11 新庄〜古口〜狩川〜羽黒町〜鶴岡


・平成13年9月22日(土) 新庄〜古口 高屋〜狩川

 新幹線に乗り新庄駅で降りる。8月に歩いた同じ道を逆の方向へ2キロ程歩き国道47号線に入る。両側に広がる稲田は黄金(きん)色に色づき、刈り入れの時期が近づいている。6キロ程歩き、新田川に架かる橋を渡る。
 国道47号線を離れ国道458号線を歩く。1キロ程歩き、
最上川の川岸の本合海(もとあいかい)に着く。芭蕉は、ここから清川まで最上川を舟で下った。
 最上川はここで大きく向きを変える。


最上川


      五月雨(さみだれ)をあつめて早し最上川(もがみがわ)


 国道47号線に戻り、最上川に架かる本合海大橋を渡る。対岸に、天正年間(1573〜1592)に城(楯)が築かれていた八向楯(やむきだて)の樹木に覆われた断崖絶壁が見える。新庄市の指定史跡となっている。


最上川と八向楯


 爽やかな秋風が吹き、銀色に光るススキの穂が揺れ、トンボがあちらこちらで飛んでいる。

 最上川の美しい流れと対岸の最上峡を右に見ながら6キロ程歩く。陸羽西線の線路の下を潜り1キロ程歩く。古口(ふるくち)に着く。
 古口から高屋の先の草薙温泉まで最上川の舟下りができる。川岸に面した乗り場の入り口の建物は、戸澤藩船番所を模して造られている。
 冬に舟下りを予定しているので、舟下りの区間の古口から高屋までは電車で移動する。

 500m程歩き、陸羽西線の古口駅に着く。電車に乗り、一つ目の高屋駅で降りる。
 駅を出て坂を下り、右に最上川を見ながら陸羽西線の線路沿いに国道47号線を歩く。2キロ程歩く。最上川の対岸に
白糸の滝が見えてきた。最上峡に生える杉林の間から、落差120mの高さを落下する滝が見える。

 3キロ程歩き、立谷沢川(たちやざわがわ)に架かる東雲橋を渡る。500m程歩き清河神社に着く。隣接して清河八郎記念館が建っている。

 清河八郎(本名・斉藤正明)は、天保元年(1830年)10月、出羽国庄内領清川村(現在の東田川郡庄内町)の醸造業を営む斉藤家の長男として生まれる。16歳で江戸に出て、昌平黌及びその他の私塾で研鑽を積む。一方、千葉周作の千葉道場玄武館に入門し、剣の稽古に励む。文武両道に秀でる。
 24歳の時、塾を開設する。出身地の地名から「清河塾」と名付ける。以後清河八郎と名乗る。千葉道場から北辰一刀流の免許皆伝を受ける。

 欧米諸国、ロシアから開国を迫られ、安政の大獄、桜田門外の変が起きた時代に生きて、国を憂い尊王攘夷の思想を持つ。後に倒幕を企て、奔走し、時には潜伏して同士を募る。
 文久3年(1863年)4月、麻布一ノ橋に於いて、幕府が放った刺客に斬られる。

 記念館に入る。清河八郎の詩、手紙、日記等が展示されている。書は彼の生涯にふさわしく躍動感に溢れている。
 志半ばにして倒れ、無念の思いを残したであろう清河八郎を祭神とする清河神社は、昭和8年(1933年)5月に創建された。

 500m程歩く。清川小学校の裏は清川関所跡であり、芭蕉が舟から上陸した所である。「五月雨を」の句碑と芭蕉の像が立っている。

 国道47号線を歩く。緩やかな登りになり、最上川を見下ろすようになる。2キロ程歩き、大きく右に蛇行する最上川と別れる。国道47号線とも別れ左へ曲がる。陸羽西線の線路を越える。2キロ程線路沿いに歩いて狩川駅に着く。

 狩川駅は、業務を委託しているようで、電車が発着する時間に近所の主婦と思われる人が事務室に入って来た。ホームで電車を待っていると、その女性がホームに入って来て、昨日、鳥海山に初冠雪があったんですよ、と言う。教えられた方角の遠くに、頂上付近が雪に覆われている鳥海山(2、236m)が見えた。

 新庄駅に戻る。駅の近くのホテルにチェックインする。2泊予約していた。


・同年9月23日(日) 狩川〜羽黒町

 新庄駅から陸羽西線の電車に乗る。電車は、古口駅の手前から最上川と平行して走る。

 狩川駅で降りる。駅前の広い道を通る。旧い建物が多い。板塀を巡らした広大な屋敷がある。
 1キロ程歩き旧道に入る。秋の穏やかな日差しの下、黄金(きん)色に輝く稲田の間を歩く。



 山崎、添津、三ヶ沢の集落を過ぎ4キロ程歩く。藤島町に入る。添川の集落を過ぎて3キロ程歩く。

 きれいな道に出る。掃除が行き届いていると感じた。羽黒町手向(とうげ)のこの道は、羽黒山、月山、湯殿山へ続いている。左へ曲がる。バスの停留所があり、「羽黒案内所」と表示されている。
 両側に、羽黒山、月山、湯殿山の出羽三山の参詣者が宿泊する宿坊が整然と並んでいる。茅葺の宿坊も多い。門と玄関に注連縄(しめなわ)が張られている。現在36の宿坊がある。


宿坊 宿坊


 500m程歩き、黄金堂(こがねどう)に着く。羽黒山正善院(しょうぜんいん)黄金堂は建久4年(1193年)に建立され、文禄2年(1593年)に修復された。国重要文化財に指定されている。

 緩やかな登り坂になる。500m程歩く。山伏が宿坊を営んでいた名残だろうか、「大進坊」、「太田坊」、「薬師坊」等殆どの宿坊が「坊」という名前である。それぞれ受け入れる地域が決まっているようで玄関に表示されている。「真田延命院」では、青森県全域、岩手県九戸郡、久慈市、二戸郡、二戸市、旧東磐井郡と表示されている。

 静かな通りを歩く。建物が途切れると杉並木があり、その向こうには畑が広がっている。笹の葉擦れの音が聞える。歩いているだけで落ち着いてくる。



 礼拝の場所が信者によって丁寧に清掃され美しく整えられるように、宿坊街の道路や建物の周りは隅々まで掃き清められ、庭木の手入れがなされている。
 簡素で清らかな中に、健やかな生活の営みを感じる。
 

 真正面に月山(1、984m)が見えた。ついに月山を見ることができた。

 500m程歩き、バスの停留所「羽黒センター」に着く。ここから先は、10月に歩くことにするので、鶴岡行きのバスに乗る。バスは道路に架かる朱塗りの大きな鳥居を潜る。バスの窓から月山が見える。
 鶴岡駅で羽越線に乗り余目(あまるめ)駅で降りる。陸羽西線に乗り換え新庄駅に着く。ホテルに戻る。


・同年9月24日(月) 肘折温泉(寄り道)

 新庄駅の駅前から「肘折(ひじおり)温泉」行きのバスに乗る。
 バスは、一昨日歩いた本合海を通り、山を登って行く。途中最上川に架かる橋を渡り、山と谷を越える。そば畑の間を走る。一面に白い小さな花が咲いている。
 肘折トンネルを抜けると、眼下に肘折温泉の温泉街が見えてきた。周りを山に囲まれている。

 狭い道に旅館や土産物屋の旧い建物が並び、庇を擦るのではないかと思うような狭い場所にバスは入って行く。約1時間で着いた。
 共同浴場の
「上(かみ)の湯」に入る。炭酸泉で、お湯は柔らかく温い。

 共同浴場を出て、温泉街の横を流れている銅山川の傍で休む。
 ここから月山が見える筈であるが、雲がかかっていて見えなかった。森敦の
『月山』の冒頭にあるような月山が見えることを期待して来たが、期待は叶えられなかった。

 旅館の旧い建物や看板を見る。



 旧肘折郵便局は、昭和12年建築の木造2階建てである。ガラス窓の桟、入り口上部の欄間のガラスの桟に逓信省の「〒」のマークを使っている。 


旧肘折郵便局



 バスで新庄駅に戻る。
 駅前の食堂で「納豆汁」を食べる。味噌仕立てで、具は、刻んだ納豆、豆腐、油揚げ、コンニャクである。どろっとした中に入っているそれぞれの具の味がおいしい。寒い冬には体が暖まるだろうなと思う。店の人が、茹で上がったばかりの枝豆を鉢に山盛り出してくれた。ありがとうございました。

 新庄駅から新幹線で帰る。


・同年10月6日(土) 羽黒町〜鶴岡

 山形新幹線に乗り新庄駅で降りる。陸羽西線に乗り余目駅で降りる。羽越線に乗り換え鶴岡駅で降りる。
 鶴岡駅から「羽黒山頂」行きのバスに乗る。「羽黒案内所」で降りる。

 右へ曲がり路地に入る。路地を通り杉林の中を歩く。暗い杉林の中を15分程歩き杉林を抜ける。手向バイパスを横切り15分程坂を下る。幅3m程の川が現れる。きれいな水が流れている。

 突然、小鳥が急降下して、くちばしを水につけたと思ったら、さっと上昇して飛び去った。コバルト色が見えた。あれは「渓流の宝石」と呼ばれるカワセミに違いない。

 川沿いに歩き、曹洞宗国見山玉川寺(ぎょくせんじ)に着く。
 玉川寺は、建長3年(1251年)に開山された古刹である。
 山門の手前右側は竹林になっている。山門と両側の杉並木が端正な印象を与える。山門を通る。正面に本堂がある。


玉川寺


山門


本堂 本堂


 本堂右手の、庭園入り口と表示された建物に入り、座敷に通される。目の前に森閑とした庭園が広がる。巧みな作庭により自然を取り込んでいる。



 室町時代(1450年代)に作庭が始まり、江戸時代(1640年代)に改修された、昭和62年、国の文化財「名勝」に指定された、と案内書に書いてある。

 和菓子を食べ、抹茶を味わいながら庭園を観賞し、ゆっくり休む。
 玉川寺は、四季の花が楽しめるので、「花の寺」と呼ばれている。


  

 玉川寺を出て右へ曲がる。大きな鳥居が見える。その鳥居を目指して畑の間の道を歩く。15分程歩いて鳥居の下に着く。
 高さ22、5mの両部鳥居は昭和4年に寄進されたものである。


大鳥居


 庄内平野の向こうに聳える月山を左手に見ながら鶴岡へ向かって歩く。7キロ程歩き、赤川に架かる羽黒橋を渡る。右へ曲がり国道112号線を歩く。2キロ程歩き、内川に架かる内川橋を渡る。左へ曲がり国道345号線を歩く。2キロ程歩いて鶴岡駅に着く。駅の近くの東京第一ホテル鶴岡にチェックインする。2泊予約していた。

 ホテル最上階の10階に大浴場がある。天然温泉となっている。鶴岡市内の夜景を見ながら風呂に入る。シンプルな造りだから寛げる。


・同年10月7日(日) 羽黒山

 鶴岡駅前からバスに乗り「羽黒センター」で降りる。

 随神門(ずいしんもん)を通る。ここから羽黒山頂まで2、446段の石段が始まる。両側が杉林の間に、継子坂(ままこざか)の下りの石段が続いている。10分程かかって下まで降りる。


随神門


 月山を源流とする祓川(はらいがわ)に架かる朱塗りの神橋(しんきょう)を渡る。俗界から聖なる山に入る。
 昔、参詣する人達は祓川で禊を済ませたといわれている。


神橋


 右手に落差20mの須賀(すが)の滝が見える。月山の麓から引水している。

 一の坂の石段を登る。5分程登ると、樹齢1、000年、高さ42m、幹周り10mの杉が立っている。国の天然記念物に指定されている。杉木立の間から杉林の奥に立つ五重塔が見えた。

 石段を登る。杉木立が途切れる。羽黒山五重塔が全容を現した。
 高さ29、9m、塗料を塗らない木地のままの材料で造る素木造(しらきづくり)の五重塔は、周囲の杉林に溶け込み違和感がない。幾星霜を経て立ち続ける姿に厳粛なものを覚える。


羽黒山五重塔


 五重塔の建築年について、新潮社発行1990年1月号の『芸術新潮』では、次のように説明されている。

 「この塔は、平将門の創建と伝えるが、慶長13年(1608年)に山形藩主・最上義光が修理したときに棟札に『応安2年(1369年)柱立、永和3年(1377年)九輪上』という記録が見え、実は南北朝時代のものであったことがわかる。」

 昭和41年、国宝に指定された。

 石段は、歩くのに一段は低いから二段にすると高くなる。それで一段づつ登ることになる。両側は、樹齢350年から500年、高さ30mを超える杉並木が続く。静寂に包まれ、鳥の声も聞えない。




 一の坂が終わり、二の坂になる。急勾配の石段を上りきったと思うと、次に立ちはだかったように現れる石段が垂直に見える。



 二の坂が終わり、しばらく平坦な道になる。杉林は、荘厳な雰囲気に満ちている。



 三の坂の登り口の右手に、「南谷」の案内板がある。芭蕉が6泊した南谷(みなみだに)別院跡である。右手に延びる細い道を歩く。草が生い茂り、歩く人も稀ではないかと思うような道である。
 10分程で着いた。草叢の中に礎石が見え、暗い池があった。寂寥感が漂っていた。


      ありがたや雪をかを(お)らす南谷(みなみだに)


 元の場所に戻り、最後の三の坂の石段を登る。

 森敦は、『月山』の中で、出羽三山について次のように述べている。


 「月山はこの眺めからまたの名を臥牛山(がぎゅうざん)と呼び、臥した牛の北に向けて垂れた首を羽黒山(はぐろさん)、その背にあたる頂を特に月山、尻に至って太ももと腹の間の陰所(かくしどころ)とみられるあたりを湯殿山(ゆどのさん)といい、これを出羽三山と称するのです。出羽三山と聞けば、そうした三つの山があると思っている向きもあるようだが、もっとも秘奥な奥の院とされる湯殿山のごときは、遠く望むと山があるかに見えながら、頂に近い大渓谷で山ではない。月山を死者の行くあの世の山として、それらをそれぞれ弥陀三尊の座になぞらえたので、三山といっても月山ただ一つの山の謂いなのです。」


 石段の上に鳥居が見えてきた。その手前左手に、羽黒山参籠所「斎館(さいかん)」が見える。元禄時代に建てられた建物である。当時は寺院であり、宿坊を兼ねていたが、現在は宿坊のみとなっている。精進料理の食事のみもできるようである。


斎館


 鳥居を潜る。ここまで約1時間かかった。大太鼓を打つ音、法螺貝を吹き鳴らす音が聞える。

 文政元年(1818年)に再建された高さ28mの壮麗な三神合祭殿(さんじんごうさいでん)が建っている。
 月山、湯殿山は、冬期間積雪のため参拝ができないことから三神を祀る。屋根の萱葺きは、2mの厚さがある。平成12年、国重要文化財に指定された。


三神合祭殿


 右手に、元和4年(1618年)再建の萱葺きの鐘楼が建っている。鐘については、東日本旅客鉄道株式会社発行の『トランヴェール 2004年7月号』の説明を引用する。

 「蒙古襲来(文永の役)の折に鎌倉幕府が撃退を祈願したところ、神風が吹いて蒙古軍が壊滅。祈願の成就に対して、鎌倉幕府が奉納したのが大鐘である。建治元年(1275年)の銘がある。」

 鐘の口径は1、68mある。鐘は昭和48年に、鐘楼は平成12年に国重要文化財に指定された。




鐘楼


 石段を降りて戻る。もう一度、五重塔を拝観する。


      涼しさやほの三(み)か月(づき)の羽黒山(はぐろさん)



同年10月8日(月) 酒田

 朝、ホテルの大浴場で風呂に入る。

 鶴岡駅から羽越線に乗り酒田駅で降りる。駅を出て200m程歩く。八雲神社の角を左へ曲がり1、5キロ程歩く。新井田(にいだ)川に架かる新内橋を渡る。山居倉庫に着く。

 山居(さんきょ)倉庫は、酒田米穀取引所の付属倉庫として明治26年(1893年)に建設された。現在も12棟の内、9棟が現役の倉庫として使われている。
 当時、米は新井田川の船着場で積み降ろしが行われ、酒田港で積み替えられて近畿地方に出荷された。

 切妻屋根の土蔵作り、裏側は黒の板壁になっている裏側は西向きになっているため、日本海からの西風と夏の西日を遮り、倉庫内の温度を一定に保つ目的で欅が植えられた。欅は現在41本残っている、と説明がある。 

 欅の並木は大きく枝を広げ、12棟の倉庫の並びに陰を作る。美しい景観である。


山居倉庫






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