28 吉崎〜芦原温泉 輪島 鶴来(寄り道)
・平成17年11月26日(土) 湯涌温泉(寄り道)
金沢駅に着く。金沢全日空ホテルで昼食を摂り金沢都ホテルにチェックインする。2泊予約していた。
駅前から「湯涌温泉(ゆわくおんせん)」行きのバスに乗る。バスは、市街地を抜け、田園地帯を走る。約50分で終点の停留所「湯涌温泉」に着く。
山間の、ひっそりとした静かな温泉場である。旅館が並ぶ通りを歩く。
一部円形になっている白い建物の金沢湯涌夢二館が建っている。画家・竹久夢二(1884〜1934)の記念館である。
夢二は、東京・日本橋の紙問屋の娘・笠井彦乃(ひこの)と京都で同棲する。二人で北陸を旅行し、大正6年(1917年)秋、湯涌温泉に着く。3週間逗留する。夢二、33歳。彦乃、21歳であった。
通りの同じ並びにある共同湯「総湯・白鷺の湯」へ入る。
浴室は、ガラス窓が大きく明るい。泉質は、ナトリウム・カルシウム、塩化物・硫酸塩泉となっている。無色透明である。気温が低く、体が冷えていたのでゆっくり入って温まる。
受付にいる女性に、白雲楼(はくうんろう)ホテルへの道順を尋ねたところ、ホテルは閉鎖しました、と言われた。驚いた。外側からだけでも見たい、と言ったら、外側は工事用の青いシートで覆っているということであった。
白雲楼ホテルは、昭和16年(1941年)建築、瓦葺のスパニッシュ風の本館と和風の貴賓館が並ぶ豪華なホテルであった。貴賓館は、昭和天皇の行幸の際に使われた由緒ある建物である。
写真を見ると、本館和風大広間には華麗な天井画、襖絵、照明器具が施されている。貴賓館の玄関内部は、斜線で統一されたデザインがなされている。
本館の中ほどの階に造られた石造りの露台、東屋(あずまや)を上から撮っている写真がある。ヨーロッパの貴族の別荘のようである。
可能であれば、館内を見学し、ゆっくりコーヒーでも飲もうと思っていたが、訪ねるのが遅かった。
・同年11月27日(日) 吉崎〜芦原温泉
金沢駅から特急に乗り加賀温泉駅で降りる。各駅停車に乗り換え一つ目の大聖寺駅で降りる。駅前からバスに乗る。約20分で停留所「吉崎」に着く。
吉崎は、本願寺8世・蓮如(れんにょ)(1415〜1499)が浄土真宗の礎を築いた場所であり、信徒にとっては聖地となっている。
蓮如は、応永22年に生まれる。父は本願寺7世の存如、母は本願寺の使用人であった。
応永27年(1420年)、存如が正室を迎えることが決まったとき、蓮如の母は、6歳の蓮如に鹿の子絞りの晴れ着を着せて、絵師に蓮如の肖像画を描いてもらう。母は、その肖像画を持って、蓮如の前から去って行った。
後年、蓮如は、その絵師にその時の肖像画を再度描いてもらう。肖像画は、「鹿子(かのこ)の御影(ごえい)」と呼ばれ、現在10幅残っている。
その肖像画が、新潮社発行、1998年4月号の『芸術新潮』に載っている。福井市・超勝寺(東)所蔵のものである。
母との永遠の別れが近づいていることを知らず、髪を稚児髷に結われ、赤い鹿の子絞りの晴れ着を着せられて絵師に肖像画を描いてもらうのが嬉しいのか、幼い蓮如は微笑んでいるように見える。
長禄元年(1457年)、蓮如は43歳にして本願寺8世を継ぐ。寛正6年(1465年)、比叡山延暦寺の宗徒に大谷本願寺を破壊される。蓮如は近江に逃れる。
その後も蓮如に対する比叡山の圧力は強まり、文明3年(1471年)、蓮如は越前国吉崎に移る。57歳であった。
この地に坊舎を建て、4年後に吉崎を去るまで北陸布教の拠点とする。
坊舎であった吉崎御坊の跡地は、昭和50年(1975年)、「吉崎御坊跡」として国の史跡に指定された。
吉崎御坊跡へ至る旧参道の両側に二つの寺が建っている。
右側の寺に、本願寺吉崎別院(西御坊)と刻まれた石柱が立っている。左側の寺には、真宗大谷派東本願寺吉崎別院(東別院)と書かれた案内板が立っている。右側は、浄土真宗本願寺派西本願寺の寺であり、左側は、真宗大谷派東本願寺の寺である。
左側の東本願寺吉崎別院から拝観する。
城の櫓のように聳える建物は、太鼓堂である。石垣の横の石段を上る。右手に太鼓堂の入口がある。内部は宝物館として使われている。
東本願寺吉崎別院 太鼓堂
正面に本堂がある。本堂の軒下の周囲に柱が林立している。雪除けのためのビニールのシートを掛ける柱である、以前は、板を柱に打ち付けていたという説明があった。
本堂
本堂の右手、太鼓堂の隣に、寛政3年(1791年)建築の鐘楼が建っている。
鐘楼
次に西本願寺吉崎別院を拝観する。
石段を上り山門を潜る。この山門は、念力門と名付けられている。案内書によると、「豊臣秀吉が寄進した天狗門を京都本願寺より下附され念力門と称した」とある。
総檜造りの本堂は、寛政9年(1797年)に再建された。
本堂の右手に立つ銀杏の巨木が黄金(きん)色に輝いている。
西本願寺吉崎別院 本堂
吉崎御坊の旧参道の石段を上がる。二つの寺の間の狭い参道である。右側の石垣は、古い時代のものと思われる。
吉崎御坊旧参道
石段を上がって行くと、真宗大谷派願慶寺の、山門の上に鐘楼を載せた二層の鐘楼門の前に出る。右へ曲がり石段を上がる。
蓮如が没して約100年後、本願寺は東本願寺と西本願寺に分裂する。
1998年4月号の『芸術新潮』に、次のように解説されている。
「織田信長との11年におよぶ大戦争『石山合戦』は、天正8年(1580年)に本願寺11世・顕如が信長と和睦、石山本願寺をあけ渡すことで終結した。天正19年(1591年)になって、顕如は天下統一を遂げた豊臣秀吉から寄進された京都七条堀川の地に本願寺を建てた。これが今の浄土真宗本願寺派・西本願寺である。一方、顕如没後に継職問題で豊臣家から睨まれ隠居していた12世・教如は慶長7年(1602年)、本山を飛び出して徳川家康より寄進された京都東六条の地に真宗大谷派・東本願寺を建立した。ここに本願寺は東西に分裂した。」
15分程上がり、「御山」と呼ばれている高さ約33mの吉崎山の頂上に着く。吉崎御坊跡である。美しく紅葉している樹木が多い。面積約2万uの広大な場所は、公園として整備されている。
吉崎御坊跡
堀を巡らした台座の上に蓮如上人(しょうにん)像が立っている。
堀には石橋が架けられている。台座の高さは12m。吉崎下向時の旅姿の蓮如上人の銅像の高さは5mである。
蓮如上人像
製作者は彫刻家・高村光雲(こううん)(1852〜1934)。5年の歳月をかけ昭和9年(1934年)に完成した。
因みに、光雲の長男は、彫刻家、詩人の高村光太郎。三男は、鋳金家・高村豊周(とよちか)である(高村光太郎については、目次4、平成11年11月20日参照)。
この後、石段を下り、二ヶ所の寺で「嫁威肉附面(よめおどしにくづけめん)」を見る。
若い未亡人が、毎夜、吉崎御坊にお詣りをしていた。これを妬ましく思う姑が、ある夜、鬼の面を付け、待ち伏せして嫁を威かした。嫁は仰天したが、念仏を唱え落ち着きを取り戻す。
目的を達せられなかった姑は、鬼の面をはずそうとしたが、面は顔にくっつきはずれない。自分の行為を悔い、嫁と共に蓮如上人の説教を聴くと面が顔からはずれた、という話である。
この面が保存されているという二ヶ所の寺で面を見る。一つ目の寺の面は、目と口の部分が開いている素朴なものだった。二つ目の寺の面は、仁王像の顔のような面だった。伝説なのだろうが、それにしても面が二つ存在するのは解せない。
別の寺に行き、そのことを尋ねると、女性の職員が、「ああ、あれは、うちにもあります。他にもまだ沢山ありますよ。」と、こともなげに言う。そして、「嫁威しの話は事実ではないんです。あの話についての蓮如上人の教えを理解していただければいいんですよ。」と言われた。
吉崎は、北潟湖(きたがたこ)に面している。北潟湖の面積は、21400u。右手に陸続きの「鹿島の森」が見える。
右手に北潟湖を見ながら、国道305号線を歩き始める。
500m程歩き国道305号線と別れて旧道を歩く。木立の間から右手に北潟湖が見える。木の根元に積もった落ち葉が濡れて湿った匂いを立てている。昨日雨が降ったのだろうか。
2キロ程歩き細呂木(ほそろぎ)の集落に入る。
旧暦3月25日前後に、東本願寺吉崎別院で蓮如忌が営まれる。このとき、京都の本山に預けられている蓮如上人の自画像と伝えられる肖像画をリアカーに乗せて京都から吉崎まで運ぶ。「御影(ごえい)道中」と呼ばれている。
写真家・川村赳夫氏は、この「御影道中」に同行し、1998年4月号の『芸術新潮』に「現代に生きる蓮如」と題し、「蓮如上人と一緒に 吉崎御影道中記」の副題を付けて、道中撮影した写真を載せ、その様子を書いておられる。川村氏は、平成9年(1997年)に同行したと思われる。
それに拠ると、4月17日、東本願寺境内に置かれたリアカーの上には輿が設えられている。御影は桐箱に納められ、漆塗りの櫃に入れられて錠が掛けられる。櫃にはさらに緋色のおおいを掛け輿に乗せる。
『蓮如上人さま、東本願寺をただいまおたちィ』。先導者のかけ声ともに、リアカーから延びる2本のロープがひっぱられ、リアカーが動き出す。教導、宰領、供奉人(ぐぶにん)ら総勢20名程が、ここから吉崎までリアカーを曳き、御影につき従う。
「吉崎まで6泊7日の往路を御下向、7泊8日の帰路を御上洛と言いならわしている。平成9年で323回目を数えるのだそうだ。」
滋賀県大津市、高島町、マキノ町と琵琶湖の西岸を過ぎて、福井県敦賀市、今庄町、武生市、福井市を通る。
敦賀市新保町の木ノ芽峠、今庄町の湯尾峠を越えるときは、御影が納められている櫃を輿から出して、供奉人が背負って峠を越える。リアカーは下の道路を通る。
輿が通るときは、田植の準備をしている人たちは仕事の手を止めて田圃のなかから合掌する。保母さんに引率された園児たちも小さな掌を合わせる。自分の家の庭に咲いた花を輿に供える人もいる。
美しい光景である。これらの写真を見ているだけで胸が熱くなってくる。
ここ細呂木も輿が通る。
「蓮如が琵琶湖に似ているといって愛した北潟湖の東にある細呂木の集落で、御影はもういちど輿を乗り換え、迎えにきた吉崎の青年団の肩にゆだねられた。
60本の高張提灯があたりを照らし、『蓮如上人さま、吉崎別院におつき〜い』の声がひびく。大型バスを連ね遠路はるばるやってきた門徒たち、吉崎の住人もほとんどがくりだしている。老若男女の渦のなか、御影は別院の48段の石段を駆けあがり、一気に本堂へと運びこまれた。それに続く門徒たちで、堂内はたちまちいっぱいになる。」
10日間の法要が終わると、御上洛となる。滋賀県木之本町から、びわ町、愛知川町、草津市と琵琶湖の東岸を通る。
300年以上続いている「御影道中」を見たいと思う。
1キロ程歩き北潟湖と別れる。右側は谷になる。紅葉を見ながら緩やかな坂を登る。袖ヶ浦を通り3キロ程歩く。嫁威と言う集落がある。ここで嫁威の伝説が生まれたのだろう。
道が二つに分かれる。左側を選ぶ。民家、寺、神社の間の細い旧道を歩く。道が下りになる。山からの水が、節を抜いた竹から勢いよく飛び出している。水を両手に受けて飲む。冷たくておいしい。
2、5キロ程歩き十字路を越える。道がまた登りになる。500m程歩き左へ曲がり500m程歩く。JR芦原温泉駅に着く。金沢駅に戻る。
・同年11月28日(月) (帰京)
ホテルで朝食後すぐ帰る。越後湯沢駅の手前の六日町周辺の山は積雪がある。
・同年12月23日(金) 金沢
雪のために1時間遅れで金沢駅に着いた。
金沢全日空ホテルで昼食を摂り、金沢都ホテルにチェックインする。2泊予約していた。
部屋に荷物を置いてホテルを出る。左に曲がり、武蔵ヶ辻の十字路へ向かって歩く。200m程歩き右へ曲がる。500m程歩く。
大正2年(1913年)建築、煉瓦造の日本専売公社煙草工場(現・市立玉川図書館近代資料館)に着く。
昭和53年(1978年)、建物の大部分が取り壊され、残存した一部が資料館として利用されている。内部は大幅に改装されている。平成8年、国登録有形文化財に指定された。
明るい色の赤煉瓦と窓枠の白が清楚な印象を与え、修道院のような雰囲気を持った建物である。
金沢市立玉川図書館近代資料館
・同年12月24日(土) 輪島 鶴来(寄り道)
早朝、まだ暗いうちにホテルを出て駅へ行く。
金沢発5時10分の七尾線に乗る。終点の七尾駅に6時44分に着く。七尾駅発7時12分の穴水駅行きの電車に乗り換える。一つ目の和倉温泉駅から「のと鉄道」になる。穴水駅に7時55分に着く。
8時40分発の輪島行きのバスが来るまで駅の待合室で休む。
両側にかなりの高さの積雪がある道をバスは行く。約30分で輪島駅に着く。バスを降りて20分程歩き朝市の会場に行く。
雪のためと暮もおしせまっているためか人が少なく閑散としている。出店の数も少ないようである。朝市で、冬の日本海で獲れたおいしいものを食べようと思って来たが、それらしい店もない。会場を一回りして駅に戻る。
穴水行きのバスに乗る。外は吹雪になっている。
穴水駅から電車に乗る。終点の一つ手前の和倉温泉駅で降りて金沢行きの特急に乗り換える。約1時間で金沢駅に着く。
福井方面行きの各駅停車に乗り換え、一つ目の西金沢駅で降りる。50m程歩き、北陸鉄道新西金沢駅から石川線の電車に乗る。
電車は民家の間を抜け、田畑の冬枯れの風景の中を走る。左側の窓から雪を冠った山並みが見える。約25分で鶴来(つるぎ)駅に着く。
鶴来駅の駅舎は、大正4年(1915年)建築の建物である。旧い改札口が残されている。ガラスケースの中に、駅員が以前に使っていた道具が展示されている。
鶴来駅
駅から真っ直ぐ100m程歩き右へ曲がる。300m程歩く。享保20年(1735年)創業、純米酒「萬歳楽」の小堀酒造店が建っている。美しい千本格子の建物は築200年を越える。
小堀酒造店
通りの斜向かいに味噌、麹を商う武久商店の旧い建物が見える。通りを反対側に渡り左へ曲がる。観光客の無料休憩施設である、「横町(よこまち)うらら館」が建っている。この建物は、天保3年(1832年)建築と伝えられ、年貢米を管理する商家であった。しかし、12月から3月まで冬期休館となっており入館できなかった。
同じ並びに、純米酒「菊姫」の醸造元である菊姫酒造が建っている。
・同年12月25日(日) (帰京)
ホテルで朝食後すぐ帰る。