7 前谷地〜登米〜一関(岩手県)〜平泉


・平成12年9月15日(金) 前谷地〜柳津

 新幹線の古川駅で降り、陸羽東線に乗り換える。小牛田(こごた)駅で降り、石巻線に乗り換える。前谷地駅で降りる。気仙沼線の連絡が悪いので前回歩いた同じ道を約3キロ歩く。

 稲穂が色づき刈り入れが始まっている田圃がある。コンバインが使えない狭い田圃では手作業になる。
 若い夫婦の稲刈りに小学校低学年の男の子と年下の女の子が手伝っている。父親が鎌で稲を刈り取る。幼い兄妹はそれを抱え、離れた場所にいる母親に走って持って行き、父親の元へ走って戻る。稲を受け取った母親は、それを束にして一本の杭に順次積み杭掛けをする。
 兄妹は同じことを繰り返す。走りながら子犬のようにじゃれあって体をぶっつけあい、笑い声を弾かせる。

 旧北上川に架かる神取橋を渡り桃生町(ものうちょう)に入る。
 秋祭りが行われているようで踊りのパレードが近づいてくる。子供と大人の男女が、浴衣に襷がけで花笠を持ち、4列になって踊っている。横笛を吹き、太鼓を叩く囃子方を荷台に乗せたトラックは、列の真ん中に位置してゆっくりと前進する。
 踊りの列が遠ざかり、祭り囃子も遠くなり聞えなくなった。

 12キロ程歩いて、気仙沼線の柳津(やないづ)駅に着く。気仙沼線で前谷地駅に戻り、石巻線で小牛田駅に出る。東北本線に乗り換え、仙台駅に着く。
 
ホテルサンルート仙台にチェックインする。2泊予約していた。


・同年9月16日(土) 柳津〜登米

 柳津駅を出て、北上川を左に見ながら国道342号線を歩く。右側は斜面になっていて、その下は畑が広がっている。

 道路が狭く歩道がない所に路側帯は設けられるから、路側帯の幅が狭いのは解るが、車が反対側から来たとき、そのまま歩いていると接触しそうになる所がある。危ないので車が走ってくると立ち止まることにする。大型のトラックのときは、右足を道路の斜面に置き、できるだけ車道から離れる。白線が消えている所も多く、旺盛な生命力を示して道路にまで蔓を伸ばしている植物もあり歩きにくい。

 5キロ程歩き、北上川に架かる登米大橋(とよまおおはし)を渡る。
 橋を渡ったすぐ右の土手の上に、「芭蕉一宿の碑」が立っている。

 最初の十字路に立って見た光景に懐かしさを覚えた。蔵が並び、その蔵は店舗や会社の社屋として使われている。
 登米は、「宮城の明治村」と呼ばれている。旧い建物が多く残っている。10月にまた来るので今回は主な建物を見る。
 

 300m程歩き、明治22年建築、県指定重要文化財の旧登米警察署庁舎(現・警察資料館)に行く。木造2階建、玄関ポーチとバルコニーを持ち、柱頭飾りはイオニア式になっている。1階に当時の留置場を再現している。設計は山添喜三郎(1843〜1923)。大工の棟梁だったが、明治5年、ヨーロッパに渡り建築を学んだ。




警察資料館


 10分程歩いて、冠木門(かぶきもん)を潜り、明治5年建築の旧水沢県庁庁舎(現・水沢県庁記念館)に入る。日本家屋だが内部は洋風の造りになっている。後に裁判所として使われたこともあり、明治時代の法廷を再現している。

 更に10分程歩いて、明治21年建築、木造2階建、国指定重要文化財の旧登米高等尋常小学校校舎(現・教育資料館)の前に出る。設計は山添喜三郎。玄関ポーチとバルコニーを持ち、柱頭飾りがイオニア式というのは、旧登米警察署庁舎と同じである。
 玄関を中心にしてコの字型に建てられ、内庭に面して廊下が造られている。1階の両端が生徒の出入り口だった所であり、そこから中に入る。1階、2階の廊下、バルコニーはいずれも広々としており大らかな造りになっている。教室には机、椅子が置かれ黒板が掛けられ、当時の教室を再現している。


教育資料館


バルコニー



 登米は、慶長9年(1604年)、仙台藩の伊達宗直が城を築き城下町となった。その後、北上川を利用して米、味噌、醤油等を石巻へ運ぶ舟運で栄え、その賑わいは、明治23年、東北本線が開通するまで続いた。優れて立派な旧登米高等尋常小学校校舎は、登米の繁栄を伝えている。

 バスの停留所「登米」に行く。旧い建物が待合所になっている。大正10年、登米と東北本線の瀬峰(せみね)駅を結ぶ仙北鉄道が開通するが、昭和43年に廃止された。当時の駅舎が待合所として使われ、内部の壁に仙北鉄道の写真が掛けられている。地元の人は今でもこの停留所を駅と言い、周りを駅前と呼んでいる。

 バスで東北本線の瀬峰駅に出る(注・このバス路線は、平成20年1月現在廃止されている)。仙台に戻る。


・同年9月17日(日) 作並温泉(寄り道)

 作並温泉の鷹泉閣(ようせんかく)岩松旅館で入浴する予定で、仙台から仙山線に乗り作並駅で降りる。
 駅を出ると、ちょうど岩松旅館のバスが客を送ってきていた。運転手さんは、入浴だけの客も快くバスに乗せてくれて旅館に届けてくれた。豪華なロビーを通り、フロントで受付を済ませる。

 先に大浴場に入る。すぐ近くに山が見える。
 大浴場を出て、エレベーターで下へ降りる。降りた所から欅の一枚板を張った94段の階段を更に降りて、岩を刳り貫いた岩風呂に入る。岩の間から温泉が湧き出ている。横を広瀬川が流れている。上流になり川幅が狭くなっている。朝から蒸し暑かったので、渓流の水音を聴きながら温泉に入り、岩に座って風にあたっているといい気持ちになる。新緑、紅葉、雪のときはいい眺めだろうなと思う。

 岩松旅館は、寛政8年(1796年)の創業で、作並温泉の元湯である。正岡子規(1867〜1902)もここを訪れ、「夏山を廊下づたいの温泉(いでゆ)かな」と詠んでいる。

 帰りもバスで送ってもらった。ありがとうございました。

 作並駅の周りの山は霧に覆われている。霧は湧き、ゆっくりと上昇し、山を隠す。横山大観「海山十題」の内の「雨霽る」に描かれたものと同じ光景を見る。

 仙台駅の近くの食堂で、「牛タンと麦とろ定食」を食べて新幹線で帰る。


・同年10月7日(土) 登米

 新幹線の仙台駅で降り、東北本線に乗り換える。瀬峰駅で降り、バスで登米に行く(注・このバス路線は、平成20年1月現在廃止されている)。



 武家屋敷が並ぶ通りを歩く。現在も殆どが住居として使われているが、一般公開されている武家屋敷がある。春蘭亭(しゅんらんてい)と名付けられた茅葺の建物である。座敷に座り、庭を眺めながら和菓子を食べ、塩漬けの春蘭でつくる春蘭茶を呑む。

 北上川で獲れた天然のうなぎが食べられる、ということで、北上川の土手の下にある、享保元年(1716年)創業の「清川」に入る。店内は明るく高級な料理屋の趣がある。うな重を注文する。ボロボロと柔らかいうなぎを食べることが多いので、久しぶりに身が締まったおいしいうなぎを食べることができた。

 土手に登り、しばらく、静かに流れる北上川を眺める。


北上川


 天保4年(1833年)創業、味噌、醤油醸造元の海老喜(えびき)商店へ行き、醸造所を見学する。


海老喜商店


 若い男性が案内し、醸造についての説明がある。できたての醤油を味見してみませんか、と言って、小皿に醤油を入れてくれる。受け取って口に含む。サラサラとして芳ばしい味が口中に広がる。防腐剤等添加物は一切使用していないということである。
 また、武家屋敷や旧い蔵
を持て余していた時代もあったが、そのうちに旧い建物の町並みに人気が出て観光客が増えてきたと話し、バスツアーの客が店に立ち寄るときは、蔵を改造したホールで食事を用意するが、それがとても喜ばれる、という話もしてくれる。
 終始笑顔で丁寧に説明してくれた男性が、現在の当主か或いは次の当主になる人だろうと思いながらお礼を言って醸造所を出た。

 予約していたD武(えびたけ)旅館に入る。間口はそれほどでもないが、奥行きの深い家である。
 手頃な料金にも拘らず夕食はご馳走がテーブルいっぱいに並べられた。宮城県らしく牛タンも載っている。


・同年10月8日(日) 登米〜一関

 朝、8時に旅館を出発する。女将さんが玄関で見送ってくれる。今日は、一関まで約40キロ歩く予定である。

 武家屋敷が続く静かな通りを1キロ程歩き坂を登る。右側が杉木立になっている道を歩く。杉木立の間から北上川が見える。川面に霧が立っている。陽が射してきて辺りが明るくなってきた。今日もいい天気になりそうだ。

 5キロ程歩き、米谷大橋を右に見ながら左へ曲がる。4キロ程歩き、錦桜橋を右に見て直進する。ここで北上川と別れる。国道342号線を歩く。
 5キロ程歩き岩手県花泉町に入る。
12キロ程歩く。左手眼下に平野が広がる。東北本線花泉駅の前を通る。駅前の食堂で昼食を摂る。

 金流川に架かる天神橋を渡り6キロ程歩く。南岩手カントリークラブのよく手入れされた樹木を右に見ながら坂を下る。4キロ程歩き、東北新幹線の高架線の下を潜る。3キロ程歩いて一ノ関駅に着く。午後4時だった。

 伊能忠敬(いのうただたか)(1745〜1818)は、一定の歩幅で歩いて、その歩数で距離を測る、歩測という方法を用いた。それにはとうてい及ばないが、一定の速さで歩くと、距離から歩く時間が割り出せて予定が立てやすいので、1時間で5キロ歩くようにしていた。今日は、40キロを正確に8時間で歩いたので自分でも驚いた。

 駅の近くのホテルサンルート一関にチェックインする。
 夜、駅前のレストラン「松竹」で、ソースかつ丼、なめこ汁を食べる。食後のデザートとして、トマトを丸ごとワインで煮て、それを冷やしたものをいただく。


・同年10月9日(月) 一関〜平泉

 朝、ホテルを出て500m程歩く。磐井川(いわいがわ)に架かる「上の橋」を渡る。1キロ程歩き、国道4号線に入り右へ曲がる。道路幅が狭くなり登り坂になる。谷間の集落の杉の木を巡らした家が落ち着いた佇まいを見せる。ススキの穂が朝日を浴びて銀色に光る。

 下り坂になる。3キロ程歩き平泉町に入る。道が平坦になる。4キロ程歩き十字路に出る。右へ曲がり、平泉駅の手前を左へ曲がる。東北本線の線路を越えて500m程歩く。

 特別史跡無量光院跡(むりょうこういんあと)に着く。
 無量光院は、
藤原秀衡(ひでひら)が宇治平等院鳳凰堂を模して建立した寺院であった。松林の中に、発掘された池の跡、中ノ島、礎石を見ることができる。

 近くに史跡柳之御所遺跡(やなぎのごしょいせき)がある。藤原清衡(きよひら)基衡(もとひら)の屋敷跡として伝えられ、現在、復元、整備が行われている。

 500m程歩き、右側の石段を登って高館(たかだち)に行く。源義経の居館があった高台である。
 兄・
頼朝に追われ、文治3年(1187年)2月、秀衡を頼って平泉に逃れた義経は、秀衡の庇護の下、高館に館を与えられる。その年、10月29日、秀衡が亡くなる。秀衡の子・泰衡(やすひら)は頼朝の圧力に屈し、文治5年(1189年)4月30日、義経を急襲する。

 義経は自害する。弁慶は、主君に武士としての最期を遂げさせるために敵を寄せ付けない。
 
『義経記』(小学館発行、新編日本古典文学全集、校注・訳者・梶原正昭氏)から引用する。


 「武蔵坊は敵打ち払ひて、長刀を逆さまに杖(つゑ)に突き敵の方(かた)を睨(にら)みて、仁王立ちにぞ立ちたりける。偏(ひと)へに力士の如くなり。一口笑ひて立ちたれば、敵は『あれ見給へ。彼(か)の法師の我らを討たんとて此方(こなた)をまぼらへて痴(し)れ笑ひてあるは只事(ただごと)ならず。近くな寄りそ』と申しければ、ある者の言ひけるは、『剛(かう)の者は立ちながら死ぬる事のあるぞ。殿ばら当たりて見給へ』と申しければ、我も当たらじ我も当たらじとする所に、ある若武者の馬にて辺りを馳せければ、疾(と)くより死にたる者なれば、馬に当たりて転(まろ)びけり。長刀を握りすくみてあれば、転び様(さま)に先へ打ち返す様にしたれば、『すは、すは、また狂ふは』とて馳せ退(の)き馳せ退き控へたり。されども転びたるままにて動(はたら)かざりければ、その時我も我もと馳せ寄りけるこそ痴(をこ)がましく見えけれ。立ちながらすくみける事は、君の御自害の程、敵を御館(やかた)へ寄せじとて立死(たちじに)にしたりけるかとあはれなり。」


 死してなお主君を守り抜いたのである。

 北の方(きたのかた)(奥方)が生まれた時からその父親の命(めい)を受け、妻とともに北の方を守り育てた十郎権頭兼房(じゅうろうごんのかみかねふさ)は、懇願され、北の方を刺し殺す。


 「若君五つになり給ひけり。御乳人(めのと)の膝(ひざ)に抱(いだ)き参らせたりけるを、御障子を引き開けて走り入りたりければ、『やれ兼房よ、何とて御館(みたち)の御経は遊ばさぬ』とて、見給ひけるが、手負ひの御姿を御覧じて、驚き給ひて、北の御方の衣引き除(の)けんとし給へば、兼房制(せい)し奉れば、御髪(ぐし)の出でさせ給ひたるに取り付き給ひて、『いかにやいかにや』と動かし奉り、頻(しき)りに御顔を見んとし給へば、兼房抱き取り奉り、膝の上に据ゑ参らせて、『御館も北の御方も死出(しで)の山といふ路(みち)を越え、黄泉(くわうせん)の遥(はる)かの境(さかひ)に入らせ給ひ候ひぬるなり。若君も只今(ただいま)入らせ給ひ候はんずるにて候』と申しければ、兼房が首に抱き付き給ひて、『死出の山へ早々(はやはや)参らん。兼房連れて行けや、遅し遅し』と急ぎ給ひけるこそあはれなれ。」


 兼房は若君と生後7日目の姫君を刺し殺す。その後、義経の最後の命令を果たすべく館に火を放つ。
 「独り越ゆべき死出(しで)の山、供(とも)して得(え)させよや」と言って、敵の一人を脇に抱え、猛火の中に飛び込む。兼房66歳であった。

 8月22日、頼朝、平泉を征伐する。
 北へ敗走した泰衡が、9月3日、家臣・河田次郎に殺される。

 500年後に芭蕉が高館を訪れる。


 「三代の栄耀(ええう)一睡の中(うち)にして大門(だいもん)の跡は一里こなたにあり。秀衡(ひでひら)が跡は田野になりて、金鶏山(きんけいざん)のみ形を残す。まづ高館(たかだち)に登れば、北上川、南部より流るる大河なり。衣川(ころもがは)は和泉(いづみ)が城(じやう)を巡りて、高館の下(もと)にて大河に落ち入る。泰衡(やすひら)らが旧跡は、衣が関を隔てて南部口をさし固め、夷(えぞ)を防ぐと見えたり。さても、義臣すぐつてこの城にこもり、功名一時の叢(くさむら)となる。『国破れて山河あり、城春にして草青みたり』と、笠うち敷きて、時の移るまで涙を落としはべりぬ。」『おくのほそ道』


     夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡


 芭蕉が訪れた311年後に高館に登る。正面に束稲山(たばしねやま)(596m)が見え、麓には田畑が広がる。眼下には北上川がゆったりと流れている。山の形も川の流れも変わらず、800年前も同じ光景であったと思われる。


束稲山と北上川


北上川


 左手に、義経堂(ぎけいどう)がある。天和3年(1683年)、仙台藩4代藩主伊達綱村が建立したもので、芭蕉が訪れる6年前になる。彩色された義経の木造が安置されている。


義経堂


 石段を降りて、東北本線の線路を越えて500m程歩き、中尊寺の表参道・月見坂の下に着く。11月にまた来るので、ここからバスに乗り一ノ関駅に出て、新幹線で帰る。

 『おくのほそ道』の中の「国破れて山河あり」は、杜甫「春望(しゅんぼう)」に拠る。全文を記す(筑摩書房発行、世界古典文学全集、訳者・吉川幸次郎氏)。


     国破れて山河在り
     城(しろ)春(はる)にして草木(そうもく)深し
     時に感じて花(はな)涙を濺(そそ)ぎ
     別れを恨みて鳥(とり)心を驚かす
     烽火(ほうか)三月(さんがつ)に連なり
     家書(かしょ)万金(ばんきん)に抵(あた)る
     白頭(はくとう)掻(か)けば更に短く
     渾(す)べて簪(かざし)に勝(た)えざらんと欲(ほつ)す





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