6 岩沼〜仙台〜塩釜〜松島〜石巻〜前谷地


・平成12年8月12日(土) 岩沼〜仙台

 新幹線の福島駅で東北本線に乗り換える。岩沼駅で降りる。9時を少し過ぎていた。ここから仙台の中心地まで約18キロだから午後1時頃までには着くと思う。
 旧道を2キロ程歩き名取市に入る。国道4号線を歩く。

 6キロ程歩き名取駅の近くを通る。名取駅の西約3キロの名取市愛島(めでしま)塩手(しおて)に、中将藤原実方(ふじわらのさねかた)朝臣(あそん)の墓がある。芭蕉は墓を詣でるつもりだったが断念し、通り過ぎる。「このごろの五月雨(さみだれ)に道いとあしく、身疲れはべれば、よそながら眺めやりて過ぐる」『おくのほそ道』。私も墓には寄らないで仙台へ急ぐ。


     笠島(かさしま)はいづ(ず)こ五月(さつき)のぬかり道


 藤原実方(?〜998)は、高名な歌人であり、「かくとだにえやはいぶきのさしも草(ぐさ)さしも知らじな燃ゆる思いを」の歌は小倉百人一首に編纂されている。長徳元年(995年)、陸奥守として赴任する。粗暴な振舞いが災いとなり左遷されたといわれている。
 3年後、実方は笠島の道祖神社の前を馬に乗ったまま通る。実方は、神の怒りにふれて落馬して亡くなる。

 4キロ程歩き、名取川に架かる名取橋を渡る。気温が上がってきている。更に3キロ程歩く。地下鉄長町駅の前を通る。広瀬川に架かる広瀬橋がやっと見えてきた。川の流れを見ながら橋を渡る。1時を過ぎていた。

 しばらく歩いて、左側の通りに面したレストランに入る。冷たい水を立て続けにお替りする。冷房がよくきいて静かで落ち着いた雰囲気の店である。おいしい食事をして、喉の渇きも癒え、皿に盛られたレアチーズケーキ、バニラアイスクリーム、柚子のシャーベットのデザートが終わったら疲れもとれていた。

 店を出て広瀬川沿いに歩く。次第に濃緑の樹木が増えてくる。対岸も緑豊かな風景が広がる。1、5キロ程歩き東北学院大学に着く。守衛さんに礼拝堂を見学したい旨述べる。外から見るだけなら、ということで入らせてもらう。

 正門を入って正面に本館、右手に昭和7年建築、ゴシック式のラーハウザー記念礼拝堂が建っている。本館と礼拝堂の設計は、アメリカ人建築家・ジェイ・ヒル・モーガン(1876〜1937)による。ゴシック式の建物の重量感に信仰の堅固さと強い信念を思う。
 石段を上がる。礼拝堂の扉が半分開いていた。扉の傍から内部を見る。正面に美しいステンドグラスが嵌め込まれ、左手にパイプオルガンが設置されている。
 外は真夏の午後の暑さに蒸されているが、ここは静寂の中にあり、ひんやりとしている。
 

 明治20年、宣教師のための教師館として建てられたシップル館も見たかったが、場所が奥まった所のようで諦める。守衛さんにお礼を言って外に出る。

 30分程歩いてホテルサンルート仙台に着く。仙台駅に近い。4泊予約していた。


・同年8月13日(日) 仙台〜多賀城〜塩釜 

 朝、ホテルを出て駅の東口に出る。1キロ程歩き榴岡(つつじがおか)公園の石段を上がる。公園の端に建つ明治7年建築の歩兵第四連隊兵舎(現・仙台市歴史民俗資料館)を見る予定だったが、改修工事中ということで工事用のテントが建物の周りに張られていた。
 公園を出て国道45号線を歩く。


     あやめ草(ぐさ)足に結ばん草鞋(わらじ)の緒(お) 


 1、5キロ程歩き左へ曲がる。東北新幹線、東北本線の高架線の下を潜り、1キロ程歩き右へ曲がる。6キロ程歩き、七北田川に架かる岩切大橋を渡り、右へ曲がる。東北本線の岩切駅、陸前山王駅の前を通り、旧道を4キロ程歩き多賀城跡に着く。

 多賀城跡は、奈良時代、陸奥国の国府であり、鎮守府だった多賀城が置かれた跡である。国の特別史跡に指定されている。奈良の平城宮跡、福岡の大宰府跡と並ぶ日本三大史跡の一つである。復元された土塀の内で発掘調査が続けられている。青いビニールシートを被せている箇所は調査中と思われる。
 復元された幅の広い石段を降りて県道に出る。

 道路で隔てられている反対側の丘に登る。夏草が丘の全体を覆い、強い日差しに輝いている。緩やかな坂を登った頂上に、四面、格子を嵌め込んだ瓦葺の覆堂(おおいどう)があり、その中に天平宝字6年(762年)建立の多賀城碑(壺の碑)が立っている。
 高さ196センチ、最大幅92センチの
壺の碑(つぼのいしぶみ)は、多賀城の設置、修造について、京、蝦夷(えみし)国、常陸(ひたち)国、下野(しもつけ)国、靺鞨(まっかつ)国(現在の中国東北地方とロシア領沿海州にあった国)から多賀城までの距離等を刻んでいる。
 栃木県の
那須国造碑(なすのくにのみやつこのひ)、群馬県の多胡碑(たごひ)と並ぶ日本三大古碑の一つである。平成10年、国の重要文化財に指定されている。


壺の碑 部分


 芭蕉は壺の碑を見て感動する。


 「昔よりよみ置ける歌枕多く語り伝ふといへども、山崩れ、川流れて、道改まり、石は埋(うづ)もれて土に隠れ、木は老いて若木に代はれば、時移り、代(よ)変じて、その跡たしかならぬことのみを、ここに至りて疑ひなき千歳(せんざい)の記念(かたみ)、今眼前に古人の心を閲(けみ)す。行脚(あんぎゃ)の一徳、存命の喜び、羇旅(きりょ)の労を忘れて、涙も落つるばかりなり。」『おくのほそ道』


 格子の間から碑面を見る。文字は大らかで闊達さに溢れている。

 丘を下り、2キロ程歩き、仙石線の線路を越える。500m程歩いて、末松山宝国寺(まっしょうざんほうこくじ)に着く。本堂の裏の丘に、高さ約19m、樹齢470年を超える2本の黒松が聳えている。歌枕「末の松山」である。清原元輔(もとすけ)(908〜990)が詠んだ「契(ちぎ)りきなかたみに袖(そで)をしぼりつつ末(すえ)の松山(まつやま)波越(こ)さじとは」の歌は小倉百人一首に編纂されている。

 案内板を頼りに15分程歩いて、歌枕「沖の石」を見る。住宅街の中に池があり奇岩を配している。二条院讃岐(にじょういんのさぬき)(1141〜1217)が詠んだ「わが袖(そで)は潮干(しほひ)に見えぬ沖(おき)の石の人こそ知らね乾く間(ま)もなし」の歌も小倉百人一首に編纂されている。

 国道45号線を2、5キロ程歩き、仙石線の下馬駅の前から高架線の下を潜り線路沿いに歩く。1、5キロ程歩き、突き当たって左へ曲がる。地酒「浦霞」の醸造元である「佐浦酒造」の白壁の蔵の前を通る。1キロ程歩き、地酒「男山」の醸造元である「阿部勘酒造店」、味噌、醤油の「荻原醸造」の前を通り、神社の表参道(表坂)の下に着く。

 

塩竃神社


表参道


楼門


 石造りの鳥居を潜り、202段の石段を登る。両側は杉木立になっている。朱塗りの楼門の壮麗な建物が石段の上に見える。
 上まで上がり、楼門を潜り境内に入る。境内は明るく清浄な雰囲気に満ちている。


境内から見た楼門


拝殿


 石段を降りて20分程歩き、仙石線の本塩釜駅に着く。途中、和菓子の「丹六園」、味噌の「太田屋」の旧い木造の建物、「佐浦酒造」の2棟の石庫を見る。漁港として栄え、塩竃神社の門前町として発展した歴史を感じさせる建物が並ぶ。仙台に戻る。


・同年8月14日(月) 塩釜〜松島〜石巻 

 本塩釜駅から10分程歩いて、観光船の桟橋に着く。芭蕉は塩竈から松島まで舟に乗った。それに倣って私も船に乗る。
 定刻に船は出発する。始発の便だったせいか乗客は少なかった。甲板のベンチに座る。海上だからだろうか涼しい風が吹いている。連日暑かったのでほっとする。

 40代位の女性3人のグループが乗っている。その中の一人が、バッグの中からカッパエビセンの袋を取り出し口を開け、中身を分けている。手すりの傍に行き、それぞれカッパエビセンを指でつまんで手を高くあげる。すると、どこからともなくカモメが現れ群れをなして船を追いかけてくる。追いつき、突進して、カッパエビセンを咥える。歓声があがる。間違って指を噛むことは無いらしい。手に残っているものをパッと宙に投げる。落ちていくものを身を翻して上手くキャッチする。

 船は大小の島の間を進み、約1時間で松島観光桟橋に着く。

 慶長9年(1604年)、伊達政宗(1567〜1636)により再建された五大堂を見る。国の重要文化財に指定されている。
 建っている場所が小さいけれども島だから橋を渡って行く。欄干が朱塗りのこの橋は「透かし橋」と言われ、足元の横板が同じ間隔で開いている。そのため橋の両端へ縦に渡している板を歩くことになるが、開いている隙間から海面が見え、ハラハラしながら渡ることになる。
 「透かし橋」は、これからお参りするにあたって気持ちを引き締めるように、という意味があるといわれている。

 臨済宗妙心寺派の瑞巌寺を拝観する。伊達政宗の菩提寺である。
 杉木立に囲まれた長い参道を歩く。僧侶が修行した跡といわれている洞窟が多く残っている。


瑞巌寺 参道


 境内に入る。正面に本堂(方丈)、左手に御成(おなり)玄関、右手に庫裡が配置されている。いずれも国宝である。
 廻廊(国宝)を巡りながら、欄間に施された精緻な彫刻、きらびやかな障壁画を拝観する。


本堂

御成玄関 庫裏

 瑞巌寺を出て、海を望む高台に建っている観瀾亭(かんらんてい)へ行く。
 観瀾亭は、伊達政宗が、伏見桃山城にあった茶室を
豊臣秀吉(1537〜1598)から拝領し、二代藩主・忠宗(1600〜1658)がここに移築したものである。県の重要文化財に指定されている。

 縁側に座って明るく広がる海と点在する島、行き交う船を眺める。蝉の声を聞きながら和菓子を食べ、抹茶を味わう。甘い和菓子にやや苦味のある抹茶はよく合うなあ、と思いながらゆっくり休む。

 観瀾亭を出て国道45号線を歩く。1キロ程歩く。ここで道が二つに分かれる。芭蕉は高城川沿いの左の道を選び石巻街道を歩いたようだが、せっかく海辺に来ているから海を見ながら歩こうと思い、海沿いの右の道を選ぶ。松島大橋を渡り、1キロ程歩き県道に入る。ここまで来るとホテルや旅館は見えなくなる。

 藍色の海に緑の島が次々に現れる。真っ青な空に白い雲が浮かび、夏の美しい風景が広がる。

 9キロ程歩く。野蒜築港(のびるちっこう)の案内板が立っている。
 野蒜築港は、日本で初めての近代港湾計画に基づき明治11年、工事が着手された。明治15年10月、鳴瀬川の河口に突堤が完成し、市街地も造成された。警察署、電信局、測候所等の官公署、銀行等が建設され、人口も増え活況を呈し賑わった。
 明治17年9月の台風により、突堤が流失し港が使用できなくなる。明治18年、再建しないことが決定され廃港となった。現在、煉瓦造りの橋台跡が残っている。
 突堤跡と橋台跡を見たかったが、往復2時間はかかりそうなので寄らないで先へ急ぐ。

 鳴瀬川沿いに歩く。3キロ程歩き、鳴瀬川に架かる鳴瀬大橋を渡り国道45号線に入る。車の量が多くなってくる。
 15キロ程歩き石巻駅に着く。仙石線で仙台に戻る。


・同年8月15日(火) 石巻〜前谷地

 石巻駅を出て、後戻りするような形で石巻線の線路に沿って歩く。2キロ程歩き国道45号線に入る。5キロ程歩き、旧北上川に架かる天王橋を渡る。そのまま国道45号線を北上川沿いに歩き気仙沼線の柳津駅まで歩いたらいいのだが、今日、旧石巻ハリストス正教会堂を見ようと思い、早く石巻に戻りたいので、左へ曲がり旧北上川を左に見ながら歩くことにする。

 道路の右側は斜面になっていて、その下は、一面稲が実り黄金(きん)色に変わりつつある。
 気温が上がっている。太陽が頭の真上にあり日陰がない。熱風が吹きつける。あまりの暑さに息を潜めて物音が途絶えてしまったような静かな通りを歩く。

 8キロ程歩いて神取橋を渡る。気仙沼線の和渕駅がある。無人の駅だった。ホームの周りには雑草が猛々しく生い茂っている。ベンチは熱くて座れない。しばらく電車を待っていたが、電車の本数が少なく、待っている間に次の前谷地(まえやち)駅まで歩けるような気がしたので歩くことにする。それに前谷地駅は石巻線も通っている。
 乾いて白くなった道を3キロ程歩き前谷地駅に着く。電車に乗り石巻駅で降りる。

 駅の近くのビルの最上階にある眺めのいいレストランで食事をする
 駅から10分程歩いた所の賑やかな通りに、昭和5年建築、木造3階建ての観慶丸陶器店が建っている。通りに面している2面全部の壁にタイルが貼られている。元は百貨店として建てられた建物は、タイルの壮観さもあり堂々としている。

 そこからまた10分程歩く。旧北上川の中洲にある中瀬公園の一角に、旧石巻ハリストス正教会堂が建っている。
 明治13年建築、2階建。白壁に瓦葺、清楚な雰囲気があり、美しい工芸品のような建物である。中に入り狭い急な階段を上る。2階は礼拝の場になっており、イコン(聖画)が掲げられている。
 昭和53年の宮城県沖地震で建物は損壊したが、昭和55年、元の場所から700メートル離れたこの場所に移築、復元された。同年、市の文化財に指定された。

 近くに石ノ森萬画館が建設中だった。

 仙台に戻る電車が混んでいた。話しを聞いていると、松島湾で松島灯籠流し花火大会があり、それを見に行く人達らしい。


・同年8月16日(水) 仙台

 ホテルメトロポリタン仙台で豪華な朝食のバイキングを楽しむ。食後、おいしいコーヒーをゆっくり味わう。

 建築家・遠藤新(あらた)(1889〜1951)が個人の依頼により設計した住宅が仙台市内にあるので見に行く。
 昭和2年(1927年)建築、木造2階建。軒を深く張り出し、水平線を強調する、玄関の回りの幾何学的なデザイン等遠藤新の作品の特徴が見られる。日本家屋だが洋風の趣がある。

 旧帝国ホテルを設計したアメリカ人建築家フランク・ロイド・ライト(1867〜1959)と彼の弟子だった遠藤新の合作になる建物が、東京都豊島区に建っている。
 自由学園明日館(みょうにちかん)である。ライトが設計し、大正10年(1921年)に中央棟、大正14年(1925年)に教室が完成する。道路を隔てた反対側に建つ遠藤新が設計した講堂は昭和2年(1927年)に完成する。
 自由学園は、昭和9年(1934年)、東京都東久留米市に移転し、以後、この校舎は自由学園明日館と命名され、卒業生の活動の拠点として使われている。

 明日館、講堂ともに平成9年、国の重要文化財に指定された。

 JR池袋駅のメトロポリタン口を出る。
 大正から昭和にかけて、和風の建物に玄関の隣の部屋を洋風の応接室にする住宅が流行した。応接室の床は板張り、テーブルと椅子を置く。電気器具を揃える。「文化住宅」と呼ばれた。この文化住宅の残る住宅街を歩いて、木造一部2階建ての明日館の前に出る。
 明日館の背後には高いビルが並んでいるが、明日館の芝生の広い前庭は建てられた時から変わっていない。
 銅板葺きの屋根を持つ中央棟の左右にコの字型に教室を配置している。配置されている教室が、神社の回廊のように見える。


自由学園明日館(東京都豊島区)


 教育者羽仁吉一、もと子夫妻は知人の遠藤新を通じて、帝国ホテル設計のために来日していたライトに自由学園の校舎の設計を依頼する。ライトは承諾する。大正10年(1921年)に設計し工事が始まるが、その年の7月にライトは帰国する。帝国ホテルの工事費が着工時の予算の6倍になったことと工事の遅延の責を負わされたのである。

 帝国ホテルの工事は遠藤新が引き継ぎ完成させる。同様に、自由学園の校舎も引き継いで完成させる。

 中央棟玄関の脇に、垂直線に斜線を組み合わせたデザインの照明器具が立っている。大谷石の上に設置され、屋根を支えている。


照明器具


 中央棟1階のホールに入る。2階吹き抜けになっている。前庭に面して大きく窓を設け、部屋に光りを取り込んでいる。部屋に立っていると、室内にいて同時に外にいるような不思議な感覚を覚える。柱、暖炉とその周辺に大谷石を多用しているためと思われる。


ホール 窓


ホール


 2階は劇場の観覧席のようにホールを見おろすことができる。両側に垂直線に斜線を組み合わせたデザインの照明器具が設置されている。


照明器具


 半地下のキッチンの上の中2階は、食堂として造られた。
 壁と天井に張られた板のラインがアクセントとなって全体を引き締め、瀟洒で気品のある雰囲気を醸し出している。

 垂直線と水平線に斜線を組み合わせた幾何学的なデザインが少しづつ変化して、美しい家具を作り出した。

旧食堂

 

中央棟玄関






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