14 大日坊 注連寺 田麦俣 (寄り道)


・平成14年9月14日(土) 鶴岡

 山形新幹線に乗り新庄駅で降りる。陸羽西線に乗り、余目駅で羽越線に乗り換える。鶴岡駅で降りる。

 9月初めに左足小指を裂傷する怪我をした。骨や関節に異状はなかったが五針縫う怪我だった。その後、抜糸は終わったが月山に登るのは来年に延期した。

 駅前の鶴岡ワシントンホテルで昼食を摂る。ゆっくりコーヒーを飲んで休む。食後、駅の観光案内所へ行き、観光パンフレットをいただいて駅の待合室で見る。
 チェックインの時間になったので東京第一ホテル鶴岡へ入る。2泊予約していた。


・同年9月15日(日) 大日坊 注連寺 (寄り道)

 朝、鶴岡駅前を9時17分に発車する湯殿山行きのバスに乗る。
 まだ先になると思っていたが、月山に登るのを延期したため、長い間待ち望んだ注連寺を今日訪ねる。

 バスは、鶴岡市の市街地を抜け、朝日村に入る。山が近づく。赤川の上流に向かって川沿いにバスは走る。赤川は幅広く、大河の風格を漂わせて流れる。落合で川は二つに分かれ、大鳥川(おおとりがわ)と梵字川(ぼんじがわ)に名前が変わる。梵字川沿いにバスは行く。

 上名川から深い山の中に入り、バスは山間を登って行く。窓から梵字川の美しい渓谷が見える。

 50分程で停留所「大網(おおあみ)」に着く。バスを降りる。
 先に
大日坊(だいにちぼう)を訪ねる。バスが去ったあとの道路を100m程歩く。案内板を頼りに大網小学校の角を左へ曲がり、田畑の間の坂道を登る。

 よく晴れて空は青く、爽やかな風に鮮やかな色のコスモスが揺れている。美しい秋の日である。

 30分程で湯殿山総本寺大日坊金剛院瀧水寺(りゅうすいじ)に着く。
 石段を登り、明るい日差しの下に建つ茅葺の仁王門を潜る。仁王門は、鎌倉時代に建立されたもので、山形県指定有形文化財になっている。
 田圃の間の細い道を通り急な石段を登る。本堂の前に出る。


大日坊 仁王門


 本堂へ入り、須弥壇の前で、住職が語る法話を伺う。法話が終わり、別室に案内され、即身仏(そくしんぶつ)を拝観する。
 真如海上人(しんにょかいしょうにん)は、天明3年(1783年)96歳で生きながらにして土中に入定(にゅうじょう)、3年3ケ月後の天明6年(1786年)即身仏となる。
 ミイラの姿の即身仏は、厨子に安置されている。烏帽子をかぶり、法衣をまとい、入定した時と同じ姿勢で座り、俯いている。やや背中が曲がり、傾いでいる。生きたまま土中に入るという行為のすさまじさに圧倒される。

 大日坊を出て、バスの停留所「大網」に戻る。注連寺へ向かう。電信柱に「七五三掛(しめかけ)」と表示されている。集落の名称である。森敦の『月山』の主人公も停留所「大網」でバスを降り、七五三掛の注連寺を訪れる。「大網」、「七五三掛」の文字を見ただけで胸が熱くなる。

 六十里越街道(ろくじゅうりごえかいどう)へ入る。六十里越街道は、庄内の鶴岡と内陸の山形を結び、奈良時代に開かれたと伝えられている。湯殿山参詣の道であった。



 藪の中にヤマブドウが見える。一叢の萩が赤い小さな花を付けている。ススキの原の前を通る。陽を浴びて、一面、銀色に輝いている。日差しに夏とは異なる優しさが感じられる。
 道は登りになり、左右に大きくカーブする。道路下に牧草の貯蔵所と思しき太い換気筒を持つ旧い建物がある。
 40分程歩いて、高台の杉木立の向こうに注連寺の屋根が見えた。

 注連寺(ちゅうれんじ)の石段の下に着く。杉木立の間の石段を登り、真言宗湯殿山派注連寺の本堂の前に立つ。本堂は、想像していた以上に壮大で雄渾な建物である。


注連寺 本堂


 本堂へ入る。40歳前後と思われる若い住職の法話を伺う。
 七五三掛は、昔、殆どの家が湯殿山詣りの人のための宿坊を営んでいた、という話から始まり、寺の歴史を語る。終始ユーモアを交え、仏教の教えも解りやすく語られる。

 法話が終わり即身仏を拝観する。厨子に安置されている鉄門海上人(てつもんかいしょうにん)は、文政12年(1829年)入定する。
 部屋を移動する。境内に大きく枝を広げている七五三掛桜の説明がある。樹齢200年、種類はカスミザクラ、高さ15m、枝の広がりは周囲17m程で、花は咲き始めは白く、散る頃にピンク色に変化する。見頃は、5月の連休頃ということである。桜の木の下に石地蔵が座っている。

 最後に案内された部屋で、住職が、遥か遠くに見える山の方角に手を伸ばし、「あれが月山ですよ」と教えてくれた。
 森敦が『月山』で、「臥した牛の背のように悠揚として空に曳くながい稜線」と書いた月山の姿は、確かに牛の背のようになだらかで、瘤が三つ程見える。

 ああ、私は、注連寺を訪ね、森敦が描いた月山を見る、という長年の希望を、今、実現することができた。昭和49年、26歳の時『月山』を読み、注連寺と月山に憧れた私は、28年を閲し54歳になっていた。

 森敦(1912〜1989)は、昭和26年、注連寺を訪れる。講演集『十二夜 月山注連寺にて』の「講演 第七夜 楽しかりし日々」の中で、「ここに上がって来たときは、ちょうど初夏のころ」と語っている。
 庫裏の2階で起居する。夏を涼しく過ごし、周りの美しい紅葉を見たので帰ろうとしていると、食事の世話をしてくれた寺守に、雪を見て帰るようにと引き止められる。そのうちに吹雪が始まり、豪雪になり、雪解けまで動けなくなる。

 雪に閉ざされた世界から『月山』が生まれた。
 『月山』の主人公は、為すこともなく日々を過ごす。生と死に思いを巡らし、思考の中心に死者が行くあの世の山と言われている月山が現れる。
 畳の上に雪が薄っすらと積もり、炉端にいても粉雪が舞い込む。寒さに耐えかねて、和紙を綴じた古い祈祷簿をバラバラにほぐし、角材に糊付けして、8畳近い紙の蚊帳を作る。


 「ともすれば放棄したくなるみずからを勇気づけていましたが、なんとか目ばりが終わって糊が固まって来ると、次第に仕事がしやすくなったばかりか楽しみにさえなって来ました。しかも、でき上がってみると想像以上に居心地がいいのです。天井から蚊帳へと小さな穴をつくって引き入れた電球をつける。ただそれだけでも、中は和紙の柔和な照りかえしで明るさが満ち、電球のあたたかさとわたし自身のぬくもりで、寒さというほどの寒さもありません。それはもう曠野の中の小屋などという感じではなく、なにか自分で紡いだ繭の中にでもいるようで、こうして時を待つうちには、わたしもおのずと変成して、どこかへ飛び立つときが来るような気がするのです。」


 清冽な文章の中にあって、一際(ひときわ)光彩を放っている。

 春になり、主人公は、迎えに来た友人と共に注連寺を去る。

 境内の一隅に、文学資料館として、2階建ての森敦文庫が建っている。宝形造(ほうぎょうづくり)の清楚な建物である。中に入る。『われ逝くもののごとく』等の著作の原稿、森敦の写真が展示されている。
 観光バスが境内に入って来た。30人程が降りて本殿に入る。乗用車も入り家族連れが降りる。車は後から続いて入って来る。

 境内に月山文学碑が立っている。巨大な自然石に「月山 すべての吹きの寄するところ これ月山なり」の言葉が森敦の自筆で刻まれている。吹きは、吹雪のことである。

 本堂にもう一度入る。受付にいた60代と思われる女性に、『月山』の中に書かれている「セロファン菊」というのはどんな菊ですか、と尋ねる。女性は、「今、咲いてますよ」と言って立ち上がり、境内の中の花壇を指し示す。「切って、差し上げましょう」と、思いがけないことを言われたが、旅行中のため、ご好意だけをいただく。
 「イトコ煮が出てたでしょう」と言って笑う。『月山』に、イトコ煮という、人参、南瓜、小豆を寄せた煮物が登場する。

 住職が近づいてきて、「鶴岡行きのバスは本数が少ないから誰かの車に乗せてもらった方がいいですよ」と親切な言葉がある。お礼を言って、「ゆっくり見せていただいてバスで帰ります」と話す。  

 帰りに、花壇で「セロファン菊」を見る。長い茎にもかかわらず、折れたり、曲がったりということもなく、鮮やかな色の菊が風に揺れている。


『月山』でセロファン菊と呼ばれている菊



・同年9月16日(月) 鶴岡

 朝、ホテルの大浴場で風呂に入る。

 ホテルを出て右へ曲がり、1、5キロ程歩く。庄内藩家老末松十蔵の屋敷跡に建つカトリック鶴岡教会に着く。
 フランス人パピノ神父の設計により、明治36年(1903年)建設された。昭和54年、国重要文化財に指定される。

 武家屋敷の名残を留める門を潜って、木造の教会の前に立つ。正面入り口の白亜の高い鐘楼と赤い屋根が明るい印象を与える。
 聖堂の扉が開いている。聖堂に入る。天井は、リブ・ヴォールト(こうもり傘天井)を架け、静けさの中に優雅な雰囲気を醸し出している。


カトリック鶴岡教会


・同年9月21日(土) 酒田

 山形新幹線に乗り新庄駅で降りる。陸羽西線に乗り換え酒田駅で降りる。

 駅を出て200m程歩く。八雲神社の角を左へ曲がり、600m程歩いて、バスの停留所「大通り商店街」の先を右へ曲がる。1キロ程歩き、日和山(ひよりやま)公園の手前の右側の坂を登る。真言宗智山派(ちさんは)海向寺(かいこうじ)に着く。

 即身仏が2体安置されている。即身仏堂に入る。忠海上人(ちゅうかいしょうにん)は宝暦5年(1755年)58歳で入定、円明海上人(えんみょうかいしょうにん)は文政5年(1822年)55歳で入定する。
 先週9月15日(日)に注連寺で拝観した即身仏の鉄門海上人は海向寺の8代住職であった、と説明がある。

 拝観する時にいただいた案内書に、「海号」について次のように解説されている。
 「即身仏のお名前の『海(かい)』という字は、真言宗の開祖弘法大師『空海』の徳を慕って用いたもので、『海号(かいごう)』と呼ばれている。」

 酒田駅に戻る。羽越線に乗り鶴岡駅で降りる。
 
東京第一ホテル鶴岡にチェックインする。2泊予約していた。


・同年9月22日(日) 田麦俣(寄り道)

 朝、鶴岡駅前を9時17分に発車する湯殿山行きのバスに乗る。

 先週、9月15日(日)に降りた停留所「大網」を通り過ぎる。右手に月山ダムが見えてきた。停留所「田麦俣口」の辺りから道路は下り坂になり、バスは谷間に下る。鶴岡から1時間程乗り停留所「田麦俣」で降りる。バスは、ユー・ターンして坂を登って行く。

 田麦俣(たむぎまた)の集落は、六十里越街道の宿場であった。
 豪雪地帯に適した多層民家が、明治に入って養蚕を行うようになり、屋根に兜(かぶと)を載せたような
「兜造り多層民家」に改造された。茅葺の「兜造り多層民家」が田麦俣に2棟残っている。

 1棟は「かやぶき屋」と言う名前で民宿を営んでいる。もう1棟の旧遠藤家住宅は一般公開されている。

 「かやぶき屋」でチケットを買い、旧遠藤家住宅の中へ入る。
 案内書によると、旧遠藤家住宅は江戸時代後期に建てられている。築200年を超えている。1階は家族の居住用、2階は作業場、3階は養蚕に使われていたと説明されている。昭和49年、県有形文化財に指定されている。
 1階から3階まで、梯子段を登り降りして見学する。農機具、民具が展示されている。

 急な坂を20分程登る。「七ッ滝(ななつだき)公園」に着く。この公園から遠くに七ッ滝が見える。滝は、高さ90mを2段に分かれて落ちる。糸のように細い流れが広がる。優美な滝である。

 坂を下り、バスの停留所「田麦俣」を通り過ぎ、次の停留所「田麦俣口」まで歩く。鬱蒼とした樹木の下を歩く。登り坂になる。節をくり貫いた竹から山の水が勢いよく流れている。コップが置いてある。迸る水をコップに受けて飲む。冷たくておいしい。
 40分程歩いて停留所「田麦俣口」に着く。鶴岡行きのバスを待つ。


・同年9月23日(月) 鶴岡

 朝、ホテルを出て右へ曲がり2キロ程歩く。鶴岡公園(鶴ヶ岡城跡)に隣接する致道(ちどう)博物館に着く。
 鶴ヶ岡城の三の丸があった場所に開設された致道博物館は、山形県内の古い建物を移築、保存している。

 昨日、田麦俣で見た茅葺の「兜造り多層民家」が移築されている。
 文政5年(1822年)建築の
旧渋谷家住宅は、昭和40年、田麦俣から移築された。昭和44年、国重要文化財に指定されている。
 元は寄棟造りであったが、養蚕のための採光と通風の必要から妻側の屋根を切り上げ、窓を造り、屋根が兜を載せたような形になった。平(ひら)側も採光と煙出しのための窓を造っている。


旧渋谷家住宅(兜造り多層民家)

 明治14年(1881年)建築の旧西田川郡役所は、昭和47年移築された。昭和44年、国の重要文化財に指定されている。
 木造2階建、玄関ポーチ、バルコニー、塔屋、時計塔を持つ擬洋風建築である。明治天皇が東北御巡幸のおり行在所(あんざいしょ)となった建物である。

旧西田川郡役所 玄関ポーチ

 明治17年(1884年)建築の旧鶴岡警察署庁舎は、昭和32年に移築された。県指定文化財となっている。
 木造2階建、玄関ポーチ、バルコニーを持つ擬洋風建築である。正面からは見えにくいが、2階の方形屋根の中央に塔を載せている。旧西田川郡役所と共に大工棟梁高橋兼吉(かねきち)(1845〜1894)の建築である。


旧鶴岡警察署庁舎


玄関ポーチ バルコニー





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