18 新潟〜弥彦神社〜寺泊〜出雲崎〜柏崎
・平成15年8月14日(木) 新潟〜内野
上越新幹線に乗り新潟駅で降りる。駅を出て1キロ程歩く。信濃川に架かる萬代橋を渡る。500m程歩き本町(ほんちょう)市場に着く。市場の中にある朝から開いている食堂で海鮮丼を食べる。
500m程歩き左へ曲がる。1キロ程歩き、市役所の前を通って国道116号線に入る。
空は黒い雲に覆われ、時々雨が降る。
3キロ程歩き、関屋分水路に架かる有明大橋を渡る。砂防林の松林が続くが、飛んできた砂が国道に薄っすらと積もっている。6キロ程歩き、左折する国道116号線と別れて真っ直ぐ歩く。
2キロ程歩き左へ曲がる。越後線の内野駅に着く。雨が本降りになり、風も出てきたので歩くのは今日はここで止めることにする。
越後線の電車に乗り新潟駅に戻る。駅の近くのホテルサンルート新潟にチェックインする。4泊予約していた。
・同年8月15日(金) 内野〜弥彦神社〜弥彦
早朝、新潟駅に行く。改札口が4時30分に開く。4時59分に発車する越後線の電車が6番線ホームに既に入って待っている。発車する8分前の4時51分に隣の4番線ホームに入って来る電車がある。前日の23時10分に新宿を発車した快速の夜行列車「ムーンライトえちご」である。降りてくる乗客を見ていると若い人たちが多い。越後線に乗り換える人もいる。
5時24分に内野駅に着く。駅を出て右へ曲がる。7キロ程歩く。佐潟(さかた)に着く。
佐潟は、平成8年、水鳥の生息地として重要な湿地を保全するラムサール条約の登録湿地となった。標高482mの角田山(かくだやま)を背景にして広がる。面積は43、6ヘクタール(436、000u)である。
佐潟と角田山
角田山の頂上附近は雲に覆われている。佐潟は静寂に包まれている。餌を求めてゆっくり歩を運ぶダイサギの白い姿が、ヨシの茂みに見え隠れする。
気温は25度位だが湿度が高くなっているようだ。曇り空の下、蒸し暑く、空気が重く感じられる中で見る佐潟と角田山は、現実感がなく、夢の中の風景のようである。
2キロ程歩く。巻町に入る。清酒「笹祝(ささいわい)」の笹祝酒造の建物の前を通る。晴れて青空が広がってきた。気温が上がってきている。
10キロ程歩く。岩室温泉の温泉街に着く。静かで落ち着いている。温泉街の周りの休耕田と思われる場所に、ひまわり、ゆり、コスモスが沢山咲いている。岩室温泉病院の横を通る。
今、歩いている道は北国(ほっこく)街道である。旧道らしくゆるやかに蛇行している。両側は杉並木が続く。4キロ程歩く。弥彦神社の参道に入る。
鬱蒼とした杉木立の中は涼しい。二の鳥居を潜る。100m程歩き石段を登る。昭和15年建立の隋身門を潜る。大正5年(1916年)再建の拝殿が建っている。拝殿の建物もその周囲にも落ち着きと品格がある。拝殿の背後に標高634mの弥彦山(やひこやま)が見える。
弥彦神社の祭神は、天香山命(あめのかごやまのみこと)である。天照大神の曾孫になる。
弥彦神社 拝殿
二の鳥居を潜り、手水舎(ちょうずや)の角を右へ曲がる。100m程歩く。御手洗川(みたらしがわ)が流れている。川岸に降りて手を流れに浸す。冷たい。
川に架かる神橋を渡る。一の鳥居を潜り境内を出る。
神社通りを歩く。両側に、食堂、土産物店が並ぶ。饅頭の蒸籠から湯気が噴き出ている。十字路を左へ曲がり、外苑坂通りの坂道を下る。右へ曲がり停車場通りに入る。正面に朱塗りの弥彦駅が建っている。一の鳥居からここまでゆっくり歩いて約30分だった。
弥彦駅の駅舎は、大正6年(1917年)建築。弥彦神社に合わせて寺社を模した造りになっている。内部は、天井が高く風通しがよい。
二つ目の吉田駅で越後線に乗り換える。新潟駅に戻る。
・同年8月16日(土) 弥彦〜寺泊〜出雲崎
朝、越後線の電車に乗る。5時53分に吉田駅に着く。弥彦線のホームに行き電車を待つ。6時29分発の電車に乗る。二つ先の終点弥彦駅に6時37分に着く。
駅を出て左へ曲がる。坂を下り駅の反対側に回る。更に100m程坂を下り国道に入る。左側は稲田が広がる。1キロ程歩き観音寺(かんのんじ)温泉の前を通る。
2キロ程歩き右へ曲がる。山間の切通しのような道を歩く。道の幅は約1m程で、右側に側溝があり、きれいな水が流れている。樹木が茂り薄暗い。
3キロ程歩き野積(のづみ)の集落に入る。民家の間から海が見える。道は下りになる。
1キロ程歩き国道402号線に入る。佐渡島が見えた。佐渡島を見るのは初めてだった。よく晴れた空の下、美しいライトブルーの日本海上に浮かぶ佐渡島は、想像していたよりも近い距離に思え、巨大な島に見えた。
高台の見晴らしのよい場所で日本海と佐渡島をしばらく眺める。
長い坂を下る。国道を走る車の量が多い。2キロ程歩く。大河津分水路に架かる野積橋を渡り寺泊(てらどまり)町に入る。
3キロ程歩く。国道沿いに鮮魚店が並ぶ魚の市場通りに着く。朝10時頃だが人が集まり賑やかである。店はどこも威勢のいい掛け声や呼び込みの声が飛び交う。広い駐車場に、観光バスが次々に入り、停まるたびにおおぜいの人が降りてくる。「たらばがに食べ放題とお買い物ツアー」と表示している観光バスが入ってくる。
殆どの店が店頭で「浜焼き」をやっている。串に刺して焼いているカレイ、鯖がおいしそうだ。
寺泊中央水産の2階の「食堂まるなか」で食事をする。刺身、煮魚、焼き魚の魚尽くしの料理だった。味噌汁にカニが入っている。ご飯も新潟だからおいしい。
店を出て左へ曲がる。坂を登り、右手に日本海と佐渡島を見ながら歩く。
晴れて気温が高いから金山海水浴場、郷本海水浴場、山田海水浴場のいずれも賑わっている。キャンピングカーを歩道に停めて、それが長い列を作っているから車道を歩くことになる。
8キロ程歩き出雲崎(いずもざき)町に入る。
「妻入り」の家並みが続く。新しく建てられる家も旧い建築様式に合わせている。
屋根の大棟と直角の面を「妻」という。妻側に出入り口を設けた建物を「妻入り」とよぶ。間口の広さによって課税されたため、間口を狭く、奥行きを深くして「妻入り」の家を建てた。
出雲崎は、北国街道の宿場町であった。また、佐渡の金銀の荷揚げ港であり、北前舟の寄港地であった。「妻入り」の家並みが続く景観は、往時の繁栄と賑わいを彷彿させる。
6キロ程歩く。良寛(1758〜1831)の生家である名主橘屋山本家の屋敷跡に着く。
良寛が、母・秀の故郷である佐渡島を見ている坐像がある。この坐像は、良寛の「たらちねの母がかたみと朝夕に佐渡の島べをうち見つるかも」の歌に因るものと思われる。
良寛像
良寛堂
坐像の後ろの1m程高くなった場所に良寛堂が建っている。大正11年(1922年)に建立された宝形造(ほうぎょうづくり)の優美な建物である。日本画家・安田靫彦(ゆきひこ)(1884〜1978)の設計による。
説明書に、日本海上に浮かぶ浮御堂の構想により設計された、と書いてある。
良寛堂を前にして、そのまま後ろに下がる。距離が離れたとき、良寛堂が日本海上に浮かんでいるように見えた。芸術家の眼差しを感じた。
堂内には、良寛が常に持ち歩いたといわれる石地蔵を嵌め込んだ石塔が安置されている。
良寛遺愛の石地蔵
文月(ふみづき)や六日も常の夜には似ず
荒海や佐渡(さど)によこたふ(とう)天の河
国道352号線に入る。急な坂を上る。左へ曲がり、左手に海を見ながら坂を上る。右へ曲がる。海が見えなくなる。
真夏の午後の太陽は容赦なく照りつける。右側にプールが見える。水音と子供の歓声が聞える。3キロ程歩き、越後線の出雲崎駅に着く。新潟駅に戻る。
・同年8月17日(日) 出雲崎〜柏崎
朝、越後線の電車に乗る。途中、吉田駅で電車を乗り換えて6時29分に出雲崎駅に着く。
国道352号線の昨日と同じ道を逆に歩く。昨日と違って今日は曇っている。3キロ程歩き北国街道に入る。
左側に芭蕉園がある。小さな公園である。芭蕉の像と「荒海や」の句碑が立っている。
「妻入り」の家並みの間を歩く。昔の道標を模した木造の道標が立っている。その道標に「北國街道 小諸迄五拾五里 江戸迄九拾七里」と書いてある。
また、案内板に、荷揚げした佐渡の金銀は荷車で江戸に運ばれた。車には「御用」と染め抜いた幟旗が立てられ、その車列は大名行列にも劣らないほどの華やかなものだった、という説明がある。
1キロ程歩き、国道352号線へ入る。右手に日本海と佐渡島を見ながら歩く。
2キロ程歩き、西山町へ入る。歩いても歩いても風景に変化がない。佐渡島が右手後方に僅かに移動していく。
6キロ程歩き、柏崎市へ入る。5キロ程歩く。国道が左に大きくカーブする。海が見えなくなる。刈羽(かりわ)村に入る。柏崎市と刈羽村に跨って、柏崎刈羽原子力発電所の施設がある。その横を歩く。3キロ程歩き刈羽村を出るが、また柏崎市へ入る。刈羽村を柏崎市が取り囲むような位置にあるからである。
雨が降ってきた。傘を差して歩く。道路は一直線に延びて整然としている。歩道が広く歩きやすい。5キロ程歩き鯖石川に架かる安政橋を渡る。3キロ程歩く。商店街を通って柏崎駅に着く。
信越線の特急に乗り新潟駅に戻る。
・同年8月18日(月) 豪農の館(寄り道)
朝、ホテルで食事をする。バイキングだった。米は新潟県蒲原平野のコシヒカリ、味噌汁の味噌はホテルが契約している新潟市内の味噌醸造業者の白味噌、という説明が添えられている。栃尾(とちお)の油揚げがある。表面はカリッと焼けているが中はしっとりとして柔らかい。生姜醤油で食べる。新潟らしく鮭の味噌漬けも器に載っている。
おいしいご飯を腹いっぱい食べてホテルを出る。
20分程歩いて、萬代橋の手前左側に建つ万代シティーバスセンターに行く。
「沢海(そうみ)経由新津(にいつ)行き」のバスに乗る。30分程経って横越町(よこごしまち)に入る。入母屋造(いりもやづくり)の広壮な屋敷が並ぶ。道路の両側に松の木が植えられ、高級住宅地の雰囲気を醸し出している。松を街路樹にしている町は珍しいと思う。
バスは、坂を登り、阿賀野川の土手の上に出た後、阿賀野川を左に見ながら走る。バスセンターから約40分乗り、停留所「上沢海博物館前」で降りる。
バスが去った後、道路の反対側に渡り土手を下る。黒塀を巡らした北方文化博物館(旧伊藤邸)に着く。
新潟には豪農の館と呼ばれている屋敷が7ヶ所あり、「豪農の館巡り」の観光案内書が出ている。旧伊藤邸の他、新発田市の市島邸、阿賀野市の斉藤邸、新潟市南区の笹川邸、関川村の渡邉邸、田上町の田巻邸、魚沼市の目黒邸である。
その中でも旧伊藤邸は、豪農の館を代表する屋敷といえるだろう。
入館するときにいただいた案内書から引用する。
「江戸時代中期、農より身を起こし代を重ねて豪農の道を歩み、やがて巨万の富を築き、越後随一の大地主となった一族があった。これが伊藤家である。
明治に入り、次第に農地の集積を計り全盛期には1市4郡64ヶ町村に1、370余町歩の田畑を所有、昭和期には県下一となり作徳米(さくとくまい)は3万俵余であった。
しかし、時代は変わり戦後農地解放によりこれらの土地は伊藤家の所有から離れた。
明治15年から8年がかりで建てられた伊藤家の豪壮な本邸は敷地8、800坪(29、100u)、建坪1、200坪(3、967u)、部屋数65を数える純日本式住居で、昭和21年遺構保存のため、『財団法人北方文化博物館』が創設され、これに全部寄附されたものである。
長年の風雪に耐え、往時の面影をそのままに豪農伊藤家の暮らしを今に伝えてくれる。
平成12年4月、国の登録有形文化財に登録された。」
伊藤家の当主は代々文吉(ぶんきち)を襲名する。現在の当主である昭和2年生まれの8代伊藤文吉氏は、北方文化博物館の館長である。
松が聳える前庭の間の道を歩く。土蔵門を潜り本邸に入る。
最初に上がった場所は三間(みま)続きの茶の間だった。27畳の広さである。板戸は、欅の一枚板を使用している。
欅の板戸
廊下に出る。屋根の裏板を支えるために棟から軒にわたす垂木を受ける桁は、16間半(30m)の一本の杉でできている。
中庭を見ながら長い廊下を歩く。大広間に入る。美しい庭園が広がる。襖絵を見るような思いがする。
作庭は、新潟県柏崎出身の庭師・田中泰阿弥(たなかたいあみ)(1898〜1978)による。完成までに5年を要した。
新緑、紅葉、雪景色の頃は、一層素晴らしい眺めになるだろう。
大広間
平書院
大広間の床の間の裏側に裏座敷がある。大広間、裏座敷を囲む廊下には、釣欄間(つりらんま)の工法で柱がない。視野を遮るものが少ないので庭園が広く見渡せる。
茶の間に戻る。隣室は板の間になっている。一隅に、幅1m、奥行き50cm、高さ50cm程の大きなオルゴールが置いてある。箱の前面に象嵌が施されている。
「スイス製オルゴール(1800年〜1900年製)。王室の注文でスイスのメルモード・フレール社がつくった手作り品。6代文吉の三男・秀夫が昭和初期、フランス留学の帰途パリにて購入し、持ち帰ったもの。」という説明書が添えられている。
内部に円筒が見える。シリンダー式のものだなと思っていると、女性の職員が近くを通ったので、音色を聴いてみたいと話したが、音は出ないということであった。修理に出したが修復はできなかったようだ。
スイス製オルゴール
板の間の隣の部屋に大きな囲炉裏が切ってある。六尺(1、8m)四方の大きさで大人16人が一度に座ることができる。
六尺(1、8m)四方の囲炉裏
台所は、70坪(231u)の広さである。伊藤家の家族の他に約60人の使用人がいたため、毎朝、竈で一俵の米を炊いていたといわれている。
今、台所はひっそりとしているが、当時は、竈の釜から湯気が吹きこぼれ、水音、土間を行き交う女たちの下駄の音、お喋り、笑い声などで早朝から賑やかだっただろう。
台所2階の板の間は考古資料館になっている。旧地主時代の文献、出土品の展示を行っている。博物館としての目的に適うことであると思われる。
天井を見上げる。幾重にも重ねられた梁が見える。次のように説明されている。
「豊かな財力を活用し、何重にも重ねた梁組(はりぐみ)が高い屋根裏を作り出す。斜めに渡された筋交(すじかい)と呼ばれる補強材は、個人の邸宅ではめったに使われないぜいたく仕様。新潟を襲った三度の大地震にびくともしなかった頑丈さを兼ね備えている。上部の窓は、戦時中空襲を察知するために物見櫓(やぐら)として使われていた。」
7代文吉の写真が掲げられている。白皙の知的な風貌は学者を思わせる。
終戦後、7代文吉は、自邸を博物館にすることを決意する。GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の指導を受け準備を進め、昭和21年、「財団法人北方文化博物館」が創設された。7代文吉は、初代館長となった。
7代文吉の英断と尽力により、代々の当主が蒐集した書画、陶磁器、漆器等の美術品、工芸品の散逸は免れ、建物、庭園が往時のままに維持されることになった。
大正7年(1918年)慶応義塾大学を卒業後アメリカのペンシルバニア大学に留学する。大正14年(1925年)に帰国する。この経験と語学力がGHQとの折衝の際に大いに役立ったと思われる。
代々の当主の人柄によるのだろう。建物と庭園は明るく大らかな雰囲気に満ちている。
本邸を出る。土蔵門に造られた美しい扉を持つ土蔵を見る。
次に集古館に入る。1階部分と2階部分に代々の当主が蒐集した美術品等を展示している。元は米蔵で2,000俵の米俵が積まれていたとの説明がある。なまこ壁の美しい建物である。
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土蔵 | 集古館 |
大きく枝を広げて日陰を作っている藤棚の横を通る。見学を終えた人たちが強い日差しを避けて、藤棚の下のベンチで休んでいる。
敷地内に二棟の民家を移築、保存している。「吉ヶ平(よしがひら)民家」と「刈羽(かりわ)民家」の二棟である。
「吉ヶ平民家」は、新潟県南蒲原郡下田(しただ)村吉ヶ平に建っていた明治初期の建物である。
「刈羽民家」は、柏崎市大沢集落から移築復元したもので江戸初期に建立した400年前の建物である。約20坪の土間生活時代を偲ぶ建物、という説明がされている。
「刈羽民家」の前には田圃が作られている。黄金(きん)色に色づいた稲と茅葺の建物がよく合って、移築されたとは思えず元からこの場所に建っていたような自然な光景である。
中に入る。土間に囲炉裏が切られている。説明書が掲げられていた。節約を奨める藩の命令により、一家に一室のみ板の間とすることが許された。畳はない。板の間は家長の生活の場であり、家族の他の者は土間に莚を敷いた生活であった、と書かれている。
村薫氏の『レディ・ジョーカー』の岡村Cニは、辞めた会社に長い手紙を出す(岡村Cニの手紙については、目次9、平成13年6月1日参照)。自身の生い立ちを綴っているが、その中に次のような文章がある。
「小生の故郷の邊(あた)りでは人間と馬は同じ屋根の下に居るもので、疊はなく、大抵土間に藁か莚を敷いてゐるのです。」
この文章を読んだとき、土間に藁か莚を敷いて暮らした人たちがいたことに驚いたが、今日、一段高い板の間で家長が生活し、家族が土間に莚を敷いて暮らした生活の跡を見て、人生の過酷さに愕然とした。
上を見上げる。家の屋根を支え受けるために組み立てた小屋組(こやぐみ)が見える。
刈羽民家
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土間 | 小屋組 |