24 金沢 和倉温泉(寄り道)


・平成17年1月8日(土) 金沢

 上越新幹線や「ほくほく線」は、冬、雪のためにダイヤが乱れることが多いので米原経由で金沢へ行く。
 東京を6時26分に発車する東海道新幹線の「ひかり」に乗る。8時49分に米原に着く。8時59分に発車する北陸本線の特急に乗り換える。電車は既にホームに入って待っている。ホームは冷たい風が吹いていた。

 右手に、雪に覆われた標高1、377mの伊吹山(いぶきやま)が見える。豪快な山容の伊吹山は、白く輝き、一層迫力を増している。左手には雪原が広がる。
 敦賀駅に停まり、続いて武生(たけふ)駅、鯖江(さばえ)駅に停まる。降り込んだ雪でホームが濡れている。

 10時49分に金沢駅に着く。雪が積もっている。雪は降ってはいないが、今にも降りそうな曇り空である。観光案内所に行き観光パンフレットを頂き駅の待合所で見る。
 11時半になったので駅前の金沢全日空ホテルへ行き、ランチバイキングの食事をする。金沢らしくデザートに和菓子がある。

 1時に、駅前にある金沢都ホテルにチェックインする。2泊予約していた。金沢都ホテルは、1時にチェックインできる。部屋に荷物を置いてホテルを出る。バスに乗り兼六園へ行く。

 停留所「兼六園下」でバスを降りる。急な坂を上り兼六園に入る。松の木に雪吊りが施されている。霞ヶ池の畔の唐崎松(からさきのまつ)の雪吊りは、一際(ひときわ)大きい。
 雪が積もって枝が折れないように、幹に沿って立てた支柱の先端から放射状に垂らした縄で枝を吊る。ピンと張られた縄は、隣の雪吊りの縄と重なって見えて美しさを際立たせる。冷たい空気の中で見る雪吊りは、凛として精緻な工芸品を見ているようである。

 遠くに見える周辺の山は、雪に覆われている。

 金沢駅に戻る。駅構内の金沢百番街おみやげ館に行く。その中の、和倉温泉の旅館・加賀屋が出している和風レストラン「加賀屋」で食事をする。
 二段重ね弁当を注文する。豪華な弁当だった。別に金沢の郷土料理の
治部煮(じぶに)が漆器に入って出された。治部煮は、鴨肉と野菜を煮込んで、とろみをつけた煮物である。鴨肉といっても殆どが合鴨の肉である。小麦粉をまぶして煮た肉と、金沢独特の麩である、すだれ麩、椎茸、里芋、ホウレン草が入っている。醤油味で、好みに応じてワサビを付ける。小麦粉で肉が柔らかくなって食べやすい。


・同年1月9日(日) 金沢

 朝、起きたら雪が降っていた。ホテルを出てバスに乗る。停留所「兼六園下」で降りる。急な坂を上る。金沢城石川門を潜り金沢城址公園へ行く。

 今日10時から始まる金沢市消防出初式を見る。
 功労者への表彰、来賓の挨拶等が続く。雪の降りかたが激しくなってくる。傘をさして、式典が終わるのをじっと待つ。寒さが足もとからもはい上がり、足が硬直したようになってくる。初めから来る必要はなかった、10時半頃来てもよかった、と思い始める。

 1時間程待ってやっと式典が終わった。いよいよ待ちかねていた「はしご登り」が始まる。
 高さ6mの、はしご45本が立てられ、消防隊員がするすると登る。100人の子供が「加賀鳶木遣りくずし」を唄う中で演技が始まった。雪は更に激しくなり、風も加わって横殴りになった。時々はしごを手拭で拭きながら演技を披露する。演技のひとつひとつに盛んな拍手と歓声が挙がる。

 消防出初式の「はしご登り」の演技は、全国共通のものだろう。しかし、降る雪の向こうに霞んで見える、復元された菱櫓(ひしやぐら)を背景にした演技は、特に華麗に見える。子供が唄う「木遣りくずし」と合わせて加賀鳶の伝統を正しく受け継いでいるように感じた。

 27の演技の最後は「鶯の谷渡り」が披露された。片足の足首だけを手拭ではしごに結び、体の正面を上に向けたり、くるっとひっくり返って下に向けたりして、鶯が軽やかに飛ぶ様子を表わす。とてもスリリングな演技である。

 隣にいた60代位の女性4人のグループが「来てよかったわね」と弾んだ声を上げている。私もそう思った。東京から4時間かかって金沢に来て、今日は1時間待ち、「はしご登り」は僅か10分間で終わったが、これを見ただけでも来た甲斐があったと思った。

 最後に、下帯一本の消防隊員達による「裸放水」が行われた。空に向かって放水する。纏が舞う。

 金沢城址公園を出て、金沢駅行きのバスに乗る。駅の二つ手前の停留所「武蔵ヶ辻」で降りる。
 武蔵ヶ辻交差点から橋場町交差点までの約700mの尾張町商店街通りは、旧い商家の建物が多い。
この通りを往復しながら建物を見ようと思ったが、体は依然として冷えきったままだし、雪も止みそうにないので中止する。
 通りは人の気配がなく、車も少ない。建物は雪の中にひっそりと蹲っているように見えた。

 この時、高山右近(たかやまうこん)(1552〜1615)のことを思った(高山右近については、目次23、平成16年10月11日参照)。
 高山右近は、勇猛果敢な武将であり、
千利休の高弟七人を指す利休七哲(りきゅうしちてつ)の一人であった。キリスト教に帰依し、棄教の命令に従わなかったために自身が城主であった明石を離れる。
 加賀藩初代藩主・
前田利家、二代藩主・利長に召抱えられ、二万五千石を賜る。金沢に26年住む。

 度重なる棄教の説得に応ぜず、慶長19年(1614年)、幕府の禁教令により追放の処分が下される。金沢から長崎に送られ、長崎からマニラへ国外追放される。
 加賀乙彦氏の
『高山右近』に拠ると、高山右近の娘・初(洗礼名・ルチア)は、横山山城守長知(ながちか)一万五千石の嫡男・康玄(やすはる)に嫁いでいた。康玄は25歳、初は24歳になり、初めての子を授かったばかりだった。
 初は、嫁ぎ先に迷惑は掛けられないとして夫と離縁し、乳飲み子である男の子を置いて実家に戻り、父と行動を共にした。信仰を守ることも離縁を決意した理由であった。

 1月、追放の日、言い渡されていた巳の刻(午前10時)前に、西丁口門前の広場に、高山右近、妻(洗礼名・ジュスタ)、初、流行の風邪がもとで亡くなった長男夫婦の遺児となった10歳の男の子を頭(かしら)とする四男一女が出向いた。
 他に、二人のキリスト教徒の武士と各々の妻子眷属が加わった。

 築城家でもあった高山右近は、自身が修復した金沢城の門前の広場で、罪人の徴である白装束を着けて吟味される。その時の胸中は如何ばかりであったろうかと思う。
 『高山右近』から引用する。


 「それまで灰色に重く垂れていた空から雪が舞い降り、身を切る朔風が吹き寄せてきた。
 押送の一団は、北国街道を南西へ、都の方角へと向かった。一陣の風が野面の積雪を巻き上げ、氷の滝を浴びせかけた。右近は雪まみれのジュスタを頷きで励まし、ルチアと子供たちを振り返って声を掛けようとしたが、一同、黙々と元気よく歩くさまに安堵した。ほどなく松任の町に出た。さらに小松、大聖寺と雪景色の街道をたどった。ものものしく武装した警備隊に取り囲まれた白装束の罪人たちは人目を引くはずであった。が、厳冬の街道には旅人の数は少なかったし、一行は矢のように飛来する風に顔を下げて目を細めていたため、さして人の視線を気にせずにすんだ。」


 12月、マニラに着く。高山右近は、著名なキリスト教徒として歓迎され、丁重なもてなしを受けるが、翌年2月に亡くなる。64歳であった。
 マニラの年間平均気温は、26〜27℃である。マニラに着いて2ヶ月の間、高山右近は、金沢の冬の寒さを思い出しただろうと推測する。また、金沢の冬の美しさにも思いを馳せたことと思う。 


 染めの行程で使われた生地表面に残る糊を水で洗い流す浅野川の友禅流し。
 花のない露地を過ぎて招じ入れられた客を迎える一輪の白椿。

 次第に曙に染まる炉に設えられた炭

 釜の湯がたぎるにつれて聞こえる通り過ぎる時雨の音。
 能楽の大鼓を打つ囃し方が裂帛の気合を込めて発する声。
 冷えた空気を切り裂く能管の鋭い響き。
 


 高山右近が歩いた北国街道を芭蕉が歩き、これから私も北国街道を歩いて、松任、小松、大聖寺を通る。


・同年1月10日(月) (帰京)

 朝、ホテルで朝食を摂る。雪で電車が停まったり、遅れたりする虞があるので食後すぐ帰る。


・同年3月19日(土) 金沢

 上越新幹線に乗り、越後湯沢駅でほくほく線に乗り換える。駅の周りには積雪があり、外は吹雪になっている。冬と同じような光景である。

 金沢に着き、駅前の金沢全日空ホテルでランチバイキングの食事をする。1時に金沢都ホテルにチェックインする。2泊予約していた。
 部屋に荷物を置いてホテルを出る。駅前の北陸鉄道金沢営業所に行き、金沢周遊バスの1日フリー乗車券500円を買う。これはバスの中でも売っている。ボンネットタイプの金沢周遊バスが12分間隔で発車し、市街地の中心を時計回りに廻る。夕方6時まで乗り放題で、どこから乗っても、どこで降りてもよい。

 駅前からバスに乗る。三つ目の停留所「小橋」で降りる。50m程歩き、浅野川に架かる小橋を渡る。浅野川は、ここでは川幅が狭くなっているから流れに勢いがある。最初の角を左へ曲がる。右側に、「あめ」の俵屋が建っている。
 俵屋は、創業天保元年(1830年)。米と大麦を原料とする「あめ」を作り続けている。伝統のある商家にふさわしい建物である。



 停留所に戻りバスに乗る。停留所「広坂」で降りる。
 坂の登り口の右手に金沢最古の
石浦神社が建っている。幅の広い急な坂を登る。左側は兼六園になる。15分程登り、菅原道真(すがわらのみちざね)(845〜903)を主祭神とする金沢神社の角を左へ曲がる。右側に能楽堂が建っている。

 能楽堂の左手に位置して壮麗な旧陸軍金沢偕行社(現・石川県庁舎石引分室B)が建っている。
 明治31年
(1898年)の旧第九師団創設と共に同年、旧陸軍の将校クラブとして市内の大手町に建てられた。明治42年(1909年)、現在地に移築される。
 木造2階建。落ち着いた色の外観が上品な印象を与え、二つの異なる勾配を持つマンサード屋根と曲線を多用するデザインが優雅な雰囲気を醸し出している。


旧陸軍金沢偕行社


 同じ敷地内の左隣に、旧陸軍第九師団司令部庁舎(現・石川県庁舎石引分室A)が並んでいる。
 明治31年、金沢城二の丸跡に建築され、昭和43年(1968年)、現在地に移築された。木造二階建。三角形のペディメント(破風)、玄関の付け柱等のデザインは簡素に抑えられている。堅実な印象を受ける建物である。


旧陸軍第九師団司令部庁舎


 国立病院、北陸学院の前を通り500m程歩く。左側に旧県立金沢第二中学校(現・民俗文化財展示館)が建っている。
 明治32年(1899年)建築。車寄せを配し、左右に尖塔を持つ。教室だった部屋に、戦前戦後の暮らしの道具、資料等が展示されている。


・同年3月20日(日) 和倉温泉(寄り道)

 まだ暗いうちにホテルを出て金沢駅へ行く。風が冷たい。
 5時10分発の七尾(ななお)線の電車に乗る。6時3分に羽咋(はくい)駅に着く。外は幾分明るくなったが、曇っていて、雪が降りそうな空模様である。
 羽咋駅から三明(さんみょう)駅まで、能登半島の西側25、5キロを走る北陸鉄道能登線の鉄道があったが、昭和47年(1972年)6月、廃止された。

 昭和33年の12月、金沢から汽車に乗った26歳の女が羽咋駅で降り、能登線に乗り換え、六つ目の能登高浜駅で降りた。
 松本清張
(1909〜1992)の『ゼロの焦点』の鵜原禎子(うはらていこ)である。
 禎子は、1ヶ月前に36歳の鵜原憲一(けんいち)と結婚したばかりであった。憲一は、東京に本社を置く広告代理店に勤め、北陸地方の出張所で仕事をしていた。1ヶ月の内の10日は東京で仕事をして、20日は出張所がある金沢に戻っていた。結婚後、辞令が出て、本社勤めになった。

 12月になり、憲一は、仕事の引継ぎのために1週間の予定で金沢へ向かった。

 予定の1週間が過ぎても憲一は戻らなかった。会社にも連絡は入っていない。
 禎子は、とりあえず金沢へ行くことにした。金沢の出張所では、警察に捜索願を出してくれと言われ、警察署に行き、家出人捜索願書を出す。

 翌日、警察署から連絡があった。羽咋の警察署から報告があり、「羽咋郡高浜(たかはま)町赤住(あかすみ)の海岸で、推定35歳くらいの男子、身もと不詳の自殺死体を発見した。」ということを知らされる。
 禎子は確認に行く。能登高浜駅を出て、高浜の警察分署を訪ねる。遺体の写真を見せられたが夫ではなかった。

 禎子は、夫のことは結婚するときに仲人から聞いたが、その他には何も知らなかったことに気がつく。
 夫について調べ始める。その頃から禎子の周りの人間が次々と殺害される。

 次第に、他人に知られたくない終戦後のできごとが炙り出される。

 「羽咋駅」という文字、「はくい」という響きに遠くへ来たという感じがしたが、それはこの小説の影響だろうと思う。 

 6時45分に終点の七尾駅に着く。駅前から和倉温泉行きのバスに乗る。途中、和倉温泉駅を通り、約20分で和倉温泉に着く。

 温泉街に入る。七尾湾に面して建つ加賀屋旅館の二つの高層ビルが見える。
 共同浴場の
「総湯」に入る。ナトリウム・カルシウム塩化物泉のお湯は無色透明である。ゆっくり入って温まる。風呂上りに、無料の休憩室になっている大広間でしばらく横になって休む。

 帰りのバスに乗り和倉温泉駅で降りる。特急に乗り金沢に戻る。


・同年3月21日(月) 金沢

 朝、ホテルでバイキングの朝食を摂る。おでんの大根と牛すじ、柚子入りの白菜の漬物がおいしい。熱い御飯に海苔の佃煮を載せて食べると御飯を何杯でも食べられそうな気がする。

 ホテルを出て左へ曲がり20分程歩く。武蔵ヶ辻交差点に着く。ここから橋場町交差点までの約700mの尾張町商店街通りを歩く。1月9日に歩く予定だったが、雪が降り、とても寒かったので中止していた。
 尾張町(おわりちょう)は、加賀藩初代藩主・前田利家が自身の出身地である尾張から連れて来た商人を住まわせた所である。藩政期には金沢の経済の中心地であった。

 市媛(いちひめ)神社の前を通る。藩政の時代から明治にかけて創業された銅器製造、布団屋、時計店が並ぶ。森忠商店は、天保14年(1843年)創業の塗料の専門店である。二階屋根の上に突き出したガラス窓は、光を取り込むためのものだろう。


森忠商店


 金沢蓄音器館の角から、直角に延びる通りがある。通りの突き当たりに、泉鏡花(1873〜1939)が子供の頃に境内で遊んだ久保市乙剣神社の鳥居と拝殿が見える。

 下り坂になり、橋場町交差点に着く。通りを反対側に渡る。昭和4年(1929年)建築の旧石川銀行橋場支店が建っている。鉄筋コンクリート造、3階建。白亜の建物である。2階と3階の間に設けられた突出したバンドがアクセントとなって全体を引き締めている。上部に要石(かなめいし)を施した2階の連続する半円アーチの窓と、玄関左右のイオニア式の付け柱が優雅な印象を与える。

 右へ曲がり、武蔵ヶ辻交差点に戻りながら通りの建物を見る。
 昭和5年(1930年)建築の旧三田商店が建っている。鉄筋コンクリート造、2階建。外壁に、溝が刻まれている茶色のスクラッチタイルが貼られている。建物の角を曲面にして、出入り口を設けている。
 平成9年、国登録有形文化財に指定された。現在、古美術品を扱う店舗になっている。

 旧い商家の建物が並ぶ。左の3階建ての建物は、糸の専門店。右の建物は、筆の専門店である。



 寛永3年(1626年)創業の黒田香舗は、香と蝋燭の専門店である。美しい建物に、格式の高い商家であったことが偲ばれる。


黒田香舗


 嘉永5年(1852年)建築の福久屋(ふくびさや)石黒傳六薬舗(現・石黒薬局)の商家が建っている。1階は千本格子、2階が低い「厨子(つし)二階」に白漆喰塗込造(ぬりごめづくり)の「虫籠窓(むしこまど)」が見える。


石黒薬局













 隣接して、大正15年(1926年)建築の旧石黒ファーマシー本社(現・石黒ビル)が建っている。鉄筋コンクリート造、4階建。設計は、武田五一(たけだごいち)(1872〜1938)である。装飾を排した機能的なデザインで、整然として落ち着いた建物である。

 眼鏡店だった町屋の建物を利用している尾張町老舗交流館に入る。四角い火鉢の「大和風呂」、帳簿場の仕切衝立である「結界」、「箱段」を見る。

 最後に、明治40年(1907年)建築、県有形文化財の旧金沢貯蓄銀行(現・町民文化館)を見る。
 黒漆喰仕上げの入母屋土蔵造。大棟の両端には鯱(しゃちほこ)が取り付けられている。外観は和風だが、内部は洋風になっている。
 大理石張りのカウンターの奥の扉は、欅の一枚板である。分厚い扉の蝶番(ちょうつがい)は真鍮、ドアノブは銅でそれぞれ造られている。
白漆喰の壁に、ギリシャのエンタシス風の飴色の柱、大きなアーチが豪華な雰囲気を漂わせている。
 昭和51年(1976年)まで銀行業務が行われていた。現在は、ギャラリーとして利用されている。


町民文化館








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