29 永平寺 芦原温泉~丸岡~松岡~福井


・平成18年1月7日(土) 芦原温泉(寄り道)

 東海道新幹線に乗り米原駅で降りる。北陸本線の特急に乗り換え福井駅で降りる。隣接する、えちぜん鉄道福井駅に行き三国芦原線に乗る。
 切符を買うとき駅員が往復の乗車券と共同湯の入浴券がセットになって2割程安くなる切符を勧めてくれた。その割引きの切符を買う。親切な駅員である。

 二両編成の電車は雪原の中を走る。窓が大きく車内は明るい。若い女性の案内係が同乗して、沿線の観光案内をしたり、乗客の質問に答えたりしている。

 約40分で「あわら湯のまち駅」に着く。駅を出て100m程歩く。旅館やホテルが並ぶ通りに入る。右へ曲がりすぐ左へ曲がる。共同湯「セントピアあわら」に着く。
 「天の湯」と「地の湯」の二つの浴室があり一週間ごとに男女入れ替えになっている。

 「地の湯」に入る。「地の湯」の建物は、ピラミッドのような形をしている。内部は、内側に倒れる四面の壁を、それぞれの壁が互いに支えあっているような構造である。天辺に天窓があり、そこから光が入る。木造の壁が落ち着きを与える。温度が違う四つの大きな浴槽がある。泉質はナトリウム・カルシウム塩化物泉となっている。ゆっくり入って温まる。

 福井駅に戻る。ユアーズホテルフクイにチェックインする。2泊予約していた。


・同年1月8日(日) 永平寺

 早朝、まだ暗いうちにホテルを出て、えちぜん鉄道福井駅に行く。雪で滑らないように気をつけて歩く。
 6時34分発勝山永平寺線の始発の電車に乗る。昨日とは違って一両で、案内係はいない。暖房は入っているが、なかなか車内が暖かくならない。

 6時57分に永平寺口駅に着く。乗り換えの京福バスは7時32分発である。発車まで駅の待合室で待たせてもらう。待合室はガスストーブが入っていて暖かい。
 ようやく空が明るくなってきた。


永平寺口駅から上り方面を望む


 福井駅前と永平寺をノンストップ、30分で結ぶ京福バスがあるが、福井駅前始発が9時20分という遅い時間のため電車を利用した。帰りはこの直通のバスに乗ろうと思っている。
 7時32分発のバスに乗る。バスは雪道を行く。山も田畑も雪に覆われている。7時44分に停留所「永平寺」に着く。





 永平寺へは5月に行く予定にしていたが、冬の永平寺を見たいと思って今日訪ねた。
 幅の広い坂道を登る。永平寺川に架かる橋を渡る。雪道を滑らないように気をつけながらゆっくり歩く。坂道の両側に、仏具専門店、木彫仏像の店、食堂、そば屋、団子屋、栗きんつば、禅みそ等のお土産屋さんが並ぶ。
 屋根から雪の塊が時々どさっと落ちてくるので道の端を歩いているとそれも注意しなければならない。かと言って道の中央近くを歩くと車が走ってくるので尚危ない。

 300m程上り、曹洞宗大本山永平寺の参道に着く。
 参道も坂道になっている。左手の杉木立の間から、平成14年改築の宝物館である
瑠璃聖望閣(るりしょうぼうかく)が見える。


瑠璃聖望閣


 右手に杉林があり、その向こうには車が通れる道がある。横を永平寺川が流れている。静かな参道に水音が響く。
 通用門の前に着き、歩いて来た参道を振り返る。時間が早いので人の気配がない。拝観の時間にも早いので周囲を歩く。


参道


 天保10年(1839年)再建の唐門(からもん)が建っている。永平寺貫主(かんじゅ)の就任の際のとき等に開かれる門である。


唐門


 平成8年に建立された報恩塔が立っている。写経を納める塔である。塔の下半分は、雪除けのために莚で覆われている。

 9時近くになり、石段を上がり通用門から中に入る。受付を済ませる。大広間で、雲水の衣である黒い直裰(じきとつ)を着けた20代くらいの若い修行僧が拝観の説明をした。説明を聞いていたのは、私と、私と同じ年代の男性の二人だけだった。

 永平寺は、寛元2年(1244年)、道元禅師(どうげんぜんじ)(1200~1253)によって開かれた座禅修行の道場である。現在240人ほどの修行僧が修行を積んでいる。
 座禅が修行の根本であるが、行鉢(ぎょうはつ)と言われる正式な作法に則り食事を頂くこと、掃除などの労働や作業の作務(さむ)、入浴も修行である、というお話があった。
 観光という気持ちを捨てて、大小70余りの建物の中の七堂伽藍(しちどうがらん)と呼ばれる、山門、仏殿、僧堂、庫院(くいん)、東司(とうす)、浴室、法堂(はっとう)を拝観していただきたい、そして、再度お越しいただき、次は禅の修業を体験されることをお勧めする、というお話もあった。

 最後に、若い修行僧は合掌し、美しい動きで体を45度近くに曲げ、頭を下げる礼の「問訊(もんじん)」を行った。

 2階に上がる。156畳敷きの大広間がある。昭和5年(1930年)当時の著名な画家144名による230枚の、修復された花や鳥の天井画を見ることができる。「絵天井の間」と呼ばれている。
 廊下を歩く。右側に
東司が建っている。お手洗いである。

 廊下を進む。総欅造り、二層の楼門の雄渾な山門の内部に出る。寛延2年(1749年)再建の永平寺最古の建物である。
 修行僧が正式に入門する際に、この山門の前で入門の意思を確認する問答が行われる。
 山門の外側も、内部の境内に面した側も雪除けのビニールのシートが掛けられている。水の中にいるような光景である。


山門 内部


山門 内部


 少し戻り右へ曲がり幅の広い長い階段を上る。永平寺は、山の斜面に造られているから七堂伽藍を結ぶ回廊の大部分が階段になる。


階段


 階段の途中、左側に僧堂が建っている。僧堂の前にもビニールのシートが掛けられている。


僧堂


 階段を上がる。右側に、明治35年(1902年)改築の仏殿が建っている。七堂伽藍の中心に位置する。
 仏殿の横から眼下に伽藍が見える。清浄な気が漲っている。雪に覆われた遠くの山が見える。風が吹いているのか時々雪煙が上がる。空気は冷え切っている。

 更に階段を上がる。天保14年(1843年)改築の法堂の前に出る。七堂伽藍の一番奥に位置する。
 反対側の階段を降りる。スリッパを履いているが、冷気が足もとから上がってくる。右側に仏殿の全景が見えた。


仏殿


 修行僧が足早に歩いて来る。素足にサンダルを履いている。近づいて来たので立ち止まった。修行僧も立ち止まり、合掌して、また足早に去って行った。

 左側に、食事を司る台所、接待の間などがある昭和5年(1930年)改築の大庫院(だいくいん)が建っている。前の廊下に、天井からぶらさがっている長さ4m、胴回り1mの「すりこぎ」がある。3回なでると料理がうまくなると言われている。 

 帰りに、受付の横に立っていた修行僧に「ありがとうございました。」と言って、頭を下げると、「問訊」の礼で応えてくれた。

 外へ出て参道の坂道を下る。左側の杉林の中に、山頭火の句碑がひっそりと立っていた。


山頭火句碑


      水音のたえずして御佛とあり


 同じ句碑の側面に次の句が刻まれている。


      てふてふひらひらいらかをこえた


 山頭火は、永平寺で九つの句を詠んでいる。
 
昭和11年(1936年)7月、永平寺に参籠(さんろう)する。春陽堂書店発行の『山頭火日記(六)』から引用する。


  「7月2日 曇

 天地暗く私も暗い。
 十時の汽車で南へ南へ。
 雨、風、時化日和となった。
 夜1時福井着、駅で夜の明けるのを待つ。
 明けてから歩いて、永平寺へ、途中引返して市中彷徨。


  7月3日 曇

 ぽつりぽつり歩いてまた永平寺へ、労れて歩けなくなつて、途中野宿する、何ともいへない孤独の哀感だった。


  7月4日 晴

 どうやら梅雨空も霽れるらしく、私も何となく開けてきた。
 野宿のつかれ、無一文のはかなさ。・・・・・・ 
 二里は田圃道、二里は山道、やうやくにして永平寺門前に着いた。
 事情を話して参籠といつてもあたりまえの宿泊させていたゞく。

 永平寺も俗化してゐるけれど、他の本山に比べるとまだまだよい方である。
 山がよろしい、水がよろしい、伽藍がよろしい、僧侶の起居がよろしい。
 しずかで、おごそかで、ありがたい。
 久しぶりに安眠。」


 自分のような破戒僧を永平寺は受け入れてくれないだろう、と逡巡するが、無一文になり、永平寺に参籠を願う。
 参籠を許される。3日間は真面目に行を勤める。永平寺の周辺の山のみどりは快い。山ほととぎすの声、水音を聞き、雨の音を聴く。
 4日目に外出する。


  「7月8日 雨

 朝課諷経に随喜する。
 新山頭火となれ。
 身心を正しく持して生きよ。
 午後、裸足で歩いて、福井まで出かけた、留置郵便物を受け取る、砂夢路君の友情によつて、泊ることが出来た、そして、久しぶりに飲んだ、そしてまた乱れた。・・・・・・ 


  7月9日

 とぼとぼと永平寺へ戻つて来た。
 少しばかりの志納をあげて、南無承陽大師、破戒無慚の私は下山した。
 夜行で大阪へ向ふ。


  7月10日 降る降る

 比古さんのお世話になる、何の因縁があつて、私はかうまで比古さんの庇護をうけるのか。
 性格破産か。自我分裂か。」


 「裸足で歩いて」という箇所に吃驚した。雨が降っていたからだろうがそれにしても永平寺と福井市の市街地の間は約18キロの距離がある。歩いて約4時間はかかる。

 山頭火の生涯は酒と切り離せないものだった。酒による失敗が続き借金も重なった。酒を止めなければならない、と自分に言い聞かせ、飲まないで過ごすこともあるが長くは続かない。飲むと、やはり酒は美味い、自分には酒は欠かせない、と思う。その繰り返しであった。

 種田山頭火(たねださんとうか)(本名・種田正一)(1882~1940)は、明治15年12月3日、山口県西佐波令村(現在の山口県防府市)に生まれる。明治35年(1902年)早稲田大学文学部へ入学するも2年後健康上の理由により中退する。実家に戻り、家業の造り酒屋を手伝う。

 明治43年(1910年)、結婚、男の子が生まれる。
 大正2年(1913年)、自由律俳句の荻原井泉水(おぎわらせいせんすい)(1884~1976)に師事し、『層雲』の同人になる。
 大正5年(1916年)、種田家が破産する。
 大正9年(1920年)、離婚、子供とも別れる。
 大正14年(1925年)、熊本市の曹洞宗報恩寺にて出家得度。
 翌年から各地へ旅をして、米やお金のお布施を鉄鉢に受ける行乞(ぎょうこつ)を続けながら句作に励む。

 山頭火にとって最も大事なことは句を作ることであった。句を作ることが生きることであった。出離をしても仏の道を究めるよりは句を作ることに全身全霊を捧げていた。
 行乞もやりたくない、と思うことが多かった。米やお金に余裕があれば読書をして、酒を飲む。その日の宿代や食べ物がなくなると行乞を始める。そのため、雨や雪が降っても、自身の体の具合が悪くても無理をして行乞をやらなければならなくなる。

 『山頭火日記(一)』から、昭和5年10月17日の日記の一部を引用する。原文に脱字があるがそのまま引用する。


 「身心はすぐれないけれど、むりに八時出立する、行乞するつもりだけれど、発熱して悪寒がおこつて、とてもそれどころぢやないので、やうやく路傍に小さい堂宇を見けて、そこの狭い板敷に寝てゐると、近傍の子供が四五人やつて声をかける、見ると地面に茣蓙を敷いて、それに横はりなさいといふ、ありがたいことだ、私は熱に燃え悪寒に慄へる身体をその上に横たへた、うつらうつらして夢ともなく現ともなく二時間ばかり寝てゐるうちに、どうやら足元もひよろつかず声も出さうなので、二時間だけ行乞、」


 哀切きわまりない情景である。それでも、熱に喘ぐ山頭火に手を差し伸べた子供たちに、仏の使いかと思うほどの崇高なものを覚える。

 山頭火の句には、教訓、悟り、救い、再生、饒舌、説明等はない。障碍物や夾雑物を纏うことに陥ってしまいがちな言葉を徹底して削ぎ落とす。
 言葉が意思や感情を伝達する役割を担っているならば、山頭火の言葉はその役割から解き放たれ、自在に飛ぶ。


      どうしようもないわたしが歩いてゐる

      うしろすがたのしぐれてゆくか        

      酔うてこほろぎと寝てゐたよ

      ふるさとの水だ腹いつぱい

      うまれた家はあとかたもないほうたる

      うどん供へて母よわたくしもいただきまする


 昭和14年(1939年)、友人、知人の尽力があって、愛媛県松山市に庵を結ぶ。「一草庵(いっそうあん)」と名付けられる。終の棲家となる。

 昭和15年10月6日の日記が同じ日付、同じ内容で2回書かれ、10月7日の日記になる。次にまた10月6日の日記が書かれている。その次は10月7日の日記が書かれているが、内容は6日と同じである。山頭火の混乱を示しているが、友人、知人への感謝の言葉が繰り返し述べられている。
 10月8日の日記が絶筆となる。

 2日後の10日、一草庵で句会が開かれた。山頭火は隣の部屋で眠っていた。句会が終わり、山頭火がよく眠っているので、同人たちは帰った。
 翌11日の未明、誰に看取られることもなく息をひきとる。享年57歳であった。
 山頭火は日記の中で「コロリ往生したい」と記していた。その望みどおりの最期だった。

 山頭火の各地に立てられている句碑は、現在、490を数える。
 山頭火に対し物心両面において支援を続けた『層雲』の同人、友人、知人たちも、山頭火の非凡な才能は認めても、山頭火の句がこれほど人口に膾炙(かいしゃ)し、日本人に愛されるようになるとは誰も予想し得なかったのではないかと考える。

 酒と温泉と湯豆腐を愛した山頭火は、水を飲むことも好きだった。食べる物が無く、空腹を紛らすために水をがぶ飲みすることも多かったが、各地へ旅をして、その土地のおいしい水を飲むことを楽しみにしていた。
 山頭火の句は水を詠んだ句が多い。


・同年1月9日(月) (帰京)

 ホテルで朝食後すぐ帰る。


・同年3月25日(土) 芦原温泉~丸岡

 東海道新幹線に乗り米原駅で降りる。北陸本線の特急に乗り換え芦原温泉駅で降りる。
 駅を出て左へ曲がり線路に沿って歩く。500m程歩いて竹田川に架かる浦安橋を渡る。

 200m程歩き、金津中学校の角を右へ曲がり200m程歩く。県道に入り左へ曲がる。両側は乾いた土の畑が広がっている。遠くに見える山には雪が残っている。
 2キロ程歩き、無人の踏み切りを渡り、北陸本線の線路の反対側に出る。暖かい陽が射している。2キロ程歩き、田島川に架かる長屋橋を渡る。
 更に2キロ程歩く。信号がある一本田福所に出る。国道8号線が通っている。国道を越えて真っ直ぐ歩く。

 角を曲がりながら1キロ程歩く。丸岡城の天守閣が見えてきた。
 天守閣へ至る石段を上り坂道を上がる。天守閣に着く。石垣の周りに桜の木が植えられている。
桜の花が咲く頃、花の上に現れる天守閣はもっと美しく見えるだろう。


丸岡城 天守閣


 丸岡城の天守閣は、天正4年(1576年)建築の日本最古の天守閣である。石垣も当時のものである。
 昭和9年(1934年)国宝に指定されたが、昭和23年(1948年)福井大地震により倒壊。昭和25年(1950年)国重要文化財の指定を受け、昭和30年(1955年)修復再建された。

 急な石段を上り3階建ての天守閣に入る。太い柱が2階、3階を支える。
 鉄砲を撃つ穴として使用された「石落(いしおとし)」、矢や鉄砲を撃つために壁に開けられた小窓である「狭間(さま)」が造られている。
 国宝の指定を受けていた時代の天守閣の写真が展示されている。



天守閣1階


 2階へ上がる。垂直に近い急な階段である。その上、一段の高さが現代の階段の2段分以上はある。手すりの他に結び目のついたロープが付いているが、上るのが怖くなってくる。
 「内部での事故は一切責任を負いません」と書かれた張り紙があちらこちらに貼ってあり、それが一層緊張させる。両手を使い、ゆっくり上る。
 2階から3階への階段も急な階段である。ゆっくりと慎重に上がる。


1階から2階への階段


2階から1階を見下ろす


 3階は望楼となっている。四面の蔀戸(しとみど)が上げられ、周囲360度の風景を眺めることができる。


3階 望楼


 石垣の下に戻る。「一筆啓上」の書翰碑が立っている。


      一筆啓上、火の用心、お仙泣かすな、馬肥やせ


 徳川家康譜代第一の功臣であった本多作左衛門重次が、陣中から妻にあてた手紙である。
 簡にして要を得た手紙の見本として学校で習った記憶がある。

 文中の「お仙」というのは、嫡子・仙千代、長じて数々の戦に武勲を立て丸岡城6代目城主となった本多成重のことである。

 坂を下り石段を降りる。停留所「丸岡城」からバスに乗る。約40分で福井駅前に着く。
 
ユアーズホテルフクイにチェックインする。2泊予約していた。


・同年3月26日(日) 丸岡~松岡~福井

 ホテルを出て駅前からバスに乗る。停留所「丸岡城」で降りる。県道を歩く。2キロ程歩き北陸自動車道の下を潜る。3キロ程歩いて十字路を右へ曲がる。曇っていて風が冷たい
 十郷用水と五領川に架かる橋を渡り2キロ程歩く。

 九頭竜川(くずりゅうがわ)が流れている。川に架かる五松橋を渡る。
 橋を渡りながら川を見る。美しい川である。5人の釣り人が流れに入り、釣り糸を垂らしている。

 橋を渡る。釣具店があり、店の外壁に紙が貼ってあった。「2月16日から5月31日までサクラマス解禁」と書かれている。

 左へ曲がる。300m程歩き右へ曲がる。旧い建物が並ぶ通りを300m程歩く。えちぜん鉄道松岡駅の前に出る。旧い駅舎である。
 えちぜん鉄道の線路を越え200m程歩き国道416号線に入る。200m程歩き左へ曲がる。曹洞宗
天龍寺に着く。

 芭蕉は、天龍寺で、金沢から同行した立花北枝(たちばなほくし)と別れる。芭蕉はここから福井まで一人旅になる。


      物書きて扇引きさくなごりかな


 境内に、「物書きて」の句が刻まれている句碑が立っている。

 天龍寺を出て左へ曲がる。文化元年(1804年)創業、清酒「黒龍」の造り酒屋・黒龍酒造が建っている。黒塀を巡らした豪壮な住まい、千本格子の旧い商家の建物が目を引く。隣接して酒蔵があり、辺りに麹の甘い香りが漂っている。

 国道416号線に入る。途中、昼食を摂り9キロ程歩く。福井駅前に着く。



超勝寺(東) 本堂


本堂


 近くを歩いていたにも拘わらず、この日通り過ぎてしまった真宗大谷派超勝寺(東)を4年後の平成22年3月21日(日)に訪ねた。
 超勝寺(東)に所蔵されている
蓮如上人の6歳の肖像画・「鹿子の御影(かのこのごえい)」を拝観させていただく(「鹿子の御影」については、目次28、平成17年11月27日参照)。(注・拝観は予約が必要)

 1300年代の終わり頃に創建された超勝寺は、蓮如上人が没して約100年後の1600年代初め本願寺が東西に分立した直後に、超勝寺(東)と超勝寺(西)に分かれたものと思われる。

 福井駅から、えちぜん鉄道勝山永平寺線に乗る。約12分で東藤島駅に着く。駅を出て左へ曲がり200m程歩く。
 右側に超勝寺(東)の壮大な本堂が建っている。境内に入り本堂の前を通る。信徒会館のような2階建ての大きな建物の玄関に出られたご住職の奥さまに拝観の件を述べる。
 黒の法衣を纏い、肩に袈裟をかけたご住職が、にこにこしながらお出ましになった。温顔を拝し、緊張していた気持ちが楽になった。

 玄関脇の控えの間と思われる6畳間に通された。抱えられた長い桐箱をテーブルの上に置かれ、超勝寺の歴史と「鹿子の御影」について書かれた文章をプリントされたものを差し出された。ありがたく頂いた。
 法衣を纏い、袈裟をかけることは、蓮如上人の肖像画を拝観する際の心得のようなものである、と思われた。

 超勝寺の歴史と「鹿子の御影」についてお話があった。穏やかに話される。話の間に質問をさせていただく。それに対して丁寧なご説明がある。
 静かな時間が流れていった。お話を伺いながら、私は、硬いしこりを持つ私の心が慈雨にうたれているような気持ちになった。ご住職はおおぜいの人たちに慕われておられるのであろう、と思った。

 「鹿子の御影」について、蓮如上人の母は、6歳の蓮如上人の姿を二幅、絵師に描かせた。一幅は母が持って蓮如上人の前から姿を消し、もう一幅は蓮如上人のもとに残された、というお話だった。
 蓮如上人のもとに残された一幅は、蓮如上人の娘・蓮周尼が超勝寺四代・蓮超にお輿入れの際持参され、それが伝えられたものである、ということであった。

 30分程お話をしていただいた。「鹿子の御影」をテーブルの上に広げられるのかなと思っていたら、こちらへどうぞ、と仰って立ち上がられた。
 幅の広い廊下を渡り、100人以上は入れるような大広間に案内された。

 正面の壁に、桐箱から出された「鹿子の御影」を掛けられた。
 6歳の蓮如上人の肖像画が私の前に現れた。あどけなさの残る表情に、子供の体の柔らかさを表わす、なよやかな姿である。

 肖像画の大きさは、縦72cm、横20、7cm、と『芸術新潮』に書かれていた。

 徳川家の葵の御紋の入った布が使われている豪華で美しい表装がなされている。
 ご住職のお話では、超勝寺(東)に所蔵されている江戸時代末期(1845年頃)の文書からの推測として、徳川・松平家は、東西に分立した時より東本願寺に同情的で、それは越前でも似たような事情だった。江戸時代末期に福井藩主にお目通りしたときに、その布を賜り、表装に使用する許可を頂いたものと思われる、と話された。

 終始笑みを湛え、長い時間お話していただいた。感謝の気持でいっぱいになった。
 ご住職と奥さまが玄関までお出でになりお見送りしてくださった。お礼を申し上げて頭を下げるとき、自然に合掌していた。

 通りに出て、帰りの電車に乗っても、胸の中がいつまでも暖かいものに満たされていた。ありがとうございました。


・同年3月27日(月) (帰京)

 朝、部屋に届けられた『朝日新聞』に次の記事が掲載されていた。ほぼ全文を記す。


 「『命のビザ』受け上陸した敦賀
  ユダヤ人難民の足跡調査

 第二次大戦中に、リトアニア領事代理だった故杉原千畝氏から日本通過のビザ発給を受け、福井県敦賀市から入国した約6千人のユダヤ人難民の足跡を発掘する活動を、地元の郷土史研究グループ『日本海地誌調査研究会』が始めた。当時の記録は残っておらず、当時を知る市民も高齢化している。同研究会は関係者から聞き取り調査をして記録に残す考えだ。

 敦賀港には40年秋から翌41年春にかけて、ナチス・ドイツの迫害を逃れた大勢のユダヤ人が、リトアニアからシベリア鉄道でウラジオストックを経由してたどりついた。その後、敦賀駅から列車で神戸へ向かい、米国などへ出国した。

 敦賀での滞在は短期間だったが、市民の間では、
 港近くの銭湯が無償で開放した、
 少年がかごいっぱいのリンゴを手渡した、
 先に入国したユダヤ人がホテルに宿泊し家族の到着を待っていた、
などの話が伝わっている。

 同研究会では今後1年かけて、当時の敦賀駅員や銭湯、ホテルの従業員、その親族らから聞き取り調査を進める。交流の様子などを機関誌にまとめる予定だ。井上会長は『迫害から逃れた難民たちが敦賀でどう過ごしたのか、空白となっている歴史の一場面を明らかにしたい』と話す。

 杉原氏は当時、外務省の方針に逆らい、自分の判断でビザを発給した。『日本のシンドラー』とも呼ばれる。」


 昭和15年(1940年)9月27日、日独伊三国軍事同盟が締結された。このニュースは、新聞、ラジオ等で繰り返し報道されたに違いない。学校では、教師が生徒に説明したと思う。
 ナチス政権下のドイツによる迫害を受けてユダヤ人難民が敦賀に上陸した、という正確な事情は把握できなくても、同盟国・ドイツとドイツの支配下から逃亡するユダヤ人難民の関係は一般市民にも察せられたことと思われる。それにも拘わらず、ユダヤ人難民を暖かく迎えた敦賀市民の高潔な行動に胸が熱くなる。

 また、他のことも考えた。リトアニアを出て、敦賀へ着いたということは、逆からも行けることになる。
 東京から敦賀まで汽車で移動する。日本海を船で渡り、ウラジオストックから汽車に乗り、シベリア鉄道に乗り換える。モスクワに着く。モスクワからヨーロッパ各国へ行くことができた、と考えられる。
 日数や料金はどうだったのだろうか。東京でパリやベルリンまでの切符が買えたのだろうと思うと、これがとても面白いことに思えてきた。





TOPへ戻る

目次へ戻る

30へ進む

ご意見・ご感想をお待ちしております。