23 城端 白川郷(岐阜県) 五箇山(寄り道)


・平成16年9月25日(土) 城端(寄り道)

 高岡駅で降りて城端(じょうはな)線に乗り換える。ディーゼル・カーである。

 20分程走ると、車窓の両側に砺波(となみ)平野が広がる。広い水田地帯に100m間隔で農家が点在する散居村(さんきょそん)と呼ばれる風景を車窓から見ることができる。
 農家はそれぞれ、夏の強い陽射しを遮り、冬の風雪から家を護るために屋敷林を植えている。切妻屋根の広壮な屋敷と白壁の土蔵、その周りの杉の木が美しい景観を作る。

 高岡を発って約55分後に終点の城端駅に着く。明治30年(1897年)建築の旧い駅舎を出て、広い道をまっすぐ歩く。
 500m程歩き左へ曲がり、山田川に架かる御坊下橋を渡る。御坊坂の急な坂を登る。越中の小京都と呼ばれている城端は静かな町である。

 真宗大谷派城端別院善徳寺に着く。巨大な山門に圧倒される。
 善徳寺は、文明3年(1471年)、
蓮如(れんにょ)(1415〜1499)によって開山された古刹である。城端は、善徳寺の門前町として発展した。


善徳寺 山門

本堂


 龍の彫刻が施された山門を潜り広大な境内に入る。多くの伽藍が建つ。山門、本堂、鐘楼、太鼓堂は、県の重要文化財に指定されている。

 善徳寺を出て国道304号線に入り右へ曲がる。城端曳山(ひきやま)会館蔵回廊(くらかいろう)に入る。
 曳山会館は、平成14年、国の重要無形文化財に指定された曳山祭りに巡行する曳山、庵屋台(いおりやたい)、傘鉾等を展示している。いずれも豪華な造りで、華麗な祭りの様子が想像できる。
 隣接する蔵回廊は、豪商の四つの蔵を回廊で結んでいる。

 国道の反対側に渡り、昭和3年(1928年)建築の城端織物会館(現・じょうはな織館)へ行く。
 建物は、直線を強調するアール・デコのデザインである。朽葉色(くちばいろ)の煉瓦が落ち着きを与える。扉の真鍮の取っ手を押して中に入る。玄関のガラス張りの欄間に、太陽とその光の放射をデザインした装飾がなされている。これもアール・デコである。

 高い天井と広い廊下、瀟洒な室内、2階へ上がる吹き抜けの階段も幅が広い。全てが明るく、大らかに造られている。
 当時の流行のデザインを取り入れ、城端織物組合事務所として建てられたこの建物に、養蚕が盛んだった五箇山(ごかやま)を控え、絹織物で繁栄した城端の町の勢いを偲ぶことができる。

 現在は、絹織物に関する歴史が展示されている。2階の、元は会議室だった思われる広い部屋に高機(たかばた)と卓上機が並び、機織の教室が開かれている。建物は、国登録有形文化財に指定されている。

 じょうはな織館(おりやかた)を出て左へ曲がる。二つ目の角を左へ曲がり坂を下る。幅の狭い旧道の五箇山街道に入る。右に曲がると、両側は千本格子の町屋が続く。後戻りして旧道を城端駅に向かって歩く。
 五箇山で生産された生糸、和紙、火薬の原料となる塩硝(えんしょう)は、この五箇山街道を通って加賀へ運ばれた。今は、ひっそりとしているが、当時は余程賑わっていたことだろう。

 「坡場(はば)の坂」と名付けられた坂を登る。丸い石を積み上げた石垣の上に味噌醸造業の旧い木造の大きな建物が建っている。子供の頃に見た風景に似ていて懐かしさを覚えた。
 発酵に必要な麹菌、乳酸菌、酵母を培養する所であると思われる、「培菌室」とプレートに標示された赤煉瓦の建物が敷地内に建っている。しかし、人の気配がないから、現在作業は行われていないのだろう。 

 通りの両側に並ぶ旧い建物や欅の美しい姿を見ながら城端駅に戻る。城端線に乗る。
 高岡駅に着く。
ホテルニューオータニ高岡にチェックインする。2泊予約していた。


・同年9月26日(日) 白川郷(寄り道)

 朝、ホテルを出て、7時50分発の城端線のディーゼル・カーに乗る。8時42分に城端駅に着く。駅前に立っていると、7時30分に高岡駅前を発車した「荻町神社前」行きのバスが8時53分に着く。バスに乗る。

 バスは、国道304号線を走る。坂を登る。昨日訪ねた城端の旧い家並みの間を通り過ぎる。右手に、旧い建築様式で建てられている城端郵便局が見える。
 10分程走り市街地を抜ける。登り坂になり、山間に入って行く。時々右手眼下に谷間が見える。

 約20分後に五箇山トンネル、梨谷トンネルを通る。道は下り坂になる。五箇山に入る。五箇山の中の相倉(あいのくら)菅沼地区は、白川郷荻町地区と共に、平成7年、ユネスコの世界遺産に登録された合掌造りの集落である。

 停留所「相倉口」に停車する。降りる人たちがいる。五箇山には10月に来る予定にしている。
 バスは、周囲を山に囲まれた谷間の急カーブの道を走る。10分程走り上梨トンネルを通る。上梨に着く。
 右手に見える杉木立に囲まれた
白山宮(はくさんぐう)の境内で「こきりこ祭り」が行われている。おおぜいの人が集まり、出店も多く並んでいる。
 400年以上前に建てられた一際大きな合掌造りの
村上家が車窓から見えた。バスの中から歓声が挙がる。

 15分程走り、菅沼を過ぎて西赤尾に着く。右手に、約300年前に建てられた五箇山最大の合掌造りの岩瀬家が見える。

 10分程走り岐阜県に入る。
 鋳物の町高岡を出発して、越中の小京都といわれている城端を通り、世界遺産に登録されている五箇山、白川郷を結ぶ加越能鉄道のバスは、なんと贅沢な路線バスだろうかと思う。

 白川郷に入る。10時少し過ぎに終点の「荻町神社前」に着く。城端駅前から約1時間10分で着いた。
 バスを降りる。あちらこちらに合掌造りが建っている。観光マップを見ると、荻町地区とその周辺に100棟以上建っている。よくこれだけ残っていたものと思う。昭和51年(1976年)、荻町地区は国重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。

 白川八幡宮の鳥居の前の流れる水で手を洗い、備え付けてある柄杓で水を飲む。冷たくておいしい。今日はよく晴れて、8月のように暑いので冷たい水がありがたい。
 観光マップを見ながら歩く。人がおおぜい集まり、次々に停まる観光バスから沢山の人たちが降りてくる。車やバイクも続々と入ってくる。どこを歩いても人がいる。

 豪雪地帯のために、雪を落としやすく、積雪し難い急傾斜の屋根を造り、手を合わせた形の合掌造りが生まれた。また、平地と耕地が少なく、大規模に養蚕の仕事を行うために大家族が一緒に住むことができるように大きな合掌造りが建てられた。

 合掌造りの間を歩く。
 約230年前に建てられた真宗大谷派明善寺(みょうぜんじ)の前を通る。本堂と、山門の上に鐘楼を載せた二層の鐘楼門は茅葺。庫裏は合掌造りである。庫裏と鐘楼門は、県の重要文化財に指定されている。

 約400年前に建てられた3階建ての和田家に入る。国重要文化財に指定されている。
 狭くて急な階段を上り、2階と3階も見る。人が起居していたのは、1階と中2階である。2階と3階は養蚕に使われていた。
 1階の入り口に近い板の間に大きな囲炉裏が切られている。1階と2階の天井の、囲炉裏の真上に当たる部分に、簀子(すのこ)のような隙間が設けられている。囲炉裏の火の熱は隙間から上に上がり、2階と3階の蚕に暖を与え、煙は害虫を駆除した。
 合掌造りが切妻屋根で、妻側を障子窓にしているのは、光と風を取り込むためである。


和田家


 外へ出る。入り口横に消雪用の池を設けている。池の水は、用水路に流れ込むように造られている。用水路には澄み切った水が流れている。

 和田家を出て右へ曲がり、田圃の角を右へ曲がる。坂道を登る。集落から離れていく。20分程歩いて、展望台になっている荻町城跡に着く。
 一部分だけれども集落を俯瞰することができる。人も車も自動販売機も見えなくなり、何十年も変わらないと思われる風景を望むことができる。


・同年9月27日(月) 高岡

 朝、ホテルを出て、高岡駅前から真っ直ぐに伸びている道路に入る。右へ曲がり700m程歩く。旧北陸道が交差する。旧北陸道に面する御馬出町、守山町、木舟町、小馬出町にまたがる区間は山町筋(やまちょうすじ)と呼ばれている。
 山町筋には明治後期に建てられた土蔵造りの旧家が42棟建ち並んでいる。平成12年、国重要伝統的建造物群保存地区に選定された。

 土蔵造りの旧家は、10月に見ることにして山町筋を左に入る。

 大正3年(1914年)建築の赤レンガの壮麗な建物が建っている。高岡共立銀行本店として建てられ、現在は、富山銀行本店が営業をしている。設計は、田辺淳吉(1879〜1926)である。
 銅板葺の屋根、中央と左右の塔、三角のペディメント(破風)、出入り口のトスカナ式の柱等、華やかでありながら、垂直の赤レンガと隅を引き締めている白い御影石が端正な印象を与える。


富山銀行本店


 この建物の建築に要した費用は莫大なものだっただろう。その潤沢な資金を支えた高岡の、鋳物の町としての往時の繁栄と賑わいを思う。 

 15分程歩き、北陸線の線路の下を潜る。清水町(しみずまち)の水道公園(旧・清水町浄水場)に着く。円筒形の清水町配水塔(現・清水町配水塔資料館)が建っている。
 昭和4年(1929年)に着工し、昭和6年(1931年)に完成している。高さ29、7m、5階建て。1階から4階は、鉄筋コンクリート造、直径9、29m。コンクリート打ちっ放しになっている。5階は貯水槽で、銅板が張られている。直径11、4m。


清水町配水塔(現・清水町配水塔資料館)


 下の階よりも最上階が大きく、不安定な印象を受ける。また、現在は使用されてはいないけれども、最上階が貯水槽というのも不安を覚え、その上、説明書にあった「昭和33年3月まで清浄な水を、ポンプで配水塔5階の貯水槽に送り、配水塔の落差を利用して、市内へお届けしていました。」という説明も落ち着きをなくしてしまう。
 
江戸川乱歩の小説「怪人二十面相」や「少年探偵団」に登場するような異様な建築物である。

 第29代内閣総理大臣・犬養毅(いぬかいつよし)(1855〜1932)が揮毫した「恵澤萬年」の文字が刻まれた御影石が壁面に設置されている。恵澤萬年(けいたくばんねん)の意味は「いつまでも変わらぬ水のめぐみを」である、と説明書に書いてある。
 平成8年、登録有形文化財に指定された。

 石段を上り中に入る。内部は、当然のことだが水は入っていない。「近代水道の誕生」というテーマで、近代水道誕生以前の高岡の上下水木桶等の写真、近代水道が誕生するまでの工事写真や水道施設の装置や工具等を展示している。
 壁側に設置されている階段を上り下りしながら、展示物を見る。

 同じ公園内に、地下水をくみ上げていた源井(深さ7、5m、内径3m)の上に建てられた「旧第3源井上屋」が建っている。煉瓦の外壁で、八角形の建物である。
 昭和6年建築、平成9年登録有形文化財に指定されている。


・同年10月9日(土) 高岡

 高岡駅を出てまっすぐ歩く。雨が降っているので傘を差す。700m程歩き山町筋(やまちょうすじ)に入る。右へ曲がる。明治後期に建てられた土蔵造りの商家が並ぶ。 






 平成6年、国重要文化財に指定された菅野家(すがのけ)住宅を見る。
 主屋は、明治33年(1900年)の大火直後に、防火構造の土蔵造りとして建てられた。屋根の大きな箱棟に、鯱(しゃち)、鬼瓦を設けている。2階の太い出桁(だしげた)と腕木(うでぎ)は、外壁と共に黒漆喰で仕上げられている。重厚な建物である。


菅野家

 内部を公開しているので中に入る。
 12畳敷きの「ミセノマ」に上がる。説明書によると、「菅野家は明治初頭に、北海道との通商などで家業を広げ財を築いた。明治22年(1889年)には高岡銀行を設立、同36年には高岡電灯を創立する一方で政界にも進出した。」とある。

 客を迎える「ホンマ」は格式の高さを感じさせる書院造となっている。檜を多用し、天井板も屋久杉を使っている。
 「ホンマ」に沿って廊下がある。廊下の向こうに中庭があり、中庭を挟んで建つ2階建ての土蔵が見える。

 菅野家を出る。雨が止まないので、このあとは明後日見ることにする。駅に戻る。駅の待合室で、観光案内所でいただいた観光案内を見る。
 チェックインの時間になったので、
ホテルニューオータニ高岡に入る。2泊予約していた。


・同年10月10日(日) 五箇山(寄り道)

 よく晴れていい天気になった。
 9月26日に白川郷を訪ねたときのように、高岡から城端線に乗り城端駅で降りる。城端駅前から「荻町神社前」行き8時53分発の加越能バスに乗る。

 9時37分に停留所「西赤尾」に着く。
 約300年前に建てられた五箇山最大の合掌造りの
岩瀬家に入る。岩瀬家は、間口26、4m、奥行き12、7m、高さ14、4mの準5階建ての建物である。昭和33年(1958年)、国重要文化財に指定された。

岩瀬家




梯子段


 「大居(おい)」と呼ばれる広い座敷に大きな囲炉裏が切ってある。天井の真上に当たる部分は、最上階まで隙間が設けられている。蚕に暖を与える為である。
 座敷から、消雪用の為に造られた池が見える。
 急な梯子段を上り、上の階を見学する。3階から5階は、養蚕の作業場だった。


岩瀬家


 隣接して、永正10年(1513年)創設の浄土真宗行徳寺(ぎょうとくじ)が建っている。山門の上に鐘楼を載せた鐘楼門は茅葺である。

 これから後戻りしながら3ヶ所の合掌造りの集落を訪ねる。11時2分発の高岡行きのバスに乗る。11時7分に停留所「菅沼」に着く。菅沼地区は、9棟の合掌造り家屋があり、世界遺産に登録されている。
 バスを降りて谷間に下りる。いずれも大きな合掌造りが建っている。保存状態がいいので観察に適している。

 坂を上り国道156号線に戻る。左へ曲がり1時間程歩く。上梨に着く。バスの停留所「上梨」の傍に村上家が建っている。400年以上前に建築された4階建ての合掌造りである。国重要文化財に指定されている。 

 村上家の横の坂を上る。約200年前に建てられた合掌造りの家を利用している「こきりこ唄の館」に入る。

 「こきりこ」について、資料を展示し、ビデオを使って説明している。ビデオは、「こきりこ祭り」で白山宮に奉納されたものと思われる映像を流している。
 二本の竹を鳴らす楽器・「こきりこ」と他の楽器の音色が聞える。演奏に合わせて、「マドのサンサはデデレコデン ハレのサンサもデデレコデン」と唄う民謡・こきりこ節を唄う人の寂びた声が響き渡る。
 演奏と歌声に合わせて、直垂(ひたたれ)、括袴(くくりばかま)の衣装を着けて、笠を深く被り、竹の板を束ねた「ささら」を打ち鳴らしながら踊る。
 簡素な楽器の音色と古式ゆかしい踊りが続く。

 国道156号線に戻り左へ曲がる。200m程歩く。上梨トンネルが現れる。トンネルの右手に「北陸自然歩道」と標示された幅1m程の坂道が伸びている。
 坂道を登る。右手眼下に
庄川が見えてきた。滝も見える。静かな道を30分程歩き相倉地区に着く。


相倉地区


 世界遺産に登録されている相倉地区は、20棟の合掌造りが存在する。

 両側に建つ合掌造りを見ながら集落の中心を通る道を歩く。ゆっくり歩いて30分程で集落の端にある駐車場に着く。城端方面から入るときは、ここが入り口になる。この駐車場で車を停め、ここから先は車は入れない。また、歩きながらの煙草も禁止されている。

 駐車場に立っている案内板に従い、駐車場の上の畑の間の道を上る。15分程上る。集落のほぼ全景を見渡せる場所に出た。
 山に囲まれ、一部段々畑になっている斜面の下に静かに佇む合掌造りが見えた。

 坂道を下る。道路に面した畑の端の石垣に腰をおろす。三脚を立てて、合掌造りの建物を背景にして、その前に咲く鮮やかな色のコスモスや銀色に光るススキを撮っている人がいる。
 けたたましい車の音も騒々しい音楽も聞えない。微風というべき柔らかな風が頬に当たる。これほどここちよい風は今まで味わったことがなかった。
 穏やかで静かな時間が流れている。いつまでもここに座っていたいと思った。


・同年10月11日(月) 高岡

 朝、ホテルを出て山町筋へ行く。一昨日雨が降ってきたので中止した土蔵造りの商家の続きを見る。



 晴れていた空が曇ってきた。20分程歩いて高岡古城公園へ行く。
 慶長14年(1609年)、加賀二代藩主前田利長が築いた高岡城は、元和元年(1615年)、廃城となった。この城跡は明治8年(1875年)、公園として開放された。広さは、約21万u(約7万坪)である。濠と石垣が遺構となっている。

 南外濠に架かる朱塗りの駐春橋を渡る。二の丸跡を過ぎると、西内濠が現れる。二の丸跡と本丸跡を結ぶ土橋の石垣が残っている。説明板によると、「石垣の積み方は、乱積みという素朴ながら堅固な方法」と説明されている。


土橋の石垣


 本丸跡の中央は、芝生の広場になっている。その周囲を歩く。前田利長公銅像の他に高名な彫刻家の作品17点が設置されている。銅器の生産が全国生産の90%を占める高岡の技術の粋を集めて鋳造されたものである。

 公園内の博物館の前を通る。大手口に高山右近の銅像が立っている。
 
高山右近(たかやまうこん)(1552〜1615)は、織田信長、豊臣秀吉に仕え、戦功により高槻城、明石城の城主となる。また、築城家であり、金沢城の修復、高岡城の建築を行う。
 茶の湯を千利休に師事し、利休の高弟と目される。真に武士の鑑であるが、12歳で洗礼を受けたキリスト教に帰依する思いが強くなる。天正15年(1587年)に出された秀吉の伴天連(バテレン)追放令により明石を離れる。
 加賀藩初代藩主・
前田利家、二代藩主・利長に召抱えられ、金沢に26年住む。
 度重なる棄教の命令に従わず、慶長19年(1614年)、国外追放の処分が下される。送られた異国の地・マニラで、翌年、客死(かくし)する。

 両手で大きな十字架を持っている高山右近像は、口を固く引き結び、眉間にしわを寄せて、癇癖な表情をしている。信仰心の強さのみを強調しているように思えるが、高岡城を建築した人としての他に、宗教人として受け入れていることに高岡市と高岡市民の見識の高さと懐の深さを感じる。





TOPへ戻る

目次へ戻る

24へ進む

ご意見・ご感想をお待ちしております。