25 能登半島(寄り道) 金沢〜小松


・平成17年5月3日(火) 金沢

 上越新幹線に乗る。越後湯沢駅に近づくにつれて車窓の両側に見えてくる山にはまだ残雪があり、銀色に輝いている。
 越後湯沢駅で「ほくほく線」に乗り換える。

 金沢駅に着く。駅の構内や駅前広場は、おおぜいの観光客で溢れていた。
 いつものように
金沢全日空ホテルでランチバイキングの食事をした後、金沢都ホテルにチェックインする。2泊予約していた。

 ホテルを出てバスに乗る。バスは、犀川(さいがわ)に架かる長さ62、3mの犀川大橋を渡る。犀川大橋は、大正13年(1924年)竣工、平成12年、国登録有形文化財に指定された。 

 停留所「広小路」で降りる。左へ曲がり、寺町通りを150m程歩く。よく晴れて気温も上がり、暑いくらいである。
 最初の角を右へ曲がる。日蓮宗正久山
妙立寺(みょうりゅうじ)が建っている。加賀藩三代藩主前田利常の創建による。内部の複雑な構造により忍者寺と呼ばれている。見学を待つ人たちで境内は賑わっていた。

 拝観はしないで境内の右側を歩き、本堂の右手にある細い道に入る。境内の喧騒が消え、静寂に満ちた場所に出た。隣接する真宗大谷派願念寺(がんねんじ)の山門の前だった。

 芭蕉は、7月15日(太陽暦8月29日)金沢に着く。金沢では、俳人・小杉一笑(いっしょう)に会うことを楽しみにしていた。しかし、一笑が去年12月に亡くなったことを知らされる。一笑は、芭蕉もその才能に注目していた俳人であったが、会うことはできなかった。死去したことを知らされたとき芭蕉は慟哭する。
 次の句は、ここ願念寺で芭蕉の金沢滞在中に催された一笑の追善供養で詠まれた句である。願念寺は、小杉家の菩提寺であり、一笑の墓がある。


      塚も動けわが泣く声は秋の風


  山門の左手に「塚も動け」の句碑が立っている。




願念寺 拝殿


 境内の一隅に「一笑塚」がある。一笑の辞世の句「心から雪うつくしや西の雲」が刻まれている。享年36歳であった。




      秋涼し手毎(てごと)にむけや瓜(うり)茄子(なすび)

      あかあかと日はつれなくも秋の風


 南大通りを渡り、にし茶屋街に行く。にし茶屋街は、ひがし茶屋街と同じく文政3年(1820年)に設立された(ひがし茶屋街については、目次22、平成16年8月16日参照)。
 茶屋街の石畳を歩く。美しい出格子の建物が両側に並ぶ。


・同年5月4日(水) 能登半島(寄り道)

 早朝、ホテルを出て金沢駅へ行く。5時10分発の七尾(ななお)線に乗る。6時45分に七尾駅に着く。待合室で7時12分発穴水(あなみず)行きの電車を待つ。
 次の和倉温泉駅に7時18分に着く。ここから「のと鉄道」になる。

 田鶴浜(たつるはま)駅を過ぎると木立の間から右手に七尾西湾が見えてくる。能登中島(のとなかじま)駅から電車は海から離れ田園地帯を走る。西岸(にしぎし)駅に着く。右手に七尾北湾が見える。

 能登鹿島(のとかしま)駅は、公園に建っているような駅だった。ホームと駅舎は、桜の木に囲まれ、右手に朝日に煌く海が見える。桜が咲く頃、花の天蓋の下に電車が入って行く光景を思い浮かべる。

 終点の穴水駅に7時55分に着く。輪島駅まで鉄道の路線があったが、平成13年廃止された。
 駅前から8時30分発の輪島行きのバスに乗る。バスは山間を走る。途中、能登空港の近くを通る。9時に着く。現在も停留所は「輪島駅」と表示されている。9時10分発の宇出津(うしつ)
行きのバスに乗り換える。

 バスは、左手に日本海を見下ろす高台を走る。窓からライトブルーの海と白い砂浜が見える。他では滅多に見られないと思うほどの美しい海の色だった。
 
「白米(しろよね)の千枚田」の前の停留所でバスが停まる。カメラと三脚を持った乗客の殆どが降りる。海に向かう斜面に1、004枚の田が広がっている。

 バスは、曽々木(そそぎ)の三叉路を右折して海岸から離れる。停留所「上時国」で降りる。輪島駅から約45分だった。金沢からここまで約5時間かかったことになる。
 坂を登る。
上時国家(かみときくにけ)に入る。

 平家の武将であった平大納言時忠(たいらのだいなごんときただ)(1138〜1189)は、平清盛の継室(後妻)・時子の弟である。文治元年(1185年)3月の壇ノ浦の合戦に敗れ、能登へ配流(はいる)となる。
 この地で生まれた時忠の五男・時国は長じて平の姓を捨て、新たに時国を姓として時国家を興す。時国家12代の時に分家し、以後、本家を上時国家、分家を下時国家と称する。

 茅葺、入母屋作りの建物は、建坪189坪(約623、7u)、屋根の高さは18mである。天保2年(1831年)から建て始められ、完成までに28年を要した。国重要文化財に指定されている。

 唐破風(からはふ)、総欅造りの玄関を入る。「大納言の間」と呼ばれている部屋を観る。縁金折上格天井(ふちきんおりあげごうてんじょう)の華麗な部屋である。欄間には巧緻な透かし彫りが施されている。
 部屋に沿って畳敷きの廊下があり、その外側に平行して板張りの廊下もある。

 廊下から国指定名勝、鎌倉時代の作風といわれている庭園を見る。細部にこだわらず自然を取り込んだ大らかな造りの庭園である。見ていると気持ちが和んでくる。

 上時国家を出て、400m程離れて建つ下時国家(しもときくにけ)へ行く。
 下時国家の建物は江戸時代中期に建てられ、国重要文化財に指定されている。しかし、建物の保存修理が行われていた。見学はできるが、ヘルメットをかぶり、組み立てられた足場の上から見ることになる、と言われ、入るのを止めた。

 強い風が吹いていた。時おり砂まじりの突風が吹いてくる。曽々木海岸へ行けば、幾つもの奇岩が見られるが、それも止めて停留所へ行き、帰りのバスを待つ。


・同年5月5日(木) 高岡

 朝、ホテルを出て越後湯沢行きの特急に乗る。25分程乗って高岡駅で降りる。
 駅を出て真っ直ぐ昭和通りを1、2キロ程歩く。千保(せんぼ)川に架かる鳳鳴橋(ほうめいばし)を渡る。橋の両側中央にブロンズ製の鳳凰像が立っている。
 

 加賀藩二代藩主・前田利長は、異母弟の利常に跡を継がせ高岡に移り住む。利長は、慶長14年(1609年)、砺波郡西部(にしぶ)金屋(かなや)村(現・高岡市戸出西部金屋)から、7人の鋳物師(いもじ)を招いた。高岡に鋳物の技術が伝わった起源である。       

 歩道のあちらこちらに竹と笹の葉の模様が浮き彫りになっている鉄製のプレートが嵌め込まれている。また、側溝の蓋も帯状のものを織り込んだ美しいデザインのものが使われている。鋳物の町の高岡らしい通りになってくる。



 木造の大きな建物が並んでいる。建物の角を左へ曲がり、高岡鋳物発祥の地である金屋町の通りに入る。



 石畳に銅片を敷き込んでいる。陽が当たり黄金(きん)色に光る。石畳と側溝の蓋が通りを美しく見せる。現代アートのようだ。高岡は銅器の生産が全国生産の90%を占めることを思い出す。




 静かな通りに千本格子の家が並ぶ。鋳物工場は家の奥にあったが、現在、工場は郊外に移転している。






 500m程歩き右へ曲がる。宗泉寺の前に出る。右へ曲がり、以前は工場だったと思われる建物を見ながら歩く。昭和通りに戻る。反対側に渡り、旧い建物が並ぶ狭い通りに入る。150m程歩く。旧南部鋳造所の跡地に着く。キューポラと煙突が保存されている。


旧南部鋳造所


 キューポラは、地金を熱で溶かす溶解炉である。旧南部鋳造所のキューポラと煙突は、大正13年(1924年)に建設され、平成12年2月まで稼動していた。キューポラの一部と送風用の風車は失われているが、平成13年、国有形登録文化財に指定されている。
 高さ14、5m、幅1、78mの煉瓦積みの煙突と高さ3、3m、径0、7mのキューポラを煙道が結んでいる。煙道の中の排気口の中心に吸気管が通っている。


煙道 キューポラ

 

 説明板にキューポラの仕組みが説明されている。一部引用する。尚、この説明ではキュポラと表記されている。


 「キュポラに燃料のコークスと地金を入れて着火し、火力を増すため煙突の基部にある送風口から電気を動力源とする風車で風を送る。風は煙道の中に通された直径約30cmの鉄管を通ってキュポラに入り、コークスで熱せられた煙はキュポラの上部から抜け道を通って煙突から排出される。この時の排煙は、鉄管を通ってキュポラに送られる風を熱しながら煙突から出ていくため熱効率が高まる仕組みになっている。」


・同年7月16日(土) 金沢

 金沢駅に着く。金沢全日空ホテルで食事をした後、金沢都ホテルにチェックインする。2泊予約していた。
 部屋に荷物を置いてホテルを出る。バスに乗り停留所「橋場町」で降りる。
浅野川に架かる浅野川大橋を渡る。右へ曲がり川沿いに歩く。主計町(かずえまち)茶屋街に入る。


主計町茶屋街


 主計町茶屋街は、明治2年(1869年)に開かれた。国重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。
 料亭、旅館等の建物が並ぶ。よく手入れされているようで、美しい家並みが作られている。建物の間の幅の狭い道を歩く。紅殻(べんがら)塗りの家の前を通り、10段余りの幅の狭い石段を登る。
「くらがり坂」(別名・暗闇坂)と呼ばれている。泉鏡花(1873〜1939)が小学校へ通うときに歩いた道である。

 久保市乙剣(くぼいちおとつるぎ)神社の裏手に出る。大きく枝を広げている欅の大樹が立っている。横に説明が書いてある。市の保存樹である。樹高20m、幹回3、88m、枝巾18mと説明されている。鏡花もこの聳える欅を見上げたことだろう。
 久保市乙剣神社の境内は、子供の頃の鏡花の遊び場だった。

 境内を出て左へ曲がる。鏡花の生家跡に建つ泉鏡花記念館に入る。
 鏡花の美しい作品にふさわしい装丁美の初版本や作品集が展示されている。鏡花と親交のあった日本画家・
鏑木清方(かぶらぎきよかた)(1878〜1972)、小村雪岱(こむらせったい)(1887〜1940)、洋画家・橋口五葉(はしぐちごよう)(1881〜1921)等が装丁を手掛けている。

 小村雪岱は、『日本橋』の表紙に隅田川を、表と裏それぞれの見返しに花柳街の四季の情景を描いている。隅田川は、荷を積んだ舟が往き来し、河岸には白壁の蔵が並び、無数の蝶が舞っている。木版多色刷りの絵は、時代は明治だけれども江戸情緒を漂わせている。

 既に夏目漱石の作品の装丁を手掛けていた橋口五葉は、当時世界中に流行していたアール・ヌーヴォーのデザインを取り入れ、植物や水の流れを図案化し、優美な曲線で描いている。

 鏡花は、この辺りのことを『照葉狂言』の中で次のように語っている。


 「我(わ)が居(ゐ)たる町は一筋(ひとすぢ)細長く東より西に爪先上(つまさきあが)りの小路(こうぢ)なり。
 兩側(りやうがわ)に見好(みよ)げなるしも大家(たや)のみぞならびける、市中(いちなか)の中央の極(きは)めて好(よ)き土地なりしかど、此町(このまち)は一端(いつたん)のみ大通りにつらなりて、一方の口は行(ゆき)どまりとなりたれば、往来(わうらい)少なかりき。
 朝(あした)より夕(ゆふべ)に至るまで、腕車(くるま)、地車(ぢぐるま)など一輛(りやう)も過(よ)ぎるはあらず。美しき妾(おもひもの)、富(と)みたる寡婦(やもめ)、おとなしき女(め)の童(わらは)など、夢おだやかに日を送りぬ。」



・同年7月17日(日) 金沢〜小松

 奥の細道を歩くことを1年間休んでいたので今日から再開する。月山の8合目から頂上を越えて湯殿山へ降りることが残っているが、来年に延期する。

 朝、ホテルを出て昭和大通りを歩く。梅雨は未だ終わらず蒸し暑い。曇っていて風がない。
 5キロ程歩いて野々市(ののいち)町に入る。国道157号線を歩く。3キロ程歩き国道8号線を横断する。3キロ程歩き松任(まつとう)駅に着く。

 駅前は広々としている。駅を背にして歩く。角に旧松任城の本丸跡に作られた「おかりや公園」がある。樹齢270年の欅が立っている。欅は、枝を広げ、雄大な姿を見せる。
 500m程歩いて大通りへ出る。右へ曲がる。千代尼(ちよに)通り商店街と書かれている。真宗大谷派
聖興寺(しょうこうじ)の山門の前へ出る。

 聖興寺は、明応3年(1494年)の創設である。「朝顔につるべ取られてもらひ水」の句で有名な加賀千代女(かがのちよじょ)(1703〜1775)の遺墨、遺品を展示している「遺宝館」があるが、入らないで明治31年(1898年)再建の本堂を拝観する。

 聖興寺を出て右へ曲がる。500m程歩き、成町南の十字路を左へ曲がる。昭和通りを1キロ程歩く。国道8号線に着く。車は、上下線とも引っ切り無しに走っている。国道は高い所にあるので、下に降りて田圃の横を歩く。右手に、成長した濃い緑色の稲が一面に広がる。

 7キロ程歩く。国道8号線に入り、手取川(てどりがわ)に架かる手取川大橋を渡る。気温も湿度も上がってきているのが分かる。4、5キロ程歩く。小松市に入る。

 3キロ程歩く。道路の反対側にハーゲンダッツの看板が見えた。冷房が効いた店内で、アイスクリームを食べたら暑さで疲れた体もいくらか楽になるだろうと思ったが、暑い中を立ち止まって信号が変わるのを待つことがひどく億劫になってきた。
 小松駅はもう近いからと思い直しそのまま歩く。右へ曲がり国道8号線を離れる。500m程歩く。北陸線の高架線が見えた。左へ曲がり高架線の下を歩く。300m程歩き小松駅に着く。


      しを(お)らしき名や小松吹く萩すゝき



ムラサキツユクサ



・同年7月18日(月) (帰京)

 ホテルで朝食後、すぐ帰る。





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