4 白河~矢吹~須賀川~郡山~二本松~安達


・平成11年10月9日(土)  白河~矢吹~須賀川

 東北新幹線の新白河駅を出て国道4号線を歩く。阿武隈川に架かる白河橋を渡る。15キロ程歩き、小田川(こたがわ)を通って踏瀬(ふませ)に着く。旧道に入る。
 農家の広い庭先で、高齢の女性が頭に手拭を被り、シートに広げた豆を選り分けている。テレビの音も車の音も聞こえない。静かな通りに暖かい陽が射し、乾いた涼しい風が吹いている。

 矢吹町に入る。矢吹町指定文化財の五本松の松並木を歩く。樹齢200年近い赤松の並木は700mに及ぶ。
 大和久(おおわく)を通り3キロ程歩く。矢吹駅前の道幅の狭い通りの両側に旧い商家の建物が並ぶ。12キロ程歩いて須賀川駅に着く。

 電車に乗り新白河駅で降りる。ホテルサンルート白河に泊まる。
 夜、ホテル内のレストランでおいしい食事をする。松茸入りのコンソメスープに始まり、フィレステーキに終わるコース料理とチーズムースのデザートだった。


・同年10月10日(日)  白河関跡

 ホテルを出て国道289号線を歩く。5キロ程歩いて、白河実業高校の角を右へ曲がる。7キロ程歩き、旗宿を通って白河関跡に着く。

 白河の関は、5世紀頃蝦夷の南下を防ぐ目的で設置された。その後、関が廃止されても能因法師(988~?)が「都をば霞と共にたちしかど秋風ぞ吹く白河の関」と詠んだように古来多くの歌人が白河の関を歌に詠んでいる。
 寛政12年(1800年)、白河藩主松平定信がここに
「古関蹟(こかんせき)」の碑を建てる。
 昭和34年から4年間かけて行われた発掘調査により古代の関跡と検証され、昭和41年、史跡白河関跡として国の指定を受けた。

 古墳のように丸く盛り上がった森の中に入る。「古関蹟」の石碑が建っている。石碑の左側の、森の頂上まで延びている石段を登り、白河神社の拝殿の前に出る。


石碑 「古関蹟」


 拝殿の裏側に回る。敵の攻撃や侵入を防ぐ為に造られた土を盛って築いた土塁跡と、土を掘った空堀跡を見る。1,000年以上前に造られたものだろう。土塁の上から空堀の底までは高さが約2m程あり、土塁と空堀は森の半分近くまで延びている。
 土塁から空堀の底までの壁の緩やかな曲面と、空堀の底に届いている木漏れ日を見ていると、心が和み気持ちが柔らかく解きほぐされていく。


土塁と空堀

 白河関跡を出て中野を通る。柳橋を渡り内松に着く。広大な屋敷の傾斜の急な赤いトタンの屋根は、以前は茅葺きだったと思われる。頂上に半鐘を吊り下げている火の見梯子が見える。土蔵の白壁に明るく暖かい陽が当たり、コスモスが風に揺れている。

 高さ618mの関山(せきさん)の登り口を探すが、なかなか見つからない。年配の男性が通りかかったので尋ねる。指し示す方へ近づいたがこれは道だろうかと思うようなものだった。手前は小さな土砂崩れが見られ、奥の方を覗いてみると、幾分真ん中が窪んだ道らしきものが見える。足元を確かめ、頭上にかぶさっている木の枝に注意して、横から飛び出ている枝を掴んで登り始める。
 頭上を覆っている枝がなくなり歩きやすくなる。幅50センチ程の道は草が踏まれた形跡がない。急な坂でカーブが多いからか50分程で頂上に着いた。真言宗智山派
満願寺の本堂と鐘楼がある。

 反対の北側の道を下る。やはり坂は急だが道幅が1mはあり、途中から道が舗装されている。60代の夫婦と思われる2組の男女が登って来た。挨拶をする。

 下に降りて広く開けた場所を歩いていると鐘の音が聞こえてきた。さっきの人たちが撞いているのだろう。長く余韻を残す美しい梵鐘の音が辺りに響いた。
 国道289号線に出て
南湖公園まで歩き、少し休んでバスで白河駅に出る(南湖公園については、目次3、平成11年8月15日参照)。須賀川駅まで電車に乗り、駅から2キロ程歩いてホテルサンルート須賀川に泊まる。


・同年10月11日(月)  須賀川~郡山

 ホテルを出て国道118号線を歩く。自転車に乗った小学生や中学生の男子、女子が大きな声で「おはようございます」と挨拶してくれる。
 2キロ程歩いて
牡丹園の前を通る。更に3キロ程歩き乙字ヶ滝に着く。

 阿武隈川の川床の幅100m、高さ4メートル程の断層を水が落下する時、乙の字に見えることから乙字ヶ滝と名付けられたといわれている。橋を渡って対岸にまわる。ほぼ川幅いっぱいに広がった滝が水音を轟かせて落下する光景は壮観だった。

 同じ道を後戻りする。バスの停留所「稲荷田」で右へ曲がる。2キロ程歩いて水郡線の線路を越える。
 りんご、柿、栗が実り、コスモス、菊も鮮やかな色を見せる。稲穂が色づき黄金(きん)色の海が拡がる。


     風流の初めやおくの田植ゑうた

     世の人の見付けぬ花や軒の栗


 日照田、小作田を通り、7キロ程歩いて国道49号線に入る。更に9キロ程歩き、阿武隈川に架かる金山橋を渡る。3キロ程歩いて郡山駅に着く。新幹線で帰る。


・同年11月20日(土)  郡山~二本松~安達

 新幹線の郡山駅で降り、駅前広場をすぐ右へ曲がる。1キロ程歩いて逢瀬川に架かる橋を渡る。途中、牛ヶ池、安積山公園、日和田の松並木を通り、15キロ程歩いて本宮(もとみや)駅に着く。反対側に出て国道4号線を歩く。
 
安達太良山(1、699m)が見えてきた。


     あれが阿多多羅山
     あの光るのが阿武隈川
     ここはあなたの生れたふるさと


 高村光太郎「樹下の二人」の一節である。

 高村光太郎は、明治16年、彫刻家高村光雲の長男として生まれる。東京美術学校を卒業後、アメリカ、フランスに留学する。(旧姓 長沼)智惠子は、明治19年、福島県旧安達郡油井村字漆原で造酒屋の長女として生まれる。7人の弟妹がいた。日本女子大学校を卒業、洋画家を志していた。
 明治44年、光太郎は知人の紹介で智惠子と出会い、3年後の大正3年に結婚する。光太郎32歳、智惠子29歳であった。

 大正7年、智惠子の父が亡くなる。弟が家督を相続し20歳で戸主となるが、家業は経営不振となり、智惠子の心配は募る。結婚後肋膜を患う。文展へ出品した作品が落選する。

 「あどけない話」は昭和3年に作られている。


     智惠子は東京に空が無いといふ、
     ほんとの空が見たいといふ。
     私は驚いて空を見る。
     櫻若葉の間に在るのは、
     切っても切れない
     むかしなじみのきれいな空だ。
     どんよりけむる地平のぼかしは
     うすもも色の朝のしめりだ。
     智惠子は遠くを見ながら言ふ。
     阿多多羅山(あたたらやま)の山の上に
     毎日出てゐる靑い空が
     智惠子のほんとの空だといふ。
     あどけない空の話である。


 閉塞された状況の中で智惠子は出口を求めて叫び、高熱に喘いでいた状態ではなかったのか。それを「あどけない話」と捉える夫婦の齟齬。

 昭和4年、智惠子の実家が破産、一家離散となる。智惠子は疲れた心身の休息の場所だった実家と故郷を失う。
 昭和7年、光太郎が長期に出張している間アダリンを呑む。発見が早く大事には至らなかったが精神が病んでいく。九十九里浜への転地療養を試みるが病は進行する。

 昭和10年、智惠子は南品川のゼームス坂病院に入院する。1年経った頃から病室で「切り絵」を始める。
 昭和13年10月5日、粟粒性結核で亡くなる。53歳だった。

 昭和16年12月8日、太平洋戦争開戦。この頃から光太郎は戦争協力の詩を多数発表する。それは子供向けにも作り雑誌に掲載される。

 昭和20年4月、空襲により自宅とアトリエを焼失する。5月、岩手県花巻の宮沢賢治の弟・宮沢清六方に疎開する。8月10日、空襲によりここも焼け出され、花巻郊外の大田村山口に移住する。
 8月15日終戦。

 光太郎は戦争協力の詩を作り続けたことを激しく後悔する。
 昭和22年に作られた
「山林」の中に次の言葉がある。


     おのれの暗愚をいやほど見たので、
     自分の業績のどんな評価をも快く容れ、
     自分に鞭する千の非難も素直にきく。
     それが社会の約束ならば
     よし極刑とても甘受しよう。


 「わが詩をよみて人死に就けり」の中では次のように述べている。


     死はいつでもそこにあった。
     死の恐怖から私自身を救ふために
     「必死の時」を必死になって私は書いた。
     その死を戦地の同胞がよんだ。
     人はそれをよんで死に立ち向った。
     その詩を毎日よみかへすと家郷へ書き送った
     潜航艇の艇長はやがて艇と共に死んだ。


 自分を罰し鞭打つかのように小屋で「独居自炊」の生活を始める。62歳になっていた。
 平凡社発行、昭和50年5月号の『太陽』に、詩人・
真壁仁がこの小屋を訪問し、その様子を「自己流謫 山居七年の意味」と題して書いた文章が掲載されている。


 「戸口を開いて入ると土間があり、流し場になっている。左側は板敷きで、囲炉裏をめぐって畳が三枚だけ敷いてある。自在鉤の下がった炉を前に主人が坐ると、あとは客が一人坐るのがせいいっぱい。蒲団、毛布、書物などがぐるりに積まれ、大きな食卓や机などを置く余地はまるでない。明りは南側のシトミ障子から射してくるが、風雨を防ぐのも、この紙の戸一枚なのだ。家の前に三畝(せ)の畑があって、さまざまな野菜を試作した。ひどい努力を畑つくりに傾けたが、ろくなものは穫れなかった。それが『独居自炊』と自らいった山居七年ものくらしの場であった。冬は雪が深く、梅雨どきは湿っぽく、からだのためにも快適とはいえなかったが、光太郎はここの自然を愛した。戦争に協力した不明を自ら罰するためにえらんだ流謫の世界が、すこしぐらい不便で、狭くて、欠乏だらけであったとしても、耐えられないことではないと考えたにちがいない。」


 昭和50年5月号の『太陽』に、囲炉裏の前に胡坐をかいて坐り、ジャガイモの皮をむいている光太郎の写真が載っている。表情の無い横顔を見せているが、寄る辺のない身の子供が呆然としているようにも見える。

 みずからを島流しにし、自分の犯した罪を償う自己流謫(るたく)の生活に変えていった。
 判断を誤り、洞察力の無さを嘆き、人は大多数が生きている間中、行きつ戻りつ迷い悩んでいるのではないだろうか。

 昭和27年、青森県に作品を委嘱され、ここでの生活を7年で切り上げ東京に戻る。
 時々喀血を見ながら1年後に作品を完成する。最後の大作となった智惠子の面影を宿す「裸婦群像(乙女の像)」は十和田湖畔に立つ。

 昭和31年4月2日、結核で亡くなる。享年73歳であった。彫刻、絵画、詩、翻訳、文筆の多彩な才能を発揮した芸術家が亡くなった。



 若かった光太郎と智惠子が眺めた安達太良山のなだらかな山容は、80年後も変わっていないだろう。阿武隈川は大河の風格を漂わせて滔々と流れている。智惠子が恋焦がれた安達太良山の山の上は、爽秋の美しい青い空が広がっている。


     あれが阿多多羅山、
     あの光るのが阿武隈川。

     ここはあなたの生れたふるさと、
     あの小さな白壁の點點があなたのうちの酒庫(さかぐら)。
     それでは足をのびのびと投げ出して、
     このがらんと晴れ渡った北國(きたぐに)の木の香に滿ちた空氣を吸はう。
     あなたそのもののやうな此のひいやりと快い、すんなりと彈力ある雰圍氣に肌を洗はう。
     私は又あした遠く去る、
     あの無頼の都、混沌たる愛憎の渦の中へ、
     私の恐れる、しかも執着深いあの人間喜劇のただ中へ。
     ここはあなたの生れたふるさと、
     この不思議な別箇の肉親を生んだ天地。
     まだ松風が吹いてゐます、
     もう一度この冬のはじめの物寂しいパノラマの地理を教へて下さい。

     あれが阿多多羅山、
     あの光るのが阿武隈川。


 旧道を歩き二本松駅の前を通る。2キロ程歩き右へ曲がる。東北本線の線路と阿武隈川を跨ぐ長い安達ヶ橋を渡り、安達ヶ原の天台宗観世寺(かんぜじ)に着く。
 安達ヶ原は、
兼盛が「みちのくの安達の原の黒塚に鬼こもれりといふはまことか」と詠み、観世寺の境内には、旅人を殺した伝説の鬼婆の住みかといわれる岩屋がある。 

 『謡曲百番』岩波書店発行、新日本古典文学大系、西野春雄氏校注)に収められている「黒塚」の梗概の一部を引用する。


 「那智の東光坊の阿闇梨祐慶と同行の山伏は廻国行脚の途次、陸奥(みちのく)の安達原に着くが日が暮れ、遠くに見える火影をたよりに野中の一軒屋を訪ねる。庵では一人の女が世を侘びつつ住んでいる。女は宿を乞う祐慶たちを一旦は拒絶するが、痛わしさに宿を貸す。」
 「夜が更け寒さが増すと、女は留守中、閨(ねや)の内を見ないように告げて薪を取りに出る。女の言葉が気になった伴の能力は、祐慶の制止を聞かず、ひそかに覗き、夥しい死骸に驚き、報告する。」
 「凄惨な閨の内を見た一行は、女が音に聞く黒塚の鬼女であることを知って逃げ出す。女は信頼を裏切られ、隠していた閨の内を露(あらわ)にされたことを恨み怒り、鬼女の姿を現して追い迫り、襲いかかる。」


 観世寺の境内に入る。出刃包丁を洗ったといわれている「血洗いの池」があり、その後に鬼婆の住みかといわれる岩屋がある。大きな岩の上に庇のように大きく張り出した巨大な岩が載っている。笠岩とも呼ばれている。
 境内には他にも大きな岩が重なり合い、その重量感に圧倒され緊張感を孕む。




岩屋



 宝物館には、岩屋から出土したといわれている出刃包丁、鬼婆を埋葬するときに使ったといわれている鍬等が展示されている。
 観世寺を出て右へ曲がり、200m程歩いた所に、鬼婆を埋めたといわれている
黒塚の碑が建っていた。

 30分程歩いて復元された智惠子の生家に着く。裏手に建つ智惠子記念館で「切り絵」を見る。
 2キロ程歩いて安達駅に着く。電車で郡山駅に出て駅前のホテルに泊まる。


・同年11月21日(日)  郡山

 市町村対抗福島県縦断駅伝競走大会が開かれていて、応援する大勢の人達が総合体育館前の道路の両側に集まり、選手が走ってくるのを待っている。
 秋晴れのいい天気である。
開成山公園の黄金(きん)色の銀杏が明るい陽に照らされて輝いている。

 郡山市の明治から昭和初期にかけての近代建築を訪ねる。時間が早いので、幅の広い道路へ出て駅の方へ戻る。1キロ程歩く。

 郡山市公会堂を見る。大正13年建築、鉄筋コンクリート造り2階建。塔屋を持ち、国有形登録文化財に指定されている。
 中に入ると、小学生の絵画展が開かれていた。


郡山市公会堂


 駅とは反対の方角へ2キロ程歩く。旧福島県尋常中学校本館(現・安積歴史博物館)に着く。
 明治22年建築、玄関のポーチとバルコニーを持つ木造2階建。国の重要文化財に指定されている。
 福島県内で唯一の中学校だった頃、県下の秀才が集った学び舎に入る。教室がそのまま残され、旧制中学の教育について資料が展示されている。2階に上がる。広い講堂の天井に豪華なシャンデリアが吊るされている。豪華なものはこれくらいで、内部の造りは質素である。

 講堂の上げ下げ窓から外を見る。建物を囲む杉林の中に一本の真っ赤なモミジが見えた。


安積歴史博物館


 10分程歩いた所に郡山市開成館がある。
 明治7年建築、木造3階建。昭和35年に県の重要文化財に指定されている。
 玄関の屋根は唐破風、3階部分の手すりも和風。大工さんが洋風の建物をみようみまねで造った和洋折衷の擬洋風建築である。


郡山市開成館

 1階は和室で安積開拓の資料と写真が展示されている。明治維新により失職した士族の失業対策として、政府は全国から旧士族を集め開拓事業を行った。
 幅の広い急な階段を登る。
2階は安積疎水開削の資料が展示され、3階は明治天皇の高御座(たかみくら)が再現されている。

 入館するときにいただいた説明書によると、開成館の利用の変遷がわかる。
 郡役所の前身の区会所として建築され、福島県開拓掛の事務所が置かれる。その後、郡役所、県立農学校、桑野村役場として使用される。

 また、説明書に次のような記述がある。
 「明治9年の明治天皇東北行幸に際しては行在所(宿泊所)として、明治14年には昼食会場として使用されたため、昭和8年に
国の史跡に指定され保存されてきました。戦後、この指定が解かれ、住宅難の一策として市営住宅に使用される」

 戦後の住宅難は理解できる。しかし、一度は史跡として指定された歴史的にも建築学的にも価値ある建物を市営住宅として使用することに疑問が起きる。昭和20年で既に70年を越えた木造の建物である。建物の広さを見ても少数の世帯しか入れない。この程度の規模であれば他に場所はあったと思う。

 同じ敷地内に、安積開拓宿舎1棟、安積開拓入植者住宅2棟が復元されている。 

 駅の方向へ戻る。2キロ程歩く。旧郡山市庁舎(現・福島県郡山合同庁舎)を見る。昭和5年建築、塔屋付きの鉄筋コンクリート造2階建。
 垂直を強調するデザイン、車寄せと壁面の装飾により、シンプルな外観にも拘わらず華麗な印象を受ける。 


 

福島県郡山合同庁舎  

   

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