30 福井〜鯖江〜武生〜湯尾〜今庄〜南今庄


・平成18年5月3日(水) 一乗谷朝倉氏遺跡(寄り道)


一乗谷川


 福井駅で特急を降りる。駅前からバスに乗る。約30分で停留所「武家屋敷前」に着く。一乗谷川が流れている。

 朝倉孝景(たかかげ)1428〜1481)は、文明3年(1471年)ここ一乗谷(いちじょうだに)に城を築く。以後、5代103年間、一乗谷は越前国の中心として繁栄し、華やかな京文化が伝えられた。
 天正元年(1573年)
織田信長
(1534〜1582)は一乗谷に侵攻する。一乗谷は焼き討ちにあい、焦土と化し、全て灰燼に帰する。

 昭和42年(1967年)から遺跡の発掘調査が始まり、昭和46年(1971年)278haが国の特別史跡に指定された。また、平成3年、諏訪館跡庭園、湯殿跡庭園、館跡庭園、南陽寺跡庭園の朝倉氏庭園4、205uが特別名勝に指定された。

 遺跡から見る。武家屋敷、町屋、蔵、井戸、土塀を復原し、城下町だった当時の町並みを再現している。


復原された土塀


 一乗谷川に架かる橋を渡り庭園へ行く。濠を巡らしている。山から落ちてきたきれいな水が濠を流れている。
 濠に架かる木造の橋を渡る。唐破風造りの
唐門が建っている。織田信長に滅ぼされた朝倉義景(よしかげ)(1533〜1573)の菩提を弔うための松雲院の門であった。松雲院は現存しない。唐門は江戸時代中期に再建されたものである。



唐門


 唐門を潜る。丈高い十数本の椿の木があり、赤い藪椿の花を付けている。隣に朝倉義景の石造りの墓がある。左手に石組みの湯殿館跡庭園があり、更にその左手に朝倉義景館の跡がある。


朝倉義景墓


 壮麗な館が甍を競い、雅やかな管弦の調べにのせて夜毎さんざめく宴が繰り広げられたことだろう。それらは全て消え去り、発掘の跡があるばかりで他には何もない。

 杉林の奥から鳥の声が聞える。



 バスに乗り福井駅前に戻る。ユアーズホテルフクイにチェックインする。4泊予約していた。


・同年5月4日(木) 松岡〜永平寺 福井〜浅水

 朝、ホテルを出て、えちぜん鉄道の福井駅から勝山永平寺線の電車に乗る。
 松岡駅で降りる。駅を出て右へ曲がり国道416号線に入る。田植が終わったばかりの水田が見える。3キロ程歩く。東古市の十字路を右へ曲がり国道364号線に入る。えちぜん鉄道の線路を越える。
 500m程歩き国道364号線と別れ旧道に入る。



 山は、新緑の萌黄色、杉林の濃緑、山桜の白に染め分けられている。  

 3キロ程歩く。右手に永平寺川が現れる。用水路を設け、水田に水を引き入れている。水音を聞きながら歩く。
 昭和11年(1936年)7月、山頭火
は、永平寺に向かってこの道を歩いた(永平寺、山頭火については、目次29、平成18年1月8日参照)。

 

永平寺川


 2キロ程歩く。旧道が国道364号線に合流する。永平寺川に沿って杉並木の間を歩く。1、5キロ程歩きバスの停留所「永平寺」に着く。福井駅前と永平寺をノンストップ30分で結ぶ京福バスに乗る。

 福井駅前に着き、宿泊しているユアーズホテルフクイに行きランチを摂る。


      オードブル  トマトのムース
      さつまいものスープ
      メインはヒラメのソテー  蕪、竹の子、空豆が添えてある。
      デザート  チョコレートのプリン


 上記の料理に、ホテルのリニューアル記念ということで食前酒が付いた。ワインの白を選ぶ。
 ワインはよく冷えていた。ランチの手頃な値段にも拘わらず豪華な食事ができた。

 食後、ホテルを出て500m程歩く。左へ曲がり足羽川(あすわがわ)に架かる幸橋を渡る。
 福井鉄道福武(ふくぶ)線の線路と平行する道路を歩く。
 芭蕉は福井で俳人・等栽(とうさい)(本名・神戸洞哉)(かんべとうさい)を訪ねる。等栽は、福井から敦賀まで芭蕉に同行する。

 3キロ程歩く。福武線のベル前駅の道路を隔てた反対側に、大型店のベル・アルプラザが立っている。店舗の前の広い駐車場一杯に車が停まっている。
 3キロ程歩く。福武線の浅水(あそうず)駅から電車に乗りホテルに戻る。


・同年5月5日(金) 浅水〜鯖江〜武生〜湯尾

 ホテルの前から6時37分に発車する福井鉄道福武線の電車に乗る。電車は、市街地では道路上を走る併用軌道になっている。
 7時に浅水駅に着く。駅を出て国道417号線に入り左へ曲がる。2キロ程歩き鯖江(さばえ)市に入る。

 鯖江市に入って気が付いた。浅水駅の近くにある歌枕の「あさむずの橋」を見ないで通り過ぎた。写真で見ると、現在、何代目かの石橋が架かっていて記念碑が立っている。
 2キロも先に来たので後戻りしないで先へ進む。

 2キロ程歩く。右側に赤煉瓦の門柱が立っている。旧陸軍歩兵第36聯隊営門である。煉瓦を長手と小口に一段おきに並べて強度を保つイギリス積みの工法である。
 



旧陸軍歩兵第36聯隊営門


 鯖江市教育委員会の説明板があり、次のように説明されている。


 「この門は旧陸軍歩兵第36連隊の兵営にあった営門を移築したものである。第36連隊は明治29年(1896年)に名古屋で創設され、明治30年鯖江に移転した。
 当時日本は日清戦争に勝利したが、ロシアの東方政策に対抗するため軍備拡張を図り、陸軍は6個師団を増強した。第36連隊はこのとき新設された第9師団(司令部、金沢)の歩兵第18旅団(司令部、敦賀)に属していた。
 連隊の兵営は、現在の「三六町(さんろくちょう)」を中心とする一帯に定められ、敷地面積は約16haであった。
 連隊には1、500〜2、000人の兵士が駐屯しており、兵営東側には連隊関係の建物、商店、飲食店、旅館が建てられ、兵営前商店街が形成されていった。

 大正13年(1924年)には福井鉄道が敷設され、「兵営駅」(現在の「神明駅」)ができると、駅周辺にも商店街ができ、神明町の街並みが形成されていった。」


 (第9師団については、目次24、平成17年3月19日参照)

 門を通って中に入る。公園のような広場になっている。
 正面奥に、昭和31年(1956年)に建立された鯖江聯隊史跡碑がある。頭を垂れ、黙祷を捧げる7人の兵士の姿が青銅の板に描かれている。
 第36聯隊は鯖江聯隊と呼ばれていた。

 50m程歩く。左側に神明駅に向かう道路があり、駅舎と駅前の広場が見える。
 200m程歩く。三六公園がある。第36連隊の兵営の跡地の一部である。
 それにしても、公園に連隊の名前をよく付けたものだと思った。戦後、戦争に関するものや戦争を想起させるものは否定されることが多かったことを考えると、これは珍しいことではないかと思う。

 晴れていい天気になった。気温も上がり暑いくらいである。
 1キロ程歩く。200m先の両側は丘になり、国道が切り通しになっている。その右側の斜面がピンク色になっている。最初はピンク色の布で覆っているのかと思った。距離が近づくにつれて、夥しい数の芝桜が植えられていることに気がついた。

 両側の丘は、つつじの名所の西山公園である。ちょうど、「つつじまつり」が開催されていた。
 右側の丘の坂道を登る。美しい新緑の樹木の下に色とりどりのつつじが咲き揃っている。まだ時間が早いから人はそれほど多くはないが、野点、コーラス、ダンス、消防音楽隊の演奏、つつじの撮影会等の催しの準備が行われている。 



 丘の頂上まで登って眼下を見下ろす。つつじが色鮮やかな模様を織り成している。



 坂を下り国道に戻る。国道沿いの200m程に亘って出店が並んでいた。
 1キロ程歩き
日野川に架かる鯖江大橋を渡る。500m程歩く。武生(たけふ)市に入る。

 4キロ程歩く。吉野瀬川に架かる新保橋を渡る。500m程歩き小松の十字路を左へ曲がる。
 両側に旧い民家が並ぶ。白漆喰の蔵や長屋門を持つ家もある。10分程歩き京町に入る。界隈には寺が多い。


京町


 長享2年(1488年)に建立された天台宗真盛派別格本山引接寺(いんじょうじ)の、彫刻が施された総欅造りの山門を潜る。境内に建つ明治35年(1902年)建築の旧福井警察署を見る。
 バルコニー、ポーチ、望楼を持つ擬洋風建築である。


旧福井警察署



 大正初期建築の旧武生郵便局、旧北川医院、ふくらみのある起(む)くりの屋根を持つ重厚な大塚呉服店の商家の建物を見て、白壁の蔵が並ぶ通りを歩く。
 昭和4年(1929年)建築の公会堂記念館の前に出る。直線を強調したアール・デコの建物である。

 公会堂記念館の前の横断歩道を渡る。2キロ程歩き国道365号線に入る。高架橋を渡り北陸本線の線路を越える。8キロ程歩き日野川に近づく。2キロ程歩き湯尾(ゆのお)駅に着く。


・同年5月6日(土) 湯尾〜今庄〜南今庄

 湯尾駅を出て国道365号線に入り右へ曲がる。500m程歩き北陸自動車道の下を潜る。国道を離れ右へ曲がり旧道に入る。
 道は緩やかに蛇行し、両側の側溝にはきれいな水が音を立てて流れている。旧い建物が並ぶ。
 1キロ程歩く。道が上りになる。右側に、明治39年(1906年)創建の
湯尾神社が建っている。


湯尾神社

 湯尾峠の入口に着く。
 説明板が立っていて、概略、次のように書かれていた。

 「湯尾峠は海抜200m、旧北陸道の要衝であった。頂上には疱瘡(ほうそう)の神を祀る孫嫡子神社、そのお守りを売る茶屋が4軒あって栄えた。約1100年の歴史を秘めたこの峠も明治29年鉄道の開通によって寂れた。」

 杉林の下の小道を歩く。鬱蒼とした杉の木の根元にシャガ(アヤメ科)が群生している。小さな白い花びらに黄と紫の色が点じられている。


シャガ(アヤメ科)

 道が九十九折(つづらおり)になる。





 20分程登る。湯尾峠を含む稜線上や斜面に所在した湯尾城の遺構の石垣が見える。湯尾城が築かれたのは12世紀頃と推定されている。


湯尾城遺構の石垣


 湯尾峠の頂上に着く。

 杉の木に囲まれ、頂上は広々としている。木立を通って風が吹いている。汗ばんだ身体に心地よい。
 眼下に湯尾の集落の家が見える。
右手の坂を上った所に疱瘡の神を祀る孫嫡子(まごちゃくし)神社の小さな社(やしろ)が建っている。
 社の裏から標高643、5mの藤倉山に至る登山道が伸びている。

 左手に芭蕉の句碑が立っている。『おくのほそ道』に収められていないが、「月に名を包み兼ねてやいもの神」の句が刻まれている。「いも」は、疱瘡(天然痘)のあばた跡のことである。


芭蕉句碑


 しばらく休んで汗も引いたので、反対側の湯尾城の遺構の石垣の間の道を下る。


湯尾城遺構の石垣


 周囲は美しい新緑に溢れ、斜面にはシャガが群生している。鶯の声を聞きながら九十九折の道を下る。木立の間から日野川が見える。








 20分程下り北陸本線の湯尾トンネルの上を通る。杉林の間の道を歩く。山からの水が流れている。両手に受けて飲む。
 一里塚跡の碑の前を通る。杉林を抜けて今庄に入る。



 旧道の北陸道を歩く。復元されていない旧い建物が並ぶ。通りは屈曲して全体を見通すことができないように作られている。矩折(かねおれ)又は枡形(ますがた)と言われる。

 今庄宿についての説明が書かれていた。一部引用する。


 「北国街道は江戸参勤には最短路で、越前各藩は今庄宿を利用した。
 江戸時代中期以降は、商用や京への寺参り、伊勢参り等の旅人の宿泊が急増し、宿は繁忙を極めた。
 天保年間(1830〜44年)には戸数が290余り、うち旅籠屋55軒、茶屋15軒、娼屋2軒、縮緬屋2軒、鳥屋15軒などがあった。
 今も昔風の家屋が軒を連ねる町並みは、その長さや道の形や短冊型の屋敷割がほとんど変わっていないこともあって当時の宿場の面影をとどめている。」


 右手に、「御札場跡(おふだばあと)」の説明板が立っている袖壁を持つ千本格子の建物がある。旅人や商人が金銀を藩札に、また、藩札を金銀に両替するために設けられた御札場である。
 左手に、「問屋跡」の建物がある。説明板の説明を一部引用する。


 「問屋は近世宿役人の長である。問屋場で年寄の補佐のもと、帳付、馬指などを指揮して宿駅業務を遂行した。庄屋などの地方役人、町役人を兼務することが多かった。
 また、江戸時代の卸売り業者として、荷主から受託された貨物を手数料をとって仲買人に売りさばいたり、荷主から貨物を買い取って売りさばいたりして繁盛した。」


 同じ並びに、造り酒屋だった京藤家が建っている。天保年間(1830〜1844)の頃の建物であると言われている。
 屋根は赤みが強い越前瓦で葺かれ、主屋の屋根の両端と袖壁を通じて瓦を葺く
卯建(うだつ)が上げられている。私は、ここで初めて卯建を見た。
 卯建を上げることは出費が嵩むことから、卯建はその家の繁栄の象徴であった。逆の意味になる「卯建が上がらない」の語源である。


京藤家 卯建


 旅籠(はたご)であった若松屋の建物が並んでいる。
 通りの反対側に、元和4年(1619年)創業の堀口酒造が建っている。清酒「鳴り瓢(ひさご)」を造り続けている。


堀口酒造


 右手に公園として整備されている本陣跡がある。明治11年(1878年)、本陣は明治天皇の行在所となった。左手に本陣の予備として使われた脇本陣の建物が残されている。

 ここまでゆっくり歩いて30分程だった。人の姿が見えない。静かな通りに鶯の声が聞える。

 左の角を曲がり今庄駅の前を右へ曲がる。元禄10年(1697年)創業になる白駒(はくこま)酒造の酒蔵の前を通り旧い建物の間の道を歩く。




白駒酒造 


 文政13年(1830年)に立てられた「道しるべ(道標)」がある。北陸道(右京 敦賀、若狭)と北国街道(左京 伊勢、江戸)の追分の道標である。
 石柱の頭の部分の火袋に太陽と月の斬新なデザインがなされている。


道しるべ


 右の道を選ぶ。
 
日野川に合流する鹿蒜川(かひるがわ)に近づいたり離れたりしながら2キロ程歩く。南今庄駅に着く。電車に乗りホテルに戻る。


浄念寺


 4年後の平成22年5月4日、湯尾峠と今庄に於いて、長年の念願であった蓮如上人(れんにょしょうにん)「御影(ごえい)道中」を拝見することができた(「御影道中」については、目次28、平成17年11月27日参照)。

 写真家・川村赳夫氏が「御影道中」に同行してその記事と写真を、新潮社発行、1998年4月号の『芸術新潮』に載せておられる。
 それに拠ると、旧暦3月25日前後に東本願寺吉崎別院で蓮如忌が行われる。10日間の法要の後、京都の本山から吉崎まで運んだ蓮如上人の自画像と伝えられる肖像画を、リアカーに乗せて京都の本山まで運ぶ。「御影道中」と呼ばれている。また、京都から吉崎までの「御影道中」は御下向、吉崎から京都までの「御影道中」は御上洛と言われている。

 御影は桐箱に納められ、漆塗りの櫃に入れられる。
 湯尾峠、木ノ芽峠をを越えるときは、御影が納められている櫃を輿から出して供奉人(ぐぶにん)が背負って峠を越える。リアカーは下の道路を通る。

 予め、東本願寺吉崎別院に連絡して日程を教えていただいた。「御影道中」は5月4日、朝、武生市を出発、湯尾に正午到着、今庄に午後4時到着ということであった。
 「御影道中」は今年で336回目になる

 今庄駅で電車を降りる。駅の構内にある観光センターで「御影道中」について尋ねる。日程表が貼ってありますよ、と言って、5月4日の箇所を示してくれる。時間がより詳しく記してあった。
 それによると、湯尾を午後2時に出発する。4時に今庄に着き、4時20分に
浄念寺に到着する。

 まだ時間があるから、先に浄念寺を訪ね、それから湯尾峠へ登ることにする。
 浄念寺は通りの路地を入った奥に建っていた。

 通りに戻り、洋品店の前に置かれた椅子に座って休んでいたところ、店内から出てきた50代くらいの女性に「いいお天気ですね」と声を掛けられた。初夏を思わせる陽気だった。
 「今日、御影道中が通るんですね」と話すと、「そうなんですよ、毎年、お迎えして、お見送りするんですよ。ああ、今年もそういう季節になったな、と思いますね。家(うち)は天台宗なんですけどね。」と言って、笑う。
 「私は今日初めて拝見します。これから湯尾峠へ行こうと思ってるんですよ。」と話すと、「湯尾峠は4月はカタクリの花がきれいですよ。気をつけて行ってらっしゃい。」と言って、微笑んでいた。
 立ち上がって、お話していただいたことのお礼を述べた。

 新緑の中、シャガの花を見ながら湯尾峠を登る。
 20分程歩き午後2時に頂上に着いた。木の切り株に腰をおろす。鶯が鳴いている。 


湯尾峠頂上


 40分ほど経ったころ何かが聞えてきた。音か人の声か分からない。大きくなったり小さくなったりする。それから10分程経ったころ、はっきり聞えた。

 「蓮如上人さまのおとォ〜りィ〜」

 立ち上がって湯尾側の登り道を見下ろす。杉林の間の九十九折の小道を先導者が「蓮如上人さまのおとォ〜りィ〜」と声をあげて登ってくる。
 20m程後から列をなして人が登ってくるのが杉木立に見え隠れする。

 先導者が上がって来られた。
 私は、「御影道中」を拝見させていただけることのお礼を申し上げた。それに対して先導者は、「お出迎えご苦労さまです」と朗らかな様子で仰った。

 黒の法衣を纏い、肩に袈裟をかけた教導(きょうどう)が先頭になって登って来られた。次に櫃を背負った供奉人(ぐぶにん)が上がって来られた。櫃には緋色のおおいが掛けられている。交替で背負っておられるようである。宰領(さいりょう)他の人たちも到着した。総数20名程である。



 休憩に入ったようなので、私は先に今庄に戻る。

 今庄では、先導者の「蓮如上人さまのおとォ〜りィ〜」の声がすると、家の中にいた人たちが外に出て立って待っている。数珠を手にしている人もいる。
 櫃を背負っている供奉人が前を通るとき、立って待っていた人たちは櫃に向かって掌(て)を合わせる。行列の人たちに、ご苦労さま、とあちらこちらから声が掛かる。行列からは、ありがとうございます、とお礼の声があがる。
 労う人たちも、お礼の言葉を述べる人たちも皆、掌を合わせる。外に出て来られないような高齢の女性が縁側に座って掌を合わせている。お賽銭を差し出す人もいる。美しい光景である。

 昔の宿場町の面影を残す町並みを行列は足早に通り過ぎて行く。高齢の人たちもおられるのに皆とても歩くのが速い。


御影道中






 お話していただいた洋品店の女性も店の前で掌を合わせていた。宗旨は違っても蓮如上人をお迎えしている。
 今庄に住む人たちは、300年以上も前から毎年、蓮如上人をお迎えし、お見送りしておられる。来年も家族全員健康で蓮如上人をお迎えできるようにと願う人もおられるだろう。

 行列は右の角を曲がり路地へ入り、浄念寺へ向かった。


・同年5月7日(日) 福井

 朝、ホテルを出る。途中、濠に囲まれた福井城本丸の遺構である石垣を見る。20分程歩き養浩館(ようこうかん)庭園に着く。
 庭園は、かつて福井藩主・松平家の別邸があった所である。
 昭和20年7月の福井大空襲で焼失。昭和57年、国の名勝に指定された。その後、約8年間の復原工事が行われ、平成5年に完成した。

 遣水(やりみず)が復原されている。あるかなきかの窪みを造り、量を調節した水を流し、辺りに広がらないようにして中央の池に引き入れる。


養浩館庭園 遣水


 自然石の石橋を渡り池の周りを巡る。回遊式庭園であるから、歩くに連れて周囲の風景が微妙に変化する。

 ほぼ同じ大きさの丸い石をなだらかに敷き詰めて造られる州浜(すはま)を見る。


州浜


 築山から池の反対側に建つ建物は、御座ノ間(ござのま)、御湯殿(おゆどの)である。軒を深くした簡素な建物は、水に浮かんでいるように見える。



 梅園がある。青梅の実が生り、辺りに甘酸っぱい香りが漂っている。欅の美しい若葉が風に揺れる。




 



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