8 一関~栗駒(宮城県)~一迫


・平成12年11月3日(金) 平泉

 新幹線の一ノ関駅で降りてバスに乗る。停留所「中尊寺」で降りる。中尊寺の表参道である月見坂を登る。
 急な坂道を登ると、両側が樹齢300年から400年の杉並木になる。600m程歩いて、天台宗東北大本山
中尊寺本堂に着く。

 菊まつりが開催されていて、厚物、厚走り、と言われる白、黄、紅の大輪の菊が数多く境内と参道に展示されている。白、黄の千輪咲も並べられ、小菊の懸崖が本堂に飾られている。

 開催中の秋の藤原まつりで行われる稚児行列が始まろうとしている。揃いの衣装を身に付け、唇に紅をさした10数名の男の子たちは、義経の若君より2歳くらい上だろうか。5歳で死ななければならなかった若君とは違って、平和な時代の男の子たちは、よく晴れた秋の日、少し緊張して行列が始まるのを待っている。

 本堂から金色堂(こんじきどう)至る参道脇の紅葉の美しさに息を呑んだ。
 深紅に染まったイロハモミジは炎のようだった。異なる色は鮮やかさを競い、絢爛たる彩りを見せていた。







 国宝金色堂は、天治元年(1124年)、藤原清衡(きよひら)により造営された。


金色堂


 鎌倉時代に編纂された歴史書『吾妻鏡』(新人物往来社発行、監修者・訳注者・永原慶二氏、貴志正造氏)に、中尊寺と金色堂は次のように記されている
 中尊寺は、「寺塔四十餘宇、禪坊三百餘宇なり。」

 金色堂は、「上下の四壁、内殿皆金色なり。堂内に三壇を構ふ。ことごとく螺鈿なり。阿彌陀三尊・二天・六地蔵、定朝これを造る。」
 中尊寺は、寺塔四十、僧坊三百を数えていた。金色堂は、
漆の上に金箔を押した皆金色(かいこんじき)の阿弥陀堂である。 

 昭和43年(1968年)建築、鉄筋コンクリート造りの覆堂(おおいどう)の中にある金色堂を拝観する。
 
ガラス越しに拝観する。まばゆい金色に包まれ、仏壇、四本の巻柱、長押(なげし)に施された夜光貝(螺鈿)が煌めき、象牙は落ち着いた艶を湛える。阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩、六地蔵、持国天、増長天に見守られた極楽浄土を表わす。


      五月雨(さみだれ)の降りのこしてや光堂(ひかりどう)


 経蔵(国重要文化財)の前を通り、旧覆堂(国重要文化財)を見る。正応元年(1288年)建築の旧覆堂は雄渾な建物である。現在の覆堂が完成する昭和43年まで680年間金色堂を護ってきた。

経蔵 旧覆堂

 金色堂は、旧覆堂が建てられる前164年間はどうなっていたのだろうか。東日本旅客鉄道株式会社発行、2008年3月号の『トランヴェール』に、中尊寺事務局の菅原光聴氏の談話が載っている。「鎌倉時代に覆堂に包まれるまでのおよそ100年間、金色堂は、山の下の平泉の里からも光り輝いて拝めたのではないか」「自然光の中では、螺鈿細工などがもっとさまざまな色を見せていたでしょう」と語っておられる。
 杉木立の間から光り輝く金色堂が見られただろう。

 マルコ・ポーロ(1254~1324)の『東方見聞録』は、日本を黄金の国として紹介しているが、黄金の国の描写は平泉のことを述べている、と書かれている文書を時々目にする。
 「チパング島」の章の該当する部分を引用する(平凡社発行、訳注者・愛宕松男氏)。


 「チパング(日本国)は、東のかた、大陸から1500マイルの大洋中にある、とても大きな島である。住民は皮膚の色が白く礼節の正しい優雅な偶像教徒であって、独立国をなし、自己の国王をいただいている。この国ではいたる所に黄金が見つかるものだから、国人は誰でも莫大な黄金を所有している。この国へは大陸から誰も行った者がない。商人でさえ訪れないから、豊富なこの黄金はかつて一度も国外に持ち出されなかった。右のような莫大な黄金がその国に現存するのは、全くかかってこの理由による。
 引き続いてこの島国の国王が持っている一宮殿の偉観について述べてみよう。この国王の一大宮殿は、それこそ純金ずくめで出来ているのですぞ。我々ヨーロッパ人が家屋や教会堂の屋根を鉛板でふくように、この宮殿の屋根はすべて純金でふかれている。したがって、その値打ちはとても評価できるようなものではない。宮殿内に數ある各部屋の床も、全部が指二本幅の厚さをもつ純金で敷きつめられている。このほか広間といわず窓といわず、いっさいがすべて黄金造りである。げにこの宮殿はかくも計り知れない豪奢ぶりであるから、たとえ誰かがその正しい評価を報告しようとも、とても信用されえないに違いない。」


 訳注者の愛宕松男氏は、上記の文章について次のように解説しておられる。


 「わが国を豊富な産金国だと報じているのは、マルコ・ポーロによる全くの造り話ではない。朝廷から日本商船に託して遣唐使・遣唐僧のもとに届けられた留学滞在費がほとんどすべて砂金であったことは、仁明朝の遣唐請益僧、後の慈覚大師円仁『入唐求法巡礼行記』に見える所であるし、『宋史』巻491『日本伝』・趙汝适『諸蕃志』にも奥州の金と対馬の銀については特筆されている。かつわが国の使臣が奉呈する貢納物や商人のもたらす貿易品の中には、必ずといっていいほど常に金銀蒔絵の調度品や倭扇が含まれている。当時における彼我経済事情の差から生じる恒常的な入越貿易の決算手段として、わが国の金銀が絶えず中国に流出するのはやむをえない。こういった経緯から、わが国に対する産金国としてのイメージが唐宋以来の中国人、特に東海方面の貿易に従事する江南の中国商人の間に印象づけられていたのであって、マルコ・ポーロは当時の中国人一般のこのイメージを代弁しているにすぎない。」


 交易に伴って噂が広まり、「日本黄金伝説」が生まれたのだろう。

 15分程歩いて、嘉永6年(1853年)建築、茅葺の白山神社能舞台を見る。

 地図を見ると、月見坂に戻らないで毛越寺(もうつうじ)の入り口に通じる道があるが、解りにくいので金色堂の受付にいた高齢の男性に尋ねる。男性は、それでは途中まで案内しましょう、と言って立ち上がり、他の人に受付を頼んで出てきた。受付のある場所からすぐ右へ曲がる。畑の間の狭い道を歩く。右手に茅葺の家が建ち、家の横に柿の木が聳え、実が枝もたわわに生っている。
 話をしながら歩く。案内してくれている男性が、「私も若い頃、東京に住んでたんですよ。役所勤めをしていたんですが、親に呼び戻されました。」と話す。三叉路に出て、ここを左に行くように、と言って戻って行った。ありがとうございました。

 遠くの景色が望める見晴らしのいい場所だった。一関の市街地が見える。人も車も通らない静かな道を紅葉を見ながら40分程歩く。坂を下り毛越寺の入り口に着く。  

 毛越寺でも美しく彩られた紅葉を見ることができた。



 『吾妻鏡』に「堂塔四十餘宇、禪房五百餘宇なり。」と記されている毛越寺は、堂塔四十、僧坊五百を数えていた。 


毛越寺 拝殿


 紅葉と、杉、松等の樹木に囲まれ、中心に「大泉が池」を配した「浄土庭園」をゆっくり鑑賞する。
 「大泉が池」は閑雅に広がる。汀のゆるやかな曲線は、技巧的なものを感じさせず、自然が造り上げたものに見える。

 拝殿の右手の築山から池の周囲を巡る。出島と飛び島、飛び島に置かれた立石(たていし)を見る。砂浜を表わす州浜(すはま)の前を通り、享保17年(1732年)建築の常行堂(じょうぎょうどう)の前に出る。常行堂では重要無形民俗文化財「延年の舞」が奉納されていた。
 中島を眺めながら一周する。
山水を池に取り入れるための水路である遣水(やりみず)を発掘し、復元している。

  

築山


立石


 金色堂が極楽浄土を表わしているように、毛越寺では庭園の景観により極楽浄土を表わしている。

 お休み処で「もち定食」を食べる。
 四つのお椀に、それぞれ異なった「餅」の料理が入っている。「ぜんざい」、「雑煮」、枝豆で作る餡をのせた「ずんだ餅」、山菜を醤油味に煮て、とろみをつけ、餅にのせた「あんかけ」は、どれもおいしかった。

 毛越寺を出て15分程歩き平泉駅に着く。電車に乗り一ノ関駅で降りる。駅の近くの蔵ホテル一関にチェックインする。2泊予約していた。


・同年11月4日(土) 一関~栗駒 

 宮城県の岩出山を目指して南西の方向へ下る。

 朝、ホテルを出て、線路沿いに南下する。5キロ程歩いて国道4号線に入る。宮城県に入り、5キロ程歩いて東沢を右へ曲がり、東北自動車道の下を潜る。
 畑の間の農道を歩く。雑木林や屋敷の周りの樹木の紅葉を見ながら歩く。藪の中の枝に赤いカラス瓜がぶらさがっている。赤児(あかちご)の八幡神社の前を通り、県道を10キロ程歩き、栗駒町の市街地に入る。



 栗駒町は、かつて城下町だった頃の名残がある。道路が鍵形に曲がっている所が多い。侵入した敵に行き止まりと見誤らせ、また、見通しを悪くして迷わせ、侵攻を遅らせるための区画である。1キロ程歩き、三迫川(さんはさまがわ)に架かる岩ケ崎大橋を渡り、「くりはら田園鉄道」の栗原田町駅に着く(注・くりはら田園鉄道は、平成19年3月31日廃止された)。

 「くりはら田園鉄道」の前身・栗原軌道は、細倉鉱山で採取された亜鉛、鉛を運ぶ目的で大正7年開業した。
 車体の色が赤い一両のディーゼルカーに乗る。稲刈りが終わった田園地帯を走る。乗客の殆どは地元の高校生で、みんな賑やかに喋り、笑う。車内が教室になったようだ。窓ガラスを通して入る陽の暖かさに眠くなってくる。
 終点の石越駅で降りる。東北本線の電車が来るまでの間、駅前の食堂で昼食を摂る。
 一ノ関駅まで電車に乗りホテルに戻る。


・同年11月5日(日) 厳美渓(寄り道)

 一ノ関駅の前から「厳美渓」行きのバスに乗る。20分程経った頃、樹木の紅葉の間から磐井川(いわいがわ)の急流が見えてくる。停留所「厳美渓」で降りる。



 川岸に下りる。両岸の巨石、岩の柱状節理が渓谷美を造り出す。清冽な水は奔流し、岩を噛み、深い淵を造る。
 対岸の崖の上の「団子屋」からロープに吊り下げられて下りてきた笊が見える。笊にお金を入れると、引き上げられ、笊に団子が入って、下りてくるようである。

 20分程歩いて、宝竜(ほうりゅう)温泉かんぽの宿一関で入浴する。
 明るく清潔な浴室だった。アルカリ性のお湯は柔らかい。ゆっくり入る。疲れがとれたようだった。入浴後休憩室になっている大広間でしばらく休む。家族連れやグループで来ている高齢の女性等おおぜいの人が休んでいた。テーブルの上に、みかん、せんべい等を並べ、温泉には入らないでお喋りを楽しんでいる。座布団を枕にして持参したタオルケットを体に掛けて横になっている人もいる。

 一ノ関駅に戻り新幹線で帰る。


・同年11月18日(土) 栗駒~一迫

 新幹線の「くりこま高原駅」で降り、バスに乗り「くりはら田園鉄道」の沢辺駅で降りる(注・このバス路線は、平成18年9月30日廃止された)。「くりはら田園鉄道」に乗り栗原田町駅で降りる(注・くりはら田園鉄道は、平成19年3月31日廃止された)。

 県道を歩く。長屋門を持つ白壁の大きな屋敷の前を通る。農家の軒下に、干し柿がすだれのように並んで吊るされている。

 12キロ程歩き、一迫(いちはさま)小学校前の広い場所に出る。国道398号線上にあるバスの停留所「赤井の目」からバスに乗り、「築館町(つきだてちょう)」で降りる。バスを乗り換え「石越駅前」で降りる。
 石越駅から東北本線で仙台に出て、新幹線に乗り換え福島駅で降りる。
ホテルサンルートプラザ福島にチェックインする。


・同年11月19日(日) 高湯温泉(寄り道)

 福島駅西口から「高湯温泉」行きのバスに乗る。
 バスが駅前広場を出て直進している時、正面に見える山が銀色に光っているのを見ても、その時はそれが雪だとは分からなかった。市街地を抜ける。両側に果樹園が広がる。停留所「上姥堂」で、ここまでの料金を払い、同じバスに乗ったまま、ここから先の料金を払う。ここから先は、温泉組合に委託されているものと思われる。

 バスは山間に入り、須川の渓流に沿って登る。信夫(しのぶ)温泉を過ぎて須川と別れ、磐梯吾妻スカイラインに通じる道を登って行く。カーブが多くなる。紅葉の残る樹木の根元に雪が積もっている。福島駅から40分程で終点に着き、冷えた空気の中、積雪の上に降りた。周囲の山は雪に覆われ冬の光景である。

 旅館「吾妻屋」へ行く。本館の離れにある露天風呂に雪を踏んで向かう。硫黄の匂いが漂ってくる。
 檜造りの浴槽に体を沈める。湯の花がふわっと上がる。頭の上は冷たい風が吹いているので少し熱めのお湯はちょうどいい具合である。一部屋根が架かっていて、そこから滑り落ちた雪がお湯の中に入る。濃厚な泉質の温泉で体を温めながら、雪が輝く
吾妻連峰の冬景色を楽しむ。





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