32 月山8合目〜湯殿山 南今庄〜木ノ芽峠〜敦賀


・平成18年9月16日(土) 鶴岡

 「おはよう庄内往復きっぷ」という列車指定の割引切符がある(目次15、平成14年10月12日参照)。(注・この割引切符は、平成18年9月30日廃止された。)

 この割引切符を使って山形新幹線に乗るのは4年ぶりになる。
 福島から新庄までの沿線の風景が懐かしい。新庄で陸羽西線の電車に乗り換える。
最上川の美しい流れも久しぶりに見ることができた。

 余目(あまるめ)駅で羽越線に乗り換える。鶴岡駅に12時28分に着く。曇っていて小雨が降っている。
 駅前の
鶴岡ワシントンホテルで昼食を摂る。食後、駅の待合室で休み、チェックインの時間になったので東京第一ホテル鶴岡へ入る。2泊予約していた。

 4年前の8月、月山の8合目まで登った(目次13、平成14年8月17日参照)。その後、8合目から上へ登り、月山を越えて湯殿山へ降りる予定を立てていたが、天候や私の怪我で延期していた。
 今年こそそれを実現させようと思って鶴岡に来たが、天気が悪い。ホテルの部屋でテレビの天気予報を何度も見るが、期待できるような予報ではない。明日の庄内地方の雨の確率は、午前90%、午後60%となっている。

 また1年延期しようかと思ったが、来年は何が起きているか判らない。明日の朝、空模様を見てどうするか決めることにする。


・同年9月17日(日) 月山8合目〜頂上〜湯殿山


(鶴岡〜月山8合目)

 朝5時に起きて、部屋の窓から外を見る。夜中に雨が降ったようだ。道路が濡れている。今は降っていない。空もそれほど黒い雲はない。しかし、山は霧がかかり、山の上の空は黒い雲に覆われている。
 今日、登ろうと思った。雨がひどく降り出したら中止して戻ればいい、と決めてホテルを出る。

 鶴岡駅前から6時2分発の「羽黒山頂行き」のバスに乗る。運転手の他に60代くらいの男性の車掌が乗っている。
 バスの停留所「羽黒山頂」で「月山8合目行き」のバスに乗り換えるのだろうかと思い、車掌さんに尋ねると、バスは、停留所「羽黒山頂」で「月山8合目行き」に変わるからそのまま乗っていていい、という説明がある。料金も「月山8合目」までの分を先に払う。

 私の他に60代と思われる2組の夫婦が乗ってきた。1組はリュックを背負い、山登りの格好をしている。その夫婦がもう1組の夫婦に、昨日鳥海山に登った、と話している。
 話を聞いていて、昨日も天気は悪かったがそれでも登れたのだな、と思い、よく山登りをしているような人が今日のような天候でも登るのは可能と判断したことにほっとする。

 バスの窓から空ばかりを見ているが、曇ったままで明るくならない。

 6時50分に「羽黒山頂」に着いた。1組の夫婦が降りた。山登りの格好をした夫婦はそのままバスに乗っている。
 車掌さんが、「15分休憩しますから散歩をされる方はどうぞ」と声を掛ける。バスを降りて歩き、
遠くからだったが、三神合祭殿(さんじんごうさいでん)目次11、平成13年10月7日参照)を5年ぶりに拝観する。

 バスに戻る。7時5分に発車する。バスは、一旦、羽黒山頂から降りて、月山ビジターセンターの前から月山8合目へ向かって坂道を登る。
 車掌さんは安全指導員も兼ねている。運転手の横に立ち、前方を注意して、運転手に運転を専念させる。

 4年前の8月、この道を歩いて8合目まで登った。そのときのことを懐かしく思い出しながら、通り過ぎていく風景を車窓から眺める。

 バスは、8時に1、440mの高さの月山8合目に着いた。辺りは霧に覆われている。
 1組の夫婦と一緒にバスを降りる。車掌さんから「気を付けて行ってらっしゃい」と声を掛けられる。
 曇っていて、風が冷たい。秋風というより初冬の風の冷たさである。

 いよいよこれから始まる。やり残していたことが4年間気になっていた。今日こそ、それをやり遂げよう。天候が悪く、危険なこともあるだろうから気をつけてゆっくり歩く。ただし、途中休まない。


・(8合目、弥陀ヶ原〜9合目、仏生池小屋)

 月山レストハウスの横の石段を登り、高山植物が見られる湿原の弥陀ヶ原(みだがはら)の前に出る。ここまでは4年前に来た。ここから先が初めてになる。
 弥陀ヶ原は、緩やかな斜面にほぼ楕円形に広がる。右へ曲がり、周囲に設置されている木道を歩く。木道は雨に濡れている。木道から滑り落ちないように気をつけてゆっくり歩く。
 9月になって高山植物の種類が減ったようだ。それに雨のためか少ない高山植物も花を閉じている。

 15分程歩く。月山登山道の指導標が立っている。木道を降りて右へ曲がる。
 幅1m程の道を登る。両側には丈の低い潅木が生(は)えている。
無量坂(むりょうざか)と名付けられたこの坂は緩やかな坂道だが、ごろごろした大きな石が敷かれていて歩きにくい。
 霧が立ち込め、5m先が見えない。足元を見て歩く。

 不意に霧の中から3人の男女が現れた。50代くらいの夫婦と二人の娘さんと思われる若い女性だった。挨拶をして、「湯殿山から下りて来られたんですか」と聞くと、ご主人が、「いいえ、今、ちょっと登って来たんですが、もう降りようと話していたんですよ。」と笑いながら話す。二人の女性も明るく笑っている。
 そういえば山歩きの格好ではない。8合目まで車で来て、ふと思い立ってそのまま登ってきた、という様子である。
 3人の明るい雰囲気が、暖かい家庭と幸福な家族を想像させる。

 湿原に存在する小さな池である池塘(ちとう)が点在する。表面に氷が張っている。
 霧が少しはれてきた。後を振り返る。8合目より遥か下の集落が見える。森は青く、田圃は黄緑色に見える。水の中のような光景である。空はあいかわらず曇っている。

 崖の斜面に作られた細い急な道を登る。
 白装束を着け、金剛杖(こんごうづえ)を手に持った人たちに追いついた。年齢がさまざまな10人の男女である。大人に混じって小学生くらいの男の子も一生懸命に登っている。
 リーダーらしい60代くらいの男性が、「お先にどうぞ」と言ってくれたので、お礼を言って先に行く。

 学生らしい4人の若い男性が降りてきた。挨拶をして、「湯殿山から下りて来られたんですか」と、先ほどと同じことを聞く。先頭の男性が「いいえ、昨日、山頂の山小屋に泊まって下りるところです。」と答え、4人とも若者らしく軽い足取りで下って行った。

 9合目に着いた。ここまで約1時間かかった。
 道の右側に
仏生池(ぶっしょういけ)があり、左側に仏生池小屋が建っている。


(9合目〜頂上)

 20分程登る。「行者返し」と名付けられた急坂が立ちはだかっている。大小の岩に埋め尽くされている。山から土砂崩れがあった直後のように見えた。
 坂を登りきると砂と石と岩の道になる。左側は崖になっている。雨に濡れた石や岩に滑らないように気をつけながら登る。

 よく山登りをする人から聞いたことを思い出した。山道には浮石(うきいし)というグラグラした不安定な石があるからそれを踏まないように、という話だった。浮石を踏んで石とともに滑落するということも多いだろう。

 森鴎外(1862〜1922)の『山椒大夫』の中で、船頭が次のように語っている(目次20、平成15年11月1日参照)。

 「『山を越えると、踏まえた石が一つ揺(ゆる)げば、千尋(ちひろ)の谷底に落ちるような、あぶない岨道(そまみち)もある。』」

 昔から危険なこととして語られていたのだろう。

 一歩、一歩、足場を確かめながら登る。

 山頂のようなものが見えてきた。山頂に着くのはまだ早い、と思いながらそこまで登ると、その先に、また山頂のようなものが見える。
 その後も同じようなことを2回繰り返した。そこで気がついた。
 4年前の9月、月山の麓の
注連寺で、住職に「あれが月山ですよ」と教えられて眺めた月山の姿を思い出した(目次14、平成14年9月15日参照)。

 あのとき、森敦(1912〜1989)が『月山』に描いた「臥した牛の背のように悠揚として空に曳くながい稜線」の月山を眺め、瘤が三つほどあるのを見た。
 今、あの瘤の部分を登っているのだろう。
 また、森敦は、『月山』で次のように述べている。


 「月山は月山と呼ばれるゆえんを知ろうとする者にはその本然(ほんねん)の姿を見せず、本然の姿を見ようとする者には月山と呼ばれるゆえんを語ろうとしないのです。月山が、古来、死者の行くあの世の山とされていたのも、死こそはわたしたちにとってまさにあるべき唯一のものでありながら、そのいかなるものかを覗わせようとせず、ひとたび覗えば語ることを許さぬ、死のたくらみめいたものを感じさせるためかもしれません。」


 造られたばかりのような新しい木道が現れた。木道は上まで延びている。今度こそ頂上が近いようだ。
 二人の男性と一人の女性が下りて来た。三人とも若い。20代くらいである。いずれも白装束の姿である。木道が切れる所で三人は上を振り返り頭を下げた。

 石と砂だけの平らな広い場所に出た。1、984mの頂上に着いた。10時だった。8合目から約2時間かかった。
 風が強く霧が濃く立ちこめている。意外に人が多くいるようだが、濃い霧のために人の姿がはっきり見えない。石と砂だけの荒涼とした場所に立ち、霧のためにぼんやりとしか分からない人の動きを見ていると、「冥界」という言葉が一瞬、頭を掠めた。

 山頂小屋の前を通る。右側に、石垣に囲まれた月山神社が建っている。ここまでの無事のお礼とこれからの安全祈願のために参拝したかったが、立ち寄っていると遅くなるので遠くから掌を合わせる。


(頂上〜牛首)

 羽黒山は「現在」、月山は「死者が行くあの世の山」、湯殿山は「再生」といわれている。 

 芭蕉は、7月22日(太陽暦)に月山へ登った。


 「八日、月山に登る。木綿(ゆふ)しめ身に引きかけ、宝冠に頭(かしら)を包み、強力(がうりき)といふものに導かれて、雲霧(うんむ)山気の中に氷雪を踏みて登ること八里、さらに日月(にちぐわつ)行道(ぎやうだう)の雲関に入(い)るかと怪しまれ、息絶え身凍えて、頂上に至れば、日没して月顕(あらは)る。笹を敷き、篠を枕として、臥(ふ)して明くるを待つ。日出でて雲消ゆれば、湯殿に下る。」『おくのほそ道』


 私も、早速、湯殿山へ下ることにする。

 山頂小屋と月山神社の間の道を通る。石段があるが、その石段を見て吃驚した。
 ピラミッドの一辺のような急角度の石段が長く続いている。それも大小の石を寄せ集めて造ったと思われる石段で、一段の高さが普通の階段の二段分はある。
 ここで足を踏み外したり、滑ったりしたら自分だけの事故では済まず他人も巻き込んでしまう。
 幅は1、5m程ある。頂上にいた人たちが下りてくる。また、下からも大勢の人たちが上がってくる。できるだけ端に寄って一段づつゆっくりと下りる。

 石段を下りてから石畳が敷かれている平らな道を50m程歩く。

 牛首(うしくび)に着く。道が二つに分かれている。石碑が立っていて、「右 湯殿山に至る」と刻まれている。右の道を行く。
 頂上から下りてきた人たちは、皆、左の道を行く。また、人が、あとからあとから左の道から上がって来る。
 左の道は、上り下りが途中までリフトでできるようになっている。しかし、以前、地元の人に聞いたことがある。リフトで気軽に登ろうとするが、リフトを降りてから高低差が激しいのでかなり苦しい思いをする、という話だった。


(牛首〜避難小屋)

 緩やかな下り坂になるが、道幅が片足の幅くらいしかないから歩きにくい。右側は崖になっている。

 雲の切れ間から薄日が射した。ほっとして立ち止まり辺りを見回す。周りの風景を初めて見たような気がした。
 右手に
朝日連峰の山が重なり合い霧がゆっくりと上昇している。霧は下からも湧き起こる。

 陽が射した時間は僅かだった。陽は雲に隠れた。
 小雨が降り出した。これ以上の雨にならないように祈るような気持ちで歩く。

 金姥(かなうば)に着く。ここで、また道が二つに分かれる。指導標に従い右の道を行く。
 霧のために見通しは悪いが、平らな道が続き歩きやすい。沢が現れる。流れに入り反対側に渡る。

 道が下りになる。雪渓が見えた。あと1ヶ月も経たないで雪が降る。この雪渓の上にまた新しい雪が降り積むのだろう。
 沢が作るのか左手に湿原が広がっている。一叢(ひとむら)のニッコウキスゲ(ユリ科)が咲いていた。小雨が降り、霧に包まれていても濃い黄色のニッコウキスゲは、色鮮やかで美しく、光を発しているように見えた。

 プレハブ造りの避難小屋が建っていた。建物に沿って右へ回り建物の裏に出た。
 頂上からここまで約2時間かかった。


(月光坂)

 しばらく平坦な道を歩く。月光坂(がっこうざか)に着いた。
 月光坂は、標高差220mの急傾斜の岩場を、岩に固定された鉄梯子や鉄の鎖を伝って降りていく。
 以前、月光坂の鉄梯子を降りた人に様子を聞いていたので、これがそうなのか、遂にここまで来た、と思った。
 月光坂に着いたということは、湯殿山に近い所まで来ている。

 下を見下ろすと、山登りのグループと思われる複数の女性がちょうど鉄梯子を降りている最中だった。最後に60代くらいの男性が降りている。男性はグループの指導員のようである。

 怖じ気づいている場合ではない。ともかくここを降りなければならない。
 意を決して梯子を掴み足を乗せる。下を見ると恐怖で手足が痺れ、力が抜けるような気がしたので、目の前の岩肌だけを見る。梯子は雨に濡れている。しっかりと梯子を掴み一段づつ降りていく。頭からあらゆる想念を取り払い、確実に梯子に足を乗せることだけを考える。

 一つ目の梯子が終わり岩に降り立った。梯子はジュラルミン製であった。次の梯子を降りる。次もジュラルミン製である。

 二つ目の梯子も降りた。三つ目からは鉄梯子だった。三つ目の鉄梯子が終わる。四つ目の鉄梯子が横に固定されてあったので、体を横に移動し、梯子から梯子に乗り換える。梯子が終わると鉄の鎖を伝いながら少しづつ降りていく。

 また、鉄梯子が始まる。ほぼ垂直に架けられている梯子もある。
 結局、梯子をいくつ降りたのか今、思い出そうとしても思い出せない。六つか七つ降りたような気もするがはっきりしない。相当緊張していたのだろう。

 最後の梯子を降りて岩の上に立った。遥か遠い谷底に、湯殿山神社の御祓所の屋根が見えた。ああ、もうすぐだ、と思った。
 その時、先に降りていた指導員と思われる男性が、全員50代と思える8人の女性のグループに「ここで油断してはいけませんよ。まだまだ気を抜かないように。」と言っているのが聞えた。
 確かにそうだった。まだ急傾斜の道が下へ続いている。
 男性が振り返って私を見て、「お先にどうぞ」と言ってくれたが、私は、お礼を言って、「私もゆっくり降ります」と答えた。

 慎重に降りている間にグループの人たちは見えなくなった。
 岩の僅かの隙間に足の先をのせて両手も使い腹ばいになって少しづつ斜面を降りる。


(月光坂〜湯殿山神社)

 緩やかな坂道に出た。道幅は1m程である。右手の崖の下に梵字川(ぼんじがわ)が流れている。梵字川は、落合(おちあい)で大鳥川(おおとりがわ)と合流し、赤川(あかがわ)と名前を変える。

 ここでも気をつけなければならなかった。右手には、工事用のロープが掛けられているだけだった。雨で道がぬかるんでいる。滑って、ロープの下をすり抜けて崖下に転落することも考えられる。できるだけ左側に身を寄せて、ゆっくりと降りていく。
 坂道を下りきった先に湯殿山神社の御祓所が見えた。早く着きたいと逸る気持ちを抑えて歩く。

 そして、遂に御祓所の前に着いた。
 ああ、これで終わった! 長い間、気になっていたことが今、終わった! 歓喜のような感情が湧き起こる。

 時計を見ると午後1時だった。山頂から約3時間かかった。

 御祓所の前に芭蕉と會良の句碑が立っている。芭蕉の句碑には、『おくのほそ道』に収められている「語られぬ湯殿にぬらす袂(たもと)かな」の句が刻まれている。會良の句碑には「湯殿山(ゆどのさん)銭(ぜに)ふむ道の泪(なみだ)かな」の句が刻まれている。

 湯殿山神社は、4年前の10月に参拝した(目次15、平成14年10月13日参照)が、月山を越えて無事に湯殿山神社に辿り着いたことのお礼のために再度参拝しようと思った。
 参拝する前に御祓いを受けるが裸足にならなければならない。

 靴を脱いでいるときにすっかり忘れていた帰りのバスのことを思い出した。
 慌ててバスの時刻表のコピーを取り出して見る。
大鳥居の下から鶴岡行きのバスが出るが、午後1時30分発となっている。次のバスは午後4時35分になっている。ここから大鳥居までは約2キロである。既に30分を切っているが1時30分発のバスに乗ろうと思った。

 急いで靴を履きなおし石段を上がる。湯殿山本宮直務所の前に出る。ここから大鳥居の下まで参籠バスが往復している。下りのバスに連絡する参籠バスが上がって来るのだろうが落ち着いて待てなかった。大鳥居の下まで歩くことにする。
 下から上がって来る人たちと挨拶を交わしながら急いで歩く。

 停留所にバスは停まっていた。間に合った。バスに乗り込む。バスはすぐに発車する。

 バスは、田麦俣(たむぎまた)の集落を通る。4年前の9月に見学した2棟の「兜造り多層民家」を車窓から見る(「兜造り多層民家」については、目次14、平成14年9月22日、同月23日参照)。

 目的は達成できたが、天候に恵まれず、また、霧のために周りの風景を楽しむことはできなかった。もう一度、同じコースを歩こうと思う。山頂の山小屋に泊まり、登りも下りも、今日の2倍くらいの時間を掛けて、月山の1日の変化を楽しもうと思う。
 また、月山神社は月山のピークに建っているから、そのときは月山神社に参拝しようと思った。


・同年9月18日(月) (帰京)

 朝食後、ホテル最上階の10階にある大浴場で風呂に入る。
 雨は降っていないが曇っている。それに強い風が吹いているようだ。ホテルの前の欅の大木が大きく揺れている。

 9時30分に鶴岡発の羽越線の電車に乗り、余目(あまるめ)駅で陸羽西線に乗り換える。新庄駅で降りて11時14分発の山形新幹線に乗る、という予定を立てていたが、何となく落ち着かない。
 鶴岡発の電車を1本早くして8時58分に乗る。
 車内放送があった。「強風のため陸羽西線は不通」と言っている。驚いた。その後の案内がない。車掌が回って来たので尋ねると、「余目駅から代行バスを出します。」という説明があった。それで安心する。

 9時13分に余目駅に着く。待合室で待っていると代行バスが来た。バスに乗り一番前に座る。運転手は60代後半の男性だった。
 運転手が、道路マップを一心に見ている。道路が分からないんだろうか・・・・・・。不安になったので、失礼なことを聞いている、と思いながらも、運転手に「新庄を11時14分に発車する新幹線に間に合いますよね。」と尋ねた。電車だと余目から新庄までは約45分で行く。
 運転手は、「それは大丈夫ですよ。間に合いますよ。」と、笑いながら言ったので安心する。

 10分程経って乗客が定員の6割程になりバスは発車した。
 陸羽西線の各駅に寄り、客を乗せて行くようである。一つ目の南野(みなみの)駅に寄る。客はいない。

 次の狩川(かりかわ)駅へ行く間に私の不安は的中した。やはり運転手は道路に疎い人だった。左折して駅前に入るのだが、曲がる所が分からない。行き過ぎて後戻りする。窓を開けて道路沿いの八百屋さんの主人に駅までの行き方を聞いている。

 狩川駅を過ぎてバスは最上川沿いを走る。風力発電の白い風車が数多く立ち並び、風に勢いよく回っている。もともと、ここは風が強い所である。走っているバスの車体が風にゆらゆらと揺れる。

 清川(きよかわ)駅で乗客が増える。高屋(たかや)駅は無人の駅で行き止まりのような場所に建っている。ここへ着くまでに長い時間を費やした。
 古口(ふるくち)駅は分かりやすい場所にある。バスは、最上川に架かる古口大橋を渡り、最上川を右に見ながら走る。

 新庄駅までに無人の駅が三つ続く。バスは、また右往左往している状態であった。運転手は、「誰か分かる人はいませんか」と乗客に声をあげる。
 時間は、どんどん過ぎていく。どうして地理が分からない人に運転させたのか。また、運転を引き受けたのだろうか。

 「おはよう庄内往復きっぷ」は、帰りは羽越線と上越新幹線を利用することができる。羽越線の車内で陸羽西線が不通、の放送を聞いたとき、次の駅で鶴岡に引き返すべきだった。鶴岡から特急に乗り、新潟で上越新幹線に乗ったらよかったと後悔する。
 今日は、三連休の最終日だから新幹線はおそらく混むだろうと思った。指定席を確保している山形新幹線に乗ることだけを考えていたのは判断のミスだったと思う。

 新庄駅の一つ手前の升形(ますかた)駅に寄らないで通り過ぎた。運転手は、通り過ぎてから気がついたようだ。無線で、通り過ぎたことを伝え、客はいないと思うが確認してください、と話している。

 残りの時間を10分切って新庄駅前の商店街に入った。信号待ちがあり前に車が続いている。ここまで約1時間40分かかっている。
 11時14分発の新幹線に乗り遅れると、次は、2時間後の13時17分発になる。空いている指定席はないだろう。自由席も混むと思われる。
 他の乗客は、新庄に着きさえすればいい、と思っているようだった。私が新幹線の発車の時間を言ったから運転手は焦って運転したのではないだろうか。迷走を繰り返しながら、よく事故を起こさなかったと思う。

 バスが駅前に着いたのは、新幹線の発車の6分前だった。
 運転手は、降りる人たちに、すみません、すみません、と言っている。ありがとうございました。

 バスを降りてから走った。新庄駅は小さい駅だから改札口を走り抜けるとホームになる。ホームに停まっている新幹線に乗る。新幹線はすぐ動き出した。
 はらはらし通しの三日間であった。


・同年10月7日(土) 敦賀〜気比の松原

 敦賀駅を出て500m程歩き国道8号線を越える。港に向かって1、5キロ程歩く。港に着く。左へ曲がり旧い倉庫が立ち並ぶ通りを歩く。敦賀港に架かる港大橋を渡る。

 敦賀観光ホテルの玄関の右横に、享和2年(1802年)に立てられた石積みの州崎の高燈籠(たかとうろう)がある。
 横に立つ説明板に「当時は毎夜この燈籠に灯が灯され、出船、入船の目標として重要な灯台であった」と書かれている。

 500m程歩き笙の川(しょうのかわ)に架かる松島橋を渡る。満潮になっているようで、川の水が河口から上流に向かって速いスピードで逆流している。

 500m程歩き気比の松原(けひのまつばら)に着く。気比の松原は、静岡県清水市の三保の松原、佐賀県唐津市の虹の松原と並ぶ日本三大松原の一つである。
 観光案内所でいただいた説明書に次のように書かれている。
 気比の松原は、「古くは北陸の総鎮守府氣比神宮の神苑であった。」「敦賀湾に面した東西約1、5キロ、南北400m、面積は約40万u」「松の数は約17、000本。海岸では珍しくアカマツが約85%である。」

 松林の中に作られている遊歩道を歩く。
 松林の中を道路が横断している。道路は車がひっきりなしに走っている。排気ガスによる松の木への被害が心配になってくる。 

 海岸へ出る。気比の松原の中で海岸に近い場所は松原公園、海岸は松原海水浴場と名付けられている。
 松林に置かれているベンチに座り、美しい敦賀湾を眺める。


敦賀湾


松原公園


 右手に、美しい海と砂浜を眺めながら松林の中を30分程歩く。
 松林を抜けて、停留所「こどもの国」から敦賀駅行きのバスに乗る。敦賀駅から電車に乗り長浜駅で降りる。
北ビワコホテルグラツィエにチェックインする。2泊予約していた。


・同年10月8日(日) 南今庄〜木ノ芽峠〜敦賀

 朝、ホテルを出て長浜駅から電車に乗る。小雨が降っていた。車窓から雨の様子を見るが止みそうにない。敦賀駅に着いたときには本降りになっていた。電車は、敦賀駅を出て北陸トンネルに入る。
 長いトンネルを出たら雨は止んでいた。曇り空になり雲の切れ間から薄日が射している。



 南今庄駅で降りる。雨が止んだことにほっとして左へ曲がり鹿蒜川(かひるがわ)沿いに県道207号線を歩く。下新道の集落を通る。両側に旧い民家、神社、寺が建っている。
 2キロ程歩き上新道の集落に入る。北陸道の追分(分岐点)だった場所である。説明板が立っていて次のようなことが説明されていた。

 「奈良時代、都から越の国(北陸)に入る旅人は、必ずこの上新道を通った。敦賀から杉津(すいづ)を通って山中峠を越える。また、敦賀から木ノ芽峠を越えて、二ツ屋集落を経て、いずれもここへ出る。ここは追分口にあたる。」

 この道を真っ直ぐ行くと山中峠に至る。私は、二ツ屋集落を通って木ノ芽峠を越える予定であるから左へ曲がり北陸道を歩く。
 右側が崖になっている緩やかな坂を登る。左側は田畑が広がっている。2キロ程歩く。右側の崖がなくなり民家が現れた。二ツ屋の集落に入る。
 左側に「北陸道」の説明板が立っている。概略、次のように書かれていた。

 「北陸道は、平安時代の天長7年(830年)、開削された。北陸道の開通以後、二ツ屋は徐々に宿場として型を整え、江戸時代には大いに栄えた。天明年間(1781〜1788年)には、全戸46戸にて、問屋1戸をはじめ、旅籠屋5戸、茶屋5戸、人口は250人であった。」

 更に北陸道を通った歴史上の人物が列記されていた。

 「紀貫之、藤原為時、紫式部、道元、源義経、蓮如上人、新田義貞、足利尊氏、豊臣秀吉、松尾芭蕉、武田耕雲斎、水戸天狗党一行、明治天皇、岩倉具視」

 昔の二ツ屋集落は、ここよりもっと上に登った所に存在した。
 2キロ程歩く。民家も田畑もなくなり、両側は鬱蒼とした樹木が続く。右側に「往還一里塚跡」の記念碑が立っている。幅の狭い二ツ屋川が流れている。川に架かる橋を渡る。
 お地蔵さんと供養塔が立っている。ここから坂を登る途中、数多くのお地蔵さんを見た。両側は杉林になり辺りが暗くなった。






 「二ツ屋宿場跡」の記念碑が立っている。その後、「制札場跡」、「明治天皇行在所跡」、「問屋跡」の碑を見た。

 2キロ程歩く。道が二つに分かれる。案内板を見て木ノ芽峠方面の右の道を行く。急坂になる。
 更に2キロ程歩く。今庄365スキー場の前に出た。ゲレンデとリフトの鉄塔が見える。手前の、やはりゲレンデと思われる急斜面の中央に造られている道を登る。

 半分ほど登って、右手に、「北陸道」の案内板が立っているのを見つけた。斜面を横切って案内板に従って登る。道は幅が狭く草に覆われて歩きにくい。30分程登り笠取峠に出た。
 笠取峠について、説明板に次のように書かれていた。

 「奈良時代から藩政時代にかけて多くの旅人や武士がここを越えて行った。この峠にさしかかると鉢伏山方向から吹きつける北西の強風に悩まされ、馬子、人足を先頭に、笠が飛ばされないように気を配りながら淡雪をかきわけ踏み固めて歩いた難所の一つであった。」

 確かに風が強い。曇って湿度が上がっているときに急坂を登ってきたので汗をかいていた。汗ばんだ体に当たる風が心地よく、しばらく休んでいた。

 笠取峠から木ノ芽峠へ行く道が分かりにくかった。昔の石畳が僅かに土から露出して、それが叢の間から見える。その石畳を目印にして登る。石畳がなかったら道に迷っていたと思う。
 ゲレンデと思われる広い斜面のある場所に出た。そこを横切る。石畳はなくなったが一本道になり道に迷う心配はなくなった。20分程登り
言奈(いうな)地蔵の前に出た。


言奈地蔵


 弘法大師の作といわれるお地蔵さんが茅葺のお堂に収められている。お地蔵さんは、高さ1m程の岩に彫られている。白い岩に繊細な線で浮き彫りにされて、気品のある面差しをしている。

 お堂の左手に、「言うな地蔵のいわれ」と書かれた説明板が立っている。大要、次のことが書かれていた。


 「このお地蔵さまは弘法大師であるという。
 昔、大金を所持した旅人を乗せて、この峠を越えた馬子があった。馬子はその旅人を殺して金を奪ったところ、地蔵の面前であったことに気づき、『地蔵言うな』とひとり言を言った。すると地蔵は、『地蔵言わぬがおのれ言うな』と言った。言い返された馬子は感きわまって改心し、善人に立ち返った。
 その後、年を経て再びこの峠を越えた時、若い旅人と道連れになり、地蔵の前に来た。馬子が霊験あらたかな地蔵であることを告げると、旅人はそのいわれを問うた。馬子は、先年の悪事を語り、その後の次第を告げた。
 この旅人こそ先年殺された旅人の息子で、親のかたきを尋ね歩いていたのである。
 息子は、このような山中でかたきを討つよりはと思い、共に敦賀まで出てから名乗りをあげて討ち取ったとのことである。」


 お堂の右手に、山から引いた水が流れ落ちている。両手に受けて飲む。冷たくておいしい。

 しばらく平坦な道を歩く。その後、道が上りになり30分程歩く。標高628mの木ノ芽峠が見えてきた。左手に見える茅葺の家は、峠の茶屋だった建物である。






木ノ芽峠


 ところが、峠に近づいて行くと、家の前に大型の犬が二匹座っているのが見えた。白い犬と黒い犬である。私を見て白い犬が立ち上がり走って来て吠え立てる。白い犬は、顔半分怪我をして見るからに獰猛な顔付きをしている。
 放し飼いにしている・・・・・・。これでは近づけない。一旦、崖を降りて別の道から近づいて行くが、犬は回って来て吠え立てる。もう一匹の犬も吠え始めた。
 雨が降ってきた。二匹の犬は吠え続ける。

 木ノ芽峠は、北陸道の中で最も難所と言われた所であり、それだけに奥の細道にとって大事な所である。せっかくここまで来て峠を迂回するわけにはいかない。何としてでもここを通らなければならない。
 そう思ったとき、家の中から人が出て来た。この家の主人らしい60歳前後の男性である。
 犬を制してもらって、その間に急いで峠を越える。峠の右手に、木ノ芽峠の石碑と道元禅師の碑が見えたが、立ち止まってそれらを見ている場合ではなかった。

 昔の石畳が残る道を下る。急な坂で、しかも石が雨に濡れているので滑らないように気をつけて慎重に下る。
 石畳がなくなったら、もっと歩きにくくなった。右側は、沢になっている。道が片足の幅くらいしかない。その細い道には水が流れている。
 約6mの幅で土砂崩れがあり、そのままになっている所に出た。その間は道がなくなっている。土砂の斜面に腹ばいになって両手、両足を使い、道がある所までゆっくりと移動する。登山道の方が歩きやすいのではないかと思った。

 少し道が広くなった。右手に沢を見ながら歩く。歩いて右足を地面に置こうとして、ふと足元の叢を見たら、叢の間から沢の流れが見えた。危ない! 咄嗟に左に飛びのいた。
 崖崩れがあり、わずかに草だけが残っていたものと思われる。右足を下ろしていたら足は空(くう)を踏み沢に転落していたことだろう。

 この北陸道は、今から約1170年前に開通した。おおぜいの旅人が行き交い賑わったことだろう。歴史に名高い人物もこの道を歩いた。その由緒ある「歴史の道」が消滅しようとしている。

 できるだけ体を左側に寄せて歩く。はらはら、どきどきしながら30分程歩いた。幅1m程の道に出た。ほっとした。
 道の真ん中に木の枝が落ちている、と思ったら、それがズルズルと動いた。蛇だった! 60センチ程の蛇が沢の方に移動した。雨が止み気温が上がったので叢から出て来たと思われる。蛇を見た気味の悪さがいつまでもあとに残った。

 先ほどの顔を半分怪我していた白い犬を思い出した。あの怪我は、熊に襲われたのではないだろうか。そのため、二匹の犬を放し飼いにしているのではないかと思った。

 30分程下り国道476号線に出た。左側に木ノ芽川が流れている。右側の崖の上にススキが茂り、どこまでも続いている。ススキの穂は、午後の陽を浴びて銀色に輝いている。

 新保、葉原、獺河内、樫曲の集落を通り、6キロ程歩く。北陸自動車道の下を潜る。2キロ程歩き敦賀駅に着く。


・同年10月9日(月) 長浜

 朝、ホテルを出る。
 ホテルと長浜駅の間に日本最古の駅舎が当時のままの場所で保存されている。明治15年(1882)竣工の
旧長浜駅舎(現・長浜鉄道スクエア)である。
 長浜と柳ヶ瀬間で鉄道が開通した明治15年3月10日の同じ日に敦賀線(北陸線)の始発駅として駅舎も完成した。


旧長浜駅舎(現・長浜鉄道スクエア)



 イギリス人技師・ホルサム(生没年不詳)が設計し工事を監督した。
 木骨石灰コンクリート造、2階建。四隅の角は花崗岩の切石を積み、窓枠と出入り口は煉瓦を使っている。

 公開されている1階を見る。出札室、一、二等待合室、三等待合室、駅長室等が保存されている。西洋館の駅舎の玄関を入り改札してもらって陸(おか)蒸気に乗り込む人たちは、晴れがましい気分になったことだろう。
 案内書によると、蒸気機関車は明治14年(1881年)にイギリスのキットソン社が製造したもので後の1800形、という説明がある。

 長浜鉄道文化館と北陸線電化記念館が併設されている。
 長浜鉄道文化館は、鉄道模型や駅で使われていた時計等が展示されている。人の手によって操作する腕木式信号機が使われていたが、腕木の見えない夜はランプの色で示していた、という説明文が掲示されていた。

 北陸線電化記念館には、黒光りするD51形793号機蒸気機関車とED70形交流電気機関車が展示されている。

 明治36年(1903年)、200m程離れた現在の長浜駅の場所に新しい駅舎が完成して旧長浜駅舎は役目を終えた。

 旧長浜駅舎を出て左へ曲がる。北陸本線の線路を越えて200m程歩く。米川という小さな川に架かる橋を渡る。右側は白壁の蔵を持つ町屋が建ち、左側は舟板塀(ふないたべい)の民家が並ぶ通りに入る。
 舟板塀は、琵琶湖の舟運に使用した舟の廃材を板塀に転用したものである。


舟板塀


 旧長浜駅舎が完成した明治15年から、長浜と大津を結ぶ蒸気船が連絡船として琵琶湖を就航した。7年後の明治22年(1889年)に長浜と大津が鉄道で結ばれると連絡線は廃止された。

 通りを出て北国街道に入る。
 北国街道は、中山道鳥居本宿を起点として近江と北陸を結ぶ重要な街道であり越後まで続いていた。通りの両側に、連子(れんじ)格子や虫籠窓(むしこまど)を持つ家が並ぶ。

 





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