12 銀山温泉(寄り道) 最上川舟下り 酒田〜吹浦


・平成14年2月9日(土) 銀山温泉(寄り道)


銀山温泉周辺の山

 山形新幹線に乗る。福島駅を出て板谷峠を越える。外は深い積雪だった。

 大石田駅で降りる。駅の地下道を潜って反対側に出る。「銀山温泉」行きのバスに乗る。
 バスは、尾花沢の市街地を走る。道路の両側に雪で作られた灯籠が並んでいる。夜になると灯が灯されるのだろう。

 約40分で着く。山は雪に覆われている。バスの停留所から、雪が積もっている急な坂を滑らないようにゆっくりと下る。木の枝に積もった雪はそのまま凍っている。15分程で温泉街に着く。

 幅5m程の銀山川を挟んで、両側に旅館が並んでいる。川沿いに歩きながら、威風堂々とした木造3階建ての旅館を見る。色鮮やかな鏝絵(こてえ)、鏝絵の技術で作られた看板を見ていると、昔の温泉街の華やいでいた時代を感じる。

 屋根の雪下ろしをしている。屋根に積もった雪を集め、屋根に直角に取り付けている長い樋に入れる。樋は、銀山川の上まで伸ばしている。雪は樋の中を滑り、川に落ちる。
 温泉街が尽きる場所から、落差25mの高さから落下する白銀(しろがね)の瀧が見える。雪の中の滝をしばらく見て、橋を渡り反対側を歩く。

 木造3階建ての旅館「古関館」に入り、入浴する。風呂場は半地下にある。
 硫黄の匂いが薄く漂っている。浴槽に入る。湯の花が浮かび上がる。湯気抜きと硫黄の匂いを抜くためか、天井に近い上方の窓を開けている。そこから冷たい風が入ってきて寒いので熱めの湯がちょうどいい。

 温まってから出る。玄関、廊下、待合室、いずれも簡素な造りで湯治場の風情がある。

 停留所へ戻る坂の途中の右側にある蕎麦屋「伊豆の華(いずのはな)」に入る。
 ガスストーブが音を立てている。暖かい。「天ぷら蕎麦」を注文する。

 揚げたての天ぷらは、別の器で出される。ふきのとう、たらの芽、舞茸、グリーンアスパラガスの山の幸である。白菜、大根の漬物が付いている。鉢に3人分程の量が入っている。蕎麦は黒く、味も野趣溢れるものだった。

 バスで大石田駅に戻る。新幹線に乗り山形駅で降りる。予約していたホテルメトロポリタン山形にチェックインする。


・同年2月10日(日) 最上川舟下り

 山形駅から新幹線に乗る。吹雪の中を新幹線は疾走する。夜中にまた雪が降ったようだ。一面の雪原となり、空と地上の境目が判らない。


古口駅より下り方面を望む


 新庄駅で陸羽西線に乗り換え古口駅で降りる。雪の中を500m程歩く。戸澤藩船番所を模した舟下り乗船所に着く。
 乗船の申し込みをして、舟の中で食べる「いも煮鍋」を注文する。事前の予約が必要だったようだが、一人分ということで注文を受けてくれた。

 案内の放送がある。外に出て、横なぐりの雪の中を50m程歩く。川岸から階段を降りて舟に乗る。鍋は、舟が動き出すまで火にかけて、持ってきてくれる。20人程が乗り込んで出発する。
 舟にはエンジンが付いている。舟は枠を作り、ガラスを嵌め込んでいる。雪見舟と呼ばれている。中は暖房をしているので暖かい。
 舳先に船頭さんが立ち、舟を操る。交替で舳先に立つと思われるが、もう一人船頭さんの格好をした乗務員がいる。その乗務員が、舟の中で両岸の観光案内をする。

 それぞれ持参の弁当を広げ、缶ビールを開けている。
 「いも煮鍋」で食事をする。醤油味で、具は、里芋、牛肉、長ねぎ、こんにゃく、しめじ、ごぼうである。他に弁当とお茶が付いている。弁当には、分厚い塩鮭の切り身、大きな鶏の照り焼きが入っている。値段の割に得な内容である。里芋は甘くて、柔らかい。おいしい食事ができた。

 舟に揺られながら、乗務員が唄う「最上川舟歌」に聴き入る。
 時折、滝が見える。最上峡は、雪の白と杉林の黒の、静謐に満ちた水墨画の世界に変わっている。

 約1時間で草薙温泉に着く。バスで高屋駅に出て陸羽西線に乗り、新庄駅に着く。新幹線に乗り換え福島駅で降りる。
 予約していた
ホテルサンルートプラザ福島にチェックインする。

 夜、2階のレストラン「パストラル」で食事をする。
 肉料理のコースを注文する。熱いごぼうのスープに始まり、メインがフィレのステーキだった。
 食後、デザートのケーキがワゴンに載せられて運ばれてきた。8種類のケーキが載っている。主任と思われる男性が、「全部お試し頂きたいんですが」と言ってくれる。本当はそうしたいが周りの目があるので3種類を選ぶ。
 福島県産のりんごを使ったタルト、やはり福島県産の「みしらず柿」のムース、洋酒を混ぜたシロップがかかったガトーショコラの3個をいただく。


・同年2月11日(月) 高湯温泉(寄り道)

 福島駅西口から「高湯温泉」行きのバスに乗る。山間の雪の中をバスは登って行く。約40分程乗り、終点の一つ手前の停留所「玉子湯」で降りる。

 明治元年創業の「旅館 玉子湯」に入る。フロントで受付を済ませて昼食を申し込む。ロビーから裏山の斜面に積もっている雪が見える。
 大広間に案内される。テーブルの上にはお茶とお菓子が用意されている。
 早速、大浴場に入る。明るく清潔な浴室である。硫黄の匂いがする。濃厚な泉質のお湯に入る。

 大広間に戻る。隣のテーブルでは、50代位の夫婦と男性の母親と思われる3人が、お菓子やみかんを食べ、お茶をのんでいる。
 12時に食事が運ばれて来る。宿泊客に出されるようなご馳走が並べられた。珍しい蕗味噌(ふきみそ)がある。蕗の薹(とう)を刻み入れて焼いた味噌は、ほろ苦い。ご飯にのせて食べる。

 食後、「旅館 玉子湯」のシンボルと言える湯小屋に入る。案内書に、「庭園内にある茅ぶきの湯小屋は当創業から百四十年もそのままの形をとどめており、多量に湧き出るお湯は自然のまま、水も熱も全く加えておりません。」と書かれている。

 6人程で一杯になりそうな広さである。脱衣場と浴槽の間に仕切りの戸はない。床も浴槽も全て木で造られている。
 隣の女性用の風呂場から、「まあ、いいわね、昔みたい」と、隣のテーブルにいた姑と思われる人の弾んだ声が聞こえ、静かになった。
 お湯が木の樋から浴槽に注ぎ込まれる音だけが聞える。白濁したお湯にゆっくり入って、温まる。庇の下は湯気抜きに開けられている。そこから、降り始めた雪が入ってくる。


湯小屋



 大広間に戻る。座布団を枕にして、1時間程横になる。
 駅に戻るバスの時間が近づいたので立ち上がる。みんな車で帰ったようで、いなくなっていた。フロントで清算していると、若い男性の従業員が、「これから駅に行きますが、よろしかったら乗りませんか。」と声をかけてくれる。ありがたく旅館のバスに乗せていただく。今日の宿泊客を迎えに行くのだろう。
 予定よりも早く福島駅に着いた。ありがとうございました。


・同年3月16日(土) 酒田〜吹浦

 山形新幹線に乗り新庄駅で降りる。陸羽西線に乗り換え酒田駅で降りる。
 鶴岡から酒田迄は、8月に歩く予定にしているので、先に酒田から北へ向けて歩く。

 酒田駅を出て右へ曲がる。200m程歩いて、本間美術館の前の幅の広い道路に入る。700m程歩き、泉町の三叉路で左へ曲がり道路を変える。1、5キロ程歩き国道7号線に入る。
 3キロ程歩き、日向川(にっこうがわ)に架かる宮海橋を渡り遊佐(ゆざ)町に入る。

 約35キロに亘る庄内砂丘の横を歩く。砂防林として松が幾重にも植えられているが、風が強く、ザラザラとしている。砂が飛んでいると思われる。
 十里塚を通り7キロ程歩き右へ曲がる。1キロ程歩き旧道に入る。2キロ程歩き、羽越線の線路の下を潜り反対側に出る。坂道を登る。

 真正面に鳥海山が現れた。麓まで雪が残っている。白く輝いて聳える姿は神々しい。

 左手の遥か下に波頭が立つ日本海が見えた。ここで道を間違っていることに気付いた。地図を確認し後戻りする。吹浦(ふくら)駅に着く。
 羽越線に乗り鶴岡駅で降りる。予約していた
東京第一ホテル鶴岡にチェックインする。


・同年3月17日(日) 酒田

 朝、ホテルの大浴場で風呂に入る。

 鶴岡駅から羽越線に乗り酒田駅で降りる。
 駅を出て200m程歩く。八雲神社の角を左へ曲がり800m程歩く。二番町の十字路を右へ曲がり200m程歩く。国指定史跡の
旧鐙屋(きゅうあぶみや)に着く。

 寛文12年(1672年)、日本海を航行する西回り航路が設けられ、酒田は最上川流域の米の集散地となった。廻船問屋であった鐙屋は、江戸時代を通じて繁栄し、その賑わいは、貞享5年(1688年)に刊行された井原西鶴『日本永代蔵』に活写されている。

 『日本永代蔵』(小学館発行、新編日本古典文学全集・井原西鶴集 校注・訳者・谷脇理史、神保五彌、暉峻康隆)より引用する。


 「ここに坂田の町に、鐙屋(あぶみや)といへる大問屋(おおどひや)住みけるが、昔は纔(わづ)かなる人宿(ひとやど)せしに、その身(み)才覚にて近年(きんねん)次第に家栄え、諸国の客を引き請け、北の国一番の米の買入れ、惣左衛門(そうざゑもん)といふ名を知らざるはなし。表口三十間・裏行(うらゆき)六十五間を家蔵(いへくら)に立てつづけ、台所の有様目(め)を覚ましける。」


 弘化2年(1845年)に再建された建物に入る。
 入り口の大戸口から裏戸口まで約20mの通り庭(土間)が続き、通り庭に面して帳場、座敷、台所、板の間が並ぶ。裏戸口を出て左へ曲がる。土蔵がある。母屋、土蔵共に屋根は杉皮葺で、その上に重しとして石を置いている。

 二番町の十字路に向かって100m程歩く。本間家旧本邸の前に出る。

 江戸時代後期、蝦夷(えぞ)地(現在の北海道)と大坂(大阪)の間を航行する北前船(きたまえぶね)が登場する。その寄港地であった酒田の本間家は、商取引、回槽業、倉庫業、金融業により繁栄し、日本一の大地主となる。これは、第二次世界大戦後、昭和21年の農地改革まで続いた。
 庄内藩に対し莫大な御用金を用立て、その功績により士分に取り立てられる。

 旧本邸に入る際にいただいた案内書によると、次のように説明されている。 


 「本間家旧本邸は、三代光丘(みつおか)が幕府巡検使一行の本陣宿として明和5年(1768年)新築し、庄内藩主酒井家に献上し、その後拝領した。
 建物は、母屋桁行33、6m、梁間16、5mの桟瓦葺平屋書院造り。表から見れば、二千石旗本の格式を備えた長屋門構えの武家屋敷造りで、その奥は商家造りとなっている。」


 長屋門を通って邸内に入る。建坪200坪、部屋数23の内部を見学する。
 緻密に造られた美しい桟が欄間を飾る。桟の四隅は撓められ、ハート形に造られている。釘隠しは、金工細工の技術の粋を見せる。

 外に出て、長屋門に沿って右へ曲がる。日常使われていた薬医門があり、漆喰の白壁が続く。

 二番町の十字路に戻り、駅の方角へ向かって800m程歩く。八雲神社の角を駅の方へ曲がらないで、真っ直ぐ200m程歩く。本間美術館に着く。
 同じ敷地内にある、本間家旧別荘「清遠閣(せいえんかく)」と庭園「鶴舞園(かくぶえん)」を観賞する。いずれも本間家4代光道が文化10年(1813年)に築造したものである。

 鶴舞園は、鳥海山を借景にした回遊式庭園である。池を巡り、橋を渡る。景観が変わる。石段を登り、高台に建つ東屋から庭園の全景を眺める。
 清遠閣は、「明治末一部二階建てに改装」と説明がある。
 大正14年、昭和天皇が皇太子時代に宿泊されている。その際に使用された天蓋付きの寝台の写真が展示されている。御座所となった2階の部屋の壁は金粉が塗られ、少し離れて見ると、金色に光る雲が現れる。

 帰りに美術館に入り、展示されている書を見る。
 酒田駅に出て陸羽西線に乗り新庄駅で降りる。山形新幹線に乗り換える。





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