19 神戸 西宮(兵庫県) 長府(山口県) 武雄温泉(佐賀県) 柳川(福岡県) 長崎
・平成26年12月26日(金) 旧トーマス邸 武庫川女子大学甲子園会館
東京駅6時発の「のぞみ1号」に乗る。新神戸駅に8時41分に着く。
タクシーに乗る。旧トーマス邸へ行く。車は急坂を上り、10分程で北野、山本地区の異人館が並ぶ通りに入る。旧トーマス邸の前に着く。
旧トーマス邸
旧トーマス邸は、ドイツ人貿易商・ゴッドフリート・トーマス(1871~1950)の住いとして明治37年(1904年)に建てられた。地下1階付一部3階建、1階は煉瓦造、2階は木造ハーフティンバーである。塔屋の尖塔の上に風見鶏が立っていることから「風見鶏の館」として親しまれている。
昭和53年(1978年)、国重要文化財に指定された。
設計はドイツ人建築家・ゲオルグ・デ・ラランデ(1872~1914)である。
昨年11月2日、移築保存されているデ・ラランデの自邸を訪ねた(デ・ラランデ邸については、目次13参照)。
デ・ラランデは、明治36年(1903年)来日、多くの建築設計をしたが、現存する建物は、デ・ラランデ邸と旧トーマス邸の2棟だけである。
石段を上がり、石造のポーチを通って玄関に入る。1階、2階共に広い部屋と大きな窓で開放的な造りである。
1階居間は、奥に段違い床をとり、優雅な雰囲気を醸し出している。
居間
扉の把手金具は、ドイツのユーゲントシュティールである。
当時は、海に面した1階と2階の居間とバルコニーから神戸港が見えたのだろうが、現在はビルが立ち並び、2階へ上がっても海は見えない。
タクシーに乗りJR三ノ宮駅へ行く。東海道本線の各駅停車の電車に乗る。約20分で甲子園口駅に着く。
20分程歩く。西宮市戸崎町の武庫川(むこがわ)女子大学上甲子園キャンパスに着く。
緑豊かな上甲子園キャンパスに昭和5年(1930年)竣工の旧甲子園ホテル(現・武庫川女子大学甲子園会館)が建っている。
設計は遠藤新(えんどうあらた)(1889~1951)である。遠藤新は、アメリカ人建築家・フランク・ロイド・ライト(1867~1959)の弟子であった。
旧甲子園ホテル(現・武庫川女子大学甲子園会館)
左右に二つの塔を持つ甲子園会館を初めて見たとき、カンボジアのアンコールワットを思い出した。旧帝国ホテルも回廊を巡らせ、外壁は凹凸があり、古代の神殿を彷彿させる建築物であった。
甲子園ホテルは、阪神間に生まれた超一流ホテルとして「東の帝国ホテル、西の甲子園ホテル」又は、「西の帝国ホテル」と呼ばれて称えられ、皇族を始め、政財界人、上級軍人で賑わった。
しかし、太平洋戦争の敗色が濃くなった昭和19年(1944年)、海軍病院として収用され営業停止となった。戦後は米軍の将校宿舎に転用され、接収が解除された後は大蔵省の管理下に置かれた。
昭和40年(1965年)、武庫川学院が国から譲り受けて改修し、教育施設として再生した。現在、武庫川女子大学の社会人講座、生活環境学部建築学科の教室などに活用されている。
平成19年、経済産業省の近代化産業遺産に認定。同21年、国登録有形文化財に登録。同年、兵庫県景観形成重要建造物に指定された。
帝国ホテルの設計のため大正4年(1915年)に来日していたライトは、帝国ホテル設計の傍ら依頼を受けて、自由学園明日館(みょうにちかん)、旧山邑邸(現・ヨドコウ迎賓館)の設計も行った。
それぞれの設計は終了したが、大正10年(1921年)7月にライトは帰国する。帝国ホテルの工事が着工時の予算の6倍になったことと、工事の遅延の責を負わされたのである。
遠藤新は帝国ホテルの工事を引き継ぎ残りを完成させる。同様に自由学園明日館も旧山邑邸も引き継いで完成させた。
旧山邑邸は、建築家・南信(みなみまこと)(1892~1951)も工事に加わった。
フランク・ロイド・ライト、帝国ホテル、自由学園明日館については、目次6、平成24年5月19日、目次8、同年11月4日、「奥の細道旅日記」目次6、平成12年8月16日参照。
ヨドコウ迎賓館については、目次9、平成25年1月5日参照。
遠藤新については、目次2、平成23年11月5日、「奥の細道旅日記」目次6、平成12年8月16日参照。
私は、甲子園会館は、ライトの下で建築を学んだ遠藤新の最高傑作だと思っている。その作品を是非見学したいと長年希望していた。しかし、大学が許可する見学日と私の予定がなかなか合わなかった。
今回、何とか予定が取れたので、見学の案内通りに電話で予約した。
見学は午後1時30分から始まり、見学時間は1時間30分である。正門横の守衛室で入館の手続きをするのは見学開始の5分前である。それまではキャンパスの敷地内に入ることもできない。
敷地外から甲子園会館の写真を撮ろうと思ったが、生憎、正門の両側に聳えるヒマラヤ杉に飾られていたクリスマスのイルミネーションをクレーン車が出て撤去作業を行っていた。作業の邪魔をするわけにはいかない。
12時になって作業員が休憩に入ったので、その間、敷地外の遠くから写真を撮ることができた。
午後1時25分に守衛室で入館の手続きを行った。見学者は私の他に4名であった。
案内をしてくださる女性の職員が館内から出て来られた。すぐに建物の歴史から説明が始まり、館内へ案内された。
敷地内から外観の写真を撮る時間はなかった。館内でも、私だけが立ち止まって写真を撮っていると、説明をしてくださる職員や他の見学者の迷惑になるだろうと思い、敷地内からの外観の写真や館内の写真を撮ることは止めることにした。
玄関から中に入る。中央に玄関、フロント、ロビーを置いている。
柱の照明器具のカバーは貝殻の形をしている。貝殻型のカバーは全館で見ることができる。
ロビーの説明を受けているとき、水滴が落ちる音に気が付いた。水琴窟(すいきんくつ)に似ている美しい音である(水琴窟については、「奥の細道旅日記」目次1、平成10年8月13日参照)。
ロビーの前を通って、真紅の絨毯が敷かれた通路を先へ進むと、石造の「泉水」が造られていた。そこから溢れた水が「泉水」の壁に彫られた「打出の小槌」文様の上を伝って、下に造られた水盤に滴り落ちて、涼しい音を響かせていた。
「打出の小槌」と「水滴」のモチーフは甲子園会館の随所に使われている。
更に先へ進む。左手の階段を降りて、1階西ホールに入る。バンケットホール(宴会場)だった広間である。斜面を利用して建てられているためにフロントやロビーよりも下がった位置にある。
西ホールは華麗な美しさに満たされていた。
「打出の小槌」文様のテラコッタ(陶板)と、石膏に金粉を吹き付けたものが、恰も花や葉が垂(しだ)れているように見えて、豪華な雰囲気に湛えられている。テラコッタも金粉も落ち着いた色である。
天井の照明は市松格子の障子に覆われて、ホールに柔らかい光を降り注ぐ。
欧米諸国のホテル仕様の大きな扉の高い位置に付けられているドアノブを回して外へ出る。
外壁は、凹凸のある褐色のテラコッタ、素焼きのタイル、凝灰岩に彩られている。波の模様の列柱が続く。ここでも「打出の小槌」の文様を見ることができる。幾何学的なデザインもある。アール・デコである。
ライトは、平面を平らなままに終わらせず凹凸を付けて、メリハリのある壁面を造った。
屋根は、古代の宮殿や寺院の屋根を飾った淡緑色の緑釉瓦(りょくゆうがわら)で葺かれている。
屋根の端は、瓦を二重に葺いている。
遠藤新は、ライトの建築哲学、美学を継承しつつ、「打出の小槌」や「水滴」の文様、市松格子の障子、緑釉瓦などの日本の伝統美を取り入れている。
1階東ホールは、生活環境学部建築学科のスタジオとして活用されているため、外側からガラス越しの見学になったが、壁のモールディングがアクセントとなって、瀟洒な部屋となっている。
最後に、屋上へ案内される。テラスになっていて、芝生の向こうに聳える松林など緑溢れる周囲の景観を楽しむことができる。また、美しい緑釉瓦を近くで観察することができた。
ライトと遠藤新は、ライトが帰国して以後会うことは二度となかった。
遠藤新のご子息であり、ご自身も建築家の遠藤陶氏の『帝国ホテル ライト館の幻影 孤高の建築家遠藤新の生涯』によると、師弟の暖かい関係は続いていた。
甲子園ホテルを設計した遠藤新は、ホテルの完成を待って図面と写真をライトに送っている。
「その返信(1930年7月29日付)には、愛弟子新に対する限りない愛情と理解が綴られていた。
『みごとなお手並みです。そして私には、あなたがそれにどれほど打ち込まれたかがよく想像できます。(中略)あなたには勇気があり、大いに見込みがあります。あなたがこの建物でどれほど苦労されたか、誰も私ほどよく理解することができません』
そして、家具のデザインやカーペットについての二、三の苦言を呈した後に、『図面を抱えて相談に来られればよかった』と、アドバイスができなかったことを残念がってもいる。
最後には、将来、新とともに仕事ができるかもしれない。また、そのような機会に恵まれたら是非実現したいものだとしている。」
昭和20年(1945年)8月15日の終戦の日から2年後、1947年4月25日付の手紙を、ライトはマッカーサー宛に出す。
ライトの『弟子達への手紙』(丸善株式会社発行、訳者・内井昭蔵氏、小林陽子氏)から引用する。
「どうぞ、面倒な手続きを省略し、あなたに2人の忠実な日本人友人への私の援助をお願いするのをお許し下さい。そして、同封の小切手を、東京の帝国ホテルの建設にあたっての私の忠実な助手遠藤新に与えて下さいますようご配慮ください。遠藤さんは東京帝国大学の博士を通じて連絡がとれると思います。もし彼と彼の家族がウィスコンシン州スプリング・グリーンの私のところへ渡ることができたら、彼が(財政的な)いかなる政府の援助も受けないで自立できることは私が保証します。」
続いて、ライトは、帝国ホテルの建築にライトを推薦した当時の帝国ホテル支配人・林愛作(1873~1951)に対しても同様の援助をすることを依頼する。手紙は次の文章で終わる。
「私は彼らの比類ない忠誠心に対し報いらずにはいられないのです。
そして、元帥、どうぞ被征服者たちに対しての温かいご配慮をお願い申し上げます。それは、暗い背景の中で1つの光明であります。」
遠藤陶氏の『帝国ホテル ライト館の幻影』の中に、この手紙のことを知った遠藤新について記されている。
「『何年たっても弟子をお忘れにならない先生の温かい心が、遠い海をこえながらじかに感じられる。生涯のかたじけなさである。先生のお達者を祈るだけ』
そう言うと、嗚咽を堪えることができなくなっていた。」
ライト式を踏襲し、自身の意匠を加えた美しい建物を遺してくれた遠藤新に感謝の気持ちが湧き起る。
建築学的にも歴史的にも価値のある建物が、移築されることなく建てられた場所で保存され、活用されていることはありがたく嬉しいことである。建築当時の美しい姿を損ねることなく、保存し、維持するのはたいへんなご苦労がおありだと察する。
解説してくださった職員の方のお話は丁寧で分かりやすく、職員の方が遠藤新を尊敬し、甲子園会館に対して深い愛情を持っておられることを感じた。
質問にも明快に答えてくださった。ありがとうございました。
甲子園口駅に戻り電車に乗る。三ノ宮駅で降りて地下鉄に乗り換える。一つ目の新神戸駅で降りる。
新神戸駅16時34分発の九州新幹線「さくら567号」に乗る。九州新幹線の指定席は普通車でも1列4席であるからグリーン車のように椅子の幅が広く、ゆったりと座れる。
18時43分に小倉駅に着く。山陽本線の電車に乗る。約15分で下関駅に着く。
駅前の下関東急インにチェックインする。2泊予約していた。
下関東急インは食事がおいしいので楽しみである。
・同年12月27日(土) 長府(山口県)
ホテルでバイキングの朝食を摂る。下関らしく、「ふぐ」入りのお粥、「ふぐ」入りの味噌汁がある。
白飯も食べる。山口県萩産のコシヒカリである。
ところで、下関では「ふぐ」のことを「ふく」と呼ぶ。「福」につながるという意味があるようである。
そのことをレストランの係りに伺ったら、「ふぐ」を漢字で書くと、「河豚」ですね。漢字の見た目が良くないので、「福(ふく)」と呼んでいるんです、という説明があった。
食後、ホテルを出て、駅前から8時57分発のバスに乗る。
約25分で停留所「城下町長府」に着く。バスを降りて先へ進む。二つ目の角を左へ曲がり鳥居前道路に入る。
毛利秀元(ひでもと)(1579~1650)は、慶長7年(1602年)、長門長府藩5万石を創始して初代藩主となった。城下町長府(ちょうふ)が生まれた。
秀元は、毛利元就(もとなり)(1497~1571)の4男・穂井田元清(ほいだもときよ)(1551~1597)の長男である。
穂井田元清の兄である毛利隆元(たかもと)(1523~1563)、吉川元春(きっかわもとはる)(1530~1586)、小早川隆景(こばやかわたかかげ)(1533~1597)の3人は正室の子であったが、穂井田元清は側室の子であった。
200m程歩く。横切っている通りを渡る。この通りは旧山陽道である。
正面の石段を上がる。忌宮(いみのみや)神社の境内に入る。説明書によると、「忌宮神社は長門国二の宮で、仲哀(ちゅうあい)天皇、神功(じんぐう)皇后が西国平定の折り、ここに豊浦宮(とよらのみや)を建て、仲哀天皇2年(193年)から仲哀天皇9年(200年)までの7年間滞在したと言われている。」 と書いてある。
神社の職員や氏子と思われる人たちが飾り付けをして、お正月の準備をしている。
境内を通って横枕小路(よこまくらしょうじ)に入る。両側が土塀になっている80m程続く道である。城下町の風情がある。
横枕小路を通って左へ曲がる。80m程歩く。三叉路に出る。左へ曲がり100m程坂を下る。最初の角を右へ曲がり100m程歩く。古江小路(ふるえしょうじ)に入る。
古江小路
右へ曲がり、古江小路の緩やかな坂を上がる。古江小路も両側が土塀になっている。静かな道に暖かい陽が差している。
80m程上がる。右手に菅家(かんけ)長屋門が建っている。
菅家は、代々、侍医(じい)兼侍講(じこう)職を務めた家柄であった。その家柄にふさわしい構えを見せ、門から左右に40m程延びる土塀には格子窓が施されている。
菅家長屋門
20m程上がる。また三叉路に出る。正面には長府毛利邸の石垣が延びている。
左へ曲がり石垣に沿って歩く。長府毛利邸の門が見える場所に出た。石畳が敷かれた坂道を上がる。門前に着いた。
長府毛利邸
門を通って中に入る。広い敷地は、相当の樹齢を重ねたと思われる大木が聳えている。母屋に入る。
母屋
長府毛利邸は、説明書によると、長府毛利家14代当主の毛利元敏(もととし)(1849~1908)が、東京から長府に帰住し、この地を選んで建てた邸宅で、明治31年(1898年)に起工し、明治36年(1903年)6月に完成した後、大正8年(1919年)まで長府毛利家の本邸として使用された。
明治35年(1902年)、明治天皇が熊本で行われた陸軍大演習をご視察の際、長府毛利邸を行在所(あんざいしょ)として使用された。一部の部屋が当時のまま残されている。
美しい書院造の座敷に入る。右手は中庭、左手は庭園になっている。
座敷を出て広縁から庭園を眺める。碧色の杉苔が広がっている。
長府毛利邸を出て、古江小路の坂を下って、下関行のバスが来る停留所へ行く。停留所は、神戸製鋼所長府製造所の長い塀の前にある。
1時頃、宿泊している下関東急インに着く。ランチのバイキングに間に合った。
ステーキを注文してから焼いてくれる。「ふぐ」のサラダがある。食後、ゆっくりとコーヒーを飲んで休む。
・同年12月28日(日) 武雄温泉(佐賀県)
武雄温泉 楼門
ホテルで朝食後、駅へ行く。山陽本線の電車に乗る。約15分で小倉駅に着く。新幹線に乗り換える。17分で博多駅に着く。
博多駅9時31分発の佐世保線の特急に乗る。武雄温泉駅に10時40分に着く。
駅を出て左へ曲がる。20分程歩く。右へ曲がる。武雄温泉の楼門が見えてきた。
袴腰と呼ばれる楼門1階の漆喰の白壁と、2階の柱や勾欄(こうらん)の朱色、連子(れんじ)の緑色が鮮やかでとても美しい。これまで何度か武雄温泉には来たが、こんなに美しい楼門を見るのは初めてだった。
後で伺ったが、平成25年、耐震補強工事を含めた改修工事が行われた。このとき、瓦を葺き替え、古い塗装を落とし、色を塗り直したということであった。
楼門が建てられたのは、大正3年(1914年)。設計は辰野金吾(1854~1919)である。
辰野金吾は、明治、大正期の代表的建築家である。東京駅、日本銀行本店他多くの建物を設計し、その多くが現存している(辰野金吾については、目次14、平成25年12月28日参照)。
楼門に入る。天井は「折上げ格天井」。釘を使わない日本の伝統工法である「木組み」の構造である。精緻な「木組み」と鮮やかな朱塗りの美しさにあらためて目を見張る。
楼門 1階
楼門を潜る。真正面に、木造2階建ての旧共同湯の建物がある。現在は温泉資料館となっている。旧共同湯の建物も、辰野金吾の設計により、楼門と同じ大正3年に建てられた。
旧共同湯は昭和48年(1973年)まで使用されていた。その後、解体修理され、平成15年、竣工時の姿に復元された。
楼門と旧共同湯の建物は、平成17年、国重要文化財に指定された。
旧共同湯
旧共同湯の建物は、左右対称で両翼を張り出し、反り屋根である。玄関に車寄せを設けている。車寄せの上、2階正面の窓は、寺社建築、城郭建築に見ることが多い花頭窓(かとうまど)である。
大棟の両端に鴟尾(しび)を載せ、付け柱や付け梁を飾りとして、外観は真壁の構造にしている。
日本の伝統的な意匠を備えた格式の高い美しい建物である。
辰野金吾は、嘉永7年、肥前国唐津藩(現在の佐賀県唐津市)に生まれた。
出身地が佐賀県という誼(よしみ)があったとはいえ、よくぞ温泉の施設の設計を引き受けたと思う。楼門と旧共同湯の建物が完成した大正3年の同じ年に東京駅が完成している。
しかも、辰野金吾は、温泉の施設だからといって、それを軽んじたり、洒脱に陥ったりすることなく、様式に則った格式の高い建物を造り上げた。
明治になって外国人向けのホテルが建てられた。現在では100年を超えるクラシックホテルである。それらのホテルと比べても、楼門と旧共同湯の建物は、格式の高さと美しさでは決して遜色のない建物である。
旧共同湯の車寄せの天井も格天井である。美しく彩色された「木組み」を見ることができる。
車寄せ 内部
中に入る。お土産屋さんがある。2階は立ち入り禁止になっている。2階は休憩室だったのだろう。
旧共同湯の建物の裏に併設された当時の共同湯の浴室が、当時のままに保存され、男子の浴室のみ見学できるようになっている。
浴室は三か所ある。料金で区別しているようである。料金の表示はないが、最も安かったと思われる浴室は簡素な造りになっている。天井に八角形の湯気抜きが設けられている。浴槽が深いので立って入っていたのだろう。
旧共同湯浴室 天井
隣は「五銭湯浴室」と表示され、「タイルは佐賀県有田町の製品」と説明されている。
五銭湯浴室
その隣は「十銭湯浴室」と表示され、「浴槽底のタイルは、大正15年に施工されたマジョリカタイル」と説明されている。
製造に手間はかかったが、大正時代には日本でもマジョリカタイルは製造されていた。
十銭湯浴室
武雄温泉の開湯は1、300年前と伝えられている。
現在、共同湯は三か所ある。武雄温泉に来たときはいつも入る「元湯」に今回も入る。
浴室は天井が高く、束柱(つかばしら)と梁が交差している。湯気抜きの隙間を設けている。古風な共同湯の趣がある。
二つの石造の浴槽がある。「あつ湯」と「ぬる湯」に分かれている。「あつ湯 45、5°C~44、0°C 源泉に近い温度です」「ぬる湯 43、0°C~42、0°C ぬるめにしています」と掲示されている。
「あつ湯」には地元の人たちが入っているようである。「ぬる湯」に入る。
泉質は弱アルカリ単純泉。肌がつるつるになる。ゆっくり入って温まる。
温泉に入り、休憩室で寛ぎ、日頃の憂さを暫し忘れて竜宮城で憩うような気分になってもらおうとして、竜宮城のような門を造ったのだろう。
国重要文化財の美しい建物を鑑賞した後、上質の温泉に入っていると、武雄温泉は何と贅沢な温泉だろうかと思う。
駅に戻り、博多行きの特急に乗る。約25分で佐賀駅に着く。少し後戻りしたことになる。
駅前のホテルにチェックインする。2泊予約していた。
・同年12月29日(月) 柳川(福岡県)
ホテルで朝食後、駅前のバスターミナルへ行く。7時30分発西鉄柳川駅行きのバスに乗る。
バスは福岡県に入り大川市を通る。大川市は家具の生産が多い所である。両側に、家具の工場や家具の店舗、仏壇屋さんが並んでいる。
約50分で西鉄柳川駅に着く。タクシーに乗る。
柳川は15年前の5月に来たことがある。
そのとき、旧市街地を縦横に流れる堀割を、「どんこ舟」と呼ばれる和舟に揺られてめぐった。いくつもの橋を潜り、竹竿で舟を操る船頭さんのユーモアのある説明を聞きながら約1時間の川下りだった。
風薫る5月、よく晴れていた。堀割のあちらこちらに花菖蒲が咲き、つつじも鮮やかな色で咲いていた。城下町柳川は水の都である。
タクシーは10分程走り、柳川藩藩主の別邸があった場所に着いた。
豊臣秀吉(1537~1598)は、天正15年(1587年)、20万の大軍を率いて九州に侵攻し、薩摩国の島津義久(よしひさ)(1533~1611)を降伏させ、九州を平定した。
立花宗茂(むねしげ)(1567~1643)は、島津義久と敵対していた豊後国の大友宗麟(そうりん)(1530~1587)の先鋒として活躍した。その功により、秀吉は立花宗茂に筑後柳川の地を与えた。立花宗茂は13万石の柳川藩初代藩主となった。
元文3年(1738年)、柳川藩5代藩主・立花貞俶(たちばなさだよし)(1698~1744)は、この地に別邸を設けた。
当時、この地は、藩の薬草園があり、「御花畠」と言われていたことから、別邸の地は「御花(おはな)」と呼ばれるようになった。
明治5年(1872年)、柳川城焼失後、この地に藩主立花家の本宅が移された。その後、立花伯爵家の邸宅となった。
立花家14代当主・立花寛治(ともはる)(1857~1929)は、明治43年(1910年)、大広間のある和館を建て、明治44年(1911年)、迎賓館として西洋館を建てた。西洋館の設計は、三條栄三郎(1876~1929)、亀田共次郎(生没年不詳)の二人である。
大広間に面して造られた庭園「松濤園(しょうとうえん)」は、昭和53年(1978年)、国の名勝に指定された。
平成23年、「御花」の全敷地7千坪が「立花氏庭園」として改めて国の名勝に指定された。
御花
西洋館は、木造2階建、左右対称、高さがあって気品がある。
正面中央、三角破風(はふ)のペディメント。尖塔状の飾りが見える。車寄せの上に大きくせり出した2階部分の前部を10本のトスカナ式の石柱が支えている。
西洋館の玄関からは中に入れない。建物の右へ回る。
西洋館に隣接して、2階建てのレストラン「対月館」がある。「対月館」1階の受付で入館料を払う。1階の受付から案内板に従って西洋館の内部に入る。
1階の玄関ホールは、4本のイオニア式の柱が三連アーチを支える。アーチ頂部にキー・ストーン(要石)の装飾がある。優美なホールである。
玄関ホール
美しい階段を上って2階へ行く。
旧謁見室 入口
2階の広い部屋は謁見室だった。華麗な部屋である。控の部屋を備えてある。
旧謁見室から控の部屋を見る
天井も豪華な造りだった。シャンデリアを中心にして、型どりされた漆喰で飾られている。
旧謁見室 天井
上がって来た階段とは反対の階段を降りて、案内板に従って和館へ向かう。西洋館と和館は渡り廊下で結ばれている。和館は、西洋館と「松濤園」の間に建っている。
沢山のお雛様が飾られている部屋に入った。立花家に花嫁がお輿入れの際、婚礼道具と共に実家から持参したものだろうか。
柳川で「さげもん」と呼ばれている天井から吊るされた雛飾りを見ることができた。
桃の節句が近づくと、大広間に雛壇が並べられ、「さげもん」ももっと大がかりな飾り付けになるようである。
さげもん
美しいガラス戸が並ぶ広縁を歩く。左手は100畳の大広間である。宴会場として使われている。長押(なげし)に金箔の兜が掛けられている。
和館
大広間
豊臣秀吉は、文禄元年(1592年)から慶長3年(1598年)まで朝鮮に出兵した。立花藩も朝鮮に出兵した。金箔の兜は、この文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)の折り、着用したものと伝えられている。
大広間に入り広縁に出て、「松濤園」を見る。庭園に1、500個の庭石、池の周囲に280本の松を配している。「松濤園」には冬、野鴨が飛来する。
「対月館」に戻り2階へ上がる。テラスから「松濤園」の全体が見渡せる。
「松濤園」は、日本三景の一つ、宮城県の松島を模して造られたと言われている(松島については、「奥の細道旅日記」目次6、平成12年8月14日参照)。
松濤園
左手奥の4階建ての建物は、昭和59年(1984年)建築のホテル「御花 松濤館」である。西洋館の2階部分と和館も見ることができる。西洋館の暖炉用の太い煙突が見える。
和館
ここから見る風景は、「御花」の敷地7、000坪の約半分である。同じ面積が更に樹木の向こうに広がっている。
昭和20年(1945年)8月15日終戦。昭和22年(1947年)5月3日、日本国憲法が施行された。同日、皇室典範が施行され、三直宮(じきみや)を残し皇籍離脱があり、華族制度が廃止された。同年、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の指導の下、日本政府によって農地改革が行われた。
立花家は、戦前、おおぜいの小作人を抱え、広大な農地を所有していた。
昭和22年、立花家16代当主を継いだ立花和雄(1907年~1994年)は、華族制度の廃止、農地改革、財産税という未曽有の変革を受け、「御花」の敷地、西洋館、和館を売却するか否かの決断を迫られた。
もともと西洋館や和館の大広間を、パーティーや宴会場として使用していたことから、財務事務所が料亭を始めることを勧める。
それを受けて、昭和25年(1950年)から料亭を始めた。しかし、殿様が水商売なんて先祖に顔向けできない、と言われ、反対も多かった。しかし、立花和雄は、屋敷を残したい一心で仕事に邁進する。後に、旅館業も始め、料亭・旅館「柳川 御花」を営む。
立花和雄の英断と尽力により、「御花」の敷地、西洋館、和館が往時のままに維持され、甲冑、婚礼道具、装束、茶道具、古文書、書画、陶磁器、漆器など400年以上に亘って伝えられた貴重な品々の散逸は免れた。
現在、和館は食事室と宴会場になっている。西洋館はパーティーやコンサートホールに活用されている。
西洋館の横を通って外へ出る。
「御花」の周囲は、ほぼ堀割に囲まれている。西洋館の正面の左手に舟着場がある。
元日、羽織袴に山高帽をかぶって明治時代の名士然とした立花家の当主が舟着場に立っていると、洋服に笠をかぶった明治時代初期の郵便配達夫の格好をした郵便局員が舟に乗って近づいて、袈裟がけにした鞄から取り出した年賀状を当主に手渡す映像を見たことがある。
立花伯爵家の時代を彷彿させて良い催しだなと思った。
ちょうど、川下りの案内人が立っていたので、そのことを伺うと、あれは5年前から止めているということだった。心が和む情景だっただけに止めたことは残念だった。
また、冬は舟に炬燵を載せて「こたつ舟」として運行しているというお話を聞いた。
左へ曲がり、堀に架かる竹門橋を渡る。また左へ曲がり、堀に架かる沖の端橋を渡る。
「殿の倉」と呼ばれている立花家資料館の長いなまこ壁を見ながら堀割に沿って歩く。「松濤園」横の堀割に出た。
「松濤園」横の堀割
後戻りする。沖の端橋の手前を左へ曲がり、堀割に沿って歩く。水天宮の横の堀割を通り過ぎて十字路に出る。左へ曲がる。北原白秋生家に着く。「御花」から約20分程で着いた。
水天宮横の堀割
北原白秋生家
詩人・北原白秋(本名・隆吉)(1885~1942)は、明治18年、福岡県山門郡沖端村石場(現在の柳川市沖端)に生まれる。
北原家は、屋号を古問屋(ふつどいや)または油屋という海産物問屋であり、代々柳川藩の御用達であった。白秋の父の代になってから酒造業を営む。
明治34年(1901年)、沖端の大火で類焼し、辛うじて母屋だけが焼け残った。その後、敷地と母屋は所有者が転々と変わった。
昭和44年(1969年)、荒廃していた母屋が復元され一般公開されることになった。母屋は明治維新頃の建物であると推定され、福岡県指定文化財になっている。
茶の間の前を通って長い土間を歩く。途中、次のような記事が掲示されていた。
「東洋英和女学院(東京都港区)高等部の生徒が修学旅行で白秋生家を訪れた。東洋英和女学院の校歌は、作詞北原白秋、作曲山田耕筰により昭和9年に作られた。高等部の生徒たちは、白秋生家で校歌を合唱した。」
校歌を作ってもらったお礼に、北原白秋、山田耕筰に対して感謝の気持ちを込めて歌ったのだろう。美しい光景が目に浮かぶ。
土間を通って外へ出る。北原白秋記念館(柳川市立歴史民族資料館)が建っている。昭和60年(1985年)、白秋生誕100年を記念して北原家の広大な旧跡地に建設された。館内では、柳川の歴史と白秋の生涯について資料が展示されている。
白秋生家と白秋記念館の間に庭がある。大きな金色のザボンの実が枝もたわわに生(な)っている。蔵の白壁の前に「からたち」の木が立っていた。
からたちは枝に鋭い棘がある。そのため、白秋の詩「からたちの花」にあるように垣根として植えられることが多かったのだろう。
からたち
白秋は、作曲家・山田耕筰(1886~1965)と共に、大正11年(1922年)、『詩と音楽』を創刊した。その頃から、白秋の詩に山田耕筰が作曲をして多くの優れた童謡や歌曲を世に送り出した。
「からたちの花」は大正13年(1924年)に発表された。大正14年(1925年)、山田耕筰が曲を付けた。
「からたちの花」は、白秋が柳川で過ごした子供の頃の追憶が表現されているのだろう。
「からたちの花」は二行詩である。二行詩それぞれに曲が異なっている。その曲の変化が、とても優雅な歌曲を生み出した。
からたちの花が咲いたよ。
白い白い花が咲いたよ。
からたちのとげはいたいよ。
靑い靑い針のとげだよ。
からたちは畑(はた)の垣根よ。
いつもいつもとほる道だよ。
からたちも秋はみのるよ。
まろいまろい金のたまだよ。
からたちのそばで泣いたよ。
みんなみんなやさしかつたよ。
からたちの花が咲いたよ。
白い白い花が咲いたよ。
柳川で私はもう一つ行きたい所があった。堀割に沿って建つ3棟の煉瓦造の建物である。
白秋生家の受付でそのことを話すと、それは鶴味噌醸造の工場ですね、並倉(なみくら)と呼ばれています、と教えていただいた。私がその並倉を見たい、と話したら、親切に受付から電話して、タクシーを呼んでくれた。
タクシーは10分程走って、柳川城の外堀だった堀に架かる檀平橋で停まった。運転手さんは、檀平橋から西鉄柳川駅までの帰り道を丁寧に教えてくれた。
煉瓦造の建物が堀割に沿って建っている。明治3年(1870年)創業、鶴味噌醸造株式会社の味噌醗酵室である。
建物は、大正元年(1911年)から大正7年(1918年)にかけて建てられたもので、国登録有形文化財に指定されている。
並倉
表へ回ると、なまこ壁の大きな土蔵と老舗らしい風格のある店舗が建っていた。明治3年から140年以上、味噌を造り続けている。
タクシーの運転手さんに教えてもらったとおりに歩いて、30分程かかって西鉄柳川駅に着いた。駅前から佐賀駅行きのバスに乗る。
・同年12月30日(火) 旧香港上海銀行長崎支店(長崎市)
ホテルで朝食後、佐賀駅へ行く。
佐賀駅8時1分発の長崎本線の特急に乗る。終点の長崎駅に9時26分に着く。
駅を出て右へ曲がる。15分程歩く。右手に長崎大波止(おおはと)ターミナルの屋根が見える。長崎と五島列島を結ぶ五島航路や軍艦島クルーズ他のフェリーの発着港がある。
右手に海を見ながら30分程歩く。大浦海岸通りに入る。
旧香港上海銀行長崎支店(現・長崎市旧香港上海銀行長崎支店記念館)が建っている。
旧香港上海銀行長崎支店
この壮麗な建物の前に立ったとき、ここは長崎ではなく、行ったことはないが、イタリアのどこかの都市に立っている気がした。
明治37年(1904年)、英国の銀行である香港上海銀行の長崎支店として建てられた。設計は下田菊太郎(1866~1931)。下田菊太郎が設計した現存する唯一の建物である。
石造3階建。1階部分を連続アーチの通路にして、2階と3階部分にコリント式の円柱を通し、三角破風(はふ)の屋根を載せている。尖塔状の飾りが見える。
壮大さと美しさで見る者を圧倒させる古典建築様式の建物が、明治時代に日本人によって建てられたことに驚嘆する。
昭和6年(1931年)、香港上海銀行長崎支店が閉鎖される。
昭和15年(1940年) 警察庁舎として使用される。
昭和53年(1978年)から昭和63年(1988年)まで長崎市歴史民俗資料館として使用。
平成2年 国重要文化財に指定される。
平成8年 長崎市旧香港上海銀行長崎支店記念館として開館。
12月29日から1月3日までの年末年始の休館日に入っていたので内部を見学できなかった。
海に面して建っているので、3階のテラスから長崎港が良く見えるだろう。
後戻りする。旧長崎英国領事館が建っている。
旧長崎英国領事館
明治40年(1907年)建築、煉瓦造2階建。設計は、当時、上海に在住していた英国人・ウイリアム・コーワン(生没年不詳)である。平成2年、国重要文化財に指定された。
正面と両側面にベランダを設け、2階ベランダにはイオニア式の柱が立ち、各隅部に丸窓が開かれている。
旧長崎英国領事館の周囲は高い煉瓦塀や石塀に囲まれている。それに樹木に遮られて外観も見えにくい。
現在、保存修理中のため平成34年度までの予定で閉鎖されている。
煉瓦塀に沿って歩き、旧長崎英国領事館の横を通り、大浦海岸通りと平行している道路に入る。
道路に面して建つ、ホテルモントレ長崎で昼食を摂る。
ホテルモントレ長崎は白亜の美しいホテルである。
入口を入ると、ホテルの建物に囲まれて、石畳が敷かれたパティオ(中庭)がある。テーブルや椅子が並べられているから、気候が良いときにはここで食事ができるのだろう。後で分かったが、ホテルモントレ長崎は、長崎と縁(ゆかり)の深いポルトガルをイメージして造られたホテルである。
パティオから、木製の扉を押してレストランに入る。レストラン内部も天井が高く重厚な造りだった。
「冬にお得なおすすめランチ」を注文する。
小前菜 カブとゴルゴンゾーラ(チーズ)でピッツァ
前 菜 自家製豚ハムのサラダ仕立て クルミオイルをかけて
パスタ もちもち長崎スパゲッティでカルボナーラ(卵黄とクリーム)
魚料理 ホウボウのサルティンボッカ アンチョビソース
ホウボウを生ハムで覆っている。
肉料理 牛ハラミのパテッラ(鉄板焼) タイム香るソース
デザート イチゴを挟んだパンケーキ メープルシロップのジェラートを添えて
手頃な値段にもかかわらずみんなとてもおいしかった。どの料理も丁寧に作られていた。
これからも長崎へ来たときは、ホテルモントレ長崎で食事しようと思った。
ゆっくり歩いて駅に戻る。駅の構内にあるJR九州ホテル長崎にチェックインする。2泊予約していた。
・同年12月31日(水) 崇福寺 興福寺(長崎市)
ホテルを出て、駅前から路面電車に乗る。20分程乗って、終点の停留所「正覚寺下」で降りる。
少し後戻りして一つ目の角を右へ曲がる。緩やかな坂を上る。
黄檗(おうばく)宗聖壽山崇福寺(そうふくじ)の竜宮門のような赤い三門が建っている。
三門は、嘉永2年(1849年)建築、国重要文化財である。
崇福寺 三門
寛永6年(1629年)、長崎に在留していた福州人たちが、福州の僧・超然(ちょうねん)(1567~1644)を迎えて、崇福寺を創建した。
三門を潜り左に曲がる。石段を上る。石段を上がり終わると、正保元年(1644年)創建、赤い第一峰門が建っている。国宝である。
右へ曲がる。左手中央に、正保3年(1646年)創建、国宝の本堂・大雄宝殿が建っている。
大雄宝殿
狭い敷地内に、他の伽藍が並ぶ。その全てが国、県、市の文化財の指定を受けている。崇福寺は文化財の宝庫である。
崇福寺を出て、「崇福寺通り」を100m程歩くと十字路に出る。右へ曲がり「寺町通り」を歩く。坂と石段が多い長崎には珍しく平らな道である。右手に石垣が続き、楠が聳えている。
ここは住所が寺町となっている。その住所のとおり、右手の、山の斜面を利用した高台に寺院が建ち並んでいる。
長崎は意外に寺が多い。
徳川幕府は、慶長18年(1613年)、直轄地へ出していた禁教令を全国に広げた。それ以後、長崎の教会は次々と破壊され、その替わりに寺院が続々と建立された。幕府は教会跡地を僧侶に与え、宅地税を免除して寺院建立を奨励した。
静かな道を20分程歩く。右手に、黄檗宗東明山興福寺(こうふくじ)の山門が建っている。元禄3年(1690年)再建、朱塗りの雄大な山門である。県有形文化財に指定されている。
山門を潜って右へ曲がる。本堂の大雄宝殿が建っている。大雄宝殿は、寛永9年(1632年)建立、明治16年(1883年)に再建された。国重要文化財に指定されている。
興福寺 大雄宝殿
興福寺は、元和6年(1620年)に創建された。
3代目・逸然(いつねん)(1601~1668)は、承応3年(1654年)、黄檗宗の開祖・隠元禅師(いんげんぜんじ)(1592~1673)を福州から招いた。
隠元禅師は、興福寺住職として1年間滞在した。その間、江戸幕府第4代将軍・徳川家綱(1641~1680)に謁見し、宇治に萬福寺を開山した。
また、隠元禅師は、隠元豆、胡麻豆腐、中国式精進料理である普茶(ふちゃ)料理など明朝文化を日本に伝えた。
境内に、旧唐人屋敷門が立っている。元禄2年(1689年)に完成した唐人屋敷に残存していた門を昭和35年(1960年)、興福寺に移築、保存した。国重要文化財である。
旧唐人屋敷門
鐘鼓楼は、元禄4年(1691年)に再建された。県有形文化財である。
鐘鼓楼
興福寺も、崇福寺と同じく、他にも県や市の文化財に指定されている伽藍が建っている。
北原白秋は、明治40年(1907年)8月、長崎を訪れる。
明治42年(1909年)3月、詩集『邪宗門』を出版する。同44年(1911年)6月、第二詩集『思ひ出』を出版する。
『思ひ出』の中に、「骨牌(カルタ)の女王」と題されて、11の詩が収められている。その内の一つに「人形つくり」という詩がある。
この詩は長崎の「人形つくり」を描いている。長崎を訪れたとき「人形つくり」を見たのだろう。しかし、「人形つくり」の工程を描いただけではない。昔から伝わり、子供たちが、その意味も分からないで唄っていた「わらべ歌」のような形を借りて、明治の頃の、ヨーロッパとアジアが混在する長崎の奥深さと不可解さ、一言では言い表せない複雑な印象を表したのではないかと考える。
「人形つくり」は長い詩であるから、その約三分の一を記す。
長崎の、長崎の
人形つくりはおもしろや、
色硝子・・・・・・青い光線(ひすぢ)の射(さ)すなかで
白い埴(ねばつち)こねまはし、糊(のり)で溶かして、砥(と)の粉(こ)を交ぜて、
ついととろりと轆轤(ろくろ)にかけて、
伏せてかへせば頭(あたま)が出来る。
その頭(あたま)は空虚(うつろ)の頭、
白いお面(めん)がころころと、ころころと・・・・・・
ころころと轉(ころ)ぶお面(めん)を
わかい男が待ち受けて、
青髯の、銀のナイフが待ち受けて、
眶(まぶた)、眶、薄う瞑(つぶ)つた眶を突いて、
きゆつと抉(ゑ)ぐつて両眼(りやうがん)あける。
晝の日なかにいそがしく、
いそがしく。
長崎の、長崎の
人形つくりはおそろしや。
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