5 安達〜福島〜白石(宮城県)〜岩沼
・平成12年3月18日(土) 安達〜福島
新幹線の郡山駅のホームに降りたとき、冷たい空気がありがたかった。車内の暖房が強すぎて少し気分が悪くなっていた。
遠くの山にはまだ雪が残っている。東北本線に乗り換え安達駅で降りる。
旧道を歩く。登り坂が続く。風は冷たいが日差しは暖かい。次第に山が迫ってくる。山肌は雪に覆われているが、よく見ると樹木の根元は円く雪解けが始まっている。10キロ程歩いて国道4号線に入る。
2キロ程歩く。坂を登りつめる。伏拝(ふしおかみ)から眼下に福島市の市街地が一望できる。市街地に標高275mの信夫山(しのぶやま)が深く入り込んでいる。珍しい光景である。
ここから先は下り坂になっている。国道4号線と別れて旧道を歩く。崖から落ちてくる雪解け水が道路全体を濡らしている。
5キロ程歩き、長さ191mの信夫橋(しのぶばし)を渡る。更に2キロ程歩いて福島駅に着く。
駅の近くのホテルサンルートプラザ福島にチェックインする。2泊予約していた。フロントで、サンルートホテルの会員になることを勧められ、入会の手続きをする。これからはサンルートホテルの宿泊費はいつも1割引になる。
部屋は明るく、広い。浴室も広くゆったりしている。
・同年3月19日(日) 福島〜飯坂温泉〜桑折
ホテルを出て国道4号線を歩く。いい天気である。昨日より気温が高くなっているようで暖かい。遠くの山の残雪が朝日に照らされ銀色に輝いている。3キロ程歩き、岩谷下の交差点を右へ曲がる。1キロ程歩き、阿武隈川に架かる文知摺橋(もぢずりばし)を渡る。2キロ程歩いて文知摺観音に着く。
境内に入る。玉垣の内に、推定70トンといわれている巨石が土にめり込んでいる。文知摺石(鏡石)である。
文知摺石は、平安時代、石の表面に忍ぶ草の葉や茎を摺りつけ、その上に絹布をのせて模様を染めつけるのに使われたといわれている。忍ぶ草は羊歯の一種である。
また、文知摺石には「鏡石」の伝説がある。
河原左大臣(かわらのさだいじん)源融(みなもとのとおる)(822〜895)は、陸奥国の按察使(あぜち)として赴任する。この地の長者の娘・虎姫と出会い愛し合うが、任期が終わり都に帰る。源融は「陸奥(みちのく)のしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れそめにしわれならなくに」(小倉百人一首)と詠む。
虎姫は、融にもう一度会いたい一心で文知摺観音に祈願する。すると、文知摺石の表面に融の顔が映ったという。
樹木に囲まれた坂道を登る。池がある。左へ曲がり更に坂道を登った所に文化9年(1812年)建立、福島県指定重要文化財の多宝塔がある。
その下段に建つ観音堂を見て境内を出る。
早苗(さなえ)とる手もとや昔しのぶ摺(ずり)
文知摺橋まで戻るが、橋を渡らないで阿武隈川の土手の上を川の流れを見ながら歩く。下流に向かって2キロ程歩き、長さ370mの鎌田大橋を渡る。
3キロ程歩き、北矢野目の交差点で国道13号線に入る。時おり強い風が吹く中を2、5キロ程歩き、福島交通飯坂線の線路を越えて右へ曲がる。500m程歩き医王寺前駅に着く。駅から住宅街を1キロ程歩き医王寺に着く。
真言宗医王寺は、源義経の忠臣であった佐藤継信(つぐのぶ)、忠信(ただのぶ)兄弟の佐藤家の菩提寺である。
山門を通る。右手に中門、左手に鐘楼がある。中門を潜る。本堂があり、左手に芭蕉の句碑がある。
元に戻り両側が杉並木の長い参道を歩く。薬師堂がある。その後に継信、忠信兄弟の父母の佐藤基治、乙和の墓があり、右手に継信、忠信兄弟の墓がある。
佐藤継信、忠信兄弟の墓
継信は屋島の合戦で戦死し、忠信は義経の身代わりとなって敵を引きつけ、京の堀川で自害する。
継信の妻・若桜と、忠信の妻・楓は、亡き夫のそれぞれの鎧、冑(かぶと)を身につけ、「あなたの息子は、このように立派に戦いました。」と言って、嘆き悲しむ姑・乙和を慰めたといわれている。
帰りに宝物殿に入る。弁慶の笈、義経の直垂(ひたたれ)の裂れ等が展示されていた。
笈(おい)も太刀(たち)も五月(さつき)にかざれ紙幟(かみのぼり)
医王寺前駅に戻る。線路沿いに1,5キロ程歩き飯坂温泉駅に着く。
飯坂温泉の中心を流れる摺上川(すりかみがわ)に架かる長さ51m、アーチ形の十綱橋(とつなばし)は大正4年の竣工である。橋の袂に芭蕉の銅像が立っている。駅の近くの食堂で昼食を摂る。
坂道を登る。共同湯「鯖湖湯(さばこゆ)」の前に出る。
檜造りの建物に入る。内部も檜で造られ天井が高い。浴室の床と浴槽は御影石。脱衣場と浴室の間に仕切りの戸がない。昔の共同湯はこの形式だったのだろう。盗難除けになると思う。浴槽に入るとお湯がとても熱くて体を全部沈められなかった。
鯖湖湯を出ると、斜め前に白壁土蔵造り3階建て、国登録有形文化財のなかむらや旅館がある。
観光案内所でいただいた説明書によると、玄関のある建物は江戸末期のもので、左側の建物は明治の初めに増築されたとある。大きく開け放した玄関の左手に、2階に上がる箱段が見える。
飯坂温泉駅に戻る。十綱橋を渡り国道399号線を歩く。両側に果樹園が広がるがまだ芽も出ていない枝ばかりが続く。
3キロ程歩いて、東北本線の線路を越えて武家屋敷のような造りの伊達駅に着く。
伊達駅
一つ先の桑折(こおり)駅まで歩くことにする。日が陰ると気温が急速に下がってくるのがわかる。旧道を6キロ程歩き桑折駅に着く。電車で福島駅に戻る。
夜、ホテル2階のレストラン「パストラル」で食事をする。宿泊客用のメニューが用意されていて、魚料理を注文する。
真鯛のポアレに枝豆のソースという内容である。ワインが付いている。白を選ぶ。主任と思われる男性から料理とワインの簡単な説明がある。真鯛の皮はカリッと焼けているのに柔らかい。微かにガーリックの味が残るが、少し酸味のあるワインでさっぱりする。
・同年3月20日(月) 桑折
福島駅から電車に乗り桑折駅で降りる。駅を出て200m程歩き、右へ曲がり旧道に入る。宿場町だった頃の名残があり、なまこ壁の土蔵を持つ屋敷、旧い商家の建物がある。塔屋を持つ2階建ての建物が遠くからも見える。旧伊達郡役所である。20分程で着いた。
明治16年建築の旧伊達郡役所は、玄関ポーチ、バルコニーを持ち、昭和52年に国重要文化財に指定されている。正面扉上部に色ガラスを使い、ポーチとバルコニーの軒下に和風の装飾が施されている擬洋風建築である。
2階に半田銀山関係の資料が展示されている。桑折町に在った半田銀山は、石見銀山(島根県)、生野銀山(兵庫県)とともに日本三大銀山といわれていたが、昭和25年閉山となった。
桑折駅から福島駅に戻り新幹線で帰る。
・同年5月27日(土) 桑折〜白石
福島駅で新幹線を降り、東北本線に乗り換え桑折駅で降りる。
旧道を歩く。途中、国道4号線に入り6キロ程歩く。標高289mの厚樫山(あつかしやま)に近づいた。登り坂になる。気温が上がってきている。路面の照り返しが熱い。道路に設置されている気温の電光表示板は30度を示している。
3キロ程歩き、貝田駅の前を通り宮城県の白石市に入る。
下り坂になる。5キロ程歩き、左側に広がる馬牛沼(ばぎゅうぬま)を見ながら1キロ程歩く。国道4号線と別れて旧道に入る。
源義経の一行がここを通った時、鐙をこすったという伝説がある鐙摺(あぶみずり)坂を下る。道幅が狭くカーブが多い。車に気をつけながら歩く。
坂を下った所に征夷大将軍坂上田村麻呂を祀る田村神社があり、境内の左手に六角形の甲冑堂が建っている。
義経の忠臣・佐藤継信、忠信兄弟が亡くなった後、継信の妻・若桜と忠信の妻・楓は、夫のそれぞれの鎧、冑を身につけて姑を慰める。その姿をした二人の嫁の彩色された木像が甲冑堂に安置されているが、扉が閉まっていて拝観できなかった。
田村神社を出て2キロ程歩き国道4号線に戻る。
3キロ程歩き市街地に入る。かつて城下町だった所らしく堀かと見紛う川の傍に武家屋敷を思わせる建物がある。花が大きく濃い紫色の「あやめ」があちらこちらに植えられている。
白石駅前を通り、東北本線の線路沿いに旧道を歩く。「白石温麺(うーめん)」の看板をよく見る。18キロ程歩き、城を模して造られた船岡駅に着く。辺りは薄暗くなっていた。電車で白石駅に戻り駅前のホテルに泊まる。
・同年5月28日(日) 白石〜岩沼
白石駅から船岡駅まで電車に乗る。白石川が静かに流れている。大河原駅を過ぎた頃から川堤の両岸に桜並木が見えてきた。桜の木は幹が太く、若葉を繁らせ、川面に枝を伸ばしている。花が満開になったらよほど美しい眺めだろう。
残雪に白く輝く蔵王連峰が秀麗な姿を見せる。
船岡駅を出て国道4号線を歩く。7キロ程歩き岩沼市に入る。大昭和製紙の工場の林立する煙突が盛んに白い煙を吐き出しているのが遠くからも見える。活気に溢れた光景である。
2キロ程歩いて、工場の手前で国道4号線と別れて旧道に入る。1、5キロ程歩き、丈高い杉の木に囲まれた竹駒神社に着く。
朱塗りの鳥居を潜り参道を歩く。文化9年(1812年)建築の随身門(楼門)を通る。次に、天保13年建築(1842年)の唐門を通り、本殿に至る。随身門(ずいじんもん)と唐門は平成2年、岩沼市の文化財に指定されている。
隣接する地に聳える武隈の松を見る。幹が根元から二本に分かれていることから二木(ふたき)の松とも呼ばれている。二木の松は植え継がれて現在のものは7代目。文久2年(1862年)に植えられたとの説明がある。岩沼市の文化財に指定されている。
芭蕉が見たものは5代目だったといわれている。
桜より松は二木(ふたき)を三月(みつき)越(ご)し
15分程歩いて岩沼駅に着く。福島駅に出て新幹線で帰る。