売っている。

 石段を上がる。途中、右へ曲がり平らな道を歩く。舞台造りの下を通る。琵琶湖を望む明るく開けた場所に出た。


舞台造り


 右手の崖の上に、湖に住むといわれる竜神に祈願する竜神拝所が建っている。
 入口で、素焼きの土器(かわらけ)を売っている。一枚100円のかわらけは小さな皿である。この皿に願い事を書いて、投げる。「かわらけ投げ」である。
 竜神拝所が建っている崖の遙か下に、琵琶湖に向かって鳥居が立っている。その鳥居に向けて投げるようである。鳥居の下に、投げられたかわらけが積もっている。

 2代目桂枝雀(1939~1999)が語る、「かわらけ投げ」を扱った『愛宕山』を聞いたことがある。
 「かわらけ投げ」の場所を初めて見て、枝雀の明るく上品で柔らかな上方の口跡が思い出された。それと共に、関西を旅しているなあ、とあらためて思った。

 左手の石段を上る。都久夫須麻(つくぶすま)神社の本殿の前に出る。
 都久夫須麻神社は、神亀元年(724年)に開基された。本殿の建物は伏見城の遺構と伝えられ、国宝に指定されている。
 「つくぶすま」は、「ちくぶしま」の古名といわれている。


都久夫須麻神社 本殿


 都久夫須麻神社の本堂の横から、先ほど下を通ってきた舞台造りの上に建つ宝厳寺の船廊下を歩く。船廊下は国重要文化財に指定されている。幅約1、8m、長さ約30mの船廊下は、案内書によると、豊臣秀吉の御座船『日本丸』の船櫓を利用して建てられた、と伝えられている。船廊下は観音堂まで続く。

 観音堂の前を通り唐門を通って外に出る。
 「唐門は、秀吉の遺命にしたがって秀頼が京都・東山の豊国廟から移築したもの」と説明されている。国宝に指定されている。


宝厳寺 唐門


 右へ曲がり石段を上る。宝厳寺の本堂に着く。


本堂


 宝厳寺は、神亀元年(724年)に創建された。御本尊は弁財天と千手観音であり、弁財天は江ノ島、宮島と並ぶ日本三弁財天の一つである。
 宝厳寺は、西国三十三所札所の内の第三十番札所である。

 165段の石段を下る。時々立ち止まり、眼下に広がる琵琶湖を見渡す。

 桟橋の近くでフェリーが来るのを待つ。湖を渡って涼しい風が吹いてくる。きれいな湖水の水面を透して群がる魚影が見える。

 長浜には戻らないで、長浜とは対岸の位置になる今津(いまづ)行きのフェリーに乗る。
 30分程乗り今津港に着いた。湖に長く突き出ている桟橋に降りる。待合室には乗船の改札を待っている人たちが大勢いた。

 待合室を出て右へ曲がる。通りの両側は旧い家並みが続く。浜焼きの店がある。右側に並ぶ民家の間から琵琶湖が見える。
 500m程歩き左へ曲がる。十字路を越えて200m程歩く。東町商店街に入る。右手に、大正12年(1923年)建築の
旧百三十三銀行今津支店(現・今津ヴォーリズ資料館)が建っている。


今津ヴォーリズ資料館


 設計者は、ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(1880~1964)。明治38年(1905年)、キリスト教の伝道を志してアメリカから来日する。滋賀県立商業学校(現・滋賀県立八幡商業高校)で英語を教えるが、教師でありながら伝道にも熱心であることが批判され解雇される。伝道を行い、同時に設計の仕事を始める。

 大正8年(1919年)、一柳満喜子と結婚。
 昭和16年(1941年)、日本国籍を得て、一柳米来留(ひとつやなぎめれる)と改名する。

 ヴォーリズは、生涯に約1、600件の建築設計を手がけた。現存する建物は約100棟といわれている。日本と日本人を愛したヴォーリズは数多くの美しい建物を遺した。

 今津ヴォーリズ資料館は、鉄筋コンクリート造2階建。正面玄関の両側の付け柱は、トスカナ式である。古典主義の要素を取り入れ、落ち着いた端正な建物である。平成15年、国登録有形文化財に指定された。内部は、ヴォーリズの作品の資料、写真を展示している。

 通りの同じ並びにヴォーリズ設計、昭和9年(1934年)建築の日本基督教団今津教会が建っている。同じ敷地内に建つ昭和7年(1932年)に創立された今津幼稚園の施設としても利用されている。平成15年、国登録有形文化財に指定された。
 絵本に登場するような愛らしく、親しみが持てる建物である。園児たちにとってもいつまでも記憶に残る建物であっただろう。


日本基督教団今津教会



 通りの反対側に美しい町屋が建っていた。
 
紅殻(べんがら)塗りの格子。一部、出格子(でごうし)を設えている。低い厨子(つし)二階の正面には虫籠窓(むしこまど)がある。白漆喰と紅殻塗りの組み合わせが美しい。


虫籠窓

紅殻塗りの格子 出格子

 更に先へ進む。右手に、ヴォーリズ設計、昭和11年(1936年)建築の旧今津郵便局が建っていたが、この建物を見て驚いた。廃屋と言ってもいい建物だった。正面玄関はシャッターが閉まり、2階建ての建物の外壁は、汚れて、傷み、蔦が這うのにまかせている。窓ガラスを割られるのを防ぐためか、あるいは外からの侵入を避けるためなのか、1階、2階とも窓に外から板が打ち付けてある。内部の荒廃も想像できる。
 ヴォーリズの作品として観光案内で紹介しておきながら、保存のための配慮も日頃の手入れも為されていないことが見て取れる。心が痛む光景であった。

 JR湖西線の線路を潜り左へ曲がる。500m程歩き今津駅に近い名小路(なこじ)商店街に入る。
 商店街の中にある川魚料理の店
「西友(にしとも)」に入る。2階が食事をする所になっている。1階で魚を焼いている。また、鰻の蒲焼、お茶漬け用の鰻、川魚の佃煮等を売っている。

 広い座敷に案内される。メニューを見て、「川魚会席」を注文する。
 最初に鮎、海老、ごり、の三種の佃煮が出された。次に鯉の洗い、鯉こく、鮎の塩焼き、と続く。最後に鰻重が出てきた。みんなおいしい。手頃な値段にもかかわらず豪華な内容だった。

 今津駅から湖西線の電車に乗る。20分程乗り近江塩津(おうみしおつ)駅で降りる。降りたホームの反対側で長浜方面行きの電車を待つ。


・同年8月16日(水) (帰京)

 朝、ホテル1階のレストラン「ル・ラック」で食事をする。バイキングだった。焼き立てのパン、薬膳カレーがおいしい。ホテルのおいしいコーヒーをゆっくりと飲む。
 ガラス戸の外は、石畳を敷いたテラスになっている。テーブルと椅子が置かれているが、暑いからテラスで食事をしている人はいない。

 食後、ホテル最上階の7階にある大浴場に入る。窓から琵琶湖が見える。琵琶湖は夏の陽光に輝いている。

 チェックアウトのとき、ホテル会員の登録の手続きをする。次回から宿泊料10%OFF、朝食は無料のサービスが受けられる(注・その後、繁忙期には2食付の特別料金が設定された)。

 ホテルを出て、琵琶湖の美しい風景を眺めながら駅へ行く。


琵琶湖






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