20 青海〜親不知〜市振〜滑川(富山県)


・平成15年11月1日(土) 青海〜親不知〜市振


日本海


 上越新幹線に乗り越後湯沢駅で降りる。ほくほく線に乗り直江津駅で降りる。北陸線の各駅停車に乗り換え青海(おうみ)駅で降りる。
 駅を出て右へ曲がり100m程歩く。国道8号線に入る。右手に日本海を見ながら6キロ程歩く。親不知駅の前を通る。
北陸自動車道がここでは海上に架かり、橋脚は海上に立っている。

 親不知記念広場があり、母子の像が立っている。ここから海岸の遊歩道に降りられるが国道を歩く。
 青海から親不知までは子不知(こしらず)海岸、親不知から市振(いちぶり)までは親不知(おやしらず)海岸が続くが、これらの海岸は、北アルプスの北端の飛騨山脈が日本海になだれ落ちる断崖絶壁の下にある。昔の旅人はここを通るとき波打ち際を走ったといわれている。 
 明治16年(1883年)、海岸に道路ができる。その道路が現在遊歩道になっている。

 森鴎外(1862〜1922)『山椒大夫』の中で、船頭が親不知、子不知海岸の情景と親不知、子不知の謂れを語っている。


 「『陸を行けば、じき隣の越中の国に入る界(さかい)にさえ、親不知(おやしらず)子不知(こしらず)の難所(なんじょ)がある。削り立てたような巌石の裾(すそ)には荒波(あらなみ)が打ち寄せる。旅人は横穴に這入って、波の引くのを待っていて、狭い巌石の下の道を走り抜ける。その時は親は子を顧みることが出来ず、子も親を顧みることが出来ない。それは海辺の難所である。又山を越えると、踏まえた石が一つ揺(ゆる)げば、千尋(ちひろ)の谷底に落ちるような、あぶない岨道(そわみち)もある。』」


親不知海岸




 道路幅が狭い上に急カーブが多くなってくる。車に気を付けて歩く。車はひとかたまりになって来るから、車が近づいてきたら立ち止まり、全部の車が走り去ってから歩き始める。
 洞門が現れる。中は薄暗いので特に車に気を付ける。車が来るたびに立ち止まり、出来るだけ右側に体を寄せる。
 洞門の右側は、窓のように開いている。そこから下を覗く。海は美しい青い色を湛えているが、垂直に切り立った断崖の下は、押し寄せる荒い波が岩にぶつかり、砕け散る。

 広い所に出た。ここまで約8キロ歩いた。いつも歩く時間の2倍程の時間をかけて慎重に歩いた。
 500m程歩く。
「海道(かいどう)の松」が聳えている。


海道の松


 樹高30m、幹周り3、5m、樹齢が200年〜300年と推定されている「海道の松」について、横に立っている説明板では次のように説明されている。

 「昔の北陸道は、この海道の松から海岸へ降りる。西からの旅人は、寄せ来る波に怯えながら天下の険・親不知、子不知を東へ越えることになる。また、西へ上がる旅人は、10キロ余りの波間を命がけでかいくぐり、海道の松に辿り着き、ようやくほっとして、市振の宿に入った。」

 私も、波ではなく車にハラハラしながらここまで歩いて、「海道の松」を見てほっとした。
 「海道の松」は、海岸と集落の分岐点に立つ。右側の道は市振(いちぶり)漁港に通じる。左側を進むと、旧街道の宿場町であった市振の町に入る。

 古い家並みの市振の静かな通りを歩く。200m程歩く。左手に芭蕉が泊まった宿・「桔梗屋跡」の碑が立っている。


      一家(ひとつや)に遊女もねたり萩と月


 更に200m程歩く。右手に市振小学校があり、グラウンドの一隅に「市振関所跡」の碑が立っている。
 市振の関所は越後国と越中国の通行を監視していた。

 食堂があったので入る。店の人と近所の常連客と思われる人たちが話をしている。その話を聞いていると、言葉のイントネーションが関西のものであることに気がつき、意外な感じがした。富山県に入ったら違った話し方を聞くだろうと思っていたが、ここはまだ新潟県である。
 尤も、ここから富山県まで僅か2キロしか離れていない。また、往来の困難な親不知、子不知が立ちはだかっていたため、昔から市振に住む人にとっては富山県が生活圏であったと思われる。

 北陸線を跨ぐ高架橋を渡る。100m程歩く。市振駅に着く。無人駅だった。ホームのベンチに座って電車を待ちながら、間近に迫る山を眺める。紅葉が始まっている。

 30分程電車に乗り魚津(うおづ)駅に着く。駅を出た右側に水飲み場がある。滝のように大量の水が落ちている。落下する水を、備えてあるコップに受けて飲む。おいしい水だった。
 観光案内に「魚津市の南東部にそびえたつ毛勝山の大雪渓に源を発する片貝川の伏流水を利用した水」と説明されている。
 駅の近くの
ホテルサンルート魚津にチェックインする。2泊予約していた。

 夜、ホテル内の日本料理の店に行き、魚料理を食べる。富山湾で獲れた白えびの刺身が出た。大量の白えびを使って作られた雪白の刺身が器の中で輝いている。口に入れる。ややねっとりとして甘い。


・同年11月2日(日) 黒部峡谷(寄り道)

 早朝、ホテルを出て、JR魚津駅に隣接する富山地方鉄道の新魚津駅に行く。6時に発車する電車に乗る。6時40分、宇奈月温泉駅に着く。駅を出て左へ曲がり150m程歩く。トロッコ電車の黒部峡谷鉄道宇奈月(うなづき)駅に着く。

 宇奈月駅の構内は、7時前にも拘わらずおおぜいの人が集まっていた。窓口で切符を買う。始発の7時32分発の電車は既に満席だった。7時57分発の屋根が付いているだけのオープン型の普通客車の切符を買う。発車10分前に改札が始まり、指定された車両に乗り込む。一列に3人座る。

 電源開発のための工事用資材の運搬を目的として敷設された「黒部軌道」のトロッコ電車は昭和28年から一般客も乗せるようになった。 
 定刻に発車する。黒部川沿いに終点の欅平(けやきだいら)駅までの約20キロを平均時速16キロで走る。約1時間20分の旅になる。その間、41のトンネルを潜り、22の鉄橋を渡る。 

 宇奈月駅を出発して最初に長さ166mの新山彦橋(しんやまびこばし)を渡る。川から40mの高さにあり、真赤な橋である。橋を渡って、黒部川を右に見ながら走る。
 観光案内の放送を聞きながら左右の景観を楽しむ。右手に仏石(ほとけいし)と言われている石仏に似た天然の岩を見る。

 25分程で黒薙(くろなぎ)駅を通過する。黒薙温泉があり、宇奈月温泉は7キロ離れたこの黒薙温泉から引湯している。
 黒薙駅を過ぎてすぐに高さ60m、長さ64mの後曳橋(あとひきばし)を渡る。
 高さ200mの紅葉に覆われた垂直の岩壁が見える。「ねずみ返しの岩壁」と言われている。この辺りから谷が深くなる。遥か下に黒部川の流れが見える。両側に現れる山々は、紅葉に彩られている。紅葉は秋の陽を浴びて鮮やかさを増す。次々に展開する雄大で美しい風景に歓声が上がる。

 右手に黒部川第二発電所が見えてきた。昭和11年(1936年)建築。窓を含む外観のデザインは幾何学的で、装飾を排した機能的な建物である。堅実で安定感がある。
 設計は、ダムや橋梁を数多く手がけた山口文象(ぶんぞう)(1902〜1978)による。

 1919年、ドイツのワイマールに、美術と建築に関する総合的な教育を行った学校と研究所が設立された。バウハウスである。ここで興されたバウハウス運動は世界中を席巻し、モダニズム建築に大きな影響を与えた。
 山口文象は、昭和5年(1930年)ドイツに渡り、バウハウスの初代学長を務めたヴァルター・グロピウス
(1883〜1969)のアトリエで仕事をする。2年後の昭和7年(1932年)に帰国する。
 4年後に設計した黒部川第二発電所は、日本におけるモダニズム建築を代表する作品といわれている。

 鐘釣橋を渡る。トロッコ電車はここから黒部川を左に見ながら走る。右手に標高1、949mのサンナビキ山が見える。頂上付近は積雪が見られる。中腹は紅葉に染まり、麓は濃緑の樹木が茂る。異なった色が楽しめる。
 鐘釣(かねつり)駅に着く。少数だが降りる人たちがいる。河原に鐘釣温泉の露天風呂があり、河原から万年雪を見ることができる、と観光案内に書いてある。

 黒部川第二発電所小屋平(こやだいら)ダムが見える。高い所から大量の水が落下する光景は壮観である。昭和11年(1936年)竣工。山口文象の設計による。

 9時10分頃、終点の欅平(けやきだいら)駅に着いた。
 よく晴れて暖かいが、吹きさらしの車両に乗っていると寒くなってきた。高度が増すごとに気温も低くなり、トンネルの中は冷えている。帰りは窓付きの電車に乗ろうと思い、電車を降りてすぐ窓口で切符を求める。窓付きのリラックス客車に空席があるが、10時43分発である。ゆっくりと渓谷を散策しようと思っていたが、これに乗らないと次に窓付きに乗れるのは午後になると言われ、リラックス客車の料金を加えて10時43分発の切符を買う。

 駅の外に出る。見渡すかぎりの美しい紅葉だった。眼前の岩壁を松の緑と色鮮やかな紅葉が覆っている。黒部川の清冽な水は轟音を立てて奔流する。壮大で美しい景色を見て、来てよかったと思った。


黒部川


祖母谷川


 赤い奥鐘橋(おくかねばし)を渡る。川からの高さが34mある。黒部川と離れて、祖母谷(ばばだに)川沿いに歩く。歩道を造るために岩壁をえぐり取った場所がある。その形状から人喰岩(ひとくいいわ)と呼ばれている。
 20分程歩く。名剣(めいけん)温泉に着く。旅館が一軒ある。旅館に露天風呂があるが、入れるのは午後からとなっていた。それに電車に乗る時間も近づいている。露天風呂に入って川音を聞き、紅葉と渓谷の水の流れを見るのはいい気持ちだろうな、と思いながら駅に戻る。

 帰りの電車は窓ガラス越しに暖かい陽が入り、眠くなってくる。それに時間が早いためか乗客が少なくゆったりと座れた。

 12時頃に宇奈月駅に着いた。駅は、朝よりももっとおおぜいの人たちで混雑していた。宇奈月駅から宇奈月温泉駅までの道路約150mは駐車待ちの車の列が続いている。

 駅の斜向かいに建つ関西電力が運営する黒部川電気記念館に入る。アルプスのリゾートホテルを模した建物である。
 江戸時代まで人跡未踏の地であった黒部に本格的に電源開発の工事が始まったのは大正12年(1923年)であった。その開発の歴史を写真とビデオで紹介している。また、黒部の厳しくも美しい自然と、黒部に棲む動物について説明している。

 富山地方鉄道宇奈月温泉駅の駅舎は山小屋風の建物である。駅前広場には噴水が設けられている。そこから温泉の湯が噴き出ている。温泉噴水と呼ばれている。
 右へ曲がり線路を渡り共同湯の
温泉会館に行く。明るく清潔な浴室だった。泉質はアルカリ性単純泉。無色透明の湯である。ゆっくりと入る。


・同年11月3日(月) 魚津

 朝、ホテルを出て、魚津駅前からバスに乗る。約15分程で「金太郎温泉前」に着いた。金太郎温泉の日帰り入浴施設に入る。
 施設の建物は大きく、設備が整っている。浴室も広い。泉質はナトリウム、カルシウム塩化物泉である。硫黄の匂いがする。風呂上りに休憩室でしばらく休む。
 帰りは、約1時間歩いて魚津駅
に戻った。途中、
東京第一ホテル魚津に立ち寄り、ランチバイキングの食事をする。デザートが充実していた。


・同年11月22日(土) 市振〜入善

 上越新幹線に乗る。越後湯沢駅でほくほく線に乗り換える。直江津駅に着き、北陸線の各駅停車に乗り換える。糸魚川駅で9分間停車する。

 糸魚川駅を通るたびに以前から気になっている建物があった。引込み線の先に赤レンガの車庫が建っている。停車時間を利用してホームに降りてできるだけ近づいて見る。
 出入り口の三連アーチのそれぞれに要石(かなめいし)が施され、それがアクセントとなって妻側を引き締めている。大正元年(1912年)に竣工した車庫は、外観を見る限りでは傷んでいる箇所はないように思われる。威厳さえ感じさせる建築物である。
 背後に聳える山は雪が積もっている。

糸魚川駅車庫


 市振駅に着く。駅を出て右へ曲がる。国道8号線を歩く。2キロ程歩き、境川に架かる境橋を渡る。富山県朝日町に入る。すぐ右手に、樹木が茂る境一里塚がある。

 3キロ程歩く。越中宮崎駅の前を通る。
 「たら汁」の看板を出した食堂があちらこちらにある。そのうちの一軒の食堂に入る。「たら汁定食」を注文する。鱈の切り身に大根、長ねぎ、豆腐を加え、味噌で煮込んでいる。酒粕も入っている。鍋で出され、器に移して食べたら
三杯分あった。
 食後、熱いお茶を飲んで体を温めて外に出る。気温が低くなっている。

 国道8号線と別れて海に近い旧道を歩く。右手に日本海を見ながら歩く。海は美しい藍色だが、冷たい風が吹き、冷えた空気の下に広がる海は冷え冷えとして凍っているように見える。
 2、5キロ程歩く。笹川に架かる笹川橋を渡る。

 雨が降り出した。黒く曇っていたので気になっていたがとうとう降りだした。気温が下がってきているのが分かる。そのうちにパラパラと音がして雹(ひょう)が落ちてきた。差している傘にもバラバラと当たる。雨は激しさを増すが歩き続けるしかない。道路に設置してある気温の電光表示は、5度を示している。

 3キロ程歩く。舟川に架かる赤川橋を渡る。北陸線の線路に近くなる。時々走り去る特急を見る。
 3、5キロ程歩く。線路を潜る。500m程歩いて入善(にゅうぜん)駅に着く。雨はいくらか小降りになったが、体は冷えてしまった。

 電車に乗り魚津駅で降りる。ホテルサンルート魚津にチェックインする。2泊予約していた。


・同年11月23日(日) 入善〜魚津〜滑川

 朝、ホテルを出て電車に乗り入善駅で降りる。昨日とは変わっていい天気になった。駅を出て右へ曲がる。1キロ程歩く。跨線橋を渡り北陸線の線路を越えて旧道を歩く。

 旧道は車も少ない。静かな通りを歩く。よく晴れて暖かい陽が降りそそぐ。右手に見える富山湾は美しい虹が立っている。
 道路の端の所々に水飲み場がある。また、地中から地上に伸ばした鉄管が設けられ、その鉄管から水が噴き出ている。いずれも傍らにコップが置いてあるので歩きながら時々水を飲む。おいしい。立山の伏流水が湧き出ているものと思われる。

 左手には、3000m級の山々が連なる立山連峰が雪に輝き、屏風のように屹立している。

 6キロ程歩く。黒部川に架かる長さ508mの下黒部橋を渡り黒部市に入る。
 水飲み場が多くなった。湧き水でできていると思われる池がある。澄み切った水を透して池の底を泳ぐ魚が見える。

 7キロ程歩く。片貝川に架かる落合橋を渡る。魚津市に入る。
 3キロ程歩く。今、歩いている道路から海側に500m程寄った海岸通りに蜃気楼ロードがある。そこから更に海に近い場所に蜃気楼展望地がある。

 蜃気楼について、平凡社発行の『世界大百科事典14』では次のように説明されている。


 「光の異常屈折によって起こる気象光学現象」として、例を挙げている。「温度の低い海の上へ暖かい空気が流れこんでくると、海面に近い空気は冷やされて、海面付近で上暖下冷の急勾配の温度分布となり、光の異常屈折が起こることがある。遠方の船が逆さになったり、二段に重なって見えたり、遠方の景色もさまざまに変形して見える。」
 観光案内には「春から初夏にかけて光りの屈折により遠景が伸びたり反転したりする現象」と書いてある。


 春になり、富山湾の海上は暖かくなるが、立山からの冷たい雪解け水が富山湾に流れ込んで光の異常屈折が起こることが考えられる。

 魚津駅の構内の壁に、蜃気楼の写真が掲げられている。富山湾の海上に出現した建物や船は、陽炎に揺れているようである。蜃気楼を一度見たいと思っているが、これがなかなか難しいらしい。

 右手斜め前方の遠くに、レジャー施設・ミラージュランドの高さ66mの大観覧車が見える。
 4キロ程歩き、早月川に架かる早月橋(はやつきはし)を渡る。滑川(なめりかわ)市に入る。2キロ程歩く。線路に近づいたので線路沿いに歩く。2キロ程歩き滑川駅に着く。

 駅の近くのレストラン「エプリーズ」に入る。
 オードブルの、ハムのタルト、タコのマリネー、貝柱のガーリック炒めがおいしい。次に出てくる料理が楽しみになってくる。予想通り、メインの牛フィレのグリルクリームソースはすばらしい味だった。


・同年11月24日(月) 富山

 朝、電車に乗り富山駅で降りる。正面口を出て左へ曲がり電鉄富山駅へ行く。富山地方鉄道本線に乗り、二つ目の東新庄駅で降りる。
 駅を出て真っ直ぐ100m程歩く。広い通りへ出る。右へ曲がり15分程歩く。薬種商の館・
金岡邸に着く。


金岡邸


 金岡邸は、江戸末期より薬種商を営んでいた金岡家の明治初期に建てられた商家の建物である。国登録有形文化財に指定されている。現在、富山売薬業に関する資料館になっている。

 ガラス戸を開けて中に入る。受付で、懐かしい四角の紙風船をいただいた。
 畳敷きの帳場があり、帳場格子で囲っている。奥に万延元年(1860年)の薬箪笥が並んでいる。

 壁に薬のポスターが貼られている。薬の原料となる生薬、薬の製造に使われた薬研(やげん)等の道具が展示されている。ガラスのケースの中に、薬箱、薬袋、富山の薬売りが背負っていた柳行李等が展示されている。

 案内書に「先用後利(せんようこうり)」についての説明がある。
 「江戸時代に取り入れられた一種のクレジット商法(長期信用取引制度)。お得意さんに先に薬を預けておいて、後に使用した分だけの代金を頂くこのシステムは、現金収入の少なかったこの時代にたいへん喜ばれ、富山の売薬の発展、存続の大きな要因の一つとなった。」
 富山駅北口にも「先用後利」について、同じような説明が掲げられていたが、更に次のようなことも加えられていた。「お互いの信頼と信用なしには成り立たない。凶作のときは支払いを延ばすこともあった。」

 廊下伝いに迎賓の場として建てられた総檜造りの新屋へ入り内部を見学する。18畳と15畳の二間(ふたま)続きの座敷は折上げ格天井(おりあげごうてんじょう)の豪華な造りである。両側に美しい庭園が広がる。

 受付でいただいた四角の紙風船を見ていると、遠い昔の子供の頃を思い出す。
 黒い風呂敷に包んだ柳行李を背負って、富山の薬売りは一年に一回やって来た。玄関の上がり框(かまち)に腰を下ろし、風呂敷を解き、行李を開ける。薬箱をあらため、使った分だけの代金を受け取る。薬箱を整理し、不足している「ねつさまし」等を補充する。これも置いときましょう、と言って、「とんぷく」と書かれた薬袋を薬箱に入れる。
 最後に四角の紙風船をもらうのが待ち遠しかった。その頃、グリコの「おまけ」も楽しみだったが、紙風船は一年に一回のことだったから行李から出されるのをわくわくして待っていた。
 それから薬売りは、しばらく母に他県の様子を話して聞かせ帰って行った。

 あれからほぼ50年経ち、また四角の紙風船をいただけるとは思いがけないことだった。ありがとうございました。





薬箱




柳行李


紙風船




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