21 滑川〜富山 高岡 八尾(寄り道)


・平成16年3月20日(土) 滑川〜富山

 滑川駅を出て左へ曲がる。線路に沿って500m程歩く。右へ曲がり500m程歩き旧道に入る。右手に富山湾を見ながら歩く。左側には残雪に輝く立山連峰が見える。2、5キロ程歩く。上市川に架かる魚躬(うおのみ)橋を渡り富山市に入る。2キロ程歩き、常願寺川に架かる今川橋を渡る。

 浜黒崎を通る。黒松の並木が現れる。浜黒崎の松並木といわれている。富山県指定天然記念物である。
 説明板に次のことが書いてある。


 「慶長年間(1596〜1614)に、加賀藩前田利長が参府の折に、街路の美観と冬季積雪時の往来の便を考えて、北陸道に植樹したのが始まりと伝えられる。」
 「昭和40年の天然記念物指定当時には29本あったが、その後枯死等により現在14本となっている。この浜街道は、一般に
『古志の松原』といわれている。」(注・平成19年3月現在9本に減っている。)


 松並木は、旧街道の風情を感じさせる。聳える松の木の下を歩いていると、昔の旅人になったような気分になる。

 5キロ程歩く。富山港に着く。岩瀬運河に架かる岩瀬橋を渡り、運河を見ながら歩く。岩瀬地区に入る。
 岩瀬は、北前船の寄港地として繁栄した町である。岩瀬大町、新川町通り(旧北国街道)に明治初期に建てられた回船問屋の建物が並ぶ。建物は、河口に近い川と平行して建てられ、建物の裏側は川岸となっている。川岸には船着場があり、ここで荷の揚げ降ろしが行われた。
 建物や庭木がよく手入れされているようで、きれいな町並みである。

 外側に張り出した出格子(でごうし)、2階の軒下から外に突き出した袖壁が見られる。袖壁は防火の目的で造られ、漆喰の壁である。



 回船問屋の中には防火のために土蔵造りにしたものもある。2階の出桁(だしげた)と窓枠は銅板で設え、外壁は漆喰塗りにしてある。



 造り酒屋の美しい蔵の前を通る。



 明治11年に建てられた「北前船回船問屋森家」の前に出る。緩やかな曲線の勾配がある起(む)くりの屋根を持つ。平成6年、国重要文化財に指定された。
 




回船問屋森家






 約80坪の邸内に入る。通り庭(土間)の右側に、店舗、囲炉裏を切った部屋がある。吹き抜けの梁を見ることができる。茶の間、台所が続く。奥には、六つの座敷と茶室がある。通り庭の突き当たりに、道具類が納められている内蔵(うちぐら)が建っている。扉には家紋と虎の鏝(こて)絵が施されている。右に移動すると二つ目の内蔵の前に出る。扉の鏝絵は竜になっている。左手の裏口から川岸に出られる。


内蔵


 通りの反対側にも風格のある建物が並んでいる。


 左へ曲がり、桝田酒造店の間の路地に入る。桝田酒造店は、明治26年創業、吟醸酒「満寿泉」の醸造元である。


桝田酒造店


 15分程歩いて、富山港線の東岩瀬駅に着く。木造の無人駅である。(注・富山港線はJRの路線としては平成18年3月廃止され、同年4月富山ライトレール富山港線として再開業された。)

 線路沿いの県道を歩く。1キロ程歩き蓮町駅に着く。電車に乗り終点の富山駅で降りる。
 予約していた駅の近くのホテルにチェックインする。

 夜、富山駅正面口の前に建つCIC(シック)ビル4階のとんかつ屋「かつ兵衛」に入る。
 メニューを見る。「名水匠ロースかつ定食」というのがある。説明に、「黒部の名水を飲みながら育てられた黒部名水ポークの中でも厳選された最上級5%のみの『名水匠ポーク』 数量限定」と書いてある。これを注文する。
 運んできたウエイトレスが、塩胡椒で食べてみてください、と言う。言われたとおりに塩胡椒をかけて食べる。とてもおいしい。からっと仕上げられているのに柔らかい。肉汁もたっぷりとしている。塩胡椒が肉の旨みを引き出している。ソースをかけて肉の味がソースに消されるのはもったいないと思うほどおいしい肉だった。


・同年3月21日(日) 高岡

 朝、ホテルを出て電車に乗る。高岡駅で降りる。跨線橋を渡り、正面口の改札口に向かって階段を降りる。降りた所の左手に銅像や大きな釜等が展示されている。高岡は鋳物の町である。現在でも銅器の生産は全国生産の90%を占めている。

 改札口を出る。万葉集に最多の480首が収められ、万葉集の編纂に関わった大伴家持(おおとものやかもち)(718〜785)の像が立っている。
 大伴家持は、天平18年(746年)、越中の国守(こくしゅ)として現在の高岡に赴任する。天平勝宝3年(751年)までの5年間の滞在中、223首の歌を詠む。父・大伴旅人(おおとものたびと)と高名な歌人であった叔母・大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)の下で幼少の頃から歌を詠むことに研鑽を積む。

 駅の近くのホテルニューオータニ高岡に行く。8月13日から16日まで4泊の予約をする。
 予約をした後、1階のレストラン「COO(クー)」でバイキングの朝食を摂る。豪華な内容だった。富山県の珍味のイカの黒作り、ほたるいかの沖漬けがある。丹波の黒豆とコーヒー豆をブレンドした丹黒(たんぐろ)珈琲を飲む。黒豆が芳ばしい。

 食後、15分程歩いて高岡大仏を拝観する。昭和7年(1932年)再建の銅造阿弥陀如来坐像である。優しい顔立ちをしている。
 総高15、85m、重量65トン。高岡の鋳物技術の粋を集めて造られた。奈良、鎌倉に次いで日本三大仏といわれている。市の文化財に指定されている。


高岡大仏


・同年5月29日(土) 八尾(寄り道)

 上越新幹線に乗り越後湯沢駅で降りる。ほくほく線に乗り換える。直江津駅から北陸本線になる。JR東日本の管轄は直江津駅まで。ここから先はJR西日本の管轄になる。そのため、直江津駅で乗務員が交替する。

 富山駅で降りて高山線に乗り換える。電車は田畑の間を走る。四つ目の越中八尾(えっちゅうやつお)駅で降りる。
 駅を出て左へ曲がる。1キロ程歩いて、井田川に架かる橋を渡る。急な坂道になる。両側に寺と神社が続く。丸い石を積んだ石垣が多い。20分程坂を登り、浄土真宗本願寺派桐野山
聞名寺(もんみょうじ)に着く。


聞名寺 拝殿



 聞名寺は、正応3年(1290年)に創建された古刹である。現在の本堂は、文化9年(1812年)に再建された。総檜造り、銅板葺の荘厳な建物である。
 鐘楼の下の石垣も丸い石を積み上げて造られている。
 八尾は、聞名寺の門前町として発展し、飛騨街道沿いに位置していたために賑わった。

 急坂を登る。人も車も少ない。水の音が聞える。山からの水が側溝を走り下りている。

 「越中八尾おわら風の盆」の祭りが行われる毎年9月1日から3日までの3日間、普段は静かな町に20万人以上の観光客が訪れる。
 「風の盆」の「風」は、二百十日の「風」のことである。風を鎮め、五穀豊穣を願う祈りが「風の盆」である。哀愁を帯びた三味線と胡弓の音色、高い調子の艶やかな歌声に合わせて踊る。
 優美で気品のある女踊りに対して、男踊りは直線的できびきびしている。農作業の所作を振り付けにしているといわれている。男と女が網笠を深くかぶり顔を見せないで踊る。

 映像ではなく実際にこの場所で「風の盆」を見たいと思う。

 20分程坂を登り諏訪町に入る。緩やかな坂の諏訪町通りは、石畳の道である。両側に、造り酒屋等の旧い造りの商家、千本格子の家が並ぶ。家を改築するときも旧い建築様式に合わせているようである。


諏訪町通り


 20分程で坂を登りきる。東新町になる。振り返って坂を見下ろす。
 子供の頃住んでいた町は坂と石段の多い所だった。高齢の人が長い坂や石段の途中で立ち止まり、ハンカチで汗を拭(ぬぐ)いながら、今、登って来た坂や石段を眺めていた光景を思い出す。




・同年5月30日(日) 高岡

 富山駅の近くのホテルを出て電車に乗る。高岡駅で降りる。高岡駅の南口を出て、真っ直ぐ500m程歩く。八丁道(はっちょうみち)に入る。右へ曲がる。石畳の道で、両側に松が植えられ、石灯籠が置かれている。300m程歩く。曹洞宗高岡山瑞龍寺(ずいりゅうじ)に着く。

 瑞龍寺は、加賀二代藩主前田利長の菩提を弔うため三代藩主利常によって建立された寺である。
 加賀初代藩主利家の嫡男であった利長は、慶長10年(1605年)、側室の子であった異母弟の利常に跡を継がせ、43歳で隠居して現在の富山に住む。4年後の慶長14年(1609年)に現在の高岡に移り、高岡城を築く。
 しかし、高岡城は、利長が歿した慶長19年(1614年)の翌年、幕府の一国一城令によって廃城となった。  

 利常は、加賀藩を譲られたことを徳とした。生涯、利長を敬い、利長の歿後約20年の歳月をかけて瑞龍寺を造営した。

 瑞龍寺に入る。広い敷地内に総門山門仏殿法堂(はっとう)が一直線に並ぶ。左右に禅堂大庫裏を配置し、仏殿を中心に、山門、法堂、禅堂、大庫裏を回廊で結ぶ。回廊は周囲約300mに及ぶ。 


瑞龍寺 総門


山門 山門





仏殿


法堂


禅堂 禅堂内部


回廊


 総門を入ると、玉砂利が敷かれている。
 山門は、文政3年(1820年)に再建された。屋根は、入母屋作り。左右に金剛力士像を安置している。山門を潜ると、緑の芝生が広がる。
 万治2年(1659年)に建立された仏殿は、総檜造り。屋根は、総重量47トンの鉛の瓦葺きである。
 法堂は、明暦元年(1655年)に建立された。入母屋造りの屋根は、銅板葺である。
 山門、仏殿、法堂の巨大さと重量感に圧倒される。

 山門、仏殿、法堂は、平成9年、国宝に指定された。総門、禅堂、大庫裏、回廊は、国の重要文化財に指定されている。


・同年7月17日(土) 新潟

 上越新幹線に乗り新潟駅で降りる。羽越線に乗る前に新潟駅で途中下車する。

 明日、月山の8合目から頂上に登ることを予定しているが、昨年と同じで梅雨が未だ終わっていない。朝から曇っていたが、駅を出る頃から雨が降ってきた。
 駅を出て1キロ程歩き萬代橋を渡る。1キロ程歩き東中通を左へ曲がる。500m程歩いて右へ曲がり坂を登る。
新津(にいつ)記念館に着く。

 新津記念館は、新津恒吉(にいつつねきち)(1870〜1939)が昭和13年(1938年)、外国人用迎賓館として建てたものである。登録有形文化財に指定されている。
 新潟県出雲崎町出身の新津恒吉は、昭和シェル石油の前身である新津石油の創業者であり、石油王と讃えられた。

 鉄筋コンクリート造、地下1階付きの地上3階建て。塔屋を持つ。車寄せを通って中に入る。
 1階は「イギリスの間」、2階は「フランスの間」として、それぞれの国の様式で部屋の造作を行い、装飾を施し、家具調度を備えている。
 注目したのは、1階ホールと2階ホールのステンドグラスだった。1階ホールのステンドグラスは英国の紋章をデザインした精緻なものであり、2階ホールのステンドグラスは白い花が咲く木の枝にとまっている2羽のインコを描いている。いずれも色鮮やかで、破損した箇所は無く、完全な状態で保たれていた。

 大雨になっていた。駅までバスに乗る。橋を渡るとき、信濃川の水位が川岸近くまで上がってきているのがバスの窓から見えた。
 駅に着く。「大雨のため、羽越線は運行中止」と書いてある。駅員に尋ねると、雨の降りかたが段々激しくなっているので運行を再開するのは今日中は無理だろう、ということであった。
 今日のうちに鶴岡に着いて、明日朝、6時発のバスに乗り、月山8合目まで行かないと、鶴岡に戻ることが難しくなる。新潟で下車しないですぐに羽越線に乗っていたら、今頃は鶴岡に着いていただろう、と思ったり、いつも鶴岡へ行くときのように山形新幹線に乗り、新庄で乗り換え、陸羽東線で行ったらよかった、と思ったりしたが、いくら悔やんでも仕方ない。月山へ登るのは、また来年に延期する。

 駅前の新潟東急インに行く。部屋が空いていたので、今日と明日の宿泊を予約する。それから、予約していた東京第一ホテル鶴岡に電話をして事情を話し、2泊の予約をキャンセルした。


・同年7月18日(日) 新潟

 ホテルでバイキングの朝食を摂る。ご飯は、こしひかり。栃尾(とちお)の油揚げがある。味噌汁に入っている「わかめ」は、佐渡で獲れたものという説明が添えられている。おいしい食事をする。食後にスイカを食べる。水分が多く、甘い。巻町のスイカだろうか。

 ホテルを出る。よく晴れていい天気になった。今日と明日、新潟の近代建築を訪ねる。
 1キロ程歩き萬代橋を渡る。1、5キロ程歩き、新潟小学校の先の角を右へ曲がる。200m程歩く。角地に明治29年(1896年)建築の金井写真館が建っている。木造2階建て。窓は上げ下げ式。角地に玄関を設け玄関ポーチを持つ。現在は写真館としての営業はしていない。

 左に曲がる。左手に、昨年7月に訪ねた新潟カトリック教会の尖塔が見える(新潟カトリック教会については、目次17、平成15年7月21日参照)。

 豪農の館といわれる北方文化博物館の前身である旧伊藤家の別邸であった北方文化博物館新潟分館に着く(北方文化博物館については、目次18、平成15年8月18日参照)。明治28年(1895年)建築の木造2階建。登録有形文化財に指定されている。

 門を潜り、玄関とは別の出入り口から中に入る。表座敷を右へ曲がり、廊下伝いに昭和3年に増築された洋館に入る。新潟市出身の歌人、書家、美術史家である會津八一(あいづやいち)(1881〜1956)は、昭和21年(1946年)7月25日から亡くなる昭和31年(1956年)11月21日まで、この洋館に起居していた。
 1階は書斎と応接室、2階は寝室として使用していた。1階には八一の歌書が展示されている。雅号は秋艸道人(しゅうそうどうじん)。

 表座敷に戻る。八一の書が掛けられている。前には枯山水の庭が広がる。主に松の木を植えている。木の間越しに涼しい風が入ってくる。
 庭に下りる。次の歌が刻まれた八一の歌碑が立っている。


      かすみたつ はまのまさこを ふみさくみ
      かゆき かくゆき おもひそわかする


 會津八一は、大正15年(1926年)から終戦の年の昭和20年(1945年)まで母校の早稲田大学で東洋美術史の講義を行った。作品に接することが必要である、との考えから学生を伴って奈良へ旅行する。また、私財を投じて東洋の古代の美術品を購い、講義の資料とした。

 會津八一の膨大なコレクションと早稲田大学独自の収集品を公開する早稲田大学會津八一記念博物館が平成10年、早稲田大学旧図書館に開館した。旧図書館は、早稲田大学で最も古い大正14年(1925年)建築の建物である。東京都歴史的建造物の指定を受けている。

 博物館の1階は、白い6本の円柱が立つ豪華な部屋である。大隈重信ゆかりの品を展示している大隈記念室と企画展示室が設けられている。2階の旧大閲覧室は、會津八一コレクションである、唐と明の時代の俑、器、銅鏡、八一の書等が展示されている。その他考古学資料の常設展示室になっている。展示室の出入り口に兵馬俑2体が立っている。
 天井が高く、明るく広い部屋で、展示物を詰め込んでいないためか、博物館にありがちな陰鬱な感じがない。

 2階の旧大閲覧室の部屋の中央に、日本画家・前田青邨(まえだせいそん)(1885〜1977)の『羅馬使節』が展示されている。大きさは縦2、91m、横1、96m。明るい色合いの絵である。昭和2年(1927年)に制作された。
 天正遣欧少年使節がローマ法王・グレゴリウス13世への謁見に赴く光景を描いている。描かれているのは少年使節4人の内の1人である。美しく飾られた白馬に跨る正装した少年の顔にはまだ幼さが残っている。
 後年、キリスト教徒にとって苦難の時代が来る。帰国後の4人の少年もそれぞれ過酷な運命を迎える。悲惨な状況の中で、少年たちはこの輝きに満ちた一日を思い出しただろう。

 博物館の1階から2階まで大階段がある(注・この大階段は現在は使用されていない)。2階吹き抜けになっている大階段の正面に、円い、直径4、45mの巨大な壁画が描かれている。横山大観(1868〜1958)と下村観山(しもむらかんざん)(1873〜1930)合作の『明暗』である。昭和2年(1927年)に制作された。
 黒い雲の上から太陽が姿を現している絵である。1階からも2階からも見ることができる。

 北方文化博物館新潟分館を出て右へ曲がり、角をまた右へ曲がる。
 なまこ壁の美しい蔵や白壁の土蔵が続く。土蔵に施された鏝絵が見える。なまこ壁も鏝絵も大切にされて、良好な状態で保存されていることが分かる。白壁通りと呼ばれている。



 蔵が尽きる辺りから、黒塀を巡らし、広い敷地を持った建物が建っている。創業300年の料亭・行形亭(いきなりや)である。園遊会でもできそうな広い芝生が門から見える。芝生の周囲には松を植えている。新潟は北前船の寄港地であったから余程賑わったことだろう。
 平成12年に、建物が国登録有形文化財に指定された。

 新潟カトリック教会の前を通り500m程歩く。右へ曲がり500m程歩く。西海岸公園に入る。鬱蒼とした黒松の林の間の道を15分程歩く。日本海が見えてきた。


・同年7月19日(月) 新潟

 朝、ホテルを出て1キロ程歩き萬代橋を渡る。500m程歩き左へ曲がる。1キロ程歩く。新潟県議会旧議事堂(現・新潟県政記念館)に着く。


新潟県政記念館


 新潟県議会旧議事堂は、明治16年(1883年)建築、左右対称の木造2階建。中央部は一部3階建て。八角形の塔屋を持つ。昭和7年(1932年)まで議事堂として使用されていた。昭和44年、国重要文化財の指定を受けた。
 洋風の建物であるが、軒の波形の飾り、擬宝珠を思わせる棟の飾り等和風の装飾がある。白漆喰の壁と建物の角の隅石(すみいし)、窓の周りに嵌め込まれた石の色の対比が美しい。



 中に入る。2階に議場を見下ろす傍聴席がある。傍聴席を支える鉄柱の柱頭飾り、シャンデリアは、劇場のような華やかな雰囲気を醸し出している(注・2階傍聴席は立ち入り禁止になっている)。


傍聴席


議場


 新潟県議会議事堂は、信濃川をテムズ川に見立て、テムズ川河畔に立つ英国議会議事堂を手本にして造られた、という記述を以前読んだことがある。そのことを職員に伺ったところ、そうです、信濃川の川幅は今よりも広く、この旧議事堂の近くを流れていたようです、と話された。信濃川の支流もあって、ここは、二つの川に挟まれた岬のような地形であった、岬の突端に建つ建物、の風情があったらしい、というお話も伺うことができた。

 長い歴史を持つ美しい建物が移築されることなく同じ場所で保存されていることは、嬉しいことである。






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