6 名建築を訪ねるー3  アントニン・レーモンドの作品


・平成24年5月12日(土) 聖路加国際病院


聖路加国際病院



 聖路加(せいろか)国際病院の十字架を掲げた尖塔を見上げるとき、私は、いつも、行ったことのないニューヨークのマンハッタンの通りに立って尖塔を見上げている気分になる。 

 1920年代後半から30年代前半にかけて集中して、ニューヨークに高層ビルが建設された。マンハッタンは、クライスラービル(1930年竣工)、エムパイア・ステート・ビル(1931年竣工)他、当時世界中に流行していたアール・デコのデザインによる高層ビルが次々に建てられた。
 ビルが各々、思い思いのデザインで建てられていたら、今も変わらない美しい景観にはならなかっただろう。
 直線と、幾何学的なパターンの繰り返しで、力強さと安定を表わし、豪奢な雰囲気を湛えるアール・デコのデザインによってほぼ統一されたから、摩天楼(スカイスクレーパー)の都市美は、今もなお損なわれていない。

 聖路加国際病院は、マンハッタンの通りに建つ建物と同じアメリカのアール・デコの建物である。

 聖路加は、聖ルカの日本語表記である。聖ルカは、医者であったと伝えられていることから、キリスト教圏では医者の守護聖人とされている。

 聖路加国際病院は、昭和8年(1933年)に建設された。
 設計は、最初は、チェコ系アメリカ人建築家・
アントニン・レーモンド(1888〜1976)であったが、途中、チェコ人建築家・ベドジフ・フォイエルシュタイン(1892〜1936)に代わった。

 設計者が途中で代わったことについて、レーモンドは、『自伝 アントニン・レーモンド』(鹿島出版会発行 訳者・三沢浩氏)(以下、『自伝』と称する。)の中で、アメリカ人の宣教師であり、医者であり、聖路加国際病院の初代院長になったルドルフ・ボーリング・トイスラー(1876〜1934)、チェコ人建築家・べドジフ・フォイエルシュタイン(『自伝』では、べドリッヒ・フォイアシュタインと表記)、チェコ人建築家・ヤン・ヨセフ・スワガー(1885〜1969)の3名が、外観のデザインと工事費用について、レーモンドの計画に反対したと述べている。

 レーモンドのデザインが、どこからどこまでなのか分からない。
 しかし、『自伝』に掲載されている昭和3年(1928年)に起こされた聖路加国際病院の全景図を見ると、尖塔のデザインは現在のものと同じである。また、レーモンドが昭和13年(1938年)に設計した
東京女子大学礼拝堂の尖塔のデザインは、聖路加国際病院の尖塔に似ている。
 従って、少なくとも尖塔については、レーモンドのデザインが採用されたものと考える。

 昭和16年(1941年)12月、太平洋戦争勃発。空襲の目標になるという理由で、尖塔の十字架が下ろされる。
 同18年(1943年)、病院名を、強要されて、「大東亜中央病院」に改称する。
 同20年(1945年)8月、終戦。病院と病院内の中心部から北側に位置する聖ルカ礼拝堂が、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)に接収される。同時に、病院名が、「米軍極東中央病院」に改称される。
 同29年(1954年)、接収が解除される。
 平成4年、病院の新館が竣工する。旧館となった元の病院は、礼拝堂を中心にして両翼を大幅に削られて保存された。聖ルカ礼拝堂は完全に、現状のままで保存された。
 病院の旧館と礼拝堂は、東京都選定歴史的建造物に選定された。

 中央の玄関から中へ入る。事前の許可がなければ内部の写真撮影はできない。
 石張りの通路を歩く。左側の部屋の扉に、「トイスラークリニック(国際外来)」と「遺伝診療部」の2つの表示がされている。旧館は殆どが小児科専門になっているようである。他の診療は新館で行われている。

 通路の左右の壁に、板を彫り、彩色した絵が架けられている。右側には、「猪に跨った武者」、「箒を手にした老人」が架かっている。左側には、「釣竿を持ち、鯛を抱えて笑っているエビス様」と「打出の小槌に大きな袋を肩に掛けた大黒様」の二つの見慣れた絵が架かっている。左側には、他に、「童子と牛を連れている老人」が架かっている。

 30m程歩くと、左右に柱が立ち、2本の柱に、孔雀の羽をデザインしたアール・デコの優雅な照明器具が取り付けられている。
 床が大理石に変わる。30cm四方の真鍮の4枚の板が床に嵌めこまれ、それぞれ図像が彫られている。
 東西南北の順に、「オウム」、「鼠」、「カワウソのような動物」、「鯛」、4枚の中央に、一回りほど大きい真鍮の板が嵌めこまれ、「杖に巻きつく2匹の蛇」の図像が彫られている。

 先ほどの絵もそうであるが、図像が意味するものがあるのだろう。

 左右の壁に、それぞれ2枚の石のプレートが嵌めこまれ、やはり図像が彫られている。プレートの大きさは、縦35cm、横15cm程である。
 右側の壁に「蚊」、「ダニ」、左側の壁に「蝿」、「蚤か虱の図像」が彫られている。
 これは、分かった。病気をもたらす害虫を壁に封じ込めたという意味だろう。

 正面の大理石の5段の石段を上がる。トイスラーの写真が掲げられている。
 写真の前の大理石の床に、40cm四方の真鍮の板が嵌め込まれ、「フェニックス(不死鳥)」の図像が彫られている。
 左右に、それぞれ大理石の階段がある。2段上がると、踊り場になる。それぞれの踊り場の床に、「フェニックス」と同じくらいの大きさの真鍮の板が嵌め込まれている。右側の真鍮の板には、「湯気が出ているコーヒーカップのような器の中から顔を半分出したアラビア人風の男と、三日月と星」の図像が彫られている。左側の真鍮の板には、「天秤」の図像が彫られている。
 「フェニックス」の意味は分かるが、他の2枚が何を意味しているのか分からない。

 更に、19段の階段があり、2階へ上がる。日本聖公会・聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂の前に出る。
 病院に、北向きのゴシック式の礼拝堂が組み込まれているのである。  

 聖ルカ礼拝堂は、病院が竣工されてから3年後の昭和11年(1936年)に完成した。
 設計は、アメリカ人建築家・
ジョン・ヴァン・ウィ・バーガミニー(1888〜1975)である。

 正面のガラスの扉を押して、中へ入る。
 最初に、正面のステンドグラスに目を引かれた。
 頭頂部が尖った縦長3枚のランセット窓が並んでいる。ブルーを基調にしたステンドグラスである。そのブルーの色が明るく、濁りのないとても綺麗な色である。

 通路に立って上を見上げる。6階部分まで吹き抜けになっている。頭上の遥か高みにある交叉リブボールトの天井を幾本もの柱が支えている。堂内は、森閑として、荘厳な雰囲気に満ちている。

 側廊の真上の3階部分は会衆席になっていて、左右に、それぞれ8枚のランセット窓があり、ランセット窓の2枚毎の上部にバラ窓がある。
 ステンドグラスは、バーガミニーが図を描き、イギリスに注文して製作された。

 他に、ランセット窓の半分程の高さのステンドグラスが12枚ある。礼拝堂全体が、ステンドグラスに囲まれている。
 色が鮮やかで、透明度が高く、濁りがない。こんなに美しいステンドグラスは他ではなかなか見られないだろう。それほど素晴らしいのである。それに、日本国内でバラ窓を持つ聖堂や礼拝堂は少ないし、ランセット窓とバラ窓の組み合わせは、なお少ないと思う。

 30年程前に初めてこの礼拝堂に入ったとき、吹き抜けになっている3階から6階までの後方にバルコニーが設けられて、正面の祭壇を望む多層会衆席になっていた。
 入院患者が、階段やエレベーターで上がり下りしなくても、自分がいる病室と同じフロアーから礼拝に参加できるように造られていた。ベッドに寝たきりの患者も、ストレッチャーで移動してもらえれば、身体を横たえたまま礼拝に
与(あず)かることも可能だっただろう。

 昭和63年(1988年)、3階から5階部分にかけて後方にフランス製のパイプオルガンが設置され、また、平成4年、新館が建設されてからは入院病棟は新館に移ったので、多層会衆席はなくなった。
 現在、道路を挟んで建つ新館とは、旧館の2階から道路上のブリッジで繋がっているから、礼拝を希望する入院患者は以前のように礼拝に参加できる。

 礼拝堂を出ると、同じフロアーに、ホテルのロビーのような広い休憩室がある。3人掛けのソファや1人用の肘掛け椅子が数多く置かれている。椅子は、外国人仕様で造られているのではないかと思うほどいずれも大きくて深い。椅子の数を数えたら、ソファが7つ、1人用の肘掛け椅子が33も置かれていた。若草色の1人用の肘掛け椅子は、全て窓に向けて置かれている。

 やはり、30年程前に来たとき、この休憩室に図書が収められている本棚があり、図書室のようになっていた。
 病院の中に図書室があり、大きな椅子が置かれているのを見たとき、アメリカの病院みたいだな、と思ったことを憶えている。


 東京都中央区明石町10−1
 地下鉄有楽町線新富町駅 地下鉄日比谷線築地駅下車


・同年5月19日(土) 星薬科大学本館  大正13年(1924年)建築


星薬科大学 本館


 大学の校門を通ると、80m程先の正面に、星薬科大学本館が建っている。
 本館の前に、星製薬、星薬科大学の創立者であり、政治家であった
星一(ほしはじめ)(1873〜1951)の胸像が立っている。

 本館は、ライトブルーのドーム屋根を持ち、白い外壁の明るい雰囲気の建物である。
 延べ床面積約8、000uの鉄筋コンクリート造り4階建て。中央の講堂は4階吹き抜けになっていて、周囲に会議室や事務室を配置している。

 レーモンドは、星一と出会い、星薬科大学の前身であった星製薬商業学校の本館の設計を引き受けたことを、『自伝』の中で、次のように語っている。


 「モーガーという日米貿易会社の理事の1人の紹介によって、私は製薬業の太公、星一に会った。彼との出会いこそ語る価値のある話だろう。
 ある日の午後、私の事務所にあらわれた星は、『星セールスマンの学校』の概要を手にしていた。それには各100人の教室、1,000人の講堂、水泳場、体育館、その他の希望条件が載っていた。明日までにデザインができるかとの彼の問いに、『できます』と私の熱意が答えてしまった。
 彼が出て行くや否や仕事にかかり、翌日の夕方デザインはできた。彼はそれに目を通し、多少の質問をしたが、驚くべきことには、それ以上の詮議もなく、即刻実施図面を私に委託したのである。星と一緒に来たのは五十嵐次之助工事長、総合請負清水組(現在の清水建設)の代表であった。彼こそ、その後の長い年月の間、多くの建物で協働してくれた人であった。
 その結果が、東京における最初の鉄筋コンクリート造の一つとなった。三角トラスで構成された、バックミンスター・フラー的な講堂を覆うドームは、構造計算なしで設計され建設された。主階段に代る広い傾斜路、鉄の螺旋階段はそれ以来随分模倣もされた。」


 レーモンドは、1916年、アメリカ人建築家・フランク・ロイド・ライト(1867〜1959)の事務所に入所する。
 大正8年(1919年)、
ライトが帝国ホテル建設の依頼を受けたことに伴い、ライトと共に来日する(フランク・ロイド・ライトについては、「奥の細道旅日記」目次6、平成12年8月16日参照)。 

 ライトの助手として仕事をするにつれて、ライトの建築理念と設計に疑問を持ち、違和感を覚える。その頃出会ったアメリカ人建築家・レオン・ウイントカー・スラック(生没年不詳)と共同で建築デザインの会社を創ることを話し合う。
 スラックは、アメリカ人建築家・ウイリアム・メレル・ヴォーリズ(1880〜1964)の事務所で仕事をしていた。
 (ウイリアム・メレル・ヴォーリズについては、「奥の細道旅日記」目次31、平成18年8月15日、同目次36、平成19年11月23日及び11月24日参照) 

 大正10年(1921年)、レーモンドはライトの事務所を辞める。
 『自伝』の中で、辞めることを決意した動機を述べている。その一部を引用する。


 「師の片腕として、私は提出用の透視図を描き、また沢山の精密な詳細図をも書かなければならなかった。建物を覆う怖るべき量の装飾が、内外にわたり極端な労力を必要としていた。ごく細部までも描かねばならなかった帝国ホテルの外部の透視図が、私の反抗の主な理由の一つになった。各表面にある個々の形が装飾で覆われていた。装飾そのものは、私や他のドラフトマンたちが、正規の図面の上に描いたでたらめの結果であったが、三角定規とT定規をもったライトが、驚くべき器用さで仕上げていった。この師の執念の結果が、きわめて能力あり信用も厚かった日本人の大工と石工によって、ホテルの内外を覆う微細な網目に翻訳されていったのである。

 この仕事にかかって1年後、私はまったく飽きてきた。主な理由は、際限もなく繰り返されるライトのマンネリズムで、彼は文法とよんでいたが、私からは何もつけ加えることもできなかった。その文法も私には、この場所を考えると内容が場違いであるように思えた。そのデザインが日本の気候、伝統、文化、あるいは人間に、何ら共通ではないことに気付き始めたのは、それほどたたぬ頃であった。こんなことが、まさかライトに起こるとは私には考えられなかった。だが彼の思想は完全に自己の想像力の表現に集中されていたのである。ホテルは、最終的には彼自身のモニュメントと化してしまったのである。

 時のたつにつれて、観察も進み、私は人生の中に古来から持続する哲学の存在を知るようになり、それが建築、彫刻、絵画、詩、その他のあらゆる表現芸術の形の中で、日本的表現の各部分のデザインの根本または出発点になっているのが分かった。

 その日本の芸術家のデザインの裏にある動機に較べて、ライトのデザインの動機が微弱であるという、私の結論が構成されてゆくのは止むをえなかった。珍奇や驚きの形で想像の努力の背後の動機を実現するのは、単なる解放であり、同時に自己個性の主張や、かつてだれも作ったことのないものを創造する欲望は、些細な、しかもけちな動機であるということである。哲学や、人生の芸術的表現の中には、一つの絶対性というものがおそらく存在するのではないかと私は認識し始めていた。何世紀もかかり、日本人や東洋人が哲学の中では普遍性のある知識を得ようとしてその方法を追求していた。つまりそれが芸術であった。」


 レーモンドとスラックは、共同して仕事を始めるが、2人が両立することは難しいことを知る。レーモンドは芸術の完成を望み、スラックは商業主義に傾いていく。1年後、2人は別れ、スラックはアメリカに戻る。レーモンドは単独で事務所を構える。

 本館を見る。玄関とその周囲は、ライトのデザインと同じである。ライトは、開口部の高さを抑えて庇を水平に深く張り出し、水平線を強調した。


星薬科大学本館 玄関


 本館の外壁に、意外なものを見た。
 玄関の左右の壁に、恰も、帝国ホテルの壁面の装飾を一部移したような装飾がなされていた。
 星一が若き日に学んだアメリカ・コロンビア大学のロー・ホールをモデルにしたという本館に、マヤ文明の意匠や古代文字のような装飾は似合わないし、この平らな壁面に装飾をしなければならない必然性が感じられないのである。
 レーモンドは、ライトのこういった装飾に批判的ではなかったのか。
 




 ライトの事務所を去ってから3年経っても、ライトの影響から脱け出せなかったのである。レーモンドもそれは自覚していて、『自伝』で、次のように述懐している。


 「新しい施主は、東京にある国際的な修道院の東京聖心学院(1924)であった。その新しい学校のデザインには、まだフランク・ロイド・ライトの影響が強く残されている。しかし適切な方位、騒音遮断、大型窓、その他現代の学校計画の特長をもっていた。だが、神戸郊外の小林にある神戸聖学院(1926)や、岡山の清心女学校(1928)のデザインでは、ライトの影響はぬぐい去られ、東京聖心学院にくらべれば構造はさらに明確になり単純になった。」


 日本人はライトの帝国ホテルを好きだった、と私は考えている。
 帝国ホテルが建築されて以後、ライトのデザインに影響を受けた建物が数多く建てられた。ライトが使用した大谷石、テラコッタ、スクラッチ煉瓦は建築材料や装飾に広く使われるようになった。「ライト式」と呼ばれるライトのデザインが一般に流行したことが、それを証明している。

 本館の内部は、見学できなかった。

 本館の手前、右手に大学の薬用植物園がある。
 星一は、星製薬株式会社を明治44年(1911年)に創立し、社内の教育部門として星製薬商業学校を設立した。その後、星製薬商業学校を基礎として、昭和16年(1941年)、星薬学専門学校(現・星薬科大学)を設立した。同時に、薬用植物園を設置した。

 約3,000uの広さに、薬用を中心とした有用植物約1,000種が栽培されている。
 温室があり、水場を設けている水生植物園もある。
 民間薬、漢方薬、医薬品の原料となる植物を見てまわる。いずれもラベルが付いており、植物名や薬効、成分等が書かれている。
 園芸の専門家と思われる3人の男性が、植物の手入れをしていた。


 東京都品川区荏原2−4−41
 東急池上線戸越銀座駅 東急目黒線武蔵小山駅下車


・同年5月26日(土) エリスマン邸(横浜市)  大正15年(1926年)建築 横浜市認定歴史的建造物

 JR根岸線の桜木町駅を出て、神奈川中央交通バスに乗る。停留所「元町公園前」で降りる。
 
山手本通りの樹木の若葉が輝いている。通りに建つ美しい洋館を見ながら歩く。


山手234番館(昭和2年建築)


ティールーム・えの木てい(昭和2年建築)


 エリスマン邸に着く。
 木立の中にあって、高原の避暑地に佇む別荘のような明るさと、軽快さがある。


エリスマン邸


 先月の4月8日に訪ねたべーリックホールと狭い通りを挟んだ元町公園内にエリスマン邸は立っている(ベーリックホールについては、目次4、平成24年4月8日参照)。
 エリスマン邸は、スイス人貿易商・フリッツ・エリスマン(1867〜1940年)の私邸として、山手町127番地に建てられた。
 建物は、木造2階建、平屋の日本家屋付で延べ床面積約268uであった。

 昭和57年(1982年)、エリスマン邸はマンション建設のために解体されたが、横浜市はエリスマン邸の建築部材を取得し、平成2年、現在地に洋館部分のみを復元した。

 エリスマン邸の外壁は、板を張っているが、1階と2階で板の張り方を変えている。1階は縦に張る羽目板張り、2階は横に張る下見板張りになっている。

 玄関へ入る。ダイニングルームがあり、隣室はサンルームになっている。ダイニングルームは窓が大きく、サンルームも大きなガラス戸が立っている。2部屋とも開放的な造りになっている。 
 レーモンドが目指していたであろう、装飾を排した、明確で単純な部屋である。レーモンドの仕事の原型を見る思いがした。

 玄関ホールに戻る。2階へ上がる階段の手摺の装飾は、ライトの、矩形(くけい)を組み合わせたデザインに似ている。






 2階は、かつて3つの寝室と浴室があった。装飾のない部屋である。現在は、「横浜山手」の歴史やこの地区にある洋館を紹介する展示室として利用されている。

 エリスマンは母国へ帰ることなく、亡くなるまでこの地で暮らし、現在、山手外国人墓地に眠っている。


 横浜市中区元町1−77−4
 JR
根岸線桜木町駅下車 バスに乗り換え、停留所「元町公園前」で降りる。
 みなとみらい線元町・中華街駅下車


・同年8月2日(木) イタリア大使館別荘(栃木県日光市) 昭和3年(1928年)建築 国登録有形文化財  

 奥の細道を歩き始めた平成10年当時、日光へ行くときは、浅草駅から東武電車を利用していた。
 その後、JRと東武鉄道が提携し、線路の一部の工事を行い、平成18年3月から、湘南新宿ライン、宇都宮線、東武日光線を通って、JR新宿駅から東武日光駅まで直通の特急で行けるようになった。そのお陰で、私の住いから1時間近く短縮して日光へ行けることになった。

 しかし、この便利な特急も、始発が新宿駅発7時30分で、東武日光駅に着くのは9時29分である。
 イタリア大使館別荘へ行くには、東武日光駅からバスに乗る。50分程乗って、別のバスに乗り換える。乗り換えのバスの連絡が悪ければ歩くことになる。

 いずれにしても、イタリア大使館別荘に着くのは11時頃になる。これでは着くのが遅い。
 そこで、今回は、行きの時間は余計にかかってもいいから、目的地に少しでも早く着くことを考えて、早く出発して、全線JRの各駅停車の電車を使うことにする。

 (日光については、「奥の細道旅日記」目次1、平成10年8月15日及び同16日参照)

 上野駅5時46分発の宇都宮線に乗る。宇都宮駅に7時29分に着く。7時41分発の日光線に乗り換える。
 15分程乗って鹿沼駅を過ぎると、左側の車窓から日光の杉並木が見えてきた。14年前の8月に、あの杉並木の中を半日歩いて日光に着いた、と思い出して懐かしくなる。
 文挟(ふばさみ)駅では杉並木に10m程の近くまで接近する。文挟駅から電車は杉並木からいったん離れるが、今市駅を過ぎると、また杉並木に近づく。
 8時25分に、JR日光駅に着く。

 駅前から、8時35分発「湯元温泉行き」のバスに乗る。
 バスは「馬返(うまがえし)」を過ぎて、上り専用の「第二いろは坂」を上る。急坂でカーブが多い。9時25分に、停留所「中禅寺温泉」に着く。

 バスを降りると、涼しい風が吹いていた。
 既に停車して待っていた「半月山行き」のバスに乗り換える。バスは、9時30分に発車する。
 バスは、
中禅寺湖(ちゅうぜんじこ)を右手に見ながら湖畔を走る。中禅寺湖は、面積11、62ku、周囲25km、最大水深163m、水面の標高は1、269m。日本一標高の高い場所にある湖である。
 湖の向こうに聳える標高2、486mの
男体山(なんたいさん)が近くに見える。円錐形の美しい山容である。
 5分程乗って、停留所「イタリア大使館別荘記念公園前」で降りる。

 バスが走り去った道から一段下がった湖畔寄りの道を歩く。両側は樹木が聳え、緩やかな下り坂になっている。右側の木立の間から湖面が見える。この道は、自然保護のために車の進入を禁止している。
 道が平らになる。緑溢れる樹林の間の道を歩く。


イタリア大使館別荘へ向かう道


 15分程歩く。イタリア大使館別荘記念公園に着く。電車とバスの連絡が全てうまくいったので10時前に着くことができた(注・イタリア大使館別荘記念公園は、12月1日から翌年の3月末日まで休園)。

 昭和3年(1928年)建築のイタリア大使館別荘は、平成9年(1997年)まで夏季別荘として使用されていた。平成10年、栃木県は、別荘をイタリア政府から購入し、建物を修理して周辺を整備した。平成12年、イタリア大使館別荘記念公園として開園し、別荘を一般公開した。

 森の中の緩やかな坂道を下る。
 木立に囲まれて、中禅寺湖の湖畔に、
イタリア大使館別荘が建っている。外壁に杉皮と木片を張ってあるためか周囲の森に溶け込んで違和感がない。


イタリア大使館別荘


 横に造られている木製の階段を下りて、湖の岸辺に行く。右手に、男体山が半分見える。裾野を長く引いた美しい姿である。
 正面には、湖の向こうに日光連山が眺められ、青空に白雲が沸き立っている。


男体山と中禅寺湖


中禅寺湖


桟橋


 湖面を渡ってくる風が、さらさらと乾いていて涼しい。標高が高いから気温も駅前より10度程も低いようである。8月は疾うに過ぎて、9月下旬の感じである。
 別荘の周りのススキの穂が銀色に光り、トンボが群れをなして飛んでいる。秋の気配が漂っている。

 左手に、ヨット用の桟橋がある。
 戦前、東京の夏の暑さから逃れて、多数の外国人が日光へ避暑に訪れた。大正末から昭和初期までに、中禅寺湖畔には外交官等の外国人の別荘が40軒程
も存在していた。
 彼らは中禅寺湖でヨットに興じていた。「男体山ヨット・クラブ」では、毎週のようにレースが開かれていた。
 桟橋は、その名残である。

 湖の水は澄み切っている。
 岸辺の木陰に座って、涼しい風に吹かれながら、美しい夏の風景をいつまでも眺めていられたらいいだろうな、と思った。


湖岸


 木造2階建、延べ床面積370uの別荘の外観を見る。外壁に杉皮と木片を張り、割竹(わりだけ)で留めている。一部が市松模様になっている。


湖岸から見た別荘


 石段を上がって玄関へ回り、中へ入る。
 居間は明るく開放的である。家具、調度品等は当時のものを展示、使用している。
 内部も杉皮と木片を張っている。天井板も杉板を使い、割竹で亀甲模様を描いている。市松模様と亀甲模様を施し、日本家屋の風趣を湛えている。
 この建物は、レーモンドが『自伝』で述べていた「日本の気候、文化、伝統」を考察し尽くし、顕在化したものと言えるだろう。


居間


 湖に面して広縁がある。建物の一辺を全て広縁にしている。長い広縁から、湖とその周囲の日光連山を広く望むことができて、部屋中に涼しい風が入ってくる。
 暑湿の東京から逃れて、この別荘で過ごす人たちにとって、秋を感じさせる涼しい風は何よりもありがたいものであっただろう。
 レーモンドが自身の個性を抑え、そこに住む人の動き、感覚、視線、精神を大切に考え、住む人の望みを充分に満足させた建物であったと思う。


広縁


 2階は寝室が3つあり、いずれも湖がよく見える。

 別荘を出て坂を上り、もと来た道を歩く。左手に、木立に囲まれた杉皮を張った木造平屋建ての建物が建っている。
 大使本人と家族が滞在した2階建ての別荘は「本邸」、大使のお付きの人たちが使用したこの建物は「副邸」と呼ばれていた。現在、「副邸」は、避暑地としての日光の歴史を紹介する施設になっている。

 「副邸」の室内へ入る。日光を避暑地として発展させたことに功績のあった2人の人物を紹介している。
 過去、長崎港を見下ろす南山手の高台に建つ邸・
グラバー邸に住み、当時は東京に居住していた実業家・トーマス・ブレーク・グラバー(1838〜1911)と実業家・ハンス・ハンター(1884〜1947)の2人の英国人である。

 グラバーは、日光へ避暑に来たときは、専ら、中禅寺湖や奥日光の湯川(ゆかわ)で、英国人らしく鱒釣りを楽しんでいた。中禅寺湖や湯川には、明治になって初めて鱒が放流され、それが繁殖していた。
 グラバーは、故郷であるスコットランドの風景に似た、戦場ヶ原を流れる湯川を特に気に入り、毛鉤(けばり)を使った英国式フライ・フィッシングで鱒を追っていた。

 グラバーは、中禅寺湖漁業組合に、外来種の鱒を湯川に放流することを提案し、明治35年(1902年)、アメリカ・コロラド州から川鱒の卵を輸入した。
 卵は孵化場で孵化され、稚魚は湯川に放流された。2年後の明治37年(1904年)にも川鱒の卵を輸入し、孵化された稚魚が湯川に放流された。その後、湯川は、川鱒が自然繁殖するようになった。

 釣った鱒を前にしたグラバーと大島久治(きゅうじ)(1881〜1966)の写真が展示されている。当時、グラバーは60代、大島久治は10代後半であった。
 大島久治は、グラバーやハンス・ハンターの釣りの案内人であり、相談役であった。後に、中禅寺漁業組合総代他の要職に就く。 

 ハンス・ハンターは神戸で生まれた。父親は英国人の実業家、母親は日本人であった。期間は分からないが、英国に留学し勉学を修めた。
 大正13年(1924年)、ハンスは、「東京アングリング・エンド・カンツリー倶楽部」を創設する。社交的な倶楽部であるが、倶楽部の主な目的は、紳士的に英国式の鱒釣りを行うことにあった。
 倶楽部の会員には錚々たる人物が名を連ねていた。日本の華族、実業家、各国大使、駐日外交官、外国人実業家であった。

 倶楽部は発展し、外国人観光客も多数訪れ、日光は国際的な避暑地になった。

 ハンスの毛鉤のコレクションの中から3点展示されている。いずれも鮮やかな色の毛鉤である。
 また、ハンスが湯川で、釣り糸を垂らして鱒釣りをしている写真が展示されていた。鬱蒼とした樹木の下を、川幅は狭いが、水量豊かな湯川が流れている。水に浸った倒木が流れに変化を与えている。倒木の下に鱒が潜んでいるのだろうか。見る者に静寂が伝わってくる。
 写真だけを見ていると、これは日本の風景とは思えない。世界中の釣り人が憧れる英国のテスト川やテイマー川によく似た風景である。

 「CHUZENJI SUMMER 1929」と題されたハンスの16mmフィルムが保存されている。
 その中の一部だと思うが、フィルムの映像が流されている。全部で5分ほどの短さである。
 「男体山ヨット・クラブ」のレースだろうか。帆が風をはらんで幾隻ものヨットが中禅寺湖の湖面を滑っている。湯川の澄み切った水を透して、鱒の魚影が見える。
 中禅寺湖の恵みと安全を祈願する日光二荒山神社の中宮祠の神事である「水神祭」の様子もフィルムに収められている。外国人と地元の日本人の交流が映されている。祭りの余興だろう。和舟を使ったポロ、和舟の手漕ぎ競争、目隠しをした漕ぎ手が和舟を漕ぐレースが映されている。笑いと歓声が聞こえてくるような楽しい映像である。

 福田和美氏の『日光避暑地物語』から引用する。


 「昭和12年夏、いよいよ中国と全面戦争に突入すると、小さな日光町でも軍事色が濃くなった。そんな時、宮内大臣に就いた前イギリス大使の松平恒雄が、家族を伴って久し振りに倶楽部を訪ねた。髭をたくわえ、丸い銀縁めがねをかけた恰幅のよい松平は巧みに毛バリ竿を操り、英国仕込みのフライ・フィッシングの腕前を見せた。
 『鱒釣りは紳士のスポーツなのだから、けっしてたくさん釣り上げようとしたり、獲物の数を自慢するようではいけない』。随行した秘書官に語る声を、ハンスは微笑みながら聞いていた。つかの間の夢とも言える、穏やかな夏の午後であった。」


 昭和14年(1939年)、第二次世界大戦が始まる。昭和16年(1941年)12月、太平洋戦争が勃発する。
 日本国内の外資系企業は閉鎖され、社員は帰国する。昭和19年(1944年)、「東京アングリング・エンド・カンツリー倶楽部」は解散した。

 昭和20年(1945年)8月、終戦。 

 『日光避暑地物語』は、次の文章で終わる。

 「戦後まもなく、日光に外国人が帰ってきた。だが久治や金谷真一たちが目にしたのは、毛バリ竿を持った穏やかな英国紳士たちではなく、自動小銃を撃ちまくりながら鹿狩りをする、進駐軍のジープに乗ったアメリカ兵の姿であった。」

 大島久治と金谷(かなや)ホテル第2代社長・金谷真一が目撃した光景に、2人は、日本が戦争に負けた現実と、戦前の良き時代、内外の貴顕紳士が集った国際的な避暑地に、日光がもはや戻ることはない、ということを否応なしに思い知らされたことだろう。

 イタリア大使館別荘記念公園を出る。帰りは、中禅寺湖を左手に見ながら停留所「中禅寺温泉」まで歩く。
 湖畔に建つイギリス大使館、ベルギー大使館、フランス大使館のそれぞれの別荘を見る。いずれも戦前に建てられた瀟洒な建物である。
 男体山は頂上が雲に隠れていた。

 約40分で、停留所「中禅寺温泉」に着く。バスに乗る。バスは、下り専用の「第一いろは坂」を下る。上りと同じで、急坂でカーブが多い。
 JR日光駅に戻る。


JR日光駅


 明治32年(1899年)、皇室の別荘である田母沢(たもざわ)御用邸が新築された。大正元年(1912年)建築の日光駅は、御用邸にふさわしい建物ということで、壮麗なネオ・ルネッサンス様式で建てられたものと思われる。
 大正天皇が田母沢御用邸を訪れるときに利用された貴賓室が保存されている。貴賓室は、近年、期間限定で一般公開されるようになった。


 栃木県日光市中宮祠2482
 東武日光線東武日光駅下車 JR日光線日光駅下車 バスに乗り換え、停留所「中禅寺温泉」で降りる。更にバスを乗り換え、停留所「イタリア大使館別荘記念公園前」下車。





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