9 一迫〜鳴子温泉〜赤倉温泉(山形県)〜大石田


・平成13年3月17日(土) 一迫〜岩出山 

 新幹線の仙台駅で降り、東北本線に乗り換え石越駅で降りる。バスに乗り、停留所「築館町(つきだてちょう)」で降りる。バスを乗り換え、停留所「赤井の目」で降りる。

 1キロ程歩き、十字路を左へ曲がり松山街道を歩く。岩出山へ続く松山街道は、芭蕉が歩いた道といわれている。2キロ程歩き、右側を流れていた昔川(むかしがわ)と別れる。馬館、十文字を過ぎ、天王寺一里塚を見る。15キロ程歩き、国道47号線を横断して反対側に渡る。江合川(えあいがわ)に架かる岩出山大橋を渡る。1キロ程歩き、有備館駅の前に建つ旧有備館に着く。

 伊達政宗は、天正19年(1591年)、岩手沢(後に岩出山と改名)の城を居城とし、12年後の慶長8年(1603年)、居城を仙台へ移した。その後、岩出山城は、政宗の4男宗泰(むねやす)の居館となった。

 有備館は、元禄4年(1691年)、伊達家家臣の子弟の学問所として開設された。現存する日本最古の学問所の建物である。正徳5年(1715年)に造られた庭園と共に昭和8年、国の史跡、名勝の指定を受けた。
 主屋と旧学舎の付属屋があり、いずれも茅葺の簡素な建物である。
 主屋の前面に池が広がる。池には四つの島を配している。池の周りを巡りながら少しづつ変化する庭園の眺めを楽しむことができる。樹齢300年を越える樹木が聳え竹林がある。
よく手入れされ落ち着いた雰囲気の庭園である。


旧有備館


庭園


 庭園の裏に回る。岩出山城の外堀として、江合川から引き入れた内川が流れている。水量豊かで、きれいな水が流れている。内川を右に見ながら歩く。左は、地酒「森泉」の造り酒屋森民酒造店の白壁の蔵と板塀が続く。内川に架かるニノ構(にのかまえ)橋の手前を左へ曲がり、森民酒造店を見学する。
 女性が案内してくれた。醸造所に入る。麹の甘い香りが漂っている。屋内に井戸が設置してあるが、その井戸は、普通の井戸の2倍はありそうな程の大きさである。酒造りの工程の説明があり、発酵が終わった「もろみ」を搾り、新酒と酒粕に分離する自動搾り機を見せていただいた。


内川



 内川沿いに20分程歩き岩出山駅に着く。陸羽東線の電車に乗り古川駅で降りる。駅の近くのホテルに泊まる。


・同年3月18日(日) 岩出山〜鳴子温泉

 古川駅を朝6時5分に発車する電車に乗り、6時37分に有備館駅に着く。まだ暗い。少ない街灯を頼りに歩き始める。
 旧有備館の前を通り、突き当たりを右へ曲がる。江合川に架かる岩出山大橋を渡り、2キロ程歩き国道47号線に入る。ようやく辺りが明るくなってきた。山の稜線が見えてきた。

 突然、頭上からギャー、ギャーという声が聞えた。空を見上げると、白鳥の大群が楔形に隊列を整えて飛んでいた。羽ばたきの音も聞える。北の方角へ向かっている。シベリアへ帰るのだろうか。姿が小さくなるまで見送って、また歩き出す。
 朝日を浴びて山の残雪が銀色に輝く。

 8キロ程歩いて鳴子町に入る。2キロ程歩き、右手に歌枕「小黒崎(おぐろざき)」の小黒ヶ崎山(高さ244m)を見る。更に4キロ程歩いて気がついた。歌枕「美豆(みづ)の小島(こじま)」を見ないで通り過ぎた。「美豆の小島」については、写真を見て江合川の中州に松が生えていることを知っていたが、国道の右側を歩いていたので案内板を見落としたようだ。江合川は国道の左側を流れている。2キロ以上も通り過ぎているので戻らないで先へ進む。

 JR川渡(かわたび)温泉駅の前を通る。1キロ程歩き、国道に沿って左へ曲がり川渡大橋を渡る。
 5キロ程歩く。温泉の湯煙があちらこちらから見えてきた。坂道を登る。左手の高台に源泉があるようだ。盛んに湯煙が上がっている。硫黄の匂いが薄く漂っている。1キロ程歩き左へ曲がる。旅館やホテルが両側に並んでいる坂道を登る。共同湯「滝の湯」の角を右へ曲がり石段を登る。
温泉神社に着く。拝殿の右手に、こけしの生産地の鳴子らしく大きな「こけし」が立っていた。

 石段を降りて戻り共同湯「滝の湯」に入る。浴槽、床が板張りで古風な雰囲気がある。白濁したお湯に入る。いい湯加減でゆっくりと温まる。丸太をくり貫いて引き入れた源泉のお湯を高い場所から滝のように浴槽に落としている。

 鳴子温泉駅から陸羽東線に乗り古川駅に出る。新幹線で帰る。


・同年6月1日(金) 鳴子温泉〜赤倉温泉

 新幹線の古川駅で降り、陸羽東線に乗り鳴子温泉駅で降りる。ホームに降りた途端に硫黄の匂いを感じる。

 途中から国道47号線に入り2キロ程歩く。左側に岩下こけし資料館があり、入り口右手に巨大な「こけし」が立っている。登り坂が続く。
 大谷(おおや)川に架かる大谷橋の欄干から下を見る。約100m下を大谷川が流れ、両側は断崖絶壁になっている。紅葉の名所として有名な
鳴子峡である。岩の間から松が生え、楓等の落葉樹も新緑に輝いている。秋、松の緑と楓の紅葉に岩壁が見え隠れする眺めは、渓谷美と合わせて壮大で美しいものだろう。

 国道を離れ右へ入り、尿前(しとまえ)の関(せき)跡を見て、復元された出羽街道中山越えを歩く。
 新緑の林の中の細い道を歩く。高齢の男性が、折れて落ちた枝を集めて片付けている。挨拶をする。
 1、5キロ程歩く。出羽街道の案内板が立っている。ここから旧道が始まる。右側に畑が広がる平坦な道をしばらく歩く。左側に立っている案内板に従って急傾斜の細い道を下る。小深沢の谷川に出る。
澄み切った水を通して日の光りが川底に届く。木の橋を渡り、山肌にへばり付いたような急傾斜の道を登る。平坦な道になる。萌黄色に輝く新緑の中を歩く。鶯が鳴いている。

 下りになる。水音が聞えてきた。大深沢の谷川に出る。小深沢と同じように木の橋を渡り急傾斜の道を登る。山に登り谷へ降りることを繰り返している。平坦な道を草を踏んで歩く。他に踏まれた形跡がないので人が通ることは稀ではないかと思う。カッコウが啼いている。カッコウの声は森閑とした山の雰囲気を一層強くする。

 急な下りになる。軽井沢の谷川に架かる木の橋を渡り急坂を登る。甘酒地蔵尊の前を通る。丸太を土に埋めて作った階段を上って、小屋のような祠の中を見る。赤い着物を着せられたお地蔵さんが祀られていた。

 沢が現れるが橋がない。よく見ると流れの浅い所に、対岸まで石が並んでいる。その石の上を歩いて流れを渡る。急坂で細い道を両側から飛び出ている木の枝を掴んで登る。崖をよじ登っているようなものである。登りつめると今度は国道47号線に出た。旧道はこれで終わった。ここまで約2時間半かかった。

 500m程歩く。国道の上にアーチが架けられ、「スイカと花笠の町山形へようこそ」と書いてある。ついに山形まで歩いた。東京を出て寄り道を含めて47日目だった。

 1キロ程歩き、封人(ほうじん)の家(旧有路家住宅)に着く。
 
国境を警備する役人の家を「封人の家」と呼んでいた。仙台藩と新庄藩の国境を警備する「封人の家」だった新庄藩堺田村の庄屋を代々勤めた有路(ありじ)家の住宅に芭蕉は2泊したといわれている。


封人の家(旧有路家住宅)

 旧有路家の茅葺、寄棟造りの建物は、300年以上前の建築と推定され、昭和44年、国重要文化財に指定された。
 中に入る。土間があり、竈が設けられ、奥に水屋がある。右側に三つの厩が並んでいる。人と馬がひとつ屋根の下で暮らす。板の間になる「ござしき」に囲炉裏が切ってあり薪を燃やしていた。畳が敷かれている広い座敷、床の間がある。


      蚤(のみ)虱(しらみ)馬の尿(しと)する枕もと


 道路を渡った反対側にある食堂の外に出したテーブルで、うどんと鮎の塩焼きを食べる。

 人と馬がひとつ屋根の下で暮らす間取りを見て、村薫氏の『レディ・ジョーカー』を思い出した。
 『レディ・ジョーカー』の岡村C二は、大正4
年、青森県戸来村の貧しい農家に生まれる。人と馬が同じ屋根の下に住み、畳はなく土間に藁か莚を敷いている。小学校入学前に、八戸市の海産問屋岡村商会へ養子に出る。八戸中学から二高、東北帝大理学部に進学し、卒業後の昭和12年、ビール醸造会社に研究員として入社する。昭和17年応召、昭和20年11月復員、元の職場に復帰する。昭和22年2月、人員整理による退職勧奨を受け、健康上の事情もあり退職する。
 4ヵ月後の6月、辞めた会社に、自身の生い立ちから辞める時の経緯、現在までを便箋31枚に書いた長い手紙を出す。

 『レディ・ジョーカー』は岡村C二の手紙から始まる。一部を引用する。子供の頃の感覚を記憶し、それを書き綴っている。


 『小生は物音や臭ひに敏感です。醫者は其をノイローゼと云ひますが、生家にあった物音や臭ひから何處へ逃げられると云ふのでせう。息をすると、土間にこもった諸々の臭ひは、ざらざらする菰にやませの冷氣がまとはりつくように鼻毛にまとはりつき、息を殺すと、身體の毛穴と云ふ毛穴から沁み込んできました。どの臭ひもそれぞれ、ひうひう、ぴしぴし、ごうごう音を立てて身體中で渦を巻き、やがてからっぽの胃袋に落ち込んで、やっと默るのです。
 さうして何千夜と云ふもの、風に叩かれる板壁の外は雹(ひょう)か霙(みぞれ)かと、人も馬も息を止めるようにして耳をすませ、父母は默りこくって炭俵を編み續け、子供は明日も明後日も、穂の實らない立ちの稲の臭さでむせかへる畦道に出て兵隊さんごっこをし、老いた牝馬は土間のすみでじっと頭を垂れ、祖父母は煤けた顔を伏せ、圍爐裏(いろり)の燠火が細りゆくのを見てゐるのです。』


 手紙を読み進むにつれて不気味な印象を覚え、忌まわしいことが起こりそうな気配を感じ、じわじわと不安が増してくる。
 手紙を受け取った会社は、「論旨不可解」、「意図不明」、「会社の名誉に関わる事実無根の記述があると判明した」との理由で総務部長に廃棄を命ずる。しかし、廃棄された筈の手紙が外部に流出し、青焼きによる複写が繰り返され、43年後に現れる。

 国道47号線を歩く。明神川を左に見ながら5キロ程歩き、左へ曲がり明神川に架かる明神橋を渡る。県道28号線を2キロ程歩き、赤倉小学校の広い運動場の前を通る。緑溢れる丘の間の坂を下る。側溝を流れる山からの水が飛沫を上げながら音を立てて勢いよく走り下りている。赤倉温泉に着く。

 赤倉温泉は、鮎が棲む清流小国川(おぐにがわ)の両岸に12軒の旅館が建つ静かな温泉である。


赤倉温泉

三之亟旅館 玄関

 小国川に架かる赤倉橋を渡り、予約していた三之亟(さんのじょう)旅館に入る。
 40歳前後の若い男性が出迎えてくれた。江戸時代初期創業の三之亟旅館のご主人であり、17代当主である。

 大きな旅館で団体の客が来ているようだ。部屋に案内される。廊下を何度か曲がり階段を上がる。3階にある二間の広い部屋だった。

 早速、風呂に行く。風呂場の扉を開けると微かに硫黄の匂いがする。岩盤をくり貫いて造った三つの大きな浴槽があり、源泉から湧出するお湯が木の樋から大量に注ぎ込まれている。

 立って入る「深湯」に入る。浴槽の底は平らではなく傾斜がついて端から少しづつ深くなっている。底に窪みがあるので底を見ながらゆっくり移動する。一番深い所で胸までの高さになる。硫酸塩泉の無色のお湯を通して立っている足元の岩もよく見える。岩の白と黄の美しい模様が揺れている。
 河原の岩に立っていたら、周りからお湯が満ちてきて胸に届くほど上昇する。それから壁を造り、屋根を架けた、という光景を想像する。

 浅い所に戻り、溢れる湯の中で手足をのびのびと伸ばす。広い風呂場で天井が高い。高い所から落ちる打たせ湯の音が響く。柔らかいお湯に包まれ、小国川の水音を聞いているとゆったりとした気持ちになる。 

 食事は別室へ案内される。テーブル一杯にご馳走が並べられた。
 主なものを列記する。


      山形牛のローストビーフ
      豚肉のしゃぶしゃぶ
      お造り三種(鯛、鮪、かんぱち)
      鯛と竹の子の鏑煮
      鮎の塩焼き
      鮭のマリネー
      豆乳鍋
      山菜の天ぷら


 どの料理も丁寧に作られていておいしい。それぞれの味がよくわかる。
 小国川の水音を聞きながら食事をする。

 寝る前にもう一度風呂に入る。


・同年6月2日(土) 赤倉温泉〜尾花沢

 朝6時に起きる。外は既に明るい陽が照っている。今日もいい天気になりそうだ。朝食の前に風呂に入る。
 朝食は大広間で団体の人たちの端に座って一緒にいただく。朝から酒を飲んでいる客もいる。ご主人も旅館の法被(はっぴ)をまとって給仕をするのに忙しそうである。

 ご主人が玄関で見送ってくれた。
 休日を利用して「奥の細道」を歩いていて、今日は山刀伐(なたぎり)峠を越えて尾花沢まで歩く予定であることを話す。
 ご主人が、気を付けて行ってください、と言って、「何しろ山刀伐峠は、『高山森々(しんしん)として一鳥声聞かず』ですからね」と、『おくのほそ道』の山刀伐峠の箇所をスラスラと諳んじる。
 平凡社発行、1998年11月号の『太陽』に、作家の
嵐山光三郎が山刀伐峠を歩いた時、「マムシとりの人と出会った」と書いてあったのを思い出し、「マムシが出るんでしょう」と尋ねると、「蛇はどこにでもいますよ、足元を気を付けて歩いたら大丈夫ですよ」と言って笑う。

 県道28号線を歩く。夏空を思わせる青い空の下、山の木々が陽光に輝いている。山が迫ってくる。山は重なり、一つの山が見えなくなると次の山が現れる。山頭火(さんとうか)が宮崎県高千穂で詠んだ句「分け入っても分け入っても青い山」を思い出す。

 一刎(ひとはね)の集落を通り3キロ程歩く。山刀伐峠のトンネルが見えてきた。トンネルの手前の左側の樹木が茂る坂道を登る。突き当たりに、「歴史の道 山刀伐峠」と刻まれた石碑が立っていた。



 石碑の右側に延びている坂道を登る。ぶなの原生林が現れた。淡い緑色のぶなの葉は軽やかに宙に浮いているように見える。急なカーブが多くなってくる。美しいぶなの林の中を螺旋状に上昇しているような気分になる。春蝉が鳴いている。

 30分程で標高470mの峠の頂上に着いた。遠くに尾花沢の市街地が見える。
 反対側の坂道を下る。杉林の中に幅50センチ程の遊歩道が出来ている。落ちた杉の葉が厚く積もり足元がふわふわする道を下る。杉林が終わり新緑の林の中の細い道を下る。1時間程歩き県道28号線に入る。

 市野々(いちのの)の集落を通り、8キロ程歩き赤井川に架かる押切橋を渡る。3キロ程歩き、正厳(しょうごん)を過ぎて左へ曲がる。1キロ程歩いて丹生(にう)川に架かる西正厳橋を渡る。途中から国道347号線に入り4キロ程歩く。

 山形では蕎麦を食べようと思っていたので、尾花沢郵便局の斜向かいにあるそば屋「福原屋」に入る。
 天ざるを注文する。天ぷらは揚げたてが出され、そばは、そば粉の香りが感じられる。

 店を出て、200m程歩き芭蕉・清風歴史資料館に入る。
 入館する時にいただいた資料によると、資料館の建物は、旧丸屋・鈴木弥兵衛家の店舗と母屋を鈴木清風宅の隣に移築、復元したものである。江戸時代末期の町家の母屋の座敷、土間等を見ることができる。他に「奥の細道」関連の資料が展示されている。狭い急な階段を上がった2階には古民具が展示されていた。

 紅花(べにばな)の問屋を営んでいた尾花沢の豪商・鈴木清風(本名・八右衛門)は俳諧を嗜んでいた。清風は俳号である。芭蕉は尾花沢で10泊しているが、そのうちの3泊は清風邸、7泊は清風邸から500m程離れた養泉寺で過ごしている。      

 三十六歌仙に倣って三十六の歌を作ることを「歌仙を巻く」と言うが、芭蕉は尾花沢滞在中、芭蕉、同行の曾良、清風他2人の合計5人の連句により、「すずしさをの巻」、「おきふしの巻」の二つの歌仙を巻いている。「すずしさをの巻」の発句(ほっく)は、『おくのほそ道』に収められている「涼しさをわが宿にしてねまるなり」である。

 劇作家、評論家である山崎正和氏は、『室町記』の中で連歌について次のように述べている。和歌も俳諧も作る精神は同じだと思う。


 「発句を作る人が、いわばその日いちにちの気分というものをきめるわけで、その人が今日はもの憂いといえば、あとの人がたとい実際にどう感じていようと、たまたまうれしいことがあって心がわくわくしていようとも、あくまでもの憂いという気分で後を続けてゆかねばなりません。そして、その範囲のなかで変化あるいは転調の句を作らなければならないのですから、これはたいへん難しいわけです。いずれにせよ、そこでうたわれている気分は、完全にフィクションの感情だということになります。ある人が招く。みんなが集まってくる。ひと通りの挨拶がすんで、さてといったら、そこから先は、各人がそれぞれ現実に持っている生活感情を棚上げして、その場で約束された虚構の感情のなかで生きる時間をすごすということになるわけです。」


 句会を開いて客を歓待する昔の人のもてなしの風雅を思う。

 10分程歩いて天台宗養泉寺(ようせんじ)に着く。明治になって焼失し、明治30年に再建された。
 山門を通る。境内の右手に、覆堂に護られた「涼しさを」の句碑が建っている。この句碑は、宝暦12年(1762年)に建てられ、「涼し塚」と呼ばれている。


養泉寺


涼し塚

 境内を出て右へ曲がり坂道を下る。養泉寺が建っている場所の崖下になる。
 目の前に田圃が一面に広がり風が吹いている。風にそよぐ稲は豊富な水をもたらす梅雨の到来を待っている。

 芭蕉が尾花沢に着いたのは、5月17日(太陽暦7月3日)であった。養泉寺で寛いでいる時に、青田を吹き渡る風の涼しさに、「ああ、いい風だ」と思ったことだろう。


      涼しさをわが宿にしてねまるなり

      這(は)ひ(い)出(い)でよかひ(い)やが下のひきの声


 田圃の遠く、右に鳥海山、左に月山が見える筈であったが雲がかかっていて見えなかった。それでも月山が見える所まで近づいた。

 予約していた市内のホテルに泊まる。


・同年6月3日(日) 尾花沢〜大石田

 朝、ホテルを出て1キロ程歩き、国道13号線を横断する。2キロ程歩き大石田駅に着く。駅を過ぎ坂を下る。一面に広がる田圃の間に真っ直ぐ伸びた一本道を歩く。約30分で「あったまりランド深堀」に着く。大石田温泉の共同湯である。
 風呂場は広々として明るい。炭酸水素塩泉のお湯にゆっくり入る。待合室でしばらく休む。

 30分程歩き大石田町立歴史民俗資料館へ行く。歌人斉藤茂吉(1882〜1953)の資料を展示している。
 斉藤茂吉は、昭和20年4月、出身地の山形県上山町金瓶(かなかめ)(現在の上山市金瓶)に疎開する。昭和21年1月、大石田町に移り、二藤部兵右衛門家の離れの2階建ての家で翌年11月迄暮らす。同じ敷地内に、現在、歴史民俗資料館が建ち、斉藤茂吉の資料を展示している。2階建ての家は、歴史民族資料館の併設として保存されている。


聴禽書屋

 資料館から廊下伝いに入る。1階、2階とも展示物はない。住んでいた人が出て行き、後片付けと掃除が終わってそのまま月日が経った、という雰囲気が感じられた。建物全体が静寂に包まれている。
 部屋から広い庭が見える。この庭に集まる小鳥の囀りを聴き、斉藤茂吉は、2階建ての家を
「聴禽書屋(ちょうきんしょおく)」と名付ける。
 聴禽書屋に住み、大石田町を中心に歌を詠み、歌集『白き山』を制作した。824首収められている。

 歌集『白き山』は、昭和24年8月、岩波書店から出版された。
 縦18、5センチ、横12、5センチの小型判。背から「平(ひら)の出」を2、5センチ取り、「みきり」を付ける。背から「平の出」までは白色、「みきり」は金色の線を施し、残りの「平」は赤の装丁である。
 白は『白き山』に因む周辺の雪山を表わし、赤は昇る太陽が雪山を赤く染める情景を表わしていると思われる。
 「最上川と著者」と説明のある写真が載っている。斉藤茂吉が河原に座り、最上川を眺めている写真である。精も根も尽き果てたように見える。


 「聽禽書屋」5首の内の2首


      照りさかる夏の一日をほがらほがら鶯来鳴き樂しくもあるか

      たたかひの歌をつくりて疲勞せしこともありしがわれ何せむに


 「逆白波」5首の内の1首


      最上川逆白波(さかしらなみ)のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも


 斉藤茂吉の歌に対する厳しさを北杜夫氏が『茂吉晩年』に書いておられる。北杜夫氏が旧制高校の学生の頃斉藤茂吉を訪ね、大石田でしばらく一緒に暮らしていた頃のことである。


 「父はたまに私を連れて散歩に出た。ときどき立止まっては瞑目した。手帳になにか書きつけることもあった。近所の神社の境内へ行くとき、サンダワラを持っていって、それを地面に敷いて腰を下ろし、長いあいだじっと瞑目した。彫像のように身じろぎもしなかった。
 私はその間、好きな狩猟蜂の行動を観察していた。蜂が獲物の蜘蛛をひきずってきて、地面に穴を掘り埋めてゆくさまを、一時間近くも見守っていた。それからその場所に戻ってきてみると、父はまだうずくまっていた。頭をかかえるようにして苦吟していた。全身をしぼるようにして考えこんでいるさまは、私にやるせないような感慨を与えた。」


 私の好きな歌、「虹」17首の内の1首、「秋来る」11首の内の1首を載せる。


      最上川の上空(じやうくう)にして殘れるはいまだうつくしき虹の斷片(だんぺん)

      秋づくといへば光もしづかにて胡麻(ごま)のこぼるるひそけさにあり








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